事件は一段落したものの───
▶ヴァルキューレ警察学校・鑑識課
冷たく青白いモニターの光が、整然と器具が並ぶラボを照らしている。
規則正しく聞こえてくるのは、換気扇の低い駆動音と、時候ミラの乱雑な打鍵音だけだった。
ミラの目の前のトレイには、ハイウェイの海から回収された時限タイマーの基盤が乗せられている。
クロエが無重力の隙を突いてむしり取った代物。
海水に漬かったダメージと爆風による熱はミラの手によってある程度修復されたものの、回路の深部に組み込まれていたデータ構造は、強固な自壊プログラムによってまるで針ネズミのように彼女の解析を拒んでいた。
「…くそっ。またダミーのルート」
ミラの口から苛立った声が漏れる。
彼女の細い指先が、怒りを堪えるようにピンセットを強く握りしめ、次いで傍らに置かれていた一メートルの特注定規の端を軽くデスクに叩きつけた。
コツッという乾いた音が、自身の不甲斐なさに対する苛立ちを静かに表していた。
クロエ達があそこまでの無茶をして回収したというのに、手がかりの糸口すら掴めない。
基盤の中身を探ろうと電流を流すたび、内部で張り巡らされた電子の迷路が行き止まりとなり、痕跡そのものを焼き切ろうとする。
ミラの高度な解析能力をもってしても、その遅延に頭を抱えざるを得なかった。
「随分と機嫌が悪そうですねぇ」
背後から声がした。
ドアが開く音も、足音すら聞こえなかった。
「…」
「やぁどうも」
ミラが忌々しそうに振り返ると、薄暗い部屋の入り口にベージュのトレンチコートを羽織ったクロエが寄りかかっていた。
その右手には、まだ湯気が立つ紙コップのコーヒーが二つ持たれている。
「ノックをしてから入るという初歩的な規律を、SRTの教範に記しておくべきですね」
「SRTはもう無いでしょう」
ミラの当たりは鋭かった。
普段から冷ややかな対応ではあるが、今日の彼女の口調には隠しきれない棘がある。
クロエは肩をすくめ、ヘラヘラと笑いながら歩み寄ってきた。
「私はもう、ヴァルキューレの一般刑事ですから。ほら、残業のお供ですよぉ」
紙コップがミラのデスクの端にそっと置かれた。
クロエは自身のコップに口をつけるが、ミラはコーヒーに一切の視線を向けず、再びモニターに向き直った。
「その差し入れも、あなたが時間を無駄にした分の埋め合わせですか」
「おや、随分と辛口だ。解析、上手くいっていないんですか?」
「…相手のプロトコルが異常なのです」
ミラは手元の定規で、モニターの回線図の赤いアラート部分を指し示した。
「社長室、動物愛護センター、そして先日のハイウェイ。一連の事件の爆弾、およびタイマーに仕掛けられていた罠…全てのトラップは、ある共通した明確な『癖』に呼応するように設計されていました」
ミラの冷たい声に、クロエの笑顔がわずかに崩れる。
クロエは何も答えず、黙って先を促した。
「分かりますよね、クロエさん。あの基盤の配置、回路をバイパスする際の人間の手首の可動域の制限。全てにおいて『ハサミという道具を用いた解体』、そして『導線を一つずつ追って処理する手腕』を持つ人間をターゲットに絞った
ミラの声の温度が下がる。
「この事件群は、偶然や行き当たりばったりのテロではありません。あなたの過去を知り尽くした者───『W.D.A』の残党が、あなたを確実に始末するためだけに用意した悪意です」
わかっている。
クロエ自身、ハイウェイの後部座席で回路を見た瞬間、肌が泡立つような嫌な気配を感じ取っていたのだ。
「……えぇ。随分と執着されているみたいで。人気者は困りますねぇ」
「茶化している場合ではありません」
ドンッ!
