ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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最期の選択 ~10~

 黒夜の姿が、映像の中から消えた。

 その瞬間、世界から音が失われたようだった。

 ほんの少し前まで、全員が叫んでいた。黒夜の名前を呼び、止めろと叫び、戻ってこいと願い、消えるなと懇願していた。

 だが、そのすべては黒夜へは届かなかった。

 

 そして、白い光が黒夜を包み込んだ。

 次に映ったのは、崩壊していくアトラ・ハシースの箱舟の残骸だけだった。

 黒夜はいない。

 どこにも、いない。

 

「……黒夜?」

 

 最初に声を漏らしたのは、ミカだった。

 それは問いかけですらなかった。理解を拒むような、ただの音だった。

 

「黒夜……ねえ、黒夜……?」

 

 返事はない。

 シッテムの箱に映る映像の中にも、地上のどこにも、黒夜の姿はない。

 ミカの瞳が大きく揺れた。

 次の瞬間、彼女は喉が裂けそうな声で叫んだ。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 その叫びに重なるように、ミカ*テラーも崩れ落ちた。

 

『いや……いやだ、いやだいやだいやだ!!』

 

 彼女は地面を叩くように膝をつき、両手で頭を抱えた。

 

『黒夜! 黒夜ぁ!! やだよ、消えないでって言ったじゃん!! すぐ来るって言ったじゃん!!』

 

「黒夜! 嘘でしょ!? ねえ、嘘だって言ってよ!」

 

 ミカもまた、泣き叫んでいた。

 

 黒夜を失った瞬間に崩れる姿は、あまりにもよく似ていた。

 

 片方は過去に一度黒夜を失った者。

 

 片方は今、黒夜を失った者。

 

 二人のミカは、まるで同じ傷口から血を流すように、同じ名前を叫び続けていた。

 

「黒夜! 黒夜ってば!!」

 

『戻ってきてよ! 私、まだ何も言えてない! まだ一緒にいたかったのに! 黒夜ぁ!!』

 

 ナギサは、その叫びを聞きながら、一歩も動けなかった。

 手が震えていた。

 身体の奥から、冷たいものが広がっていく。頭では、何かをしなければならないと分かっていた。

 ティーパーティーとして、場を収めなければならない。皆を落ち着かせなければならない。先生を支えなければならない。

 だが、できなかった。

 

「……黒夜さんが」

 

 小さく呟いた瞬間、膝から力が抜けた。

 ナギサはその場に蹲り、両手で頭を抱えた。

 

「そんな……そんなこと……」

 

 普段なら整えられている声が、ひどく乱れていた。

 

「黒夜さんが、居なかったことになるなんて……そんな……」

 

 同じように、ナギサ*テラーもゆっくりと膝をついた。

 彼女は両手で頭を押さえ、俯いたまま震えていた。

 

『また……』

 

 ぽつりと漏れた言葉は、あまりにも小さかった。

 

『また、失ったのですか……?』

 

 彼女は一度、黒夜を失った世界を知っている。

 その果てに自分が何になったのかも知っている。

 だからこそ、この世界では同じことを繰り返さないと誓ったはずだった。黒夜を守る。黒夜の隣にいる。黒夜に嫌われないように、黒夜が望むなら少しでもまともな存在になろうとした。

 

 それなのに。

 

 また――

 

『私は……また、黒夜さんを……』

 

 ナギサ*テラーの言葉は、最後まで続かなかった。

 

 セイアは、静かに画面を見つめていた。

 黒夜が消えた。

 その事実を理解しようとした。

 だが、理解した瞬間、身体から力が抜けた。

 

「……あぁ」

 

 それだけを漏らして、セイアはその場に倒れ込むように膝をついた。

 未来を見る力があっても、今を変えられなければ意味がない。

 言葉を尽くす知性があっても、届かなければ意味がない。

 黒夜は、声の届かない場所で選んでしまった。

 そして、自分たちは何もできなかった。

 

「黒夜……君は……」

 

 セイアの瞳から光が失われていく。

 

「そこまでして……私たちを……」

 

 同じく、セイア*テラーも力を失ったように地面へ膝をついた。

 彼女は自分の懐を、震える手で何度も探る。

 そこには何もない。

 

 あるはずのカードは、もうない。

 

『私が……気が付いていれば……』

 

 セイア*テラーの思考は、壊れていた。

 

『気付けなかった……私は、何も……何も……』

 

 彼女は顔を覆う。

 

『黒夜絡みで、無駄な行動などしないと……言ったばかりだったのに……』

 

 その言葉は、自分を責めるためだけにあった。

 

 マコトは、しばらく呆然としていた。

 ただ画面の消えた先を見つめ、理解しようとしていた。

 黒夜が消えたという事。

 自分の尊敬を真っ直ぐに向けてきた、あの黒夜が。

 

 勝手に誰にも許可を取らず。

 

 自分の前から消えた。

 

「……馬鹿が…」

 

 低い声だった。

 次の瞬間、マコトは叫んだ。

 

