アッシュリア王国。またの名を「旧大灰帝国」
この世界は、三つの空に浮かぶ島々によって構成されている。
最上層に位置する上層大陸は、太陽に最も近く、人口と技術が集中した世界の中枢だ。
巨大都市と工業地帯、飛行艦航路が張り巡らされ、文明はここで最も洗練されている。
その下に広がる中層大陸は、多様な生命の宝庫である。
大型肉食昆虫や浮遊生物、未知の生態系がひしめき合い、人類の文明圏と自然が、いまだ拮抗を保つ領域だ。
そして最下層に位置する下層大陸。
過酷な自然環境と、「旧文明」と呼ばれる過去の遺物が眠る場所であり、自立兵器群が今なお徘徊している。
武装なしでの生存は不可能とされるが、それでも考古学者や技術者たちは、失われた叡智を求め、この地へと向かう。
アッシュリア王国は、その上層大陸に位置する国家である。
かつて、世界には巨大な一つの連合国家が存在していた。
旧アッシュリア大灰帝国は、その中核を担う国家の一つだったが、ある時代を境に衰退し、栄光ある「帝国」の名を失った。
今では「王国」として、辛うじてその系譜を保っているに過ぎない。
アッシュリアは再び、かつての権威を取り戻すことができるのだろうか。
-------------------------
時は、天空歴三百二十年。
科学者ヴェルナー・アルゲンフルトが浮遊機関を発明してから、三世紀以上が経過した現在、世界は大きな変動期に差し掛かっていた。
ここ、アッシュリア王国も例外ではない。
街路に点在する無数の蒸気バルブを中心に工場は稼働し、飛行艦は空を行き交い、都市は一日として止まることなく回り続けている。
フォン・バルツは、王国技術省に所属する一人の技術士官だった。
王国の朝は早い。
上層大陸が誇る発明品の一つ、回廊型演算機――通称「蒸気脳」によって生活は以前より整えられてはいる。
それでも、起床直後の身体にとって、蒸気弁から噴き出す轟音や、街中で唸りを上げる巨大ゼンマイの振動は、些か騒々しすぎた。
ちょうどその時、首都でもひときわ存在感を放つ王国最古の大時計、
《グラウ=クロノス塔》が白煙を吐き出しながら、重々しく朝六時を告げる。
真鍮と鋼鉄で組み上げられたその塔は、時を刻む装置であると同時に、この国の象徴でもあった。
時計塔の低い音が街に染み渡る頃、フォンも外套を羽織って家を出た。
通りにはすでに人の流れが生まれている。
路面蒸気電車、浮遊自転車、作業着姿の工員、帳簿を抱えた商人、黒い制服に身を包んだ王国官吏たち。
誰もが同じ方向へ歩きながら、誰一人として急いではいない。
だが、立ち止まる者もいなかった。
道沿いの建物に目を向ければ、壁という壁に太い蒸気管が這っている。
一定間隔で設けられたバルブが、シュッ、シュッと乾いた音を立てて蒸気を逃がし、白煙が朝の冷たい空気に溶けていく。
この音は、もはや生活の一部だった。
聞こえない日があれば、かえって落ち着かなくなるほどに。
そうして歩くうち、目的地が見えてくる。
王国技術省。
王城の外郭に沿うように建てられた、横に長い石造りの建物だ。
装飾は最小限に抑えられ、実用性だけを突き詰めたその姿は、豆腐のように無骨だった。
門をくぐると、受付に設置された小型蒸気脳と回転式認証機が、フォンの身分票を読み取る。
軽い蒸気音とともに、通行許可が下りた。
「おはようございます」
「おはよう」
形式的な挨拶を交わしながら、フォンは廊下を進む。
天井には小型の蒸気灯が整然と並び、床下からはかすかな振動が伝わってくる。
地下には、都市全体の蒸気圧を調整する補助機関室が設けられているためだ。
彼の配属先は、都市蒸気管理課・第三監査班。
街区ごとの蒸気使用量を監査し、異常値が出た際には現地へ向かう。
派手さはないが、都市の運営に欠かせない部署だった。
机に着くと、すでに今日の帳票が積まれている。
フォンは歯車式計算機に紙を差し込み、数値を一つずつ確認していった。
「……南第五街区、消費量は微増。工場の稼働増か」
独り言のように呟く。
珍しい話ではなかった。
浮遊機関の発明以降、世界は産業革命の時代を迎えた。
資本主義家たちはこぞって機械を導入し、中層や下層から得た安価な素材を加工し、
低賃金で雇われた女子供の労働力によって、膨大な工業製品を生み出している。
