ジャンが死んでから、数年が経った。
パラディ島の港に、他国の旗を掲げた船が並ぶ光景にも、だいぶ慣れた。
最初の頃は、いちいち殺し方を数えていたけれど、最近はもう数えない。
代わりに、舵輪を握る船長の視線や、同行している外交官の靴の擦り減り具合を見て、「この国は今どこまで追い詰められてるか」を測る。
調査兵団は、もう「巨人を討つ」組織じゃない。
スーツと軍服の中間みたいな服を着て、各国の港を行き来して、技術と情報を盗んでくる。
たまに本当に盗むし、ときどき「売ってもらうし」、まれに「保護」もする。
そのどれもが、少しずつ世界のバランスを歪ませている。
戦争の引き金にさせない程度に、ギリギリで。
――これなら、ジャンはギリギリ文句言わないかな。
私は何か決めるたびに、心の中でそう考える癖がついた。
「xxx、また変な顔してんな」
背後から声が飛んできた。
振り返らなくても分かる。フロック。
いつからか、私のことをジラと呼ばなくなった。
もうずっと使ってない本名を、フロックだけが呼んでいる。
「どんな顔よ」
「鼻で笑ってんのに、目は半泣き」
「……最悪の感想ね」
港に停泊する船団を見下ろす丘の上で、私は軽く肩を竦めた。
眼下には、島と外を結ぶ定期船。
各国からの使節団。
商人。
技術者。
観光客なんてものまで混ざっていて、「ここは本当にパラディ島か?」と時々疑いたくなる。
巨人化できる種族は、世界のどこにもいない。
エルディア人はただの人間で、巨人は「かつて絶滅した、人類とは別種の怪物」だ、と教えられている。
外征は悪、戦争は恐怖、という感情が、血と記憶に染み込んでいる。
レイス家、やりやがった――と、あの瞬間は本気で思った。
今でも、思ってる。
でも、そのおかげで巨人はこの世界のどこにも存在しない。
あの、一瞬で世界を踏み潰す選択肢は、取ることすら不可能になった。
元々私が壊せるのは、人間の戦争と人間の均衡だけだけれど。
「……どうだ、最近」
「そこそこ均衡。そこそこ不満。そこそこ陰謀」
私は指を折りながら答える。
「どこか国が単独で暴れ出すには、まだちょっと足りない。
かといって、皆で仲良く手を繋いで歌うには、根っこが腐りすぎてる」
「つまり?」
「ちょうどいい、綱渡り状態」
笑うと、フロックも口元だけ緩めた。
「お前、本当にそういういい方好きだな。
平和ってことだろ」
「ジャンが好きそうな言葉ね」
自然に出た名前に、一瞬だけ空気が止まる。
私もフロックも、その沈黙を掘り返さない。
私は、
――ジャンならこれ嫌がるかな?
――ジャンならどうする?
その二つだけを心の中で繰り返す。
「……あっちの二人は?」
フロックが視線を別の方向へ向けた。
丘の反対側。
港から離れた、小さな村。
木造の家。
畑。
柵の向こうで、子供が二人走り回っているのが見える。
黒髪の女が、少し離れたところからその様子を見ている。
腰まである黒髪を一つに結んで、簡素な服を着ている。
少女と大人の中間の顔は、以前より少し柔らかくなっていた。
ミカサ。
彼女の視線の先には、エレン。
巨人になれないエレン・イェーガー。
彼は耕した土に膝をついて、何かを苗床に植えている。
子供たちがその周りをちょろちょろ走り回って、ミカサが時々声を飛ばしている。
戦場にも、巨人にも、地ならしにも出会わなかったエレン。
ただの今は、農夫として生きているエレン。
「見ての通りよ」
私は肩をすくめる。
「平和ボケの極み」
「……いいじゃねぇか」
フロックがぼそりと呟いた。
「自由に選んだ結果ってやつだろ。
あいつには、そんくらいが似合ってる」
「そうね」
認めるのは、少し悔しいけど。
「ミカサも、あれくらいで丁度いいわ。
化け物じみた強さなんていらないのよ」
ミカサと目が合った。
彼女は遠くから細めた目でこちらを見て、軽く会釈する。
