最初に聞こえたのは、小鳥のさえずりだった。
少し離れた場所で誰かが紙をめくる気配がして、消毒液の匂いが鼻先をかすめる。柔らかな寝具の感触。身体を包む温度。重い瞼の裏に、白い光が滲んでいる。
黒夜は、ゆっくりと目を開いた。
視界に入ってきたのは、見慣れない天井だった。
シャーレの医務室。
そう理解するまでに、少し時間がかかった。
「……ここは」
掠れた声が漏れる。
すぐ横で椅子が小さく軋んだ。
「おはよう、黒夜」
先生がいた。
ベッドの傍に座り、ずっと見守っていたのだろう。少し疲れた顔をしている。けれど、その目は確かに安堵していた。
黒夜はしばらく先生を見つめた。
そして、自分がまだここにいることを確かめるように、ゆっくりと呼吸をした。
身体は重い。
指先を動かすだけでも、少し遅れる。体も相変わらず気怠いが色々あったからしょうがないかと甘んじて受け入れる。
それにこのキヴォトスに、無事に帰ってこられた。それだけで今は十分だった。
「……おはようございます、先生」
黒夜は小さく言った。
「私、ちゃんと帰ってこられたんですね」
「うん」
先生は深く頷いた。
「ちゃんと帰ってきたよ。みんなのところに」
その言葉に、黒夜は目を伏せた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
神秘を失った空白とは別の場所に、確かなものが残っている気がした。
「……ご迷惑を、おかけしました」
「迷惑なんかじゃないさ」
先生は即答した。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「でも、ものすごく心配はした」
「……すみません」
「その言葉は、みんなからちゃんと怒られた後に言うのがいいよ?」
先生がそう言った直後、医務室の外から騒がしい足音が聞こえた。
「黒夜が起きたって本当!?」
「ミカさん、走らないでください!」
『黒夜が目を覚ましたってホント!?』
『ミカ、扉を壊すな。迷惑だぞ』
「だから私が最初に入るって言ってるでしょ!」
『私の方が先に心配してたんだから私が先!』
「同じ顔で揉めないでくれないかな……」
扉の向こうが、一気に混沌と化した。
黒夜は瞬きをした。
先生は苦笑した。
「……みんな、ずっと待ってたんだ」
「…みたいですね」
「入ってもらう?」
「……拒否権ってあるんですか? あるなら使いたいんですけど…」
その願いは、残念ながら叶わなかった。
扉が開いた瞬間、ミカとミカ*テラーが同時に飛び込んできた。
「黒夜!!」
『黒夜!!』
「うわっ……!」
黒夜は思わず身を引こうとしたが、身体がほとんど動かず、結果として二人に左右から覗き込まれる形になった。
「本当に起きてる! 黒夜、黒夜だよね!? 私の黒夜だよね!?」
『覚えてる!? 私のこと覚えてる!? 忘れてない!?』
「覚えています……覚えていますので、もう少し声量を……」
黒夜の弱々しい返答に、ミカは泣きそうな顔で笑った。
「よかった……本当に、よかったぁ……」
『黒夜のばか……ほんとにばか……』
二人は同じように泣きながら怒っていた。
続いてナギサとナギサ*テラーが入ってくる。
ナギサは一見落ち着いていたが、握り締めた手が震えていた。
「黒夜さん」
「はい」
「二度と、あのような真似はしないでください」
『約束してください。今度こそ、本当に』
二人のナギサは、ほとんど同じ声でそう言った。
黒夜は小さく頷く。
「……はい。もう、貴方たちの前から無断で消えたりしません」
その言葉に、ナギサの目元がわずかに緩んだ。
セイアとセイア*テラーは、少し遅れて静かに黒夜の傍へ来た。
セイアはじっと黒夜を見つめる。
「黒夜」
「はい」
「二度と、私の前から消えないでくれ」
その声は静かだった。
だからこそ、切実だった。
「君がいない未来など……もう、見たくない」
黒夜はすぐに返事ができなかった。
その言葉の重さを、ただ受け止める。
セイア*テラーは、いつものような皮肉を浮かべることなく、黒夜を見ていた。
『次に君が消えようとしたら』
彼女は静かに言った。
『私の力で……必ず捕まえるからね』
「……怖いですね」
『怖がってくれて構わないよ。地獄だろうと、世界の果てだろうと、君が逃げる先を全部見つけてみせる』
黒夜は弱々しく笑った。
「では、ずっと傍に居る事にします」
『そうしてくれ』
それは冗談めいていたが、誰も笑わなかった。
それだけ、黒夜が一度“消えた”と思われた時間は重かった。
