サザナ回
チーパオ着て欲しいね
チッチッチッと、どこかのデスクからやけに大きな時計の音が聞こえてくる。
だが、その場にいる誰も気にする様子はない。
雑然としたオフィスの中で、そこだけが別世界のように切り取られていた。
整然と書類が重ねられた局長席。
その傍らで普段羽織っている黒いジャケットを椅子にかけ、Yシャツ一枚になったサザナが滑らかな手つきで陶器の急須から湯を注いでいる。
立ち上る湯気が、静まり返ったオフィスに静かな香りを広げていた。
「ようこそ先生。待っていたよ」
“おはよう、みんなは?“
「クロエは休暇、イキハとモナカは現場だ」
“そっか、サザナは?“
「四日前から書類に付きっきりだよ。この時期は無駄に多くて困る」
“同じだね“
応接用のソファに腰掛けた先生の前に、上品な模様の描かれた茶碗が差し出される。
「ちょうどいい温度だ。粗茶だが…ここの殺風景な空気の、毒消しくらいにはなるだろう」
口に含むと、花のように澄んだ深い香りと微かな渋みがすっと鼻を抜けていった。
“凄く美味しい。いい香りのお茶だね“
その感想を聞いて、彼女は目を細めたまま嬉しそうに微笑んだ。
「それは良かった。私の故郷、山海経から取り寄せている茶葉さ。向こうでは少し値が張るし流通も無いんだが、この香りがないと落ち着かなくてね。無理を言って回してもらっている」
“山海経出身なんだ?“
ヴァルキューレ警察学校の幹部である彼女が、山海経出身という経歴に、先生は少しばかり驚きを覚える。
「はは、そう不思議そうな顔をしないでくれ。山海経の生まれだからといって、玄龍門だったり玄武商会だったりに身を置かなければならないというルールはないだろう?」
彼女はまるで玄龍門の格好を真似るように自らのスーツを羽織り、そしてイキハのデスクにあったサングラスを手にとり、顔にかける仕草を見せる。
その様相は確かに玄龍門の幹部にも見えなくはないが…どちらかというと敵対する側のような貫禄があった。
先生は命の危機を感じてそれを口に出さないでおく。
「あそこの生徒たちはみな礼節を重んじ、義に厚い。だが…少々、『伝統』と『メンツ』が絶対的すぎるところがあってね」
彼女はサングラスを置き、自身の茶をひとくち啜って、ふぅと息を吐き出す。
「あそこは良くも悪くも身内には甘く、外には苛烈に牙を剥く世界だ。だが私は、そんな曖昧な世界観が肌に合わなかった」
「だから私はヴァルキューレを選んだ。誰の顔色も窺わず、法と規則の下で、万人に対して平等な断罪を下せる組織だと考えたのさ」
彼女はゆっくりと首を横に振った。
口元の笑みは崩れないが、声には微かな自嘲の響きが混じっていた。
「だが、実際にスーツに袖を通し、靴底をすり減らしてみるとどうだろう、私の考えは少し楽観的すぎたようだと感じたんだ」
彼女が見せつけるように掲げた真っ白な腕。
二の腕のあたりにうっすらと残る逮捕術の修練の跡や傷跡が、現場での苦労と彼女の言葉を補強している。
「先生も薄々感付いているだろう? 我々、ヴァルキューレの致命的な脆弱性に」
“慢性的な予算不足。とか?“
「それもそうだが……というかどこで聞いたんだそれは」
“……ヒミツで“
「オホン、まぁいい。ここで言う脆弱性とは、この組織に設定された『限界』のことさ」
“限界?“
カチン、と陶器が受け皿に触れる音が鳴った。
サザナはソファの傍から離れ、茶碗を片手にオフィス内を歩く。
かつ、かつ。とヒールの良い音が鳴っていた。
「ヴァルキューレはキヴォトスでも最大規模を誇る治安維持組織だ。各自治区に支部を持ち、それぞれに広いナワバリを持っている」
「中にはヴァルキューレを中心として構成された自治区だってあるくらいだ」
彼女は足を止める。
「だが『組織』であり、上に立つ者がいて、ルールという建前がある以上、
サザナの瞳は、静かに窓の外を見据えていた。
「残念ながら、カンナ達がどれほど街を走り回り、汗水垂らしても、事件の芽をすべて未然に摘み取ることなんて到底不可能なんだよ」
窓の外の青空に視線をやりながら、彼女は続ける。
「山海経の門閥なら、シマを荒らす不届き者は問答無用で制圧できる。クロエが所属していたSRTならば、超法規的に悪の根源ごと消し飛ばせただろう」
「それに比べて我々はあまりにもアナログで、動き出しが遅く、鈍重だ」
“…“
先生は、少し前の彼女との面談を思い出す。
『私は刑事。事件を起こしてしまった犯人と対話をする事が役割だ』
「何事も『起きてしまってから』でないと、警察という組織は真の機能を発揮しない」
「どれほど悔しくても…事件が起き、誰かが傷つき、何かが失われるまでは指を咥えて待っていなければならない。それが、後手に回る運命を背負った私達の逃れられないジレンマだ。憎らしいほどに嫌になる仕事だよ」
