美食研究会への感謝の気持ち
昼を少し過ぎた頃のゲヘナ学園の食堂は、今日もまた騒がしかった。食器の触れ合う音、誰かの大声、何が面白いのか弾けるような笑い声、それらが幾重にも重なり合い、窓の外から聞こえてくる乾いた銃声や、腹の底に響くような爆発音と混ざり合って、ひどく自然に一つの風景を作っている。その常識外れの喧騒ですら、この学園では穏やかな昼下がりの証明みたいなものだった。
そんな食堂の一角、給食部が管理するキッチンの端を借り受けて、月城黒夜は黙々と手を動かしていた。白いエプロンの胸元にはわずかな飛沫の跡があり、鍋から立ちのぼる蒸気がその頬を撫でる。左目の眼帯はいつも通り静かにそこにあり、片目だけで火加減や湯の対流を見極める所作には、もはや不自由さを感じさせるものはなかった。むしろ足りないものを補うように、残された感覚が丁寧に研ぎ澄まされているようだった。
最後に味を整え、小さく頷く。
「よし、こんなものですね」
つい零れた独り言に、横で様子を見ていた愛清フウカがすぐに反応した。
「今さら黒夜の料理の腕を疑ってるわけじゃないけど、本当に大丈夫なの?」
腕を組みながら言うフウカの視線は、鍋よりも食堂の入口の方へ向いている。
「今日の相手、あいつ等でしょ?」
あいつ等、という言葉の意味を黒夜はすぐに理解した。
美食研究会
ハルナを筆頭に、アカリ、イズミ、ジュンコの四人からなるゲヘナでも有名な問題児集団である。今日はアリウスとの戦いの際、黒夜の頼みで援軍として駆け付けてくれた礼として料理を振る舞う約束をしていたのだ。
フウカの心配を、黒夜は軽く笑って受け止めた。
「最悪の時は私が爆破されるだけですから」
「フウカさんは心配しないでください。ちゃんと爆破される時もここから移動しますから」
フウカはジト目で黒夜を見つめる。
「いや、そこは移動するから良しじゃないのよ」
少し間を置いてから、彼女は自分で言い聞かせるように呟く。
「……まあ、あいつらも流石に同じゲヘナの生徒を爆破したりしないでしょ」
そして小さく付け加えた。
「……しないわよね?」
そんな会話をしていると、食堂の入口付近がざわつき始めた。何人かの生徒が露骨に道を空ける気配が広がる。
黒夜が顔を上げると、美食研究会の四人が姿を現していた。
先頭を歩くのは黒舘ハルナ。気品を纏うように背筋を伸ばし、その表情には上機嫌とも高慢とも取れる優雅な微笑がある。その後ろには、期待を隠しきれない様子で辺りを見回す獅子堂イズミ、既に何かいい匂いでも嗅ぎ取ったのかそわそわと落ち着きのない赤司ジュンコ、そして鰐淵アカリが、見つけた獲物に一直線な肉食獣のような眼差しでキッチンの方を見ていた。
黒夜はフウカに一言断りを入れると、エプロンを外して軽く整え、美食研究会のもとへ向かった。
軽く一礼しながら。
「どうも皆さん。今日は来てくださってありがとうございます」
すぐにハルナが口を開いた。
「ずいぶん待たされましたから、今日は期待してもいいんですわよね?」
試すような声音だったが、黒夜は穏やかに頷く。
「そうですね。私に出来る限りは尽くしたつもりです」
そして軽く手を差し出す。
「それでは、お嬢さま方。どうぞこちらへ」
案内された先には、食堂の一角とは思えないほど整えられた席が用意されていた。純白のテーブルクロスは丁寧に皺が伸ばされ、簡素な花瓶には小さな花が一輪だけ挿してある。過剰な装飾はなく、それでいて食堂の喧騒から一歩だけ切り離されたような、静かな空間がそこにあった。
ハルナはその演出に目を細め、悪くありませんわねと満足げに頷いたが、他の三人はどこかそわそわしていた。特にジュンコは椅子に腰を下ろしたあとも背筋を妙に伸ばし、視線をきょろきょろと泳がせている。イズミも落ち着かない様子でカトラリーを見つめ、アカリに至っては料理が運ばれてくる方向しか見ていなかった。
席に座るとジュンコが小声でイズミに囁く。
「わ、私テーブルマナーとか自信ないんだけど……こういう時どうするの?」
イズミも困った顔をする。
「いや、私に聞かれても……」
その様子を見てハルナが微笑んだ。
「親しい間柄にテーブルマナーなど必要ありませんわ」
そして黒夜を見ながら続ける。
「それに黒夜さんも、そんな事をいちいち気にする方ではありませんもの」
ジュンコとイズミは同時に安心した表情になる。
「じゃあ普通に食べよっか」
「うん」
最初に運ばれてきたのは、透き通った色をしたスープだった。具材は見当たらない。皿の底まではっきり見えるほど澄んでいて、それがかえって何か特別なもののように感じられた。黒夜がそれぞれにスプーンを手渡してくれる
「どうぞ召し上がってください」
そして、ひと匙口に含んだ瞬間、四人の表情が一斉に変わった。
その場の空気が変わる。
ただの澄んだスープのはずだった。だが舌の上に広がったのは、海そのものを丁寧に濾して抽出したかのような、幾層にも重なった旨味だった。貝の柔らかい甘み、白身魚の上品な出汁、甲殻類の奥行きある香ばしさ、それらが一つずつ主張しているのに、決して喧嘩をしない。むしろ互いを引き立て合いながら、一つの静かな完成形に収まっている。塩気は強くない。なのに物足りなさは微塵もなく、透き通る見た目に反して、味わいだけが豊かに何度も折り返してくる。