その隣でエレンが何か言って、ミカサが頬を膨らませ、子供達が笑った。
――いいわよ。
――あなた達は、もう二度とこっち側に来ないで。
心の中でそう呟く。
アルミンはあの後、私に報告に来た。
何も言わないのは、気分が悪いからって。
私は鼻で笑って追い返した。
でも、これは理解した。
ミカサとエレン。
アルミンが大事なあの二人は、少なくとも今のところは、幸せそうだ。
私の知る限り、マシと言っていい顔をしている。
……だから、余計に心が苛立つ。
ジャンがいないことに、心臓が泣いている。
「ねぇフロック」
「なんだよ」
「私、そろそろ前線から降りてもいいかしら」
横目で見ると、フロックは露骨に顔をしかめていた。
「は?」
「疲れた」
正直に言った。
「世界を整えて、均衡を作って、崩れないように紐を結んで。
あとは、賢い人達が頑張れば回る」
「そもそも誰かが居なくなったら崩れる制度の方が、よほど問題あるわ」
「団長も早く辞めるべきよ」
「そう言うのは本人に言え」
ため息混じりの声。
「もう言ったわ」
笑ってみせる。
フロックの目が細くなる。
「……めんどくせぇ女だな」
「知ってたでしょう?」
フロックは額を指で押さえ、長く息を吐いた。
「降りて何すんだよ」
「何も」
「は?」
「決めてないもの」
世界の端っこで、何もしないで寝転がる。
たまに、港に来て船を数える。
夜になったら星を見て、ここに落ちてこないかなと願う。
――ジャンはそれくらい許してくれる。
世界はもう、私のものじゃない。
私が作って、私が壊すおもちゃ箱じゃない。
私には、このジャンが望んだ世界をもう、壊せない。
フロックが目を据わらせる。
「お前のやらかし全部、押し付ける気かよ」
「そうよ。頑張って」
「俺は居続ける前提か?」
文句を言いながらも、フロックはそれを受け入れる目をしていた。
この男はいつだってそうだ。
私がどれだけひどいことを言っても、だから何だ、で飲み込む。
「……なら」
彼がぼそりと付け足す。
「たまには顔出せよ」
「嫌」
「即答かよ」
「だって、面倒くさいもの」
「お前最近、そればっかだな」
空を見上げると、雲一つない青空だった。
私は息を吸って、吐いた。
「……そろそろ行くわ」
「どこに」
目線をそらす。
波が静かに揺れている。
遠くの方に、小さく船影が見えた。
どこかの国からの使節か、ただの商人か。
「ねぇフロック」
「なんだよ」
「なんで私のところ来るの?」
言葉にすると、少し怖かった。
聞きたくない答えが返ってくるかもしれないから。
お前が生み出した世界の責任取らせるためだとか。
お前ほど頭のいい奴が他にいないからだとか。
そんな、どうしようもない理由だったら、笑うしかない。
フロックはしばらく黙っていた。
何度か言葉を飲み込んでいる。
彼はゆっくりと、私の方を見た。
「お前に会いに来る役、他の誰にもやらせたくねぇんだろ」
少しだけ、笑った。
「責任感?」
「……執着かもな」
言葉が一瞬詰まった。
「俺は世界の味方じゃねぇ。
エルディア人の味方ってわけでもねぇ。
お前が世界の敵になったら、一緒に世界の敵になってやるって決めた」
「でも、私は途中で降りたわ」
「俺は勝手に隣にいるだけだ」
胸が少しだけ痛くなった。
「……私、あなたのこと、ジャンの代わりにする気はないわよ」
「それでいい」
「上等だ」
フロックは踵を返して歩き去った。
静寂が戻る。
「……不器用ね、ほんと」
丘の下の海を見る。
波は相変わらず、どこまでも続いている。
ジャンが死んだ世界。
アルミンが選んだ世界。
私が整えて、手放す世界。
完璧とは程遠い。
マシと言うのは虫唾が走る。
それでも――
「貴方はこういうのが欲しかったのよね」
呟いて、空を見る。
いつか私が死んだとき、あの世でジャンに会ったら、どう言おう。
頑張ったんだもの。うんと褒めてもらわなきゃ。