その言葉には、刑事という職務につきまとう深く暗い諦念が宿っていた。
それでも───。
“…でも、サザナはその仕事を憎んでいないように見えるよ“
そう尋ねると、彼女は纏っていた暗い雰囲気を払い落とした。
「ふふ、憎んでなんていないさ。私は私の仕事を深く愛しているよ。誇りだと思っている」
彼女は背筋を伸ばし、デスクに腰を掛け直した。
いつもの柔らかな雰囲気が、ぴしりと引き締まる。
「防ぐことができないなら、既に悲劇が起きてしまったというのなら。誰かがその悲劇に完璧な
「私は誰かの盾にはなれないかもしれない。けれど、泥水を被り、断片を掻き集め、最後には必ず、逃げおおせようとする悲劇の脚本家にオチを突きつけてやることはできる」
穏やかに閉じられた目蓋の奥。
その細い隙間からは、まるで光の届かない深海を覗き込んだような、ぞっとするほどの冷徹で純度の高い圧力が一瞬だけ垣間見えた。
キィン、と。彼女の爪が微かに陶器を弾く音が鳴る。
いつの間にかオフィスの窓が開かれており、涼やかな風が吹き込んでくる。
「
「それがこの私…『仏のサザナ』が説く正義だよ。先生」
先生は彼女の背に、深く切り立った山々に抱かれた山海経の景色が見えたような気がした。
それは世界のどうしようもない奔流に対する強固な『決意』をも表しているようであり…
自身を風景の一部であると捉えている諦観の表れにも見えた。
「…しかしね、先生」
少しの間を置き、サザナの口元が再び人間の体温を感じさせる弧を描いた。
「キヴォトスは特殊な場所だ。日々問題行動を起こす生徒が後を絶たない。では、彼女たちが起こす異常な騒動をすべて同じ天秤にかけて、ただ機械的に断罪し続ければ良いと思うかい?」
“いや。それでは、救われない生徒もいると思う“
先生が迷わずに答えると、サザナは心底満足そうに目を細めて頷いた。
「同感だ。だからこそ私達警察には、絶対的な『線引き』が必要になるのさ」
サザナはお茶の入った急須を手でそっと撫でる。
「法を破ったからといって、それですべての未来を閉ざす必要はない。悪意なき過ちや、止むに止まれない事情。深く反省してもう一度やり直せる余地があるのなら…私は、彼女たちの襟を正してやるだけに留めたいんだよ」
「私達刑事が見極めなければならないのは、単なる事象の白黒だけではなく、その者がどこで足を踏み外し、どこまでなら戻って来られるかという『境界』だ」
「だからこそ状況を理解し、時に怒り、時に導く。程々に線引きしないと、牢屋もこちらの頭もパンクしてしまうからね」
“サザナらしい、強くて優しい哲学だね“
その言葉に、サザナの表情が驚いたように僅かに緩み。
やがて本当にホッとしたような柔らかな笑みに変わった。
「…はは、ありがとう。先生にそうはっきり肯定してもらえると、気持ちが軽くなるよ」
先生という最大の理解者を得たからか、サザナの纏う空気が、いつになく穏やかなものになる。
リラックスした様子で椅子に深く腰掛け、足を組んだ彼女は手をぴんと掲げ伸びをした。
「…やはり現場ではどうしようも無いことも多いし、一筋縄ではいかない事情が隠されていることも多々ある。だからこそ一概にすべての罪をルール通り罰する、という訳にもいかないのさ」
「君だって…法律的な『罪』とまではいかなくとも、少しの出来心で線引きの向こう側を歩いた経験くらい、あるんじゃあないか?」
“…そうだね“
そう言いながら席を立ち上がったサザナは、オフィスの隅にあるデスクへと近寄る。
「誰しもそういう時はあるものだよね」
そこには工具やむき出しの配線、そして読みかけの本が積み重ねられており…そこがクロエのデスクであることは一目瞭然だった。
「たとえば…そう。同僚が隠しているとっておきのお菓子を、今日のお茶請けにしてしまう、とか?」
サザナはクロエのデスクの一番下の引き出しから綺麗な缶を取り出すと、悪戯っぽく口角を上げた。
その笑顔は、普段の貫禄からは想像もつかないほど子供らしく、無邪気なものであった。
「トリニティのビスケットか。これはまたいいものを見つけた」
“サザナ。勝手にもらうのは流石に…あとで爆弾が届かないかな?“
「『お互い様』という魔法の言葉で察しておくれ。私も毎日胃を痛めているんだ、このくらいの手当は許されるはずさ」
「さあ先生。冷める前に、もう一杯新しく淹れ直そうか」
心地よい香りと、底に隠された深淵。
そして時折見せる、人間くさくてお茶目な線引き。
二人の言葉は、お茶の湯気と窓から入る光の中に心地よく溶けていった。
「今度クロエにそれ言ってみてくれ、どんな反応をするのか楽しみだ」
「は?梅花園……幼稚園の局長…?」
「ヴォエッ!!!!」
「それは酷くないか?」
次回『日常を守る者』
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