ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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針の筵の上で

 

 その夜は、気づけば随分と遅くなっていた。

 

 時計の針はとうに日付を跨ぎ、外は完全な闇に沈んでいる。

 この時間から自室に戻るのも現実的ではなく、セイア様の提案でそのまま彼女の自宅に泊まることになった。

 

 客室は驚くほど整っていて、必要最低限の温もりだけがあった。

 余計な装飾はなく、静かで、落ち着く空間。

 

 ――まるで、彼女自身の在り方を写したような部屋だった。

 

 ベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。

 天井を見つめながら、昨日の出来事が何度も頭をよぎる。

 

 首に掛けた、この手。

 泣き崩れた自分。

 それでも、赦すと宣言した声。

 

 思い出すたび、胸の奥がきしむ。

 

 ……それでも。

 

 朝は、確かにやって来た。

 

 

 ◇

 

 

「おはよう、黒夜。よく眠れたかい?」

 

 朝の光の中で、セイア様はいつもと変わらない穏やかな声でそう言った。

 昨日の出来事が夢だったのではないかと思ってしまうほど、自然な態度だった。

 

「おはようございます。セイア様

 ……はい。お陰様で、重ね重ねお世話になりました」

 

「気にしなくていいよ。今日は一緒に行くとしようか」

 

 その言葉に、胸が温かくなる。

 

「よろこんで、お供させて頂きます」

 

 一緒に、登校する。

 それがどれほど普通で、どれほど救いだったかを、私は知っている。

 学園へ向かう道すがら、会話は多くなかった。

 けれど、沈黙が重く感じられることもなかった。

 

 ――ただ、学園の門をくぐった瞬間。

 

 空気が、明確に変わった。

 

 視線。

 

 あからさまなものから、隠すつもりもないものまで。

 遠巻きに集まったトリニティの生徒たちが、こちらを見ながらひそひそと声を潜めている。

 

 耳に届くほどではない。

 だが、何かを話しているのは明らかだった。

 

「……?」

 

 セイアも、僅かに眉をひそめる。

 

「妙だね……」

 

 私の胸の奥が、ざわつく。

 けれど、私は何も言えなかった。

 そのまま、いつものようにティーパーティーの会議室へ向かう。

 扉を開けると、すでに中には人がいた。

 

「……あ」

 

 ナギサとミカ。

 

 二人は机に資料を広げ、端末を操作しながら、明らかに慌ただしく何かに対応していた。

 ナギサは眉間に皺を寄せ、ミカは落ち着きなく室内を行き来している。

 

「忙しそうだね。何かあったのかい?」

 

 セイア様がそう声を掛けると、

 二人は同時に顔を上げた。

 

 そして。

 

 ――私を見た。

 

 一瞬、時間が止まったように感じた。

 ナギサ様の視線は、驚きと困惑が入り混じった複雑なもの。

 ミカ様の表情は、言葉を探して迷っているようだった。

 

「……セイアちゃん」

 

 ミカが消え入りそうな声でセイアの名前を呼び

 

「……黒夜さん……」

 

 ナギサが口を開く。

 

 私の名前が呼ばれた瞬間、

 胸の奥で、嫌な予感がする。

 

「どうしたんだい? 二人とも」

 

 セイア様は、まだ状況を掴めていない。

 

 ナギサは一度息を整え、

 代表するように口を開いた。

 

「……今朝から、学園内で妙な噂が広がっています」

 

「噂?」

 

「ええ」

 

 ナギサは資料の一枚を持ち上げる。

 

「黒夜さんが……ゲヘナから送り込まれたスパイだ、という噂です」

 

 室内が、静まり返った。

 

 私は、何も言えなかった。

 言えるはずもなかった。

 

「……ふふ」

 

 ナギサが、軽く微笑んだ。

 

「まったく……ずいぶんと荒唐無稽な話だと思いませんか?」

 

「黒夜さんが、ゲヘナのスパイだなんて…」

 

 その笑顔は、どこか無理をしているようだった。

 

「そうそう!」

 

 ミカもすぐに続く。

 

「黒夜がスパイなわけないじゃんね?」

 

「誰がそんなこと考えたんだろ、質悪すぎ〜」

 

