烏丸クロエの切断論理   作:四条の利

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サザナ暗躍回


『仏』潮凪サザナ

 

かぽん。

 

D.U.自治区、東の外れにある高級料亭。

ここは一般人が寄り付くことすら叶わない会員制の施設である。

高い塀と黒塗りの門に守られた敷地の中には、手入れの行き届いた白砂の百鬼夜行風庭園が広がり、夜の暗闇に人工的なライトが浮かび上がっていた。

 

『フフフハハハ…』

 

その場所の一番奥にある離れの座敷。そこには部外者の立ち入りを固く禁じられた密談の場があった。

 

「おお、今宵の饗応も見事なものじゃないか」

 

畳の上に座布団を敷き、低い朱塗りの卓を囲むのは三人の大人達である。

一人はカイザーコーポレーションのフロント企業で不動産開発を取り仕切る恰幅の良い猫の獣人。

残る二人はブラックマーケットを根城にする無法者の顔役と傭兵部隊の隊長だった。

卓の上には舟盛りを筆頭とした美酒佳肴が並べられている。

 

「───例の区画の立ち退きの件だがね。住民たちの抵抗が想像以上に頑強なのだ、これ以上法的な手順を踏んでいてはスケジュールに遅れが生じかねない」

「心配するな。傘下のヤンチャ共に『夜鳴き』をさせりゃいいだけのことだ」

 

傭兵の隊長が下劣な笑いを漏らす。

 

「連中の寝床を鳴らし、大事なところにイタズラをしてやれば数日で根を上げる。文句がある奴は個別で拉致してサインさせるさ。ヴァルキューレの警ら隊など夜は機能していないも同然だ」

 

不動産の男は満足そうに頷き、自分の御猪口に酒を注いだ。

 

「ああ、それで構わん。多少の犠牲が出ようとカイザーの力でもみ消せるからな。それにどうせあの地区の連中は社会の底辺。立ち退かせた後の土地に新しい施設を建設した方が社会の為にもなるであろうよ!」

「ははは!おっしゃる通りですな!」

「ヴァルキューレの連中は表の治安維持で手一杯。路地裏で誰がどう消えようと奴らには手出しできやせん!」

 

無法者たちが杯をぶつけ合わせ、部屋には下品な高笑いが響き渡る。

弱者の悲鳴を肥やしにし、己の権力と欲望だけを満たすために集まった悪党たちの典型的な姿がそこにあった。

 

「その通りだ。現実というものは奪うか奪われるかしかない。我々は奪う側に立ったからこそ今の酒が美味い。ヴァルキューレの犬どもなど、金と権力の前では首輪をつけられたペットにすぎん」

「はははは!!」

 

『…私は助け合えば良いのにと考えてしまいますがね』

「?!」

 

突如、部屋の中に四人目の声が響いた。

落ち着きのある、凛とした低い声。

男たちは驚愕し、同時に手元の武器へ手を伸ばして声を上げた。

 

「誰だ!」

 

部屋の上座に位置する広縁。

月明かりだけが薄く差し込むその空間に、長身の少女が座っていた。

 

「子供だと…?」

 

漆黒のスーツを折目正しく着込み、腰まで伸びるまっすぐな黒髪を広縁に散らしている。

彼女の目は穏やかに閉じられているように細められ、手元には麻色の茶器が持たれていた。

 

ヴァルキューレ警察学校刑事局局長、潮凪サザナ。

彼女はまるで酒を煽るかのように茶をクイと飲み干し、静かにそれを床に置いた。

 

「悪くない場所だ。このような特等席で美味しいお茶が飲めるのなら、阿漕な商売というのも悪くないのでしょうか?」

「子供ごときが何を言うか…!」

「おや、ただの子供ではありませんよ」

 

彼女が懐から取り出したのは、ヴァルキューレ警察学校の校章が載った刑事手帳。

それを見た不動産の男が顔を青ざめさせながら後ずさる。

 