その後も、次々と人が訪れた。
マコトは医務室に入るなり、涙目のまま黒夜を指差した。
「馬鹿者! この私を泣かせるなど、万死に値するぞ!」
「それは申し訳ありません」
「本当に申し訳ないと思っているなら、今後は私の許可なく危険な選択をするな!」
「それは……善処します」
「善処ではなく確約しろ!」
ヒナはマコトを押しのけるように前に出ると、黒夜をじっと見た。
「体調は?」
「身体は重いですが、意識ははっきりしています」
「しばらく絶対安静」
「はい」
「あと私以外から勝手に指導もされないで!」
「はい?」
「黒夜の師匠は私だから…小鳥遊ホシノでも美甘ネルでもなく私、わかった?」
「あー…」
「返事は?」
「たまに他で指導されるくらいは…?」
「ダメ」
ヒナの声は静かだったが、目は本気だった。
黒夜はここは一旦素直に頷くことにした。
カヨコは少し離れた場所から、黒夜を見ていた。
「……戻ってきたんだね」
「はい」
「ならいい、私は許してあげる」
それだけ言って、彼女は小さく息を吐いた。
その短い言葉の中に、どれだけの安堵が込められていたのか、黒夜には分かった。
リオとヒマリは、黒夜の状態について説明するためにやってきた。
ここに黒夜が運び込まれてすぐにプレナパテスから説明されたからだった。
「黒夜は、自分自身を消したのではない」
「代償にしたのは、彼の神秘だ」
その説明を受けた上で、リオとヒマリが検査を行った。
リオは端末を確認しながら、静かに結論を告げる。
「黒夜の神秘は、ほぼ完全に消失しているわ」
医務室にいた全員が息を呑む。
ヒマリが続けた。
「プレナパテスさんの説明とも一致します。黒夜さんは、自分自身ではなく、周囲へ影響を及ぼしていた神秘そのものを代償にしたのでしょう」
「つまり……」
ナギサが慎重に問う。
「黒夜さんを失ったことで、周囲の神秘が反転する危険性は……」
「大きく低下したと見ていいわ」
リオは頷いた。
「少なくとも、以前想定されていたような連鎖的なテラー化の危険は、ほぼ消えたと考えていい」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
けれど、ヒマリは表情を引き締めたまま言う。
「ただし、黒夜さんの身体への負荷は非常に大きいです。しばらくは絶対安静ですね」
「どのくらいでしょうか?」
「少なくとも、当分は戦闘禁止です」
黒夜は静かに目を逸らした。
「目を逸らさないでください」
ヒマリに即座に指摘される。
黒夜は観念したように頷いた。
「……はい」
そこで、ふと黒夜は自分の頭上へ意識を向けた。
「ちなみに、今の私が銃で撃たれたらどうなるのでしょうか?」
リオは即答した。
「そこは安心していいわ。ヘイローは正常に残っている。通常のキヴォトス生徒としての耐久性は維持されている」
「つまり、撃たれても相変わらず平気と」
「平気ではありません」
「気を付けます」
黒夜が素直に頷くと、ようやく何人かが小さく笑った。
それは久しぶりの、張り詰めていない笑いだった。
それから、プレナパテスの話になった。
彼はこの世界に留まることを選んだ。
この世界の先生とは違う形で、生徒たちを支える。第二のシャーレの先生として。
「ただ、先生が二人いると紛らわしいからね」
先生が苦笑すると、プレナパテスは少し考えた後、静かに言った。
「そうだね。気軽に……プレ先、とでも呼んでくれればいいさ」
「プレ先……」
黒夜が呟く。
プレナパテス――いや、プレ先は頷いた。
「その方が、この世界では過ごしやすいだろう?」
シロコ*テラーは、そんなプレ先の傍にいた。
以前と変わらず、彼の近くにいる。
けれど、それだけではない。
彼女はアビドスの三年生として、この世界で新しく過ごし始めているらしい。
「意外と馴染んでるよ~」
ホシノがのんびりと言った。
「うへ~、シロコちゃんが二人いるとちょっと不思議だけどね~」
その横で、シロコ*テラーとこの世界のシロコが向かい合っていた。
「ん、よわシロコ」
「ん、デブシロコ」
「ん!潰す!」
「ん!返り討ち!」
ほとんど同じ顔をした二人が、無表情のまま謎の言い合いをしている。
セリカが頭を抱えた。
「何なのよこの会話!?」
「仲が良さそうで何よりです」
黒夜がそう言うと、シロコとシロコ*テラーは同時にこちらを向いた。
「ん、仲良しじゃない」
「ん、違う」
「息ぴったりでは?」
二人は同時に顔を逸らした。
その様子に、医務室の空気が少し柔らかくなる。
