ノロイ、ノロワレ   作:藤原

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第八話

 ◆

 

 出品を停止してから二週間が経った。

 

 十二月も半ばを過ぎ、街はクリスマス一色に染まっている。駅前のイルミネーションは毎日点灯していて、仕事帰りに見上げるとまばゆいほどだ。買い物客で賑わう商店街を抜け、いつもの道を歩いてマンションに帰る。その繰り返しの日々が少しずつ私を元の軌道に戻してくれていた。

 

 睡眠は相変わらず浅いが以前のように一睡もできないということはなくなった。四時間、五時間と眠れる日が続いている。食欲も少しずつ戻ってきた。朝食を抜くことはなくなったし、昼は会社の食堂でちゃんと定食を食べられるようになった。

 

 購入者たちの告白を読まなくなって、精神的に楽になった。あの重い言葉の群れが頭の中に流れ込んでくることがない。「存在を消された」「一生許さない」──そういう言葉が不意に蘇ることはまだある。でも新しい告白が追加されることがなくなったから、同じ記憶が薄れていくのを待てばいい。

 

 木村のパワハラは相変わらずだった。今日も報告書の数字の並べ方が気に入らないと言われて十五分ほど立たされた。「センスがない」「こんなの新入社員でもできる」。いつもの言葉だ。でも以前より耐えられるようになった気がする。木村の顔を見ても胃がきりきりと痛むことが減った。慣れたのか、麻痺したのか。どちらにしても生存のための適応なのだろう。

 

 金曜日の夜、帰宅してソファに座り、スマホを確認した。美月からLINEが来ていた。

 

『今週も乗り切ったね。お疲れさま』

 

『ありがとう。美月も』

 

『来週、ご飯行かない? クリスマス前だし、ちょっといいところ予約しようか』

 

『いいね。行きたい』

 

『じゃあ調べとく。楽しみにしてて』

 

 スマホを置いて、天井を見上げた。

 

 美月との約束がある。それだけで少し気持ちが軽くなる。

 

 エルカリの出品を停止してから、新しい注文は来ていない。通知もない。あの重い告白を読まされることもない。

 

 これでよかったのだと思う。

 

 木村へのストレス発散が目的で始めた副業だった。でも途中から目的が変わってしまった。購入者たちの告白を読むことで私は自分の過去と向き合わされた。それは必要なことだったのかもしれない。でも続けていたら壊れていた。

 

 今は平穏だ。

 

 完全な平穏ではないけれど、少なくとも崩壊の縁からは離れた。

 

 ◆

 

 土曜日の午後、部屋の掃除をしていた。

 

 二週間ぶりに掃除機をかけ、窓を拭き、洗面台を磨いた。ずっと放置していた洗濯物も片付けた。体を動かしていると、余計なことを考えずに済む。

 

 一段落ついて、コーヒーを淹れた。窓際の椅子に座って、湯気の立つカップを両手で包む。外は曇り空だ。十二月の光は弱くて、部屋の中はぼんやりと暗い。

 

 スマホが震えた。

 

 SNSの通知だった。DMが届いている。

 

 誰だろう、と思いながら開いた。

 

『突然のメッセージ、失礼します。エルカリで呪いグッズを販売されていた方ですよね?』

 

 心臓が跳ねた。

 

 呪いグッズ。エルカリ。

 

 どこから私のSNSアカウントを見つけたのだろう。エルカリのプロフィールにはSNSのリンクなど載せていなかったはずだ。でもハンドルネームが似ていたのかもしれない。検索すれば見つかる程度には。

 

 メッセージは続いていた。

 

『もう販売はされていないのでしょうか? どうしてもお願いしたいことがあるんです』

 

 私は画面を閉じた。

 

 関わりたくなかった。あの重い告白をまた読まされるのは嫌だった。

 

 コーヒーを飲み干して、スマホをテーブルの上に置いた。見なかったことにしよう。無視すればいい。

 

 ◆

 

 翌日、また通知が来ていた。

 

 別のアカウントからだった。

 

『エルカリで「本格呪符」を購入したことがある者です。また購入したいのですが出品を再開される予定はありますか?』

 

 また別の人だった。どうやって私を見つけているのだろう。

 

 その日の夜にもまた別の通知。

 

『お忙しいところすみません。エルカリで呪いグッズを販売されていた方だと聞いたのですが……』

 

 聞いた? 誰から? 