「貴様まさか…ヴァルキューレの『仏のサザナ』?!」

「おやご存知でしたか。それは話が早くて助かります」

 

サザナはゆっくりと立ち上がった。彼女の影が月明かりに長く伸びて男たちを威圧する。

傭兵隊長がアサルトライフルを構えて怒鳴った。

 

「なぜここが分かった!見張りはどうした!」

「全員廊下で眠ってもらっています。とても気持ちよさそうに眠っていましたが、ちゃんと休暇は取らせていますか?労働基準局は私達よりも怖いですよ?」

 

サザナの声には一切の緊張がなかった。ただ平坦に事実を並べていく。

 

「さて…街に住む罪もない住民を不当に追い出し、土地を不当に買い叩くその所業。そうして得た資金をガラの悪い者達へ還元しさらなる悪循環を生み出す悪質さ。到底許せるものではありません」

 

「ここに来る前のやり取りも含め、すべてこの部屋の会話とともに録音させて貰いました」

「尾けていたのか?!」

「それも刑事の仕事です」

 

サザナは懐から小型の録音機を取り出して軽く振ってみせる。

男たちは彼女によって退路を塞がれたことを理解し、表情を恐怖から激しい怒りへと変えた。

 

「そう怒らないでください。何も私はあなた達を糾弾したいわけではない」

 

サザナは極めて穏やかに語りかける。

その言葉の表面だけを切り取れば聖者の慈悲に聞こえるだろう。

 

「あなたたちが今まで違法に追い出してきた住民の方々への補償をしていただき、自首して法の下で罪を償うのなら…私も手荒な真似はしませんし、刑罰においても多少の慈悲を加えましょう」

 

「お互いの血を流さずに平和裏に事を終わらせる。それこそが最も効率的で平和的な解決というものではありませんか?」

 

だがその慈悲は同時に一切の反論を許さない要求であった。

これを受け入れない場合の選択肢を彼女ははっきりと語らない。

 

「貴様…!」

 

ただ底知れない静かな重圧だけが室内にのしかかる。

不動産の男は顔を真っ赤にして拳を握りしめ、横にいる隊長に叫んだ。

 

「ふざけるな!我々にはカイザーの後ろ盾がいるのだ!ヴァルキューレの一局長如き、その正義気取りの行動を狼藉に変えるなど造作でもない!心しておれ!」

「そうだ!お前一人で何ができる!ここは俺たちのテリトリーだぞ!」

 

傭兵の隊長は腕に巻かれた通信機に向かって怒鳴り声を上げた。

 

「曲者だ!さっさと集まれ!!」

 

彼らには金で雇った戦力が無数にある。

相手がたった一人であればいくら名の知れた刑事であろうと、恐れるに足りないと判断したようだ。

 

「何が仏だ!討たれてしまえばただのお陀仏よ!!」

 

不動産の叫びが夜の料亭に木霊する。

 

ドタドタドタ!!バァン!!

 

直後、建物の四方から凄まじい足音が鳴り響き、周りの襖や障子が一斉に蹴り破られた。

重装甲のオートマタと違法な武装に身を包んだの戦闘員たちが十数人規模でなだれ込んでくる。

全員がアサルトライフルや鈍器を構え、たった一人のサザナに殺意を向けていた。

 

男たちがその軍勢の壁の向こうに隠れるように後退し、狂気じみた笑い声を上げる。

 

「見たか!これが現実だ!貴様が録音を持っていようがここでハチの巣になれば終わりよ!」

「殺せ!その女をボロにして海に沈めてしまえ!」

 

絶体絶命の包囲網。

通常の警察官であれば交戦を諦め、退路を確保するために防御に回る場面である。

 

「…ふむ。その銃口をどうするつもりだ?」

「え」

「どうするのかと聞いている」

 