 二人とも、噂を否定している。

 疑う余地すらないという態度だった。

 

「それは……」

 

 セイアも、静かに頷く。

 

「ずいぶん陰湿だね。根も葉もない噂で人を傷つけるなんて」

 

「黒夜、誰か心当たりはあるかい?」

 

 ――優しい言葉だった。

 

 三人とも、私を信じてくれている。

 疑っていない。

 

 だからこそ。

 

 私は、何も言えなかった。

 

 俯いたまま、

 苦々しい表情を隠すこともせず、

 ただ、沈黙した。

 

 その沈黙が、すべてだった。

 

「……黒夜?」

 

 ミカの声が、少しだけ震える。

 ナギサの笑みが、ゆっくりと消える。

 

「まさか……黒夜さん…嘘ですよね?」

 

 セイアは、私の顔を見て、

 言葉を失った。

 信じていたからこそ、

 疑うという選択肢を持っていなかったからこそ、

 真実に辿り着いてしまった。

 

 ――噂は、事実だった。

 

 室内に落ちる沈黙は、

 今までとは比べものにならないほど、重かった。

 

 誰も、私を責めない。

 誰も、声を荒げない。

 

 それが、何よりも苦しかった。

 

 沈黙は、長く続いた。

 

 誰も声を荒げない。

 誰も、私を糾弾しない。

 

 それなのに、胸の奥が締め付けられる。

 

 ナギサはゆっくりと息を吐き、資料を机に置いた。

 その動作は、いつもの彼女らしく落ち着いている――ように見えたが、指先はわずかに震えていた。

 

「……黒夜さん」

 

 その声は静かで、冷静で、

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

「まず、確認させてください」

 

 視線が、真正面から私を捉える。

 

「この噂は……事実、なのですか?」

 

 否定する言葉は、もう持っていなかった。

 

 喉が、ひどく乾く。

 それでも、私は目を逸らさなかった。

 

「……はい」

 

 短い一言だった。

 

 それだけで、何かが決定的に変わった。

 ミカが、小さく息を呑む。

 

「……え?」

 

 信じられない、という顔だった。

 今にも冗談だと言ってほしい、そんな期待が滲んでいる。

 

「ちょ、ちょっと待って……黒夜?」

 

 ミカが一歩近づき、私の顔を覗き込む。

 

「それって……どういう意味?」

 

「噂が本当って……ほんとに、ゲヘナの……?」

 

 言葉の先を、続けられずにいる。

 ナギサは、目を閉じた。

 

「……そう、ですか」

 

 その声には、感情がほとんど乗っていなかった。

 だがそれは、冷酷さではない。

 

 ――理性で感情を押し殺している声だった。

 

「いつからですか?」

 

「……専属になる前から、です」

 

「任務内容は?」

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 だが、セイア様の気配を背中に感じ、

 私は正直に答えた。

 

「……ティーパーティー内での諜報活動、です」

 

 ミカが、唇を噛む。

 

「……ずっと?」

 

「……はい」

 

「……じゃあ……」

 

 ミカの声が、震え始める。

 

「私たちと一緒に過ごした時間も……全部、嘘…だったの…?」

 

 その言葉は、刃のようだった。

 

「違います」

 

 即座に答えていた。

 

「それだけは、違います」

 

 声が、少しだけ強くなる。

 

「……皆さんと過ごした時間は……」

 

 言葉が、詰まる。

 

 本当のことを言えば言うほど、

 自分がどれだけ欺いていたかを突きつけることになる。

 

「私が勝手に怯えていただけで……全て本心でした」

 

 それが、精一杯だった。

 ミカは、俯いた。

 肩が、小さく震えている。

 

「……わけ、わかんないよ」

 

 ぽつりと、こぼれる。

 

「スパイなのに……優しくしてくれて……」

 

「守ってくれて……」

 

「……それで、急にそんなこと言われて……」

 

 感情が追いついていない。

 怒りにも、悲しみにも、なりきれない。

 

 ナギサは机に手をつき、静かに告げた。

 

「黒夜さん」

 

「あなたがどう思っていようと、この事実は――」

 

 そこで、言葉を切る。

 少しだけ、視線が揺れた。

 

「……トリニティ全体に関わる問題です」

 

 政治的判断。

 

 責任。

 