「馬鹿野郎!!」

 

 涙が、頬を伝っていた。

 それでもマコトは怒鳴った。

 

「そんな選択を、この私が許すと思っているのか!? 誰の許可で勝手に居なくなっている!? 最後まで私の横で胸を張っていればいいんだ!!」

 

 拳を握り締め、歯を食いしばる。

 

「勝手に消えるな……勝手に、私の記憶からいなくなろうとするな……!」

 

 最後の声は、怒鳴り声ではなかった。

 ただの泣き声だった。

 

「黒夜……お前は、本当に……馬鹿者だ……」

 

 ヒナは、地面を見つめていた。

 虚ろな目だった。

 そこに黒夜はいない。

 だが、彼女はまるでそこに黒夜がいるかのように、小さく何かを呟き始めた。

 

「……最初は、足運びが荒かった」

 

 誰に言っているのか分からない。

 

「でも、飲み込みは早かった。避ける時の動き出しは、すぐに良くなった。盾を持つと少し遅れるから、そこは修正しないといけなくて……」

 

 現実を見ていない。

 今この場で起きたことを、受け止められない。

 だから、黒夜との訓練の記憶へ逃げ込んでいた。

 

「次は……もっと、教えないと……」

 

 ヒナの声が震える。

 

「まだ、教えることがたくさんあったのに……」

 

 そこでようやく、彼女の瞳から涙が落ちた。

 

 カヨコは、静かに立っていた。

 泣き叫ぶことも、崩れ落ちることもなかった。

 ただ、顔色は紙のように白かった。

 

「……分かってたはずなのに」

 

「黒夜は、最後にこういう選択を取るかもしれないって……分かってたはずなのに」

 

 黒夜は、誰かのために自分を差し出す癖がある。

 それは以前より弱まったと思っていた。

 リオの件を経て、残される側の痛みを知ったと思っていた。

 けれど、根の部分は変わっていなかったのかもしれない。

 追い詰められた時、黒夜はやはり、自分を勘定に入れない。

 

 カヨコはそれを知っていた。

 

 なのに。

 

「私は……傍にいられなかった」

 

 声が震える。

 

「止められる場所に、いなかった」

 

 カヨコは目を閉じた。

 

「一人にしてごめん、黒夜……」

 

 リオは、何も言えなかった。

 ただ、その場に立ち尽くしていた。

 黒夜が消えた。

 

 自分の神秘を知り、自分が周囲を壊す可能性を知り、そして選んだ。

 それが、自分とよく似た自己犠牲の形であることを、リオは理解していた。

 かつて自分も、世界のため、アリスのため、合理のために、自分が犠牲になる選択を正しいと思った。

 

 黒夜はそれを止めた。

 残される側の痛みを、リオに突きつけた。

 なのに今、黒夜自身が同じ場所へ行ってしまった。

 

「わかっていたはずなのに……」

 

 黒夜がどれほど危ういか。

 自分の痛みを後回しにしてしまうか。

 救うためなら、自分を消すことすら選びかねないことを。

 

「何も……できなかった」

 

 その言葉を最後に、リオは口を閉ざした。

 

 ヒマリは、画面が消えた先を見つめていた。

 いつもの自信満々な言葉はない。

 清楚も、天才も、美少女も、何一つ口に出てこない。

 

「そんな……」

 

 彼女は首を横に振る。

 

「こんなこと……嘘です……」

 

 声が震える。

 

「嘘ですよね……?」

 

 誰も答えない。

 答えられない。

 ヒマリはもう一度呟く。

 

「黒夜さんのいない世界なんて……そんな、寂しい世界……」

 

 その声は、ひどく幼く聞こえた。

 

「嫌です……そんなの……嫌です……」

 

 アツコは、何も言わなかった。

 ただ静かに涙を流していた。

 頬を伝う涙を拭うこともせず、空を見上げている。

 

 あの時の笑顔が、頭から離れない。

 アツコは胸元を押さえた。

 声にはしなかった。

 だが、唇だけが小さく動いた。

 

 帰ってきて。

 

 その願いは、音にならなかった。

 

 周囲の生徒たちも、同じだった。

 

 アリスは大きく目を見開いたまま、何も言えずにいた。モモイは泣きながら「こんなのおかしいよ」と繰り返し、ミドリはそんなモモイの肩を抱きながら涙をこぼしている。ユズは自分の肩を抱き締めたまま、小さく震えていた。

 

 シロコは、唇を固く結んでいた。ホシノは俯き、いつもの軽い声を失っている。ノノミは涙をこぼし、セリカは悔しそうに地面を睨みつけ、アヤネは通信端末を握りしめたまま動けなくなっていた。

 

 美食研究会でさえ、誰も騒がなかった。

 ハルナは目を伏せ、アカリは涙を浮かべ、

 ジュンコは唇を噛み、イズミはぽつりと「もう一緒に食べられないんだ…」と呟いていた。

 

 誰もが、黒夜が消えたという事実に打ちのめされていた。

 

 そして先生もまた、打ちのめされていた。

 プレナパテスの言葉が、耳に残っている。

 生徒たちを、よろしくお願いします。

 

 それに対して先生は任せて、と答えた。

 

 その直後にこれだ…!

