クロエのルーツの話。
特別な血筋…実験動物…どこかで聞いたことあるな〜?
ダン!ダァン!
放課後の校舎。
オレンジ色に染まった夕陽が差し込む空き教室に、乾いた打撃音が響いていた。
「はぁッ!」
「チッ!」
七度ユキノの鋭い上段蹴りを、烏丸クロエが両腕を交差させてギリギリで受け止める。
「はっ!」
そのままクロエが足払いを仕掛けるが、ユキノは軽やかに跳躍して回避し、クロエの胸元へと踏み込んで拳を止めた。
勝敗は明らかかと思われたが、クロエの手元もユキノの首の前で手刀の形を作って静止していた。
「ここまでだな」
「えぇ、これ以上は、骨が折れます。物理的に、私の骨が」
二人は同時に構えを解き、距離を取った。
先の演習から数日後。
ユキノからの申し出で始まった、一対一の「手合わせ」
武器を持たない純粋な近接格闘だったが、互いに一歩も引かない熱を帯びていた。
「ゼー、ハー」
「…フゥ」
ただし、実力差はハッキリとしている。息の上がり方に明らかな差があった。
「先の演習でも感じていたが、近接戦闘に不安があるようだな」
「ハァ…ハァ…そもそも一般上がりの裏方なんですよこちらは、レンジャー上がりのあなた方に食らいついているだけ賞賛されるべきなのでは?」
「そうだな、素晴らしいことだと思う」
「なんなんですかあなたは!」
ユキノは壁際に寄りかかり、汗を拭う。
クロエもまた、窓際のホコリを被った机の上に腰掛け、首を抑えて荒い呼吸を整えた。
沈黙の中、夕暮れの教室に風が吹き込む。
ユキノは窓際で影のように座るクロエを見つめ、ずっと胸の奥に抱えていた疑問を口にした。
「……烏丸。君はなぜ、そこまで自分を追い込むんだ?」
「はぁ?」
クロエが怪訝そうに首を傾げる。
「演習の時もそうだ。君たちCROW小隊は、互いを信じず、ただ己の技術のみを絶対としている。だが…それでも最終的に君が、他の二人の無軌道な作戦の『泥』を一人で引き受け、強引に線を繋いでみせた」
エリートであるユキノから見れば、クロエの在り方は異端そのものだった。
自己犠牲というよりは、強迫観念。
すべての不確定要素を自分の手で処理しなければ気が済まないような、異常な執着。
「君の原動力はなんだ。君の『正義』とは、何なんだ?」
「正義ですか…はは、随分とよく見られているようですね」
ユキノの真っ直ぐすぎる問いかけに、クロエは少しだけ呆れたように目を伏せた。
『正義』という、SRTにおいて最も神聖視される言葉。
しかしクロエにとってそれは、酷く滑稽で遠いものだった。
「私の原動力が知りたい、ですか」
クロエは窓枠に寄りかかり、カサカサに掠れた声で静かに語り始めた。
「では…」
「とある少女の、話をしましょうか」
「君のことか?」
ガタンッ!!
ユキノのあまりにも素直で淀みないツッコミが、空き教室に響いた。
思わずコケて椅子から落ちそうになったクロエの顔から、微かなアンニュイな雰囲気が綺麗さっぱり吹き飛ぶ。
「…あのですね。私がわざわざ『とある少女』ってぼかして言っているんですから、そこは空気を読んで黙って聞くのが……」
「しかし、文脈からしてどう考えても君自身の経験談だろう。ならば最初から『私の話だが』と前置きした方が、報告のフローとしては正確だ」
「報告のフロー!?今そういう事務的な話ではなくてですねェ?!」
クロエはバンと机を強く叩き、苛立たしげに声を荒らげた。
「とある少女のぉ!」
「話をォ !」
「しまァす!!」
「…すまない」
ユキノが神妙に頷く。
「はぁ〜…ド真面目なのは短所にもなり得ますよ」
クロエは深くため息をつき、頭を抱えながら気を取り直した。
(優等生はこれだからやりづらい…)
「…その少女は、生まれながらにして特別な『血筋』を持っていました」
クロエの赤い瞳が、夕陽の逆光の中で暗く沈む。
「王冠だけが立派で、中身は何もない。ただ血が特別だというだけで、少女は光の届かない深い地下の『箱』に閉じ込められていました」
ただ、そこに在ったのは『実験動物』としての虚無の日々。
「彼女には『特別』という冠しかありませんでした。大人の都合で生かされ、誰かの都合の良い事を教え込まれ…そしてある日、突然こう言われたんです」
クロエは自嘲気味に口角を歪めた。
「『あなたにはもう、何の価値もありません』と。用済みとして、外の世界へ放り出されたんです」
ユキノは黙って耳を傾けていた。
特別な存在として隔離され、そして理由も分からず捨てられた子供。