 立場。

 

 彼女が背負っているものの重さが、その一言に凝縮されていた。

 

「すでに、情報は学園内に広がっているでしょう」

 

「噂が真実だとするなら、おそらく……意図的に流されたものでしょう」

 

 ――マダム。

 

 胸の奥で、名前が浮かぶ。

 

「隠し通すことは、難しいでしょう」

 

 ナギサは、私を見る。

 

「あなたを信じたい、という感情と」

 

「学園を守らなければならない、という責任は」

 

「……必ずしも、同じ方向を向きません」

 

 その言葉に、私は何も言えなかった。

 責められているわけではない。

 ただ、現実を突きつけられている。

 

「……でも!」

 

 ミカが、顔を上げる。

 

「だからって、黒夜を……!」

 

 言葉を探し、

 結局、最後まで言えずに詰まる。

 

 その時。

 

「私は」

 

 静かな声が、割って入った。

 

 セイアだった。

 

「私は、黒夜を信じるよ」

 

 その声には、迷いがなかった。

 ナギサとミカが、同時に彼女を見る。

 

「黒夜がスパイだった事実は、確かに重い」

 

「けれど」

 

 一歩、私の方へ近づく。

 

「それ以上に、私はこの人に救われた」

 

「心を、だ」

 

 その言葉に、胸が締め付けられる。

 

「だから私は、噂や立場よりも」

 

「この人自身を、見る」

 

 はっきりとした宣言だった。

 ナギサは、苦しげに。

 

「……セイアさん」

 

「あなたはそう言うと思っていました」

 

 そして、少しだけ視線を落とす。

 

「ですが……それでも」

 

「これから、黒夜さんは……」

 

 言葉を選びながら、続ける。

 

「厳しい視線に晒されます」

 

「学園内での立場は、極めて不安定になると思われます」

 

「……針の筵、でしょう」

 

 その言葉が、静かに落ちる。

 私は、それを否定しなかった。

 むしろ、覚悟していた。

 

 ミカが、私を見る。

 怒っているわけでも、憎んでいるわけでもない。

 ただ、傷ついた目だった。

 

「……ねえ、黒夜」

 

「なんで……一人で抱え込んだの?」

 

 答えは、簡単だった。

 

 ――自分にとって楽な道を選んだ。

 

 でも、その答えを口にする資格が、今の私にはなかった。

 

「……申し訳ありません」

 

 それしか、言えなかった。

 部屋の外から、かすかなざわめきが聞こえる。

 噂は、もう止まらない。

 

 それでも。

 この部屋の中だけは、まだ、完全には壊れていなかった。

 ティーパーティーの会議室を出た瞬間、空気が変わった。

 

 正確には、

 とっくに変わっていたのだろう。

 ただ、はっきりと「敵意を向けられている」と自覚したのが、この瞬間だった。

 

 廊下の先にいた生徒たちが、一斉にこちらを見る。

 そして、目が合った瞬間、慌てたように視線を逸らす。

 

 ひそひそと、囁き声。

 

「……あの人が……」

 

「ゲヘナの……」

 

「でも、ナギサ様たちの側に……」

 

 言葉の断片が、刃のように耳に刺さる。

 

 セイアは何も言わず、私の少し前を歩いていた。

 その背中は、まっすぐで、揺るがない。

 ナギサとミカは、一見すると私を囲むような位置取りだったが。

 

 ――守られている。

 

 分かっている。

 分かっているのに。

 

 胸の奥に、冷たいものが溜まっていく。

 廊下を歩いている途中、ナギサ様が足を止めた。

 

「……ここで少し、話しましょう」

 

 そこは普段使われていない小会議室だった。

 扉が閉まると、外のざわめきが遠のく。

 

 ナギサが資料を机に置き、淡々と話し始めた。

 

「正式な処分は、まだ決まっていません」

 

「ですが、それまでの間」

 

 ナギサは、深く息を吸う。

 

「黒夜さん。あなたは、事実上の“要注意人物”として扱われます」

 

「行動の制限、監視」

 

「そして……」

 

 言い淀む。

 

「学園内での信用は、ほぼ失われた状態になるでしょう」

 

 ミカが、ぎゅっと拳を握る。

 

「……そんなの……」

 