だが、サザナは逃げない。動じることもない。

彼女は来ていたスーツの上着を脱ぎ捨てると、ゆっくりと腕を前に出してワイシャツの袖をまくり上げ始めた。

細くしなやかな指先が布地を捉え、一切の無駄がない動作で二の腕のあたりまで均等に生地を折り曲げていく。

 

彼女の露出した白い腕には、太い血管と共に古傷がかすかに浮き上がっていた。

 

「答えを待つまでもないか…お前達は交渉を拒否した」

 

サザナの細められていた目が開かれた。

糸目の奥に隠されていた、一切の光を通さない深海のような濃紺の瞳が周囲を射抜く。

 

(…!この気迫…只者では無い…!)

(局長なんてカンナ以外お飾りじゃなかったのか?!)

 

その瞬間、室内の温度が急激に下がったように感じられた。

無数の銃口を向けられている側であるはずのサザナから、圧倒的で濃密な殺気が溢れ出し場を制圧していく。

 

「証拠は揃えた。その上で私の提案した慈悲を自ら足蹴にしたのであれば、もう何も譲歩する必要は無い」

 

彼女はスーツの下に手を伸ばし、内側に収めていた大型リボルバーを引き抜く。

彼女の愛銃『静謐な断罪』が月明かりを反射してギラリと鈍く黒光りする。

それは、無駄の装飾など全くない実践と破壊のための鉄塊。誰かいわく、つまらないアクセサリー。

 

「今は取調室も逮捕状も必要無い、ここで成敗してやろう!」

 

宣告が終わるが早いか、彼女の右腕から轟音が弾けた。

 

ド ォ ン!

 

狭い和室の空間を巨大なマグナム弾が切り裂く。

その一撃は完全に前列に立っていた装甲オートマタの肩部を正確に捉え、そのまま背後の壁にその身を叩きつけさせた。

衝撃波によって部屋の畳が波打ち、戦闘員たちの姿勢が僅かに崩れる。

 

「撃て!撃ち殺せ!」

 

リーダーの声に我に返った傭兵たちが一斉に引き金を引く。

狭い室内で無数の弾丸が飛び交い、壁や建具が木っ端微塵に粉砕されていく。

だがそこにサザナの姿はない。

 

「遅いよ」

 

彼女は長身からは想像もつかない俊敏さで体を沈め、死角となる低い位置から一瞬で敵の懐へと滑り込んでいた。

 

「ぐえっ!」

 

相手の腹部に膝を捩じ込み、体勢を崩した所に一発放つ。

 

「何を恐れている!相手は拳銃!手数の利はこちらにあるんだぞ!」

 

リボルバーは装弾数に限界があり、敵のアサルトライフルには連射速度威力ともに劣る。

しかし、放たれるその一発一発は、敵の武装に致命的なダメージを与え戦力を確実に削ってゆく。

彼女が死に物狂いで培ってきた動体視力と練度から来る、制圧の為の戦術だった。

 

「覚悟ぉ!」

 

敵の戦闘員の一人が背後から警棒を振りかざして襲いかかってきた。

サザナは振り返ることすらなく上半身を僅かにひねってその凶器を回避する。

 

「振りが遅い!」

 

そして相手の手首を下から掴むと、相手の力を利用して円を描くように重心を狂わせ床に倒す。

わずか数秒の動き、合気や柔術の技術を応用した美しい体術である。

サザナは戻った袖を優雅に直すと、遠心力によって倒れた戦闘員を蹴り上げ、そのまままるでボールでも扱うように前方の敵の群れに蹴り飛ばした。

 

「ギャァァっ!」

「なんだこいつ!弾が当たらないぞ!」

 

恐怖と混乱が室内に連鎖する。

狭い空間で数を頼みにするということは、それだけ射線を塞ぎ同志討ちのリスクを生む。

サザナはそこを上手く利用していた。

敵の弾道が重なる場所に誘導して敵同士の連携を崩れさせ、立ちすくんだ者からリボルバーと自慢の脚で正確に無力化していく。

 

ガチャン。カラカラ…!