 

 一人の生徒を、救えなかった。

 黒夜を止められなかった。

 黒夜に、あんな選択をさせてしまった。

 

「……私は」

 

 先生の手から、シッテムの箱が滑り落ちた。

 乾いた音を立てて、地面に落ちる。

 誰もすぐには動けなかった。

 先生自身も、落ちたそれを拾うことができなかった。

 ただ、膝をつきそうになる身体をどうにか支え、地面を見つめていた。

 

 その時だった。

 

 落ちたシッテムの箱から、短い電子音が鳴った。

 

『先生!』

 

 必死に先生を呼ぶアロナの声が先生の耳に入った。

 その声に、先生はゆっくりと視線を向ける。

 シッテムの箱の画面が光っている。

 

 ノイズ混じりではあったが、アロナの姿が映っていた。

 

『先生、聞こえますか!?』

 

「……アロナ」

 

 先生の声は、かすれていた。

 アロナは必死な表情で叫ぶ。

 

『黒夜さんの反応があります!』

 

 その一言で、空気が止まった。

 先生の目が見開かれる。

 

「……え?」

 

『黒夜さんの反応があります! ここから、そう遠くない場所です!』

 

 信じられなかった。

 今、確かに黒夜は消えたように見えた。

 存在ごと、記憶ごと、痕跡ごと消えてしまったはずだ…

 けれど――。

 

「……待って」

 

 先生は、震える息を吐きながら顔を上げた。

 黒夜の名前を、覚えている。

 黒夜の顔を、思い出せる。

 あの困ったような笑みも、掠れた声も、最後に言った言葉も、何一つ消えていない。

 

 先生だけではない。

 周囲を見れば、皆が黒夜の名前を呼び、黒夜を失ったと思って泣いている。ナギサも、ミカも、セイアも、ヒナも、マコトも、カヨコも、リオも、ヒマリも、アツコも、テラー達も。

 誰一人として、黒夜の事を忘れていない。

 

「……忘れてない!」

 

 先生の声が、わずかに震えた。

 

「黒夜との記憶が消えてない!」

 

 その事実が、絶望に沈みかけていた思考へ、細い光のように差し込んだ。

 ならば、黒夜はまだ完全には失われていない。

 

 まだ、間に合うかもしれない。

 

 先生は、ほとんど倒れ込むようにシッテムの箱を拾い上げた。

 

「場所は!?」

 

『座標を表示します! 距離は遠くありません! ただ、反応がかなり弱いです! 急いでください!』

 

 先生は急いで立ち上がった。

 その動きに、周囲の視線が集まる。

 先生は振り返り、声を張った。

 

「みんな聞いて! すぐ近くに黒夜の反応がある!」

 

 その言葉に、ミカの泣き声が止まった。

 

 ミカ*テラーも、顔を上げた。

 

 ナギサとナギサ*テラーが、同時に息を呑む。セイアとセイア*テラーの瞳に、わずかな光が戻る。

 

 ヒナがゆっくりと顔を上げた。

 

 マコトが涙で濡れた顔のまま先生を見る。

 

 カヨコの目が見開かれ、リオが一歩前に出る。ヒマリは震える声で「本当ですか」と呟き、アツコは涙を拭わないまま立ち上がった。

 

「黒夜は消えて無い」

 

 先生は言った。

 自分に言い聞かせるように。

 皆に希望を渡すように。

 

「行こう。黒夜のところへ」

 

 その瞬間、沈み切っていた空気が動いた。

 絶望が消えたわけではない。

 恐怖も、悲しみも、何一つなくなってはいない。

 けれど、立ち上がる理由ができた。

 

 黒夜がいる。

 まだ、そこにいる。

 それだけで十分だった。

 

 先生が走り出す。

 

 その後を、全員が追った。

 泣き腫らした目で。

 

 震える足で。

 それでも、一人の生徒を取り戻すために。

 

 黒夜の反応が検出された場所へ、彼女たちは一斉に向かっていった。

 

 

 

 

 最初に感じたのは、風だった。

 冷たい風が頬を撫でていく。

 アトラ・ハシースの箱舟の中で聞こえていた、低い駆動音はもうない。赤い警告灯の明滅も、崩れていく床の振動も、耳を裂くような警報も聞こえない。

 代わりにあるのは、地面の硬さと、夜気に似た冷たさだった。

 

 黒夜は、ゆっくりと息を吸った。

 肺に入ってくる空気が、少し痛い。

 けれど、それは確かにキヴォトスの空気だった。

 

「……戻って、これたか…」

 

 掠れた声が、口から漏れる。

 自分の声なのに、妙に遠く聞こえた。

 黒夜は仰向けに倒れていた。身体は驚くほど重く、指先ひとつ動かすのにも時間がかかる。全身が鉛になったようで、起き上がることなど考えられなかった。

 地面に触れた背中から冷たさが染み込み、体の内側に残っていた熱がゆっくり外へ流れ出していくようだった。

 

