八咫黒モナカ。ミレニアム出身の一年生。
スペックのみでSRTの試験を突破してしまった肉体的優等生。
諦めきれない、自分以外は。
休日の午後。
西日に染まり始めたD.U.のストリートコートに、単調なスキール音とボールの跳ねる音が響いていた。
キュッ。キュッ。
ダム、ダム、ダム。
“(あれ…)“
仕事からシャーレへ帰る途中だった先生は、フェンス越しにその音の主を見つけて足を止めた。
だぼだぼのグレーのパーカーとレギンスというラフな姿の少女。
刑事局の盾役こと、八咫黒モナカだった。
彼女の傍らにいつものタワーシールドの姿はなく、ただ使い古されたバスケットボールだけが足元にある。
「…あ」
フェンス越しに先生の存在に気づいたモナカは、少しだけ気まずそうにボールを拾い上げ小脇に抱えた。
「なんでいるんスか…」
彼女の額にはうっすらと汗が滲んでおり、普段のオフィスで見るよりは幾分か血色が良く見える。
“珍しいね、モナカが運動してるなんて”
「ウッス。…まぁ、散歩の途中でしたし、コート、空いてたしボールも落ちてたんで…気まぐれの気まぐれってやつっス」
先生はコートの中に入り、モナカの隣に立つ。
一見華奢に見えつつも、骨太でガッチリとした体躯は、パーカーの上からでも分かるほどの圧倒的な質量を持っている。
だからなのか、彼女の手のひらに収まるバスケットボールは、妙に小さく見えた。
“バスケ、やってたの?“
「まぁ、昔に…部活入るくらいには頑張ってたっス」
モナカはボールを床に落とし、足の裏で軽く転がす。
「背がデカかったんで、入部したら喜ばれたんスよ。天職かもって思ったっス。でも、結局性に合わなくて」
“性に合わない?“
「ウッス…ただ立って、壁になるだけでしたから」
モナカはコートの端から、ゴールリングを見上げた。
「相手を通さないのは得意でしたよ。リバウンドも大体取れたし。でも、自分で点を入れた記憶はほとんどないっス」
「ほっ」とスリーポイントシュートのフォームで、真上にボールを投げるモナカ。
綺麗なフォームだった。
「リングの下で体張って…相手から弾いたボールをパスして終わり」
「誰かに『ナイスカバー』って言われるより、自分でシュート決めた方が絶対面白いじゃないっスか。でも、私はその機会が無かった」
彼女の言葉には、強い悔しさや悲哀はない。
「ま、欲しいとも言わなかったんスけどね」
ただ、炭酸の抜けたコーラのような、どうしようもない『退屈』の記憶が横たわっていた。
「だからっすかね。自分がコート上の主人公になったことがない、なる気があったのかも分からなくなって…だから、まぁ、つまらなくなって辞めました」
才能が無かったわけではない。挫折したわけでもない。
ただ「ただのデカい壁」という自分自身の役割に目の前を覆われ、その先に期待することを放棄したのだ。
それが、今の彼女の「諦観」や「怠惰」のルーツなのだろうと、先生は感じ取った。
「あー、運動したら眠くなってきたっス…ポテト食いたい」
モナカがボールをベンチに置き、大きく背伸びをしたその時だった。
「わーい!一番乗り!」
「あっ、ずるいぞ!」
公園の入り口から、数人の小さな鳥の子供たちがボールを抱えて走り込んで来た。地元の小学生のようだ。
モナカはその姿を見ると、露骨に面倒くさそうに首を掻いた。
「ゲッ、子供…こんな時間まで元気なこって。先生、邪魔になるんで出ますよ。帰ります」
“そうだね。お疲れ様、モナカ“
先生も彼女に付き合ってコートを出ようとしたが…
その入れ違いになるように、不躾な金属音と野次声がコートに踏み込んできた。
「アァ?なんだこのガキども。ここはいつもウチらが使ってるシマなんだよ!どきな!」
バットや銃器を携えながら現れたのは、派手なジャージを着たスケバンのグループだった。
せっかくコートに入った子供たちは、いきなり現れたガラの悪い不良たちに囲まれ、青ざめてボールを落とす。
「ひっ……!」
「ガキは公園で砂遊びでもしてな!」
「…ん?良いボール持ってるじゃねぇか、それ置いてったら許してやるよ!」