 

撃ち尽くしたシリンダーをスナップを効かせて振り出し、空になった薬莢を外に弾き飛ばす。

 

「今だ!」

「甘いよ」

 

即座に流れるような手さばきで新しい弾薬をシリンダーに叩き込み、そのまま銃を構えて敵の指揮格を吹き飛ばした。

芸術的なまでの流麗な所作。弾込めという明確な隙でさえ彼女の前には存在しない。

 

「封鎖して押し潰せ!」

 

オートマタの生き残りが一斉に警棒を構え、質量を乗せて突進してくる。

それを避けて受けて、鮮やかに捌いたサザナは小さく鼻を鳴らした。

 

「この程度の物量で、私が倒せるとでも?せめて特殊部隊か化け物でも呼んできてもらわないとな」

 

サザナは相手の正面に立ち、突撃してくる相手に向かって手を伸ばした。

腕で直接受け止めるのではなく、手首の側面を警棒の側面に合わせて力をいなす。軌道を完全に逸らしながらオートマタの装甲の隙間に向けてゼロ距離で弾丸を放つ。

 

強烈な破砕音が至近距離で鳴り響き、耐えきれなかったオートマタがバランスを失って倒れ伏した。

 

彼女が最初の弾丸を放ってから、敵の数が半分以下になるまで五分もかかっていない。

十数人いたはずの武装集団の圧倒的な戦力は、たった一人の刑事の歴戦の立ち回りによってみるみるうちに切り崩され、今や残党が恐怖で逃げ惑うだけとなっていた。

 

不動産の社長と傭兵の頭領は壁際にへばりつきながらその凄惨なまでの美しい光景を絶望の目で見ていた。

弾丸は彼らにはかすりもしていない。サザナの標的は周囲の戦闘能力を持つ者たちだけに限定され、完璧にコントロールされているからだ。

彼らは気づく。自分たちは無傷で生かされているのではない。後からゆっくりと裁くために順番を後にされているだけだということを。

 

「ヒッ…化け物め!」

 

傭兵の隊長は悲鳴を上げ、脇差代わりに持っていた拳銃をめちゃくちゃに乱射し始めた。

 

弾丸の一発がスーツの袖をかすめ、わずかに生地が切り裂かれる。

サザナは眉一つ動かさず、ゆっくりと隊長のほうに振り向いた。

 

「無駄弾だね。感情のままに撃っても正確には当たらないだろうに」

「ひいっ!?」

 

サザナの最後の一発が男の手首を的確に弾いた。

拳銃が床に弾き飛ばされる音とともに男は膝をつき、右手を押さえて絶叫を上げた。

それを合図にするかのように最後の戦闘員たちが完全に戦意を喪失し、床にへたり込んだり外の庭へと蜘蛛の子を散らすように逃亡していった。

 

「…」

 

静寂が再び戻ってきた。遠くからはパトカーのサイレン音も聞こえてくる。

 

かつて料亭の一室だったその場所は柱が砕け床が焦げ、壁が蜂の巣という戦場の跡地と化している。

倒れ伏しうめき声を上げる兵隊の山。

サザナはその中心にただ一人無傷で立ち、スーツに付いたホコリを軽く払い落としていた。

 

「あ…あああ…」

 

不動産の男は完全に腰を抜かし、自身の手汗で床を汚しながらガタガタと震えている。

 

「さて、残りはお前達だけだ。これ以上の抵抗はお勧めしない」

 

サザナはシリンダーの熱を冷ますように銃を傾け、再び静かな所作でそれをコートの裏へと収めた。

開かれていた深海の瞳が再び細い糸目に変化する。極度の殺気を放っていた修羅の顔から、いつもの温厚な『仏の顔』へと一瞬にして戻っていた。

 

「ひぃっ」

 