ミラが定規をデスクに強く叩きつけ、振り向いた。
その眼鏡の奥の瞳は、普段の理知的な静けさからかけ離れた怒りに満ちていた。
「私が言いたいのは敵のことではありません。今の『あなた』のことです!」
「私ですかぁ?」
クロエが僅かに首を傾げる。
ミラの苛立ちは、敵の手口ではなく、それを対処するクロエの行動に向けられていた。
「今回のハイウェイの一件。私が算出した記録から言わせてもらえば、あれは愚行を超えた愚行です」
「爆弾に水平センサーと遠隔タイマーが並列して仕掛けられていたとはいえ、過去の『カラス』であったあなたなら、三分間で基盤からメインケーブルを引っこ抜き、疑似信号を発信するバイパスへと強引に繋ぎ直して無力化できたはずです。その後にあの車両から爆弾を回収すれば済んだはずの案件だ」
ミラの声がラボの壁に反響する。
「それなのに、今のあなたはどうですか。部下に腕立て伏せのショックアブソーバーを強要させ、交通安全局を巻き込んだデスレースを引き起こし、挙句の果てに無重力ジャンプからの空中回収なんていう不確定要素にまみれた博打を選んだ」
ミラは詰め寄るように椅子から腰を浮かせ、クロエを鋭く睨んだ。
「何分残っていただろうと関係ない。わざと時間を引き伸ばして、一番危険なタイミングで針を通そうとするその姿。今のあなたはただの愉快犯にしか見えません。効率を尊び、無駄を完全に排除したあの完璧なCROW1の面影なんて微塵もない」
その鋭利すぎる正論の前に、クロエの口元から言葉が消えた。
普段であれば、理屈を捏ねて反論する彼女だが、かつてSRT時代に自分の後ろで解析を続けていたミラの目をごまかすことはできなかった。
当時のクロエの手法を誰よりも身近で計測し続けてきたミラにとって、今のクロエの仕事はあまりにも雑で、非合理で、リスクを背負いすぎていたからだ。
「ヴァルキューレに来て、少し感化されてしまったんじゃないですか」
「私のやり方は、私が決めますよぉ。ここはお上品な特殊部隊ではなく、泥臭い警察なんですから」
クロエは目を逸らし、カップの縁を指でなぞる。
飄々と装ったつもりだったが、その声のトーンには明らかに動揺の色が混じっていた。
自分が自分らしくあるために見つけたはずの今のスタイルを劣化と言い切られ、心が冷たく痛んだ。
SRTという鎖を捨てて野良犬になり、ヴァルキューレという新しい首輪を選んだのは自分の意志だ。そう割り切っているはずなのに、こうした後輩からの指摘は、クロエにとって針を刺されるような鋭さを持っていた。
「……後輩にそこまで言われると、流石の私も少しは凹みますねぇ」
軽口のつもりで返したが、ミラは乗らなかった。
「烏丸クロエ」
ミラの小さな、けれど刺すような冷たい言葉が突き刺さる。
「あなたは一体、何を恐れているのですか?」
「恐れる、とは?」
「今のあなたは、わざと面倒な状況を作り出し、無理難題を楽しむことで、過去の冷酷な自分自身と向き合うのを避けているように見えます。自分はもうカラスではない。陽気な煽り屋の刑事なのだと必死に言い聞かせるために」
ミラの瞳が、逃げようとするクロエの足元を縛り付けるように睨みつけていた。
彼女の言葉が、視線が、態度が、クロエの手札を縛ってゆく。
「過去に積み上げた『完璧なマニュアル』通りにやれば済むところを、わざわざ回りくどく派手な方法を取るのは、そのかつての自分の残像に追い詰められることを恐れているからですか。…それとも」
ミラは一度深呼吸をして、言葉を紡いだ。
「今あなたの周囲に降りかかっている、WDAによる『過去の怨霊』たちの殺意に対して…真正面からかつての自分を引っ張り出して戦い切るほどの自信がないからですか」
クロエの赤い瞳がわずかに揺らいだ。口はいつものように言い返す言葉を準備できず、ハサミの持ち手をきつく握りしめているだけだった。
「…ミラ」
ようやく発した声は、煽りの要素をすべて削ぎ落とされたか弱いものだった。
ミラは定規をデスクに置いた。先ほどのまでの激情が静まり、代わりに現れたのはどこか冷たく寂しげな表情だった。
「本当に、気をつけてください。今回は幸運が重なっただけで被害を出さずに済みました」
「ですが…WDAはあなたの新しい手法すらも計測し終えたはずです。相手が執念と知識を持ったかつての『敵』である以上、次に彼らがあなたを試すときには、今のままのあなたでは絶対に解決できない強固な悪意を送り込んでくるでしょう」