 

 購入者同士で情報が共有されているのだろうか。それともどこかの掲示板に私のアカウントが晒されているのか。

 

 いずれにしても無視するしかない。

 

 私はすべてのメッセージを未読のまま放置した。

 

 ◆

 

 火曜日の昼休み、スマホを確認すると、また新しいDMが届いていた。

 

 今度は三件まとめて。

 

『呪い人形をもう一度購入したいのですが』

 

『特別に作っていただけませんか? お金は払います』

 

『藁にもすがりたい気持ちです。どうか、お願いします』

 

 どの文面にも切実さがにじんでいた。藁にもすがりたい──その言葉を何度読んだことか。

 

 でも私には関係ない。

 

 もう関わらないと決めたのだ。

 

 すべてのメッセージを既読にせず、アプリを閉じた。

 

 ◆

 

 水曜日の夜、美月と電話した。

 

「最近どう? 元気にしてる?」

 

 美月の声は明るかった。

 

「まあまあ。仕事は相変わらずだけど」

 

「木村さん?」

 

「うん。でも前より気にならなくなったかも」

 

「よかった。慣れてきた?」

 

「麻痺してきた、のかも」

 

 美月は笑った。電話越しでもその笑い声は温かかった。

 

「そういえば、エルカリやめたの、正解だったと思う」

 

 私は言った。

 

「そう? よかった」

 

「うん。なんか変なDMくるようになって」

 

「えー、怖いね」

 

 美月の声が少し低くなった。

 

「無視無視。変なのに関わっちゃダメだよ」

 

「だよね」

 

「彩乃、優しいからさ。つい返事しちゃいそうで心配」

 

「大丈夫。ちゃんと無視してる」

 

「よかった。何か困ったことあったら言ってね」

 

「ありがとう」

 

 電話を切った後、スマホをしばらく見つめていた。

 

 美月のアドバイス通り、無視を続ければいい。

 

 それが一番だ。

 

 ◆

 

 木曜日、また新しいDMが届いていた。

 

 今度は長文だった。

 

『突然のメッセージ、本当に申し訳ありません。エルカリで呪いグッズを販売されていた方だと聞いてご連絡しました。どうか、この文を最後まで読んでいただけないでしょうか』

 

 読みたくなかった。でもなぜか指が止まらなかった。

 

『娘がいじめで自殺未遂をしました』

 

 その一文が目に飛び込んできて、息が詰まった。

 

『中学二年の娘です。半年前から不登校になっていました。理由を聞いても教えてくれませんでした。ある日、学校に行くと言って家を出たまま、夜になっても帰ってきませんでした。警察に届けを出して、翌朝、公園で見つかりました。手首を切っていました』

 

 スマホを持つ手が震えた。

 

『一命は取り留めました。今は入院しています。面会のたびに、娘の目が空洞のようになっているのを見ます。何を言っても反応が薄い。笑わない。泣かない。ただ、ぼんやりと窓の外を見ているだけ』

 

 読みたくない。でも読まずにはいられない。

 

『学校に問い合わせました。いじめがあったことは認めました。でも「調査中です」「対応を検討しています」としか言わない。加害者の子供たちは何の処分も受けていません。普通に学校に通っています。笑って、友達と遊んで部屋を走り回って。娘の人生を壊しておいて、何事もなかったかのように』

 

 胸が苦しくなった。

 

『警察にも相談しました。でも「刑事事件にはならない」と言われました。「学校で対応してもらってください」と。学校は何もしてくれない。警察も動いてくれない。誰も助けてくれない。どうすればいいかわかりません』

 

 その母親の絶望が文面から伝わってきた。

 

『せめて、呪いでも。藁にもすがりたいんです。娘を傷つけた子供たちに、何か報いがあってほしい。罰が当たってほしい。そう願うことしかできない自分が情けない。でも他に何ができるでしょうか。どうか、お願いします。呪いグッズを売ってください。お金はいくらでも払います』

 