 けれど、一番奇妙だったのは胸の奥だった。

 ずっとそこにあったはずの何かが、綺麗に抜け落ちている。

 

 痛くはない。

 

 ただ、空白だった。

 

 黒夜は、その空白に意識を向ける。

 胸の奥に絡みついていた見えない糸が、一本残らず切れている。

 自分が自分ではなくなったような不安はなかった。

 ただ、これまで知らないまま背負っていた何かを、ようやく下ろしたような感覚があった。

 

 黒夜は安堵から深く息を吐いた。

 

 ひどく疲れていて、身体は動かない。

 それでも、帰ってこられた。

 

 自分は消えなかった。

 世界から黒夜という存在が消えたわけではない。

 自分と関わった人たちの記憶を奪ったわけでもない。

 

 そして、きっと。

 もう、自分を失ったからといって、誰かの神秘を壊すこともない。

 

「……成功、したみたいですね」

 

 黒夜は、小さく笑った。

 笑ったつもりだった。

 実際には、唇がほんの少し動いただけかもしれない。

 その時、すぐ近くで誰かが息を呑む気配がした。

 

「……ここは…?」

 

 低く、掠れた声。

 黒夜はゆっくりと視線だけを動かした。

 そこにいたのは、プレナパテスだった。

 

 いや。

 

 正確には、黒夜が箱舟の中で見た姿とは違っていた。

 あの時の彼は、色彩に侵され、肉体も声も存在そのものも歪んでいた。先生であったはずの名残を持ちながら、もう戻れない場所まで行ってしまった者の姿だった。

 けれど今、黒夜の隣で身を起こそうとしている彼は違う。

 

 異形ではない。

 

 侵食された影もない。

 そこにいるのは、まるでプレナパテスになる前の状態へ戻されたかのような、一人の大人だった。

 プレナパテス自身も、それに気付いたのだろう。

 

 彼は自分の手を見つめていた。

 

 指を曲げる。

 

 掌に触れる。

 

 自分の身体が本当にそこにあるのか、確かめるように。

 

「私の……身体が……」

 

 声に、明らかな混乱が滲んでいた。

 彼は果てたはずだった。

 この世界の先生にシロコ*テラーを託し、生徒たちをよろしく頼むと、すべてを終えたはずだった。

 それなのに、意識がある。

 

 呼吸がある。

 

 心臓が動いている。

 

 色彩の影響すら消えている。

 

 それは、奇跡という言葉でも足りない。

 

 疑似的な蘇生に近い現象だった。

 

 プレナパテスは、やがて横たわる黒夜に気付いた。

 

「君が……やったのか…?」

 

「まぁそうですね」

 

 黒夜は仰向けのまま、弱々しく答える。

 

「少し、無茶をしました」

 

「少し、で済むものではない」

 

 プレナパテスの声は静かだったが、その奥には確かな驚きがあった。

 

「君は、一体何をしたんだ?」

 

 黒夜は空を見上げた。

 崩壊する箱舟から見た空とは違う。

 ここには本物の空がある。

 歪んでいても、傷ついていても、それでも自分が好きだと思ったキヴォトスの空だった。

 

「私自身も、地上に戻ること」

 

「それから……貴方を、助けること」

 

 プレナパテスは黙った。

 その沈黙の意味を、黒夜は完全には読み取れなかった。

 だから、続ける。

 

「ただ、そのままでは多分足りませんでした。カードの力だけでは、全部は叶わない。だから、代償を差し出しました」

 

「代償……」

 

「私の神秘ですよ」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥の空白が少しだけ強く意識された。

 もう、そこには何もない。

 不思議なほど、静かだった。

 

 彼は、黙って黒夜の話を聞いていたがふと思っていた事が漏れてしまう。

 

「……君がカード手に入れたら、カードの力で自分を消してしまうと思っていた…」

 

 それに、黒夜はすぐには答えなかった。

 仰向けのまま、空を見上げる。

 

「……そうですね」

 

 黒夜は、静かに認めた。

 

「最初は、そのつもりでした」

 

 彼の視線が、わずかに揺れる。

 

「私という存在が皆を縛るなら。私の喪失が皆を壊すなら。私の名前も、記憶も、痕跡も、全部消してしまえばいい。そうすれば、誰も私を失わずに済むと……そう考えていました」

 

 それは、嘘ではなかった。

 あの暗い部屋で、涙も枯れ果てた後、黒夜は確かにそこへ辿り着きかけていた。

 

 自分が消えればいい。

 自分を覚えている者がいなければ、喪失は生まれない。

 喪失が生まれなければ、皆は壊れない。

 

 それが、唯一の答えに思えた。

 

「でも……貴方は、先生に託しました」

 

「生徒たちを、よろしくお願いしますと。最後にそう言いました」

 

