音を超え、光を超えて   作:バクフーSLUMP

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馴致、そしてトレセンへ

 年が明けて2001年。この時期から、フー坊の本格的な馴致が始まった。

 

 馴致はいわば、競走馬になるための準備。人に慣れるための訓練にハミや鞍といった馬具を着ける装鞍、人を乗せての騎乗馴致といったことをやる。

 これが出来なければ、競走馬として出走することは出来ない。どれも必要なことであり、万が一にもできないなんてことがあってはならない。

 だからこそ、早い段階で慣れさせておく。いざ出走する時になってできない、なんてことにならないために、1歳馬の段階から経験を積んでおくのだ。

 

 馬主も決まり、厩舎もほぼ決まったフー坊。さて、後は競走馬になるための訓練を積んでいくぞ、という段階まで来た。

 さぁ訓練をするぞ……と勇んだはいいものの。

 

「止まれ、止まれフー坊! まだ装着終わってないよー!」

「ヒヒーン!」

 

 フー坊の馴致は難航していた。今も厩務員が必死に馬具を装着しようとしているが、動き回るせいで上手く着けられないでいる。あまりにも先行きが不安すぎるスタートだった。

 

 別に嫌がっているわけではない。初めて見る道具に戸惑いを見せたものの、最初こそ大人しく着けられようとしていた。

 だが、問題が発生した。フー坊はジッとしていることが苦手だったのである。

 常に動き回り、動いてない時がないほどに身体を動かすのが大好き。寝ている時でさえ、走っている夢を見ているかの如く脚をシャカシャカ動かしている。

 

 立ち止まることができない。装着し終わるのを待つことができない。

 その結果、馬具を装着するという準備段階で躓きかけていた。

 

 走り回ろうとするフー坊。そうはさせまいと厩務員複数人で囲んでいる。ただ、馬の力に人間が敵うはずもなく、厩務員側が劣勢だ。

 その状況を遠巻きに眺める西塔と吉良。

 

「あ~……さすがに甘く見積もりすぎてたねぇ。利口だし、素直だから大丈夫だろうと高括ってたけど」

「ジッとしていられない性分ですからね、フー坊。これは予見できんかったよ信夫さん」

「そんなこと言ってる暇あるなら手伝ってくれませんか!? さっきから全然大人しくならないんですよフー坊の奴!」

 

 厩務員の必死の呼びかけ。呑気に会話をしている自分のところの偉い人に、思わずデカい声で呼びかけるぐらいには状況は切迫していた。

 

 格闘すること数十分、なんとか馬具を装着することに成功する。所要時間は通常の倍はかかったが。

 

「ゼェ……ゼェ……キ、キツい……今までで一番キツい……」

「お疲れ様。これから毎日だから、頑張ってくれよ」

「誰か変わってくれー!」

 

 嘆く厩務員。今日一日の体力を全部使ったかのような疲労を味わい、すぐにでも倒れこみたい気分に駆られる。これがフー坊の日常だ。

 

 それだけではない。風邪などを引いた影響で、馴致の日程に遅れが出てきていた。

 

「他の子はもう騎乗馴致なのに、フー坊だけはまだ装鞍、か」

「風邪や蕁麻疹の中やるわけにはいきませんし、仕方ないところはあるんですけど」

 

 報告する厩務員の表情は暗い。フー坊を取り巻く状況がよくないことは、現場の人間がよく分かっているのだろう。

 

 馴致が遅れれば、その分厩舎入りも遅くなる。

 本来であれば、時間は一分一秒でも惜しい。すぐにでも馴致を済ませて、競走馬として万全の態勢を整えなければならない。

 厩舎入りが早くなれば、その分だけ向こうのトレーニングセンターを早く使うことができる。競走馬としてのトレーニング、速く走るための訓練ができるのだ。

 牧場の施設などとは比べ物にならない。早く、強くなるためには、一日でも早い厩舎入りが望ましい。

 

(……焦るな、焦るな俺。焦った結果、フー坊が大事になったらどうする?)

 

 グッと堪える。焦りたくなる気持ちをグッと堪えて、今できる最善の方法を西塔は模索する。

 焦っても良いことはない。大事なのはフー坊を無事に競走馬にすることであり、早く訓練を終わらせることではない。そう言い聞かせて己を律する。

 遅いのがなんだ。遅かろうが、競走馬として送り出せればそれでいい。ケガなく仕上げることが、自分達のやるべきことだ。

 

 ずれ込む馴致の日程、迫る厩舎入りの期限。時間は待ってくれず、1日、また1日とタイムリミットが迫ってくる。

 それでも、焦らない。フー坊の体調を第一に考えて、慎重に、じっくりと日程を組み直す。

 

「体調で馴致ができないのは仕方ないねぇ。無理だけはしないように、体調が回復してから馴致を再開だ。まだ期限はある、焦らずに育てよう」

 