「私が…いえ、その『少女』が無用の長物となり、外へ放たれた時。初めて知った感情があります」
クロエは自身の手を見つめた。
薬品で荒れた皮膚。工具を握っているうちに硬くなった指先。
「それは悲しみでも、解放感でもありません」
「『未知』に対する、圧倒的な恐怖です」
箱の中では、全てが決まっていた。
閉じられている代わりに、明日何が起きるかは計算できた。
しかし外の世界は違う。
雨が降る。人が行き交う。誰も自分を知らない、自分も誰も知らない。悪意がどこから飛んでくるか分からない。
予測不能なノイズで満ち溢れる『世界』という存在が、空っぽだった彼女を底知れぬ恐怖で押し潰した。
「彼女にはもう何もなかった。だからこそ、その『恐怖』だけが彼女を突き動かす唯一の燃料になりました」
「未知が怖いなら、全てを理解すればいい。不確定なノイズが怖いなら、構造を解析して、解体して、自分が理解できる
クロエはふっと笑った。
「だから放浪して路地裏で生きるのなんて、実は大して苦じゃなかったんですよ。
クロエは顔を上げ、ユキノを真っ直ぐに見据えた。
「それが、私の原動力のすべてです」
「誰かを守るためでも、平和のためでもない。ただ自分が『未知』に殺されないために、世界の配線を全て自分のロジックで掌握し、恐怖を断ち切りたいだけ」
「どうです?呆れたでしょう?正義のエリート様から見れば、ひどく利己的で、惨めなエゴイズムですよ」
クロエは話を終え、窓から顔を背けた。
自分の根底にある、醜いほどの執着と恐怖。それを明かしてしまったことへの微かな後悔が、彼女の喉をさらに乾かせた。
「…」
沈黙が降りる。
ユキノは壁から背中を離し、ゆっくりとクロエの前に歩み寄った。
「…烏丸」
蔑まれるか、あるいは同情されるか。
クロエが身構えた、その時だった。
「君の根源がエゴイズムだと言うなら、それでも構わない」
ユキノの声には、一切の迷いがなかった。
ただ真っ直ぐに、透き通るような瞳でクロエを映し出していた。
「だが、君のやっている事が、結果として誰かの為になっているのなら。それは『正義』だと私は思う」
「……え?」
クロエは虚を突かれ、目を見開いた。
「君は、自分の恐怖を払拭するために計算していると言った。だが、前回の演習で君が一人で泥を被ったのは…味方の行動を肯定するためだったはずだ」
「動機が何であれ、君の行動は他者を救い任務を完遂させるだろう。ならば、君は立派なSRTの生徒だと思う」
ユキノは真面目な顔のまま、クロエに向かって手を差し出した。
「私は、君のその力を信頼する」
「…」
クロエは差し出された手と、ユキノの顔を交互に見た。
この女は、本物の馬鹿だ。
裏の世界の薄汚さも、人間の底なしの悪意も知らない、純粋培養のエリート。
だが、その「馬鹿げたほどの真っ直ぐさ」が、なぜか今のクロエには、ひどく眩しく感じられた。
「……はぁー」
クロエは深く息を吐き、首を撫でた。
「本当に頭の固い人ですね、貴女は」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「褒め言葉にするつもりでしたが、謙虚でないやつにそうしたくはありません」
クロエは差し出された手を取ることはしなかった。
ただその代わり、机からサッと降りてユキノの隣に並び立った。
「私のロジックに貴女を組み込むのは、骨が折れそうですが。まあ、たまの『手合わせ』くらいなら付き合ってあげてもいいですよ」
「ああ。頼む」
夕陽が沈みかける旧校舎。
光の世界で正義を掲げるFOX小隊と、闇の世界で恐怖を切り刻むCROW小隊。
交わるはずのなかった二つの軌道が並んだ、ほんの短い期間の、奇妙で不器用な友情が芽吹いた瞬間だった。
「そうだ、あなたにモヤモヤを抱えさせてみたいので、もう一つ教えてあげますが、私の烏丸って苗字は偽物なんですよ」
「本来の苗字は?」
「さぁ?私がいた場所の人しか知らないでしょうね、聞く前に捨てられたので」
「そうか……今の苗字は誰が?」
「お世話になった人達です。裏路地のろくでなし共でしたが、本当に良くしてくれました」
「……その苗字を誇りに思うか?」
「…そういう方に行きますか……えぇ、思いますよ。大切な苗字です」
「そうか、烏丸」
「…呼んだって喜びませんよ子供じゃないんですから」
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