 黒夜の声は掠れていた。

 けれど、そこには確かな意思があった。

 

「そして先生は、それに応えました。貴方の願いを受け止めて、彼女を助けた。自分の分の脱出シーケンスを使ってまで、彼女を置いていかなかった」

 

 あの光景が、黒夜の中に残っていた。

 滅びかけた先生が、もう一人の先生へ生徒を託す姿。

 託された先生が、自分の帰る手段を手放してでも、生徒を救おうとする姿。

 

 二人の先生は、どちらも最後まで生徒を見ていた。

 誰かを置いていかなかった。

 

「それを見て、思ったんです」

 

 黒夜は小さく息を吐く。

 

「私は、何をしようとしているんだろうと」

 

 自分を消す。それは確かに、皆を壊さないための選択に見えた。

 けれど、それは同時に、皆が自分を覚えていてくれることも、自分を想ってくれた時間も、全部なかったことにする選択だった。

 先生たちが繋ごうとしたものを、自分の手で断ち切る選択だった。

 

「私は……先生たちみたいに、誰かを信じる選択がしたかった」

 

 黒夜の指先が、わずかに動く。

 

「先生を信じたかった。貴方も――」

 

 そして。

 

「私の事を信じてくれた皆も……裏切りたくなくなったんです」

 

 彼は、静かに黒夜を見つめていた。

 黒夜は続ける。

 

「だから、最後の瞬間に願いを変えました」

 

「願いを……」

 

「私の神秘を代償に、プレナパテスと呼ばれた貴方の歪んだ状態を元に戻し、私と共に地上に送ってくれという内容に変えました」

 

 胸の奥の空白が、静かに疼く。

 そこにはもう、何もない。

 

「私と関わった人たちを縛るものがあるなら。私を失った時、皆を壊してしまう楔があるなら。消すべきなのは、私自身ではなく……その神秘の方だとギリギリで思い付きました」

 

 黒夜は、微かに笑った。

 やがて、静かに言う。

 

「君は、最後の最後に踏み止まれたんだね…」

 

「そうですね…それに消えたら、ものすごく怒られると思いまして」

 

 黒夜は、ほんの少しだけ笑った。

 プレナパテスは笑みを浮かべて目を伏せた。

 その仕草は、どこかこの世界の先生に似ていた。

 

「それに……私も、帰りたかったんです」

 

 黒夜は空を見る。

 

「この騒がしくて明るい世界に」

 

 その言葉に、プレナパテスは何も返さなかった。

 けれど、聞いていることは分かった。

 だから黒夜は続けた。

 

「それに貴方が言ってくれたでしょう?」

 

「私が?」

 

「君は、君のやりたいことをしていい、と」

 

 プレナパテスの表情がわずかに動いた。

 

「あの言葉が、ずっと頭に残っていました」

 

「私のやりたいことが、何なのか分からなかった。誰かを救うことなのか、誰かから離れることなのか、自分を消すことなのか……ずっと分からなかった」

 

 あの拘束された部屋。

 枯れ果てるまで泣き、誰にも届かない謝罪を続け、過去を思い出し、この世界が好きだと気付いた。

 そのすべてが、今ここに繋がっている。

 

「でも、ようやく分かりました」

 

 黒夜は静かに言った。

 

「私は、誰も置いていきたくなかったんです」

 

 先生も。

 

 シロコ*テラーも。

 

 プレナパテスも。

 

 そして、自分自身も。

 

「欲張りですよね?」

 

 黒夜が小さく呟くと、プレナパテスは少しだけ目を細めた。

 

「そうだね」

 

 その声には、ほんのわずかに柔らかさがあった。

 

「君は、とても欲張りだ」

 

 黒夜は苦笑する。

 

「そうでしょうね~」

 

「世界を守りたい。皆の記憶から消えたくない。自分も帰りたい。そして、私まで救おうとした」

 

 プレナパテスは、ゆっくりと言った。

 

「それは、とても欲張りな選択だ」

 

「今は欲張りで、良かったと思ってますよ」

 

 その言葉に、プレナパテスは黙った。

 しばらくして、彼は静かに問いかける。

 

「どうして、私まで助けた」

 

 黒夜は視線を彼へ向ける。

 

「私は、この世界の敵だった」

 

 プレナパテスの声は淡々としていた。

 

「君を利用する側にいた。君を保険として扱う計画を知っていた。それを止めなかった」

 

「でも、世界が違うとはいえ貴方も先生でしょう?」

 

 黒夜は、すぐにそう答えた。

 プレナパテスの言葉が止まる。

 

「貴方は私を生徒と呼びました」

 

「君は悪くないと言ってくれました。君の在り方が罪ではないと言ってくれました」

 

 あの時、黒夜はその言葉を受け取れなかった。

 優しさが痛かった。

 救いのようで、呪いのようでもあった。

 けれど、今なら分かる。

 

「あれは、先生の言葉でした」

 

 黒夜は微かに笑った。

 

「だから、先生を置いていくのは違うと思いました」

 