 西塔の言葉に、厩務員は力強く頷いた。

 

「はい!」

 

 ゆっくりと、自分達のペースで。周りより遅くとも構わない、無事に競走馬として走らせるために、焦らないことを大事にだ。

 

 

 ペースは遅くとも着実に。コツコツと小さく積み上げていき、その結果。

 

「待てー! 待ってくれフー坊ー! 俺も行くぞー!」

「業務に戻ってほしいねぇ伸介さん。フー坊ー、向こうでも達者にねぇ」

「ノースフライトより子離れできてないよこの人。誰か縛っといた方がいいんじゃない?」

 

 2002年。ついにフー坊は美浦トレーニングセンターの古島厩舎へと入厩することが決まった。馬運車に乗せられて、茨城県の美浦トレセンに出発する。

 

 競走馬としての馬生が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 美浦トレセンの古島厩舎。調教師である古島太志は戦慄する。

 

「いや、すげぇ、すげぇなこの子。西塔さん曰く、キツめの調教が出来なかったって聞いてたが」

 

 目の前で走っているフー坊改め、競走馬名をビヨンドスピード。【速さの向こう側へ】と名付けられた彼の素質は、かつてサクラバクシンオーに騎乗していた古島から見ても才能溢れるものだった。

 

 他の馬と併せているのだが、楽勝で千切る。新しく入厩した新馬達の実力を測るため、いろいろと測定しているのだが、ビヨンドスピードは桁違いだ。

 速い。ただ速い。そんなありふれた感想しか出てこないほどに、スピードが突出している。

 

「いや、これでろくすっぽ調教できんかったって嘘だろ。ぜってぇ嘘だろ西塔さんよ。なんだいこりゃ?」

「どうかしたんですか、テキ*1? 凄く驚いていますけど」

 

 古島厩舎のスタッフが声をかけると、古島は興奮が抑えきれない様子で。

 

「いや、マジですげぇんだよビヨンドスピード。他の馬より調教遅れてるつってたけど、そんなもんお釣りが出るほどにやべぇ! 基礎能力が違いすぎるわありゃ!」

「おち、落ち着いてください古島さん。素が漏れてます」

「落ち着けっかバカ野郎! ありゃとんでもねぇ逸材だよ! 競り落とした長谷川さんにラブコールを送り続けた甲斐があったもんだわ! いや、天下取れるぞビヨンドスピードは!」

 

 まくしたてた。それはもう勢いよくまくしたてた。犠牲になったスタッフが憐れになるほどに。

 

「スピードは天性のもんだが、一目見りゃわかる。ありゃ桁が違う! 他の馬より調教が遅れてんのに、ぶっちぎるくらいにはえぇんだ!」

「が、がくがく揺らさないでっ」

「こんなもん全然お釣りがくるわ! あの馬を手掛けることができるたぁ、幸せもんだぜ俺もよぉ!」

「わ、分かったから揺らさないでください! 興奮してるの分かったんで! てかこれで何度目ですかもうっ!」

「まーたやってるよ古島さん。今日の犠牲者は蕨さんか」

「ご愁傷様だな。テキ、調教師になってから大人しくなったと思ったのに」

 

 肩をがっくんがっくん揺らして、テンション高く語る古島の姿。犠牲になったスタッフはグロッキー状態だ。調教師になって大人しくなったかと思えば、全然そんなことはなかったと昔の関係者が言いそうになる光景である。

 

 入厩してからのビヨンドスピードはすぐさま美浦トレセンで有名になった。あのサクラバクシンオーとノースフライトの子が来ると、美浦トレセン中で話題になっていたのである。

 一目見ようと、古島厩舎の動向をチェックする調教師は数知れず。果たしてどのような逸材なのか、クラシックの有力候補になるのか。調教師達は情報戦で優位に立つために、日夜目を光らせていた。

 

 結果分かったことは、あまりにもスピードが突出しているということ。サクラバクシンオーのスピードを余すことなく受け継いでいることが一目見て分かるほどに、ビヨンドスピードは速かった。

 加えて、切れ味もある。ノースフライトが誇った日本一の切れ味も、ビヨンドスピードは受け継いでいた。

 2頭の良いところを余すことなく受け継ぐ、才能に溢れた牡馬。話が広まるのは必然であり、美浦トレセン全ての人間が認知するのも時間の問題。話は関西の栗東にすら広がりそうなほどだった。

 

 無論、才能に関してはあくまで2歳馬時点での話である。それでも、この先も伸びていくことを考えれば、ビヨンドスピードが強くなることは誰の目から見ても分かるくらいだった。

 

 調教師からスタッフへ。ビヨンドスピードの話は、すぐさま人から人へ伝播する。

 

「聞いたか? 古島厩舎の馬の話」

「ビヨンドスピードだろ。ありゃすげぇって噂だよな」

「俺見たことあるんだけどさ、マジで速いのなんの。本当に新馬かって疑いたくなったよ」

 

