群雄割拠の時代に、カラス達はどう飛ぶのか。
冷たい雨が、D.U.地区の裏路地を黒く染め上げていた。
アスファルトを叩く無数の水滴の音が、周囲のあらゆる生活音をマスキングしていく。
(…チッ。雨は嫌いです。音を誤魔化せるのは利点ですが、機材が湿気る)
SRT特殊学園一年生の烏丸クロエは、深く被った黒いマントのフードの奥で小さく舌打ちをした。
彼女は今、単独での潜入調査を終え指定の合流ポイントへと向かっている最中だった。
彼女の首元には痛々しい白い包帯が巻かれている。
先日の潜入任務の際、プラントの排煙を直に吸ってしまい喉を火傷してしまったのだ。
カサカサに掠れた呼吸を繰り返しながら暗がりを滑るように歩く。
(気分が悪い)
最近のクロエの心情は、この雨空のようにひどく澱んでいた。
彼女の記憶は、しばらく前の教官との模擬戦へと遡る。
『…ぜ、ぜぇ、はぁ……っ』
演習場の床に倒れ伏したまま、クロエは荒い息を吐いていた。
全身が泥とペイント弾の塗料で汚し、プライドはズタズタに引き裂かれている。
顔半分を染められたチドリもまた、自慢の端末を傍らに放り出し悔しそうに唇を噛み締めており、ヒタキは完全に心が折れたのか、壁の隅で膝を抱えぐずぐずと泣いていた。
惨敗ところではないレベルの惨敗。
クロエのロジックは道端の虫の如く踏み潰され、チドリの妨害はちり紙のように破り捨てられ、ヒタキは抵抗虚しく取り押さえられた。
教官は息一つ乱すことなく、三人の前に立っていた。
『お前たちの連携は確かに向上している。個々の技術も申し分ない』
教官の声には怒りも嘲笑もなかった。
ただ純粋な、事実の分析のみ。
『烏丸、お前のトラップ配置の論理は芸術的だ。喜瀬川、お前のタイムライン管理は精密機械のようだった。何羽、お前のカバーリングは前衛と後衛を補う素晴らしい働きだった』
『…だったら、どうして』
クロエが顔を上げ、憎々しげに教官を睨む。
『なぜ、私たちのロジックが通用しなかったんですか。全て計算通りに動いていたはずです』
『論理を破壊するのは、圧倒的な『速度』だ』
教官は静かに告げた。
『お前たちが「敵はここを通る」「ここで罠にかかる」と理論を組み立てている間に、私は既にその数手先にいる。お前たちの論理の構築速度は、私の行動速度に追いつけていない』
『冗談じゃない…そんなの極論です、理不尽ですよ』
『…あたしの計算が遅いって言うの?』
クロエが異議を唱え、チドリが信じられないというように呟く。
『そうだ。そこらの雑兵や同格相手ならお前たちの戦術は完璧に機能するだろう。だが格上との戦いとなると、お前たちの論理は遅すぎる』
『自分で格上と言うんですか…』
『実力差をそれ以外どう表せばいい?』
『…』
教官は三人を見渡し、少しだけ口角を上げた。
『お前たちを貶している訳じゃない、格上は理不尽そのもの。これは決定的な事実だ。我々SRTはそれと戦っていく必要がある』
『その差を埋めたいのなら、その小賢しい頭をフル回転させて、今の10倍…いや30倍の速度で論理を組み立てられるようにしろ。状況の変化に一瞬で対応し、予定されたタイムラインを躊躇なく破棄して再構築する決断力を持て」
『英雄を抱え、黄金期を迎えたトリニティ、それに対抗する雷帝のゲヘナ、調和を掲げ争いから離れたミレニアム…それだけじゃない、
教官の言葉は厳しかったが、そこには確かな後輩への期待と導きが含まれていた。
『頑張れ。一年生と三年生の差は、お前たちが思っている以上に深く、大きいぞ』
教官が踵を返し、演習場から出ていく。
残された三人は、しばらくの間、無言で床に座り込んでいた。
「……頑張ろうね、二人とも」
「…当然です」
「…うん」
自分の完璧であるはずの計算が、格上の速度の前にあっけなく瓦解したという現実。
あの模擬戦を超えてもなお、先は遥か遠くであった。
『お前たちの論理は遅すぎる』という言葉が、呪いのように耳にこびりついている。
教官としては奮起する為に言ったのだろうが、今のクロエには逆効果であった。
(…私は、間違っているのでしょうか?すべてを一人で抱え込み、他者をノイズとして切り捨てる私のやり方は)
三人で共に歩む道は見つけたのだ。
自分は小隊長だ。
迷い、折れかけても、それでも前に進むしかない。
未知に怯える自分が生き残るためには、ただ愚直に自分のロジックを磨き続けるしか道はないのだろうか。
そんな思考の沼に沈んでいた彼女の耳に、雨音とは違う不規則なノイズが飛び込んできた。
「…うぅ…ひぐっ……」
路地の片隅。
廃棄されたダンボールの山の陰で、一人の少女が膝を抱えて蹲っていた。
「…」
クロエは足を止め、フードの隙間からその姿を観察した。 スーツ姿だが、胸元に着けている無線機の校章からヴァルキューレ警察学校の生徒であることがわかる。
彼女は長い黒髪を雨に濡らし、顔を膝に押し付けて子供のように泣きじゃくっている。
近くには、犯人を捕縛するための手錠が使われないまま水たまりに落ちていた。
(…チッ)
本来なら、クロエは他校の生徒に関わることなどしない。ましてや作戦行動中だ。無視して通り過ぎるのが最適解である。