明らかなカツアゲ。そして不当な占拠行為。
スケバンの一人が躊躇う子供の襟首を掴もうとした時。
「おい」
不良の腕が子供に伸びるより早く、低い声がストリートコートに響き渡った。
「あ?」
スケバンたちが一斉に振り返る。
「うるせぇんだよお前ら。それにそのボール、ガキのだろ。何ナチュラルにカツアゲしてんだ」
入り口から引き返してきたモナカが、ズシリと足音を鳴らして不良たちの前に立ち塞がっていた。
不良達は自分たちよりもかなり背丈の大きい彼女に驚きつつも、丸腰だと知るとニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
「はっ!部外者は引っ込んでろよ!じゃないとこのバットで顔面を……」
「いいからさっさと返せ。こちとらさっさと帰りたいのに立場上対応しないといけねぇんだよ」
「ッ!でけぇだけの癖によぉ!」
心底どうでも良いといった様子のモナカの言葉が彼女の怒りを煽ったのか、スケバンのリーダー格がフルスイングで金属バットをモナカの肩口へと振り下ろした。
カーン! という鋭い音が響く。
だが。
「…痛ッッてぇッ!?」
悲鳴を上げたのは、殴ったスケバンの方だった。
反動で手が痺れ、バットをその場に取り落とす。
「…」
殴られたモナカは、文字通り微動だにしていなかった。痛がる素振りすらない。
防弾シールドを持たず、ただパーカーを着ただけの生身でありながら、彼女の肉体そのものが特級の防壁だった。
「え…?」
「嘘だろ、ノーダメージかよ!?」
動揺する不良たちに、モナカは深い隈のある三白眼を向け、ゆっくりと歩み寄る。
「……でかいだけなんだろ?どかしてみろよ」
威圧でもない、挑発でもない。ただの純然たる『事実』の宣言だった。
恐怖に駆られた不良たちが一斉にモナカに飛びかかる。鉄パイプ、バット、そしてサブマシンガンの乱射。
だが、そのすべてを彼女は全く避けることなく真っ向から顔面で受け止め、文字通り一歩も引かなかった。
『除去できない障害物』ほど厄介な存在は戦場において存在しない。前進を拒む圧倒的な重しに、不良たちの足が止まる。
「本当に……お前ら見てると眠くなるっスね!」
ドゴォッ!!
モナカが一歩踏み出し、重い肩を突き出しただけのショルダータックルが、数人の不良たちをまとめて吹き飛ばした。
コートのフェンスに激突し、あっけなく彼女たちは地面に崩れ落ちる。
制圧までに数十秒とかからなかった。彼女の暴力的な質量は、盾を持たずとも十分すぎるほど規格外だった。
「う、うぅ…」
倒れたスケバンたちは、顔を押さえて蹲る。
「なんなんだよお前…どいつもこいつもバカにしやがって!!」
スケバンの一人が、自暴自棄に叫んだ。
「アンタはいいよな!どうせアタシたちみたいな才能無しの底辺の気持ちなんて分からないんだろ!やってらんねぇよ!何やったって全部うまくいかないんだから!」
それは、どこかでドロップアウトした不良たちの、惨めでありきたりな言い訳だった。
“…君た──「先生は子供達を頼んだっス。多分こいつらは…先生じゃダメっすから」
“……分かった、よろしくね“
「…すんません。悪気はなかったっス」
モナカに促された先生は、子供たちを安全な場所へ逃がす。
彼女は倒れたスケバンを見下ろしたまま、小さく鼻で笑った。
「底辺の気持ち、ねぇ」
モナカは自分の足元に転がっていたバスケットボールを無造作に拾い上げる。
「そりゃアンタたちの事情なんて知ったこっちゃないっスよ。才能がないのも、頑張るのが馬鹿バカしくなったのも、アンタたちが勝手にやったこと」
「…才能があるやつは、みんなそう言うんだ」
ダム。ダム。とボールを跳ねさせる彼女の視線は、後ろから不安そうに見てる子供達に向けられていた。
「そうかもしれないっスね。でも、その捻くれた理由で、赤の他人であるガキの居場所を奪うのは何がどうなっても違うっスよね」
「…」
モナカは拾い上げたボールを、スケバンのリーダーに軽く投げ返した。
ボスンとボールを受け取り、不良は目を丸くする。