「その時に今のままの不恰好なやり方に固執すれば、傷つくのはあなただけではなくなる」
忠告。いや、警告だ。
ミラは再び視線をモニターに戻し、冷たくキーボードを叩き始めた。これ以上の会話は不要だと言わんばかりの拒絶だった。
クロエは口を開きかけたが、何かを反論しても言い訳になるだけだと思い、飲み込んだ。
「……えぇ。肝に銘じておきますよ。可愛い後輩のアドバイスですからね」
努めて平坦な声を作り、クロエは背を向けた。
自分がただハサミを楽しむふざけただけの番犬になりきれず、結局のところ中途半端な自分をごまかしているだけの状態に甘んじていたことに気づかされ、気恥ずかしさと居心地の悪さがこみ上げてきた。
足早に鑑識課のラボを退出していく。彼女が閉めたドアがカチリと音を立て、空間に静寂が戻った。
静かになった室内。
机の上にはクロエが置いていった、冷めかけたコーヒーが置かれたままになっている。
ミラはタイピングしていた手を止め、大きく息を吸い込んで、重いため息をついた。
手元のトレイに散乱している、焼け焦げたタイマー基盤の残骸を見つめる。
本来の自分であれば、ただの客観的な事実のみを突きつけ、個人の感情など交えずに報告を終えるのが職務であると理解している。
それなのに、今日の彼女はクロエに対してあまりにも強く踏み込んでしまった。
感情のままに声を張り上げ、残酷な言葉でかつての先輩の急所を的確に突いた。彼女にとって『計測結果に基づく否定』は、ある意味での最大の暴力だったのだ。
「…あぁ」
ミラはプラスチック製の定規を強く両手で握りしめ、冷たいデスクの上に突っ伏した。
「クロエ先輩…」
トリニティという平穏でおしとやかな場所から、才能を見込まれて過酷なSRTへ放り込まれた当時の彼女。
非力で訓練や作戦にも着いていけず、実戦部隊で足手まといになりかねなかったミラがそこで折れずに自分の場所を確保できたのは、他でもない『CROW小隊』の働きを目にしていたからだ。
暗く汚い泥の中に潜り、全ての障害を音もなく切り伏せる黒い外套の小隊長。
彼女は言葉も少なく、マスク越しにくぐもった声を出し、仲間を守るための最も効率的で無慈悲な解法を冷酷に実行していた。
それがどんなに忌避される汚れ仕事であっても、彼女が計算したルートに一ミリの狂いもなく、ミラの提示する数値を全て実地で具現化してくれるそのプロフェッショナリズムは、数字にしか頼れないミラにとって紛れもない絶対的真理だったのだ。
ミラはその精緻さに惹かれ、彼女に少しでも近づけるように全ての計測に魂を燃やした。
『おや、ミラではないですかぁ』
『あ…え…?クロエ…小隊長?』
『小隊長はもう辞めましたよぉ、今はしがない刑事です』
だが、ヴァルキューレの地にやってきて再会した彼女は違った。
コートをひるがえし、楽しそうに笑いながら被疑者を煽る女。
自分が何よりも大切にしてきた『最短ルートでの完遂』を放り投げ、わざわざ綱渡りを楽しむように非効率に爆発物を玩具にしてはぐらかす姿。
それがミラにはたまらなく苛立たしかった。
SRTが崩壊したせいで、あの完璧だった猟犬をただのおちゃらけた犬に変えてしまったのが許せなかった。
机に突っ伏したまま、彼女の眼鏡の下の目が少しだけ濡れる。
「私は、今の貴方を…かつてのCROW1とは認められない……」
彼女は小さく震える声で絞り出した。
過去の姿を取り戻してほしいわけではない。
だが、クロエ自身が自分自身に嘘をつきながら、迷ったまま傷を重ねていつか誰の目も届かない場所で砕け散ってしまうことを何よりも恐れていたのだ。
「貴方は、私の…」
「私の、憧れだったのだから…」
誰にも聞こえない独白は、実験室のモーター音にかき消されて虚空に消えた。
彼女の手元に残された定規の目盛りは、変わらず正しい数値を示し続けている。
しかし、人と人との感情の距離や、かつてのクロエが立っていたその姿までの隔たりを埋める式を、ミラは持ち合わせていなかった。
ラボの明かりはその後も絶えることなく点き続け、ミラの葛藤もまた、終わりなき電子の海へに沈められていくのだった。
憧れの先輩がヘラヘラしてるのは辛いよね
次回『断捨離出来ない爆弾』
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