 メッセージはそこで終わっていた。

 

 私はしばらくスマホを見つめていた。

 

 断るべきだ。関わるべきではない。美月も言っていた。無視しろ、と。

 

 でも──

 

 この人の娘は美月と同じ目に遭った。私のような加害者に傷つけられた。

 

 私が美月にしたことと同じことをどこかの誰かがこの子にしたのだ。

 

 集団での無視。存在を消す。追い詰める。そして──

 

 屋上に立つ美月の後ろ姿が脳裏をよぎった。

 

 あのとき、美月が一歩踏み出していたら。

 

 この子は一歩踏み出してしまったのだ。手首を切るという形で。

 

 私は──

 

 断れなかった。

 

 ◆

 

 返信を打つ指が震えていた。

 

『メッセージ、読みました。お嬢様のこと、本当にお辛いですね』

 

 送信してから、後悔した。返事をしてしまった。関わってしまった。

 

 でももう遅い。

 

 相手からの返信はすぐに届いた。

 

『読んでいただけたのですね。ありがとうございます。本当にありがとうございます』

 

 感謝の言葉が痛かった。私は何もしていない。ただ返事をしただけだ。

 

『すみません、今は出品を停止していて……』

 

『お願いします。特別に、一件だけ。お金はいくらでも払います。娘のために、何かしたいんです。何もできない自分が辛いんです』

 

 何もできない自分が辛い。

 

 この母親は娘を守れなかった自分を責めているのだろう。いじめに気づけなかった自分を。自殺未遂を防げなかった自分を。

 

 そして今、娘のために何かしたいと藁にもすがっている。

 

 呪いなんて効くはずがない。そんなことは私が一番わかっている。呪いグッズはただの紙切れだ。ただの人形だ。何の力もない。

 

 でもこの母親にとっては違うのかもしれない。

 

 何かをしているという実感。娘のために行動しているという感覚。それがこの人を支えているのかもしれない。

 

 私は──

 

『わかりました。一件だけ、お受けします』

 

 送信した。

 

 後悔が波のように押し寄せてきた。

 

 何をやっているのだろう。断ると決めたのに。美月のアドバイスに従うと決めたのに。

 

 でも断れなかった。

 

 この人の娘は美月と同じ目に遭った。私のような加害者に傷つけられた。

 

 その事実が私の決意を揺るがせた。

 

 ◆

 

 依頼を受けてしまった。

 

 相手──「Kさん」は娘へのいじめの詳細を語り始めた。

 

『いじめは一年前から始まっていました。最初は軽い悪口だったそうです。「キモい」「ウザい」「消えろ」。よくある言葉です。でもそれが毎日続くと、人は壊れていきます』

 

 読み進める。

 

『次第にエスカレートしました。持ち物を隠される。教科書を破られる。SNSで悪口を書かれる。「死ね」と書かれた手紙を机の中に入れられる』

 

『娘は何度か学校を休みました。でも休むと「また休んだ」と陰口を言われる。行っても地獄、休んでも地獄。逃げ場がなかったんです』

 

 逃げ場がない。その感覚を私は知らない。私は常に逃げる側ではなく、追い詰める側だったから。

 

『ある日、娘が掃除用具入れに閉じ込められていたことがわかりました。一時間以上、暗い中で一人で。娘は何も言いませんでした。家に帰ってきてからも普通にご飯を食べて、普通にお風呂に入って、普通に寝ました。でも翌朝、目が赤く腫れていました。夜中にずっと泣いていたんだと思います』

 

 掃除用具入れ。

 

 私たちも美月を閉じ込めたことがある。「反省するまで出てくるな」と言って。一時間以上、出さなかった。

 

 同じことだ。

 

 この子にされたことと、私が美月にしたことは同じだ。

 

『娘が自殺未遂をした日、加害者の子供たちは何をしていたと思いますか? カラオケに行っていたそうです。楽しそうにSNSに写真を上げていました。娘が血を流して倒れているとき、あの子たちは笑って歌っていたんです』

 

 吐き気がした。

 

『許せません。絶対に許せません。でもどうすることもできない。学校は動かない。警察は動かない。法律も味方してくれない。だから呪いでも。せめて、呪いでも。あの子たちに罰が当たってほしい』