その笑顔を見た男の顔は絶望に凍りつく。

その穏やかさが、ただのシステムとして相手を処理するための無機質な境界線にしか見えなかったからだ。

 

「さて…」

 

彼女の手がゆっくりと伸ばされる。

男は身を強ばらせるが、彼に届いたのは優しい声だった。

 

「…君に一つ、取引がある」

「と、取引…?」

「君が条件を飲めば、私もある程度口を噤むとしよう」

「待て…それはつまり…」

 

サザナの顔色がさらに変わる。

それは先程までの『修羅』や『仏』の顔ではなく。

 

一人の人間の顔をしていた。

 

「…カイザーインダストリーとのコネクションが欲しい」

「な。何を言っておるのだ…貴様は警察だろう?!そのような事をすれば……」

「………友のためだ」

 

サイレンの音が大きくなってゆく。

「…私はいつでも落ちる覚悟が出来ている。幸い、喉笛を喰い破ってくれる猟犬も飼っているのでね」

 

大通りの門を破壊し数台のパトカーが料亭の周囲と入口を包囲する。

ライトの眩しい光が庭を照らし出した。

事前にサザナが手配していた公安の増援であった。

 

「…承知した。部下に話をさせてくれたまえ」

「助かるよ」

 

そう言うと、サザナは証拠が詰まったボイスレコーダーを握りつぶし、庭の池に投げ捨てた。

 

「サザナ局長!到着しました!」

「ご苦労」

 

突入してきた公安局の生徒たちが部屋の有様に息を呑みながら、倒れている傭兵達に手錠をかけていく。

 

「あぁ彼はちょっと待ってくれ、さらなる証拠を出してもらうんだ」

「失礼しました!」

「中心被疑者は彼を含む三名、抵抗の意思はない。証拠は手元にあるからそのまま移送を。後の状況記録は全て私を通すよう伝えてくれ」

「はっ!」

 

ヴァルキューレの生徒達は敬礼し迅速に動き始めた。

 

「…私からと言えば通じるようにしてある」

「ありがとう」

 

男から名刺と連絡先を受け取り、サザナは彼に背を向けた。

 

「……難儀なものだな、警察というのも」

 

男が同情的な言葉を漏らすと、サザナの視線が彼を射抜いた。

暗がりの中で煌々と光るその目からは、一切の慈悲を感じさせなかった。

 

「言葉は選んで吐くものだ。己が罪人であることを自覚するんだな」

 

事後処理が粛々と行われる中、サザナは部屋を抜け、庭の枯山水へと出た。

月は夜空にぼんやりと浮かび、夜の風が熱を帯びた身体を冷ましていく。

 

「相変わらず無茶をされますね。カンナ局長がずっと心配していましたよ」

 

部隊の指揮を執っていた生徒が近寄ってくる。

サザナは空を見上げたまま、低い声を出した。

 

「君の手を煩わせるまでもないと伝えてくれ」

「そういう事ではないと思うのですが…」

 

サザナは自分の手元、捲り上げた袖口をじっと見つめる。

刻まれた古傷を撫でると、嫌な思い出が脳裏をよぎった。

 

「サザナ局長?」

「…いや、何でもない。少し昔の、酷い不手際を思い出していただけだ」

「不手際…ですか」

 

捲り上げていたワイシャツの袖を静かに下ろし、手首のボタンを留めた。

刻まれた古傷。それはかつて、己の甘さと中途半端な同情心が招いた、取り返しのつかない喪失の記憶であり、許されざる罪の烙印だった。

 

(…優しいだけでは、何も守れない)

 

ただ泣くことしかできなかった無力な自分。

身を呈して自分を庇い、沈んでいったあの人の背中。

 

(泥の上に咲く気高い花を支えるには、誰かがその泥の底深くへと潜り、泥そのものにならなければならない)

 

(次は、私が『蓮の花』になる時かな)

 