だが、その少女の泣き声があまりにも情けなく、そしてどこか…今の『自分自身の不甲斐なさ』を鏡で見せられているような気がしてしまい、クロエは無意識のうちに歩みを止めていた。
「五月蝿いですね。私の計算が狂います」
掠れた声が路地に響く。
少女はビクッと肩を震わせ、涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「ひっ?!だ、誰!?」
「ただの通りすがりです。ヴァルキューレのおまわりさんが、こんな掃き溜めで何を泣いているんですか」
クロエの言葉に少女は再び顔を歪め、弱々しく口を開いた。
「…逃がして、しまったんです」
「犯人を?」
「はい……彼が、どうしても家族のためにお金が必要だったと泣くから…一瞬だけ、手錠をかけるのを躊躇ってしまって。その隙に、突き飛ばされて…」
少女は両手で顔を覆った。
「先輩たちには怒られて置いていかれて…私は、いつもそうです。犯人に感情移入して、すぐに泣いてしまって…警察に、全然向いてない……!」
自己嫌悪と後悔の塊。
どうしようもない落ちこぼれの姿がそこにあった。
「馬鹿ですね。同情で正義を曲げるなら、警察のバッジなど外してしまいなさい」
クロエは冷たく言い放つ。
「うぅ…わかっています…私が、弱いから…」
「ええ、あなたは弱いですよ。ですが」
クロエは、マントの奥から自身の片手を取り出した。
黒い手袋に包まれたその手を、少女の目の前に差し出す。
「私も、弱いです」
「え…?」
「私は知りえない事がが怖い。予測できない事態が恐ろしい。他人に裏切られるのも、自分が間違えるのも怖い」
クロエの赤い瞳が、フードの奥で暗く揺らいでいる。
それはエリート校の生徒とは思えないほどの、恐怖の吐露だった。
「だから、計算するんです。すべての結果を自分の手のひらの上に収めるために、何百回、何千回とロジックを組み立てる。…それでも、格の違う暴力や、不確定なノイズの前に、私の理論はいとも簡単に砕け散ります」
クロエは自嘲するように口角を上げた。
「私は先日、自分の無力さを思い知らされました…でも、泣きはしませんよ」
「う…」
「手放すな、向き合え」
クロエはしゃがみ込み、水たまりに落ちていた手錠を拾い上げ、少女の泥だらけの手に無理やり握らせた。
「理想と現実の合間なんて、自分の手でなんとか掻き分けて進むしかないんです」
「貴女がそこで泣いている数秒の間に、世界は数手先へ進んでしまいます。犯人は遠くへ逃げ、貴女の先輩たちは新しい事件に直面している。泣いて解決するなら、私もとっくに声を上げて泣いていますよ」
「!」
少女は手錠の冷たい金属の感触と、目の前の黒衣の少女の言葉にハッと息を呑んだ。
強くて冷酷そうに見えるこの幽霊のような少女もまた、自分と同じように迷い、傷つき、それでも這いつくばって足掻いているのだと、その瞳が雄弁に語っていたからだ。
「立てますかおまわりさん。雨で風邪を引けば、明日救える人が救えなくなってしまいますよ」
クロエはそれだけ言うと、立ち上がって踵を返した。
これ以上の干渉は不要だ。これ以上は自分すらも許してしまう「甘さ」になってしまう。
「あ…あのっ!」
少女が、震える声で背中に呼びかけた。
「あ、ありがとうございますっ…!私、もう少しだけ、足掻いてみます。自分の、弱さに負けないように!」
「…ご勝手にどうぞ」
クロエは振り返らなかった。
ただ、フードの奥でほんの少しだけ、口元を緩めた。
「あなたはっ…あなたのお名前は?!」
「………秘密です。せいぜい頑張りなさい」
黒いマントが路地裏の角を曲がり、闇の中へと溶けていく。
残された少女は手錠を強く握り締め、袖で顔の泥と涙を乱暴に拭い去った。
その目には先程までの絶望ではなく…微かな、しかし確かな光が宿っていた。
その時、少女の胸元につけられた無線機から厳しい怒声が飛び込んできた。
「うゎっ?!」
『───オイ!どこで油を売ってやがるサザナ!!!』
少女───潮凪サザナは無線のボタンを押し、まだ少し鼻声の混じった声で返答した。
「す、すみません!リアレ局長!すぐに向かいます!」
『まーたベソかいてたのかお前は!色直しは一分で済ませろ!現場は待ってくれねぇぞ!』
「一分もいりません!」
サザナは立ち上がり、黒衣の少女が消えた暗がりを一度だけ見つめた。
雨の中を一人で歩いていく、傷だらけの気高い烏。
(私もいつか。あんな風に、迷いなく暗闇を歩ける強さが欲しい)
彼女は踵を返し、降りしきる雨の中を自分の戦場へと向かって走り出した。
二人の少女がまだ互いの名前も知らず、交わることもない平行線を歩んでいた頃。
泥の中に落ちた涙が、いつか揺るぎない『仏』となるための、名もなき雨の日の記憶だった。
「ぶしゅん!!」
「あらクロエ、風邪?おくちゅり飲ませてあげよっか?」
「クロエ、そのくしゃみの仕方、血管に悪いから直した方がいいよ」
「うるさいですよ…」
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