 プレナパテスは、何かを言おうとして、やめた。

 それから少しだけ視線を逸らす。

 

「……君は、彼女にも随分なことを言われたはずだ」

 

「黒いシロコさんですか…?」

 

「君を保険だと呼び、起爆剤として扱い、貴方の神秘が世界を殺すと告げた」

 

 プレナパテスは静かに言う。

 

「それでも、君は彼女を恨まないのかい?」

 

 黒夜は少しだけ考えた。

 

 黒いドレスのシロコ*テラー。

 人質ではない、保険だと言われた。

 貴方の神秘が、貴方の世界を殺すと言われた。

 その言葉は、確かに黒夜を深く傷つけた。

 涙が枯れるほど、心を抉った。

 

 だけれど――

 

「恨む理由はありませんよ」

 

 黒夜は静かに答えた。

 

「シロコ*テラーさんは、私に教えてくれました」

 

「教えた?」

 

「私の神秘が、どれほど危ういものなのか」

 

 黒夜は、自分の胸元へ手を当てようとして、力が入らず途中で諦めた。

 

「それを知らなければ……私は、消すべきものを間違えていたかもしれません」

 

 自分を消す。

 存在ごと、記憶ごと、痕跡ごと。

 その道へ進んでいたかもしれない。

 けれど、そうではなかった。

 消すべきは、自分ではなかった。

 

「だから、むしろ感謝しています」

 

「あの人の言葉は、痛かったです」

 

 正直にそう付け加える。

 

「でも……必要な痛みでした」

 

 プレナパテスは、しばらく黒夜を見ていた。

 やがて、吐息のように言う。

 

「君は、本当に……」

 

 言葉はそこで途切れた。

 呆れているのか。

 感心しているのか。

 悲しんでいるのか。

 黒夜には分からなかった。

 

 ただ、プレナパテスの表情は、先ほどよりも少しだけ人間らしく見えた。

 その時、遠くから声が聞こえた。

 

「黒夜!」

 

 先生の声だった。

 続けて、いくつもの足音。

 いくつもの声。

 

「黒夜さん!」

 

「黒夜ぉ!!」

 

「黒夜君!」

 

「黒夜!」

 

 騒がしい。

 本当に、騒がしい。

 黒夜は目を閉じ、微かに笑った。

 

「……相変わらず賑やかですね」

 

「君の迎えが来たようだね」

 

 プレナパテスが言う。

 

「そのようです」

 

 黒夜は小さく息を吐く。

 

「帰る場所が、多すぎるんです」

 

 プレナパテスは空を見上げた。

 その声は、とても静かだった。

 

「それは、随分幸せなことだね」

 

「そうですね……」

 

 黒夜は、近づいてくる足音を聞きながら答えた。

 

「今なら、素直にそう思えます」

 

 視界が少しずつぼやけていく。

 限界だった。

 身体が重い。胸の奥は空っぽで、意識も薄れていく。

 けれど、不思議と怖くはなかった。

 

 誰かが自分を呼んでいる。

 自分の名前を、覚えている。

 

 忘れられていない。

 消えていない。

 それだけで、今は十分だった。

 

 黒夜は、最後にもう一度だけ空を見上げた。

 騒がしくて明るい世界。

 自分が帰りたいと願った世界。

 その世界へ、本当に帰ってこられたのだと、ようやく実感しながら。

 

 

 

 

 黒夜の反応が検出された場所へ向かう間、誰も無駄口を叩かなかった。

 

 ただ、足音だけが重なっていた。

 

 皆が走っていた。

 

 黒夜がいる。

 

 その一言だけで、全員の身体は動いていた。

 

 消えたと思った。

 存在ごと、記憶ごと、痕跡ごと消えてしまったと思った。

 それなのに、アロナは反応があると言った。

 

 だったら、行くしかない。

 

 先生はシッテムの箱に表示された座標を何度も確認しながら、息を切らして走った。心臓が痛いほど鳴っている。黒夜を見つけたい。見つけなければならない。今度こそ、手を伸ばさなければならない。

 

 そして、瓦礫の陰を抜けた先。

 開けた地面の上に、黒夜はいた。

 仰向けに倒れていた。

 

 白い眼帯は少しずれ、服はところどころ汚れ、手足は力なく地面へ投げ出されている。顔色は悪く、唇も乾いていた。呼吸はある。

 けれど、それはあまりにも浅く、今にも消えてしまいそうに見えた。

 

「黒夜!」

 

 先生が真っ先に駆け寄る。

 その後に全員が続いた。

 

「黒夜!」

 

『黒夜ぉ!!』

 

 ミカとミカ*テラーがほとんど同時に叫ぶ。

 二人は黒夜の傍へ膝をつき、今にも抱きつこうとして、触れていいのか分からず手を震わせた。

 

「黒夜! ねえ、黒夜! 聞こえる!?」

 

『やだ、目開けてよ! お願いだから!』

 