「ひどすぎるよ……!」

 

 ミカの声は震えていた。

 

「黒夜が具体的に何をしたっていうの!?」

 

「ずっと、私たちのために……!」

 

 ナギサは、目を伏せる。

 

「ミカさん」

 

「分かっています」

 

「ですが……私達の感情だけでは、どうにもならない局面です」

 

 その言葉は、誰よりも自分自身に向けているようだった。

 セイアが、静かに口を開く。

 

「黒夜」

 

 名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。

 

「私は、君を信じると言った」

 

「それは、今も変わらない」

 

 柔らかい声だった。

 

「だが同時に」

 

 少しだけ、悲しそうに微笑む。

 

「君が今、どれほど危うい立場に立たされているかも、分かっている」

 

 その視線が、痛いほど優しい。

 

「……すみません」

 

 また、その言葉しか出てこなかった。

 

 ナギサが、はっきりと告げる。

 

「黒夜さん」

 

「私は、あなたを切り捨てるつもりはありません」

 

 その意外な一言に驚き、目を見開いてナギサ様を見る。

 

「ですが」

 

「“無条件に信じる”ことも、できません」

 

 理性の声だった。

 

「だから、あなたは当面」

 

「ティーパーティー専属護衛という立場から外れ」

 

「私たち三人の監視下に置かれます」

 

 それは、保護であり、

 同時に、拘束だった。

 ミカが、必死に言う。

 

「それって……監視しつつ守るってことだよね?」

 

「黒夜を……」

 

 ナギサは、ゆっくり頷く。

 

「ええ」

 

「少なくとも、外部からの排除や、暴走を防ぐための措置という建前で

 私たちで黒夜さんを囲みます」

 

 その言葉を聞いても、

 私の胸は軽くならなかった。

 

 ――守られる。

 

 それは、信頼とは違う。

 セイアが、私に近づく。

 

「黒夜」

 

「……怖いのかい?」

 

 その一言で、

 張り詰めていた何かが、少しだけ軋んだ。

 

 でも

 

「……いいえ」

 

 私は、首を振った。

 

「この惨状は、私が招いた当然の結果だと思います」

 

 三人の表情が、揃って曇る。

 

「私は……」

 

 言葉を選ぶ。

 

「自分が何をしてきたか、分かっています」

 

「だから……」

 

 拳を、ぎゅっと握る。

 

「これ以上、皆さんに迷惑をかけるわけにはいきません」

 

 それは、合理的な判断のはずだった。

 

 だが

 

 ナギサは、はっきりと眉を寄せる。

 

「……黒夜さん」

 

「それは“私たちから距離を取る”という意味ですか?」

 

 ミカも、目を見開く。

 

「え……?」

 

 セイアの表情が、わずかに強張る。

 

 私は、頷いた。

 

「皆さんが、私を守ろうとしてくださっているのは分かります」

 

「ですが……」

 

 言葉が、少し震える。

 

「そのせいで、皆さんの立場が危うくなるのは……」

 

「……耐えられません」

 

 それは、半分は本心で、

 半分は、逃げだった。

 ナギサが、静かに言う。

 

「……それは、私たちが決めることです」

 

 ミカが、一歩前に出る。

 

「ねえ、黒夜」

 

「それってさ……」

 

 唇を噛みしめてから、言う。

 

「……見捨てられる前に、自分から離れようとしてない?」

 

 その言葉が、胸に刺さる。

 

 図星だった。

 

 私は、視線を落とした。

 

「……すみません」

 

 セイアが、そっと私の肩に手を置く。

 

「黒夜」

 

「今は、結論を急がなくていい」

 

「ただ……」

 

 その声は、揺るがない。

 

「もう一人で背負うことだけは、やめてほしい」

 

 その言葉に、

 喉が、詰まる。

 

 でも、私は何も答えられなかった。

 扉の外では、噂が渦巻いている。

 疑い、恐れ、敵意。

 

 ここにまだ居場所があるとは思えなかった。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 

 ――もう、後戻りはできない。

 

 針の筵の上で、私は、前に進むしかなかった。




一応この話までを一区切りとして、

次回から少し幕間を挟みまして。

その後、続きを開始する予定ですので楽しんでいただけたら幸いです。


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