 

 メッセージを読み終えて、私はスマホを置いた。

 

 手が震えていた。

 

 この依頼を受けたことをすでに後悔していた。

 

 でも断れなかった。

 

 この母親の娘は美月と同じ目に遭った。私のような加害者に傷つけられた。

 

 そして私はその加害者と同じことをした人間だ。

 

 ◆

 

 金曜日の夜、呪符を作った。

 

 久しぶりの作業だった。和紙を切り、筆ペンで文字を書く。「怨」「呪」「滅」。いつもと同じ工程だ。

 

 でもいつもと違う感覚があった。

 

 以前は木村のことを考えながら作っていた。木村の顔を思い浮かべ、木村への怒りを込めて筆を走らせていた。

 

 今は違う。

 

 頭の中にいるのはKさんの娘をいじめた子供たちだ。顔も名前も知らない。でも彼らがしたことは知っている。集団での無視。持ち物の破壊。SNSでの誹謗中傷。掃除用具入れへの監禁。

 

 私は加害者だ。

 

 加害者が加害者を呪うための道具を作っている。

 

 いつしか私は、自分の事を考えながら呪符を作っていた。

 

 ◆

 

 呪符を完成させて、封筒に入れた。明日、コンビニから発送する。

 

 作業を終えて、ソファに座った。窓の外は暗い。十二月の夜は長い。

 

 スマホが震えた。Kさんからのメッセージだった。

 

『お忙しい中、ありがとうございます。発送していただけるとのこと、本当に感謝しています』

 

『いえ、たいしたことでは……』

 

『いいえ、たいしたことです。誰も助けてくれない中であなただけが手を差し伸べてくれました。本当にありがとうございます』

 

 手を差し伸べた。

 

 そんな大層なことをした覚えはない。ただ、断れなかっただけだ。

 

『娘のいじめ、もう少し詳しく聞いてもらってもいいでしょうか。話を聞いてくれる人がいないんです。夫は仕事で忙しくて、あまり話を聞いてくれない。友人にも話せない。話しても「大変だね」と言われるだけで本当の辛さはわかってもらえないんです』

 

 読みたくなかった。でも断れなかった。

 

『構いませんよ』

 

 送信してから、また後悔した。

 

 話を聞く。それは私の役割ではない。私はただ商品を売っただけだ。カウンセラーでもなければ、この人の人生を変える力もない。

 

 でも断れなかった。

 

 Kさんは堰を切ったように語り始めた。

 

『いじめの首謀者はクラスの人気者だったそうです。成績も良くて、スポーツもできて、先生からの評価も高い。そういう子がなぜ娘を標的にしたのか。理由はわかりません。娘は地味な子です。目立たない。おとなしい。友達も少ない。そういう子が狙われやすいのかもしれません』

 

 首謀者。クラスの人気者。成績も良くて、先生からの評価も高い。

 

 それは高校時代の私だ。

 

『その子は自分では直接手を下さなかったそうです。取り巻きがいて、取り巻きが実行犯。でも指示を出していたのはその子。みんな、その子の顔色を窺っていた。その子が「やれ」と言えば、みんなやる。その子が「やめろ」と言えば、やめる。そういう関係だったそうです』

 

 私と同じだ。

 

 私も直接手を下さないことが多かった。取り巻きがやっていた。でも私が止めなかったから、エスカレートした。私が止めれば、止まったはずだ。

 

『娘は何度も訴えようとしたそうです。でも証拠がない。その子は頭がいいから、証拠を残さない。先生の前ではいい子を演じている。だから娘が訴えても信じてもらえなかった。「あの子がそんなことをするはずがない」と言われたそうです』

 

 頭がいいから、証拠を残さない。

 

 私もそうだった。私も先生の前ではいい子を演じていた。美月が訴えたとしてもきっと信じてもらえなかっただろう。

 

 ──「許せません」

 

 ──「絶対に許せません」

 

 ──「藁にもすがりたい」

 

 頭の中に何度も何度もそんな声が反響する。 

 

 そうだ、私は許されるべきではない。

 

 絶対に許されるべきではないのだ。

 

 

 

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