より多くの利益を求め、工場の稼働を増やすのは自然な流れだった。
午前中は、そんな帳票を相手にする時間が続く。
ふと窓の外に目を向けると、一隻の飛行艦がゆっくりと空を横切っていくのが見えた。
腹部に巨大な蒸気袋を備えた、王国標準型の輸送艦だ。
浮遊機関の詳しい仕組みは、フォンにも完全には理解できていない。
偏向作用と呼ばれる現象によって、特殊な物質を循環させることで空を飛び続けている――
少なくとも、昔読んだ本にはそう記されていた。
飛行艦の影が窓を横切った、その瞬間だった。
背後で、椅子を蹴る乾いた音が響く。
「おい、フォン。今の、見たか?」
声をかけてきたのは、同じ第三監査班のカールだ。
年は私より少し上。現場叩き上げの技術士官で、口は悪いが仕事は早い。
「たかだか輸送艦だろ。朝から騒ぐほどのものじゃない」
私は帳票から目を離さず、そう返した。
「いやいや、よく見てみろって」
カールは立ち上がり、顎で窓の外を示す。
「あの背部だ。増設された蒸気タンク……ありゃ、昨日まで港にいなかった型だろ。
王国標準仕様じゃない」
「……新型、か」
ようやく顔を上げ、窓の向こうを一瞥する。
確かに、腹部の蒸気袋とは別に、背中側に不自然な膨らみがある。
補助浮遊用か、あるいは長距離輸送向けか――判別はつかない。
カールは顎で窓の外を指した。
「最近多くないか? ああいうの」
フォンは彼に視線を向けることなく、「多いな」とだけ答える。
帳票から目を離さぬまま、淡々と続けた。
「物資の流れも、人の移動も増え始めている。
各地の蒸気量も上昇傾向だ。――悪い話じゃない」
「へえ」
カールは口の端を吊り上げる。
「じゃあ、お前がずっと言ってる『かつての帝国』が戻るってのも、現実味を帯びてきたってわけか?」
皮肉を含んだ笑いを浮かべ、彼は肩をすくめた。
「その割には、予算は増えねえし、使用可能な蒸気圧の余裕も削られてるけどな」
フォンはわずかに眉をひそめる。
「現場の話と、上の話は別だ」
「知ってるよ」
カールはそれ以上踏み込まず、机に腰掛けると話題を切り替えた。
「で、南第五街区の数字はどうだった?」
フォンは帳票を横目で確認しながら答える。
「微増だ。工場が一つ、フル稼働に入ったらしい」
「また兵器関係か?」
「さあな」
フォンは肩をすくめる。
「書類上は“重工部品”だ」
その言葉に、カールは鼻で笑った。
「便利な言い方だよな。
歯車一個でも、砲身一本でも、“重工部品”って書いときゃ全部通る」
フォンは何も返さなかった。
否定も肯定も、この場でする意味はない――そう判断したのだろう。
その時、奥の扉が開き、廊下に革靴の音が響いた。
「第三監査班、全員いるわね」
低く、よく通る声だった。
振り向いた二人の視線の先には、黒い制服に身を包んだ女性が立っている。
「アイリス主任……」
カールが即座に姿勢を正す。
「南区の蒸気圧調整で、現地確認が必要になったわ。
フォン・バルツ、あなた同行しなさい」
突然名を呼ばれ、フォンは思わず間の抜けた声を上げた。
「……私が、ですか?」
「ええ。あなたの仕事ぶりは評価しているわ」
そう言って、アイリスはフォンをまっすぐに見据える。
「現場を知るのも、技術士官の仕事よ」
横で、カールが小声で囁く。
「お、昇進コースじゃねえか。おめでとさん」
フォンは鬱陶しそうに視線を逸らす。
「では、準備ができ次第、来なさい」
それだけを告げ、アイリスは踵を返した。
⸻
「じゃ、行ってくる」
「生きて帰ってこいよ」
カールは軽い調子で言ったが、その目は笑っていない。
「最近、街のバルブは機嫌が悪い。
下手すりゃ、まとめて吹っ飛ばされるぞ」
「笑えない冗談だ」
フォンはそう返しながら、工具鞄を肩に掛けた。
それでも――胸の奥に、わずかな高揚が生まれているのを否定できなかった。
机の上で数字を追い続ける日々よりも、
油の匂いと熱を帯びた蒸気に包まれる現場のほうが、彼には性に合っている。
危険で、汚れていて、予測不能だ。
だが、そこには確かに“生きている機械”があり、
帝国の残滓ではない、今この瞬間のアッシュリアがあった。
フォンは振り返らずに歩き出す。
背後で、蒸気管が低く唸る音が鳴り続けていた。