 ナギサとナギサ*テラーも駆け寄る。

 ナギサは黒夜の顔色を見て息を呑み、ナギサ*テラーは震える指で口元の呼吸を確認した。

 

「息は……あります……」

 

『でも、弱すぎます……』

 

 セイアとセイア*テラーは、言葉を失っていた。

 

 黒夜がいる。

 消えていない。

 けれど、倒れている。

 

 その現実が、希望と恐怖を同時に突きつけてくる。

 

「黒夜……逝かないで……」

 

 ミカの声が涙で滲む。

 

『死なないで、黒夜……もう嫌だよ……もう二度と嫌だよ……!』

 

 ヒナが黒夜の状態を見て、唇を噛んだ。

 

「意識は?」

 

 カヨコが膝をつき、黒夜の肩の近くへ視線を落とす。

 

「……かろうじて、あるみたい」

 

 リオはすぐに周囲へ指示を出そうとしたが、言葉が詰まった。黒夜が生きていることへの安堵と、目の前のあまりに弱った姿への恐怖が、思考を掻き乱していた。

 ヒマリも、いつもの調子を失っていた。

 

「黒夜さん……黒夜さん、聞こえていますか……?」

 

 アツコは何も言わず、黒夜の傍に膝をついた。

 静かに、けれど涙を流しながら、彼の顔を見つめている。

 

 先生が黒夜の手を取った。

 生きている。でも、冷たい。

 

「黒夜、僕だよ。聞こえる?」

 

 黒夜の瞼が、微かに震えた。

 全員が息を呑む。

 黒夜の唇が、ほんの少し動いた。

 

「……」

 

 声はあまりにも小さく、誰にも聞き取れなかった。

 

「黒夜?」

 

 先生が身を寄せる。

 全員が一斉に静まり返った。

 これが、最後の言葉になるかもしれない。

 そんな恐怖が全員の胸を掴んでいた。

 

 ミカも、ミカ*テラーも、泣きじゃくるのを堪えて口を閉じた。ナギサたちも、ゲヘナも、ミレニアムも、アビドスも、全員が耳を澄ませる。

 

 黒夜の唇が、もう一度動く。

 かすれた声が、ようやく形になった。

 

「……お腹が……」

 

 先生が身を乗り出す。

 

「お腹が?」

 

 黒夜は、ほとんど吐息のような声で言った。

 

「減って……動けないんですよ……」

 

 完全な沈黙だった。

 誰も、すぐには理解できなかった。

 死ぬな、逝かないで、戻ってきて、そう叫んでいた全員が、黒夜の言葉を頭の中で何度も反芻する。

 

 お腹が減って動けない。

 

 もう一度、沈黙。

 その沈黙を破ったのは、すぐ横から聞こえた穏やかな声だった。

 

「そういえば、拘束されている間は必要最低限だったからね…無理も無いね」

 

 全員の視線が、一斉にそちらへ向いた。

 そこに、一人の大人が座っていた。

 先生とよく似た顔。

 だが、先生ではない。

 先ほどまで崩れゆく箱舟の中で倒れたはずの、プレナパテスだった。

 

「……え?」

 

 先生が固まる。

 ナギサも、ミカも、セイアも、ゲヘナの面々も、ミレニアムも、アビドスも、全員が目を見開いた。

 

「先生が……二人……?」

 

 ミカが呆然と呟く。

 マコトが涙の跡を残したまま叫んだ。

 

「な、なんだこれは!? 先生が増えたぞ!?」

 

「増えたわけでは……いや、説明が必要だね」

 

 リオが何か言おうとして、思考に戻る。

 ヒマリも目を見開いていた。

 

「これは…どういうことですか…?」

 

 その騒ぎの中で、黒夜は目を閉じたまま小さく呟いた。

 

「相変わらず元気な方達だな……」

 

 だが、その声は誰の耳にも届かなかった。

 全員がプレナパテスの存在に驚いていたからだ。

 

 先生は混乱を振り払い、まず黒夜の方へ意識を戻した。

 

「待って、まず黒夜に水と何か食べられるものを」

 

 その一言で、場が動いた。

 

「私、チョコ持ってるよ!」

 

 ミカが慌ててポケットを探る。

 

『私もある! 黒夜、甘いの食べられる!?』

 

 ミカ*テラーまで同じように何かを取り出そうとする。

 

「待ってください、一気に食べさせてはいけません」

 

 ナギサが慌てて止める。

 

『紅茶に合う焼き菓子なら――』

 

「今は紅茶に合わせる必要はありません!」

 

 ナギサとナギサ*テラーが同時に混乱している。

 

 ヒナが携帯用の栄養食を取り出した。

 

「まず水。少しずつ」

 

 カヨコが即座に動く。

 

「そう。固形物をいきなり突っ込まない。喉に詰まる」

 

 その横で、マコトが妙に豪華な包装の菓子を取り出していた。

 

「私の秘蔵の高級菓子を食わせてやる! ありがたく――」

 

「今それは重いからやめて」

 

 カヨコに止められる。

 アツコが静かに水を差し出した。

 