その後、シロコ*テラーは黒夜のベッドの傍へ来た。
「黒夜」
「どうかしましたか?」
彼女は少しだけ視線を伏せた。
「私は、あなたに酷いことを言った……」
かつて、黒夜を保険と呼んだ。
起爆剤として扱った。
貴方の神秘が世界を殺すと告げた。
その言葉が、どれほど黒夜を傷つけたのか。
今なら、少しだけ分かる。
「ごめんなさい」
黒夜は、ベッドの上で静かに彼女を見た。
そして、小さく首を横に振る。
「必要なことを教えてくれたので、怒っていませんよ」
シロコ*テラーは目を細めた。
困ったような、呆れたような、少しだけ泣きそうな顔だった。
「黒夜……そういうところ、ずるいと思う…」
「よく言われる気がします」
「ん。たぶん、もっと言われた方がいい」
黒夜は苦笑した。
そうして、少しずつ日常が戻ってきた。
もっとも、黒夜が完全に自由になるにはまだ遠かった。
絶対安静。
その言葉は、全員に共有されていた。
そしてそのせいで、新たな問題が生まれていた。
黒夜はベッドの上で、ゆっくりと窓の外を見ていた。
身体はまだ重い。胸の奥には、神秘を失ったことで生まれた空白が残っている。けれど、それはもう痛みではなかった。
ただ、静かな余白だった。
その余白を埋めるように、部屋の外から騒がしい声が聞こえてくる。
「だから! 黒夜は元々ゲヘナの生徒だろう! 母校であるゲヘナで療養するのが一番安心に決まっている!」
マコトの声だった。
すぐにナギサの声が返る。
「それを言うのであれば、調印式の事件で療養していた時、黒夜さんはトリニティで過ごしていました。今回も引き続き、トリニティで静養していただくのが自然です」
「感情論は一度置いてちょうだい」
リオの冷静な声が割り込む。
「黒夜の神秘消失に伴う経過観察、身体機能の検査、各種データの取得を考えれば、最新機器の揃っているミレニアムが最も合理的よ」
「でも、左目の時は私たちがたくさん迷惑をかけたから……」
アツコの柔らかい声が続く。
「今度こそ、アリウスで黒夜の面倒を見るよ」
「いやいやいや! アリウスに病人を任せるのは流石に不安があるだろう!」
「ゲヘナも大概では?」
「トリニティも過保護が過ぎると思うけれど?」
「ミレニアムは検査と称して黒夜を機械に繋ぎそう」
「繋がないわ。必要があれば測定機器は使うけれど」
「それを繋ぐって言うんじゃないの?」
たぶんカヨコの声だった。
さらにミカとミカ*テラーの声が重なる。
「黒夜はトリニティでしょ!」
『黒夜は私たちの目の届くところ!』
「それは同じ意味では?」
『違う! 私たちの方がもっと近い!』
「近すぎるのも問題です」
『それを君が言うのかい?』
「黒セイアさん?」
『いや、何でもないよ』
通常のセイアとセイア*テラーの声まで混じり始める。
黒夜はそれを聞いて、少しだけ笑った。
あまり笑うと、まだ身体に響く。
それでも、笑わずにはいられなかった。
「……本当に、騒がしいですね」
傍にいた先生が、苦笑する。
「嫌?」
黒夜は首を横に振った。
「いいえ」
窓の外には、いつものキヴォトスの空が広がっている。
騒がしくて。面倒で。眩しくて。
それでも、自分が帰りたいと願った世界。
「帰って来たんだなって実感している最中ですよ」
黒夜は静かに目を細めた。
扉の向こうでは、まだ誰かが言い争っている。
誰が黒夜を看病するのか。
どこで療養させるのか。
どうすれば一番安全なのか。
その全部が、自分をここに繋ぎ止める声だった。
黒夜は小さく息を吐き、もう一度だけ呟いた。
「ただいま」
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
感想を送ってくださった方、高評価を押してくださった方、そして最後まで黒夜たちの物語を見届けてくださった方々のおかげで、ここまで書き続けることができました。改めて、心から感謝申し上げます。
正直なところ、ここまで長く続けられるとは自分でも思っていませんでした。ですが、読んでくださる方がいて、反応をいただけて、その一つ一つが大きな励みになりました。
今回で一つの区切りとなります。
今後については、少し時間を置きつつ、皆様の反応も参考にしながら考えていきたいと思っています。
もし「続きを読んでみたい」「このキャラとの話をもっと見たい」と思っていただけましたら、感想などで教えていただけると嬉しいです。
最後になりますが、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。