「ま、気持ちは分かるっスよ。私も色々努力してきたっスけど。なーんも返ってこない、面白くない、自分だけどうしてーってなって…」
「そっから、壁の役目だけ果たすよう木偶の坊になった口っス」
彼女はパーカーのポケットに手を突っ込み、コートに吹き込む夕風を一身に受けた。
「はぁ…えーと、まぁ、そう。別に同情とか哀れみとか思ってもらっても構わないんスけど…」
モナカの目は、どこか遠くを見るような色をしていた。
あるいは、少し前までの『つまらなそうに毎日を消費していた自分』を見るように。
「私、自分のことはめちゃくちゃ嫌いで、割と諦めてるんスよ」
「だからなのか、諦めてるヤツを見てると自分を見てるようでめちゃくちゃムカつくんスよね」
それは、ことなかれ主義のモナカの胸の奥底にある、消しきれなかった小さな不条理に対する怒りだった。
「だから、見過ごしたくない」
自分がどれだけ無気力であっても、他人が不貞腐れて誰かの居場所を壊すことは許せない。その理不尽に体を張って止まることだけが、彼女にできる『自己表現』なのだ。
「ん」
「うわっ」
モナカは後ろに隠れていた子供の頭に手を置いた。
かなり雑だが、不器用な優しさがこもった手だった。
モナカは子供の背中をポン、と軽く叩いた。
「ほら、ボール渡してもらいな。もうこの姉ちゃん達は怖いことしないから大丈夫」
そして、地面に座り込んでいる不良たちに向かって、だるそうに言葉を吐き捨てる。
「そうだ、あんたらも一緒に遊んでみたらどうっスか?ある意味良い機会かもしれないっスよ?」
モナカはふふん、と鼻を鳴らして背を向ける。
スケバンは何も言わずにボールを見つめ、やがて気まずそうに顔を背けて立ち上がり、ボールを子供の方へそっと転がした。
「…帰るぞ。覚えてろよ」
「どうしてもムカついてぶっ壊したくなったら、ヴァルキューレ刑事局の八咫黒モナカを呼ぶっす。いつでも相手になってやるっスよ、私めっちゃタフだし」
彼女たちは捨て台詞を吐きながら、静かな足取りでコートを去っていった。
モナカが言った言葉が最後まで聞こえていたかは分からない。
「ありがとう大きなお姉ちゃん!」
「デクノボーのお姉ちゃんありがとう!」
「それチクチク言葉だから他の奴に絶対言うなよ」
子供たちがコートの中央に戻り、歓声を上げながらバスケットボールをつき始める。
平和が戻ったコートに、またダムダムと単調な音が響いていた。
「…」
夕暮れがさらに深く街を染めていく。
コートのフェンスの外。
モナカは一人、その楽しそうな音に耳を傾けながら、遠くのゴールリングを見上げて佇んでいた。
“いい先生になれそうだね、モナカ“
隣に並んだ先生の言葉に、モナカは露骨に嫌そうな顔をした。
「え……勘弁してほしいっス。ガキ相手に説教だのカウンセリングだの嫌っスよ」
“ふふ、そうかな?でもやっぱりカッコよかったよ“
「うるさいっス………何を言われても動じる気はないっスからね」
文句を言いながらも、その三白眼は決して怒ってはいなかった。
茜色の空がコートのコンクリートに長い影を落とす。
彼女の手の中にはもうボールは無い。
しかし、彼女の身体が発する頼もしい存在感は、かつて才能に見放されたと信じた自分を、静かに塗り替えているように見えた。
「あー、ポテト食べたいっス」
“買っていこうか“
「……先生のおごりなら、まぁ…少し遠回りで歩いてやってもいいっスよ」
八咫黒モナカの休日は、だるさとほんの少しの安堵に包まれながら、静かに暮れていった。
不動の壁であり、ヴァルキューレ最硬の盾。
彼女が守るのは自身の命ではなく、後ろで震える小さな希望であるということを、彼女自身が再認識した夕方の記録だった。
“その後どう?“
「あのガキ共とは仲良くやってるっスよ」
“あの子達は?“
「いや、あいつらが」
“…そっか。モナカは?“
「私なんかはなんもないっスよ〜」
“でも昨日みんなでバスケやってたよね“
「ハメたっスね?!!」
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