「これ。少しずつ」

 

 先生が黒夜の頭を支え、アツコが水を少しだけ口元へ運ぶ。

 黒夜は弱々しくそれを飲み込んだ。

 

「はぁ……生き返る……」

 

「ほら早く食べて!」

 

 ミカが泣きながらチョコを突っ込んだ。

 アリスが小さな栄養バーを掲げる。

 

「回復アイテムです! 黒夜、使用してください!」

 

 モモイがポテチの袋を取り出す。

 

「これもあるよ!」

 

「それは今ダメでしょ!」

 

 ミドリが止める。

 

 ユズは震えながら飴を差し出した。

 

「あ、あの……これなら……」

 

 ハルナが真剣な顔で言う。

 

「このような時こそ、滋味深い一品を――」

 

「今から料理しても遅いから!」

 

 ジュンコが叫ぶ。

 

 イズミは不思議そうに何かを取り出した。

 

「変な味の非常食なら……」

 

「それは後にして!」

 

 セリカが全力で止めた。

 

 黒夜は目を閉じたまま、周囲の騒ぎを聞いていた。

 水を飲まされ、栄養食を少しずつ口に運ばれ、誰かがチョコを割り、誰かが飴の袋を開け、誰かがポテチを取り上げられている。

 

 騒がしい。

 

 本当に、騒がしい。

 

 黒夜は、ぼんやりと思った。

 

 ……帰ってくる場所を、少し間違えたかも。

 

 けれど、その胸の奥は不思議と温かかった。

 先生は黒夜の顔を覗き込む。

 

「黒夜、無理に喋らなくていい。ちゃんと戻ってきたんだね」

 

 黒夜は目を少しだけ開けた。

 先生の顔が見える。

 泣きそうで、怒っていて、安堵している顔。

 黒夜は小さく息を吐く。

 

「……約束は…守るべきでしょう?」

 

 先生は一瞬だけ目を見開いた。

 そして、強く頷いた。

 

「もちろん」

 

 その言葉に、黒夜は安心したように瞼を下ろした。

 その少し後。

 少し離れた場所から、足音がした。

 

 シロコ*テラーだった。

 彼女は遅れてその場へ到着したらしく、最初に黒夜を見た。

 黒夜が生きている。

 それだけで、彼女の目が大きく揺れた。

 だが次の瞬間、彼女の視線は黒夜の隣にいる人物へ向かった。

 

 そして、完全に固まった。

 

「……先生?」

 

 声は小さかった。

 

 震えていた。

 

 プレナパテスが、ゆっくりとシロコ*テラーの方を向く。

 以前のような色彩の影響はない。

 歪んだ身体でもない。

 かつての先生に近い姿で、彼はそこにいた。

 

「シロコ」

 

 その一言で、シロコ*テラーの表情が崩れた。

 

「どうして……だって、先生は……」

 

 言葉が続かない。

 プレナパテスは、横でぐったりしている黒夜へ視線を向けた。

 そして静かに言った。

 

「彼に助けられたよ」

 

 シロコ*テラーの視線が、黒夜へ向く。

 黒夜は今、先生に支えられながら水を飲まされ、ミカたちから食べ物を押し付けられかけている。どう見ても世界を救った英雄というより、空腹で倒れた生徒だった。

 けれど、プレナパテスの言葉は確かだった。

 

 彼に助けられた。

 黒夜が、先生を連れ戻した。

 自分が爆弾として扱った相手が。

 自分が保険だと呼んだ相手が。

 自分が酷い事を告げた相手が。

 世界を壊さないために、自分を消すのではなく、全員を救う選択をした。

 

 シロコ*テラーは、ゆっくりと黒夜の傍へ近づいた。

 

 そして、膝をつく。

 

「……黒夜」

 

 黒夜は薄く目を開ける。

 

「シロコさん……」

 

 シロコ*テラーの瞳に涙が浮かんでいた。

 彼女はしばらく何も言えなかった。

 やがて、短く言った。

 

「……ごめんね」

 

 黒夜は静かに彼女を見る。

 

「それと……ありがとう」

 

 黒夜は少しだけ困ったように笑った。

 その表情は、いつもの黒夜に近かった。

 

「こちらこそ……私の神秘の事教えてくれて、ありがとうございました」

 

 シロコ*テラーは目を見開く。

 けれど、黒夜はそれ以上言えなかった。

 

 限界だった。

 先生が慌てて支える。

 

「黒夜、もう休んで」

 

「……そうさせてもらいます」

 

 黒夜は素直に目を閉じた。

 周囲には、まだ皆の声がある。

 

 泣いている声。

 

 怒っている声。

 

 安堵している声。

 

 混乱している声。

 

 騒がしくて、面倒で、眩しい声。

 

 黒夜はその中で、ゆっくりと意識を手放していく。

 最後に聞こえたのは、先生の声だった。

 

「おかえり、黒夜」

 

 その言葉を胸に、黒夜は深い眠りへ落ちていった。

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