サザナは深呼吸をし、冷たい夜気を肺の奥まで吸い込んだ。

彼女が今夜、カイザーのフロント企業を相手に単独で立ち回り、あまつさえ法を捻じ曲げてまで「裏のパイプ」を繋いだのには、明確な理由がある。

 

「サザナ局長。差し出がましいようですが」

「なにかな」

 

傍らに立つ部下の生徒が、周囲を警戒しながら声を潜めた。

 

「最近、カンナ局長の様子が少しおかしいのです。連日徹夜が続いているのはいつものことですが…()()()からの不自然な通達が増えて以降、一人で何か重いものを抱え込んでいるようで」

「全体的な予算削減や、一部地区でのパトロールの意図的な縮小…現場の私たちにも、見えない圧力がかかっているのが分かります」

「…」

 

サザナは答えず、ただ静かに自らが踏んで崩してしまった枯山水を眺めていた。

 

(本当に素直だな。部下にもバレているじゃあないか)

 

連邦生徒会長の失踪後、キヴォトス全土を覆う不穏な空気。

例の条約が時効を迎え、新たな条約であるエデン条約に寄せられていた期待は儚くも夢と消えた。

そして防衛室の室長、不知火カヤの暗躍。

サザナの持つ刑事の嗅覚は、すでにその腐臭を正確に捉えていた。

ブラックマーケットに流入し始めている旧SRT特殊学園のハイエンドな装備品。それらを黙認する見返りとして、ヴァルキューレという組織そのものの存続を天秤にかけられていること。

カンナは今、ヴァルキューレの生徒たちを守るため、一人で泥を被り、防衛室の不正に加担するという「やってはならない取引」に手を染めつつある。

 

「カンナは盾だ。ヴァルキューレを外敵から守るためなら、自分の牙が折れても構わないと思っている」

 

サザナの呟きは、夜風に溶けるほど静かだった。

 

「ですが、それでは局長が…!」

「だからこそ、だ」

 

サザナが振り返る。

その顔には、一切の迷いも、罪悪感もない。あるのは冷徹な計算と、友への歪なほどの信頼だけだった。

 

「彼女が表舞台で巨大な理不尽の盾となるのなら、私はその裏側で、這いつくばってでもカードを集めなければならない」

「…?」

 

サザナがカイザーコーポレーションの裏ルートに接触したのは、防衛室の資金源や流通の別の顔を握るためだ。

カンナの取引が破綻した時、あるいはヴァルキューレが切り捨てられそうになった時。

その首根っこにカウンターの刃を突きつけるための「毒」を、刑事局長という立場を利用して密かに飲み込んでいるのだ。

 

最悪の場合。

ヴァルキューレの不正の全てを『潮凪サザナ個人の汚職』として背負い込み、深海へと沈む準備すら、彼女は既に終えている。

 

「私達は刑事だ。事件が起きた後にしか動けない。だが、事後処理の準備くらいは事前にしておかないとな」

「局長、それは、あまりにも……」

 

部下は言葉を失った。

仏と呼ばれるこの人の背負おうとしているものが、あまりにも重すぎることに気づいたからだ。

 

「心配は無用だよ」

 

サザナはフッと表情を緩め、いつもの穏やかな笑顔に戻った。

 

「私が完全に道を外れ、本物の化け物に成り下がった時は…私の喉元を正確に噛み千切ってくれる、優秀な犬たちがいるからね」

 

「もし私が戻らなくなったら、あいつにはよろしく伝えてくれ」

 

サザナはそれ以上語らず、夜の闇に沈む料亭の出口へと歩き出した。

法を守る者が、法を破る。

正義の組織を守るために、絶対の不正を働く。

 

「…と、この話はオフレコで頼むよ」

 

その矛盾をすべて飲み込んだ『仏』は、誰にも気付かれぬまま、来るべき動乱に向けて、静かに断罪の牙を研ぎ続けていた。

 





この人もまた、異常者である。

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  • まだ見ぬオリキャラ
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