 あっという間に話は広がり、古島厩舎に入った新馬がヤバいと噂されるようになる。ビヨンドスピードは、一躍有名馬となった。

 

 古島としても鼻高々。ビヨンドスピードが評価されて、嬉しくて仕方がないと自ら喧伝するほどだ。

 

「いや、俺が乗れねぇのが残念でならねぇよこりゃ。バクシンオーほどじゃないが、比肩するだけの才能がある。それほどの逸材だ」

「ハァ……ハァ……ご、ご機嫌ですね本当。調教師になってから大人しくなったと思ったのに」

「あいやすまん。バクシンオーとフライトの子で、才能がやべぇってなってつい暴れちまった。わりぃな」

 

 がくがく揺らしていたスタッフに平謝りする古島。それでも興奮冷めやらぬ、といった様子だった。

 

 しかし、古島もしっかりとした調教師。頭の中では冷静に今後の計画を練っている。

 デビューのこと、調教のこと。とりわけ悩ませていたのは──体調問題。

 

(確かにモノはすげぇ。誰もが認めるところだろうよ。ただ……やはり体質の弱さが目立つな)

 

 ビヨンドスピードは確かに才能に溢れる競走馬だ。その才能を潰すわけにはいかない。

 

 だからこそ、調教は慎重にならざるを得ない。牧場側から体質の問題は聞いており、無茶な調教はできないと聞いている。

 それがどの程度なのか、どこまでのラインなら大丈夫なのか。まだ見極められずにいた。

 

(入厩したその日は問題なかった。ってこたぁ、輸送問題は大丈夫な可能性がある。調教も問題なくこなしつつあるが、いつ熱発するか分かったもんじゃねぇ)

 

 片時も目を離せない。これはどの馬にも言えることだが、ビヨンドスピードは特にだ。

 ビヨンドスピードの専属スタッフにもよく言いつけている。些細な変化を見逃すな、と。古島自身が気を付けるとともに、スタッフにも気を配るように命じていた。

 

(これでなにかあったら、西塔さんらになんて言われるか分かったもんじゃねぇ。絶対に無事に過ごさせねぇと)

 

 体調に気を配りつつ調教を。時にはノースフライトを管理していた元調教師の下にあしげく通って、土下座して当時の管理方法を聞きに行くほどの熱意を発揮していた。

 

 また、懸念点は他にもある。

 

「サクラバクシンオーとノースフライトの良いとこ取りなのは良いが、血統的に中距離以上走れない気が、なぁ」

「まぁ、そうですよね。父と母を考えたら、中距離以上は絶対走れなさそうですし」

「ユタカオーはいけたんだがなぁ。長距離は無理にしても、中距離はいけたら嬉しいんだが」

 

 距離適性だ。短距離の父とマイルの母。なんというか、中距離以上は走れないんじゃないだろうか? という懸念がある。ちなみにユタカオーとはサクラユタカオーのことであり、サクラバクシンオーの父だ。秋の天皇賞を勝利したG1馬である。

 

 短距離やマイルが悪いわけではないが、やはり競馬の花形と言えば中距離以上という風潮がある。走れておくに越したことはない。

 ただ、適性がかなり厳しい。今後の調教次第ではあるかもしれないが、血統の観点から見るとまず無理だ。走れないだろう。

 気性も中距離向きではない。これは調教で分かったことだ。

 

「ビヨンドスピードさ、サクラバクシンオーに似てんだよ。こう、ガスっ欠になるまで全力で走る、みたいな」

「確かにそうですね。バテるまで全力疾走ってのが当然、みたいな感じですし」

「それもあるから、中距離厳しそうなんだよな~。いや、どうするかな本当」

 

 とにかく全力で走るビヨンドスピード。サクラバクシンオーを思い出させる一生懸命さは、中距離はおろかマイルすら無理じゃないか? と判断するには十分すぎる理由だった。元主戦騎手だったからこそ、である。

 

 とはいっても、まだ2歳馬。適性を気にするような段階ではない。

 

「ま、今話すようなことでもねぇな。今後化けるかもしれんし、もしかしたら走れるかもしれんし」

「ありますかね? 可能性。調教でもなんでも全力ですけど」

「今の段階で悲観するんじゃねぇ」

 

 長い目で見よう。コジマはそう判断を下した。

 

 

 才能溢れる競走馬ビヨンドスピード。今のところ順調に進んでいる。

 

「そういえば、誰を乗せるとかもう決まってるんですか? 気の早い話ですけど」

「あぁ、デルトリが騎乗したいって言うからデルトリで行く予定」

「……え? サンフランコ・デルトリさん? あの?」

「そう。多分お前が想像している通りのデルトリ。フランキーって呼ばれてるな」

「すごい騎手から目をつけられましたね、ビヨンドスピード」

 

 なにもかも、だ。

*1
調教師の呼び方

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