ジュンコが思わず声を上げた。
「うまぁぁ……」
イズミの目が輝く。
「なにこれ、すごい美味しい……透明なのに味がすごい!」
アカリはすぐに飲み干した。
「おかわりありますか?」
黒夜は少し驚きながらも微笑む。
「ええ、もちろんありますよ」
そしてハルナは、すぐには言葉を発せなかった。
料理を味わうことに関して、彼女は自負を持っている。良いものも悪いものも、それなりに見てきたし、口にしてきた。だからこそ、一年ぶりの黒夜の手料理をどこか上から目線でどれほど腕を上げたか確認しようという無自覚で傲慢な思いもあった、最初の一皿で黒夜の力量はおおよそ測れると、どこかでそう思っていた。ところが今、目の前に出された一品は、その物差しをあっさりへし折ってしまった。豪奢な見た目も奇抜な演出もない。ただひたすらに、味だけで黙らせる一皿だった。
「……これは驚きましたわ」
黒夜は静かに答える。
「お口に合ったようでよかったです」
アカリのおかわりをよそいながら、自然な笑顔を浮かべている。
その姿を見てハルナは内心で思う。
黒夜さんは不思議な人だ、と。
これほどの料理を作れるなら、もっと誇ってもいいはずだ。だが黒夜にはそれがない。ただ相手が喜んでくれることを望んでいるだけのように見える。
相変わらず底の見えない不思議で興味深い人物ですわね。
そんな思いが胸の奥で静かに芽生え始めていた。
そして次の皿が運ばれてくる。
今度は小ぶりな前菜の盛り合わせだった。白い皿の上に、まるで絵画のような配置で並べられている。薄く炙られた魚介に柑橘の香りを添えたもの、小さくまとめられた野菜のマリネ、香草を練り込んだペーストを塗った焼き菓子めいた一口サイズの何か。どれも量は多くないが、見るからに手間がかかっている。
アカリがまたしても勢いよく手を伸ばしかけ、ハルナに視線だけで窘められて手を止める。その一瞬の攻防に、イズミとジュンコが吹き出しそうになっていた。
黒夜はその様子を見て、少しだけ困ったように笑いながら、どうぞ冷める前が一番美味しいですからと促した。
最初に口にしたのはイズミだった。ぱくりと一口で炙りの魚介を食べた彼女は、次の瞬間、肩を跳ねさせる。うわ、これ好き、と非常に率直な感想が漏れた。表面の香ばしさのすぐ裏から、柑橘の明るい酸味が抜け、その後に身の甘みが静かに残る。単体でも美味しいが、添えられた野菜を合わせると味の輪郭がまた変わる。楽しい。美味しいだけではなく、食べる順番で表情が変わっていくのが純粋に楽しかった。
ジュンコは焼き菓子めいた一品を恐る恐る齧って、え、なにこれ、外側がシンプルなのに中がすごく濃い、と驚いていた。香草の香りとチーズの塩気、その奥に潜む旨味が思いのほか強く、しかし後味は重くない。その矛盾が面白くて、ついもう一口と手が伸びる。
アカリは既に皿の上を半分ほど平らげており、これ全部メイン前なんですか、と若干信じられないものを見るような目で黒夜を見ていた。
そしてアカリの目が更に輝く。つまり、まだこの後がある、と確認をしてから、ますます嬉しそうに食べ進めた。
ハルナは一つ一つを丁寧に味わいながら、胸の内で静かに評価を更新していく。先ほどのスープが奇跡的な一皿ではなく、目の前の人物の確かな技量の一端であることが、もう疑いようもなかった。しかも驚くべきは、その料理の方向性が決して自己主張一辺倒ではないことだ。技巧を見せつけるための料理ではない。食べる者の感情を少しずつほどき、期待を育て、次の一皿へ自然に気持ちを向けさせるために構成されている。
どこまでも相手本位。そう、料理にまでそれが滲み出ているのだ。
気付けばハルナは、味だけでなく作り手そのものを観察していた。テーブルの周囲を静かに回り、皿の減り具合や食べる速度を見ながら次の一手を決めている黒夜の動きには、給仕としての洗練すら感じられる。時折、左腕を庇うような癖が微かに見えるのは、つい最近まで骨折していた名残だろうか。左目の眼帯と合わせ、痛々しいはずのそれらが、妙な静けさの中に溶け込んでいた。
ジュンコがふと呟いた。
「これって、本当に報酬なんだよね?」
イズミも頷く。
「ちょっと貰いすぎてないかな?」
黒夜は少しだけ考えるように視線を落とした。
そして穏やかに言う。
「皆さんが来てくださったおかげで、助かった命がありますから」
「これくらいでは足りないくらいです」
その言葉に三人は少し照れた顔をした。
アカリだけは変わらず言った。
「じゃあ遠慮なく頂きますね!」
ハルナは小さく笑った。
善人すぎる人間。
その本質がまったく変わっていなかったのがうれしかった。
そして同時に思う。
黒夜の本気は、まだここでは終わらない。
やがて黒夜は一礼した。
「次が主菜になります」
「少しお時間を頂戴します」
キッチンへ戻っていく。
その背中を見送りながら、ハルナは静かに指を組んだ。
この昼食は、ただの礼ではない。
美食研究会として、一人の料理人と向き合う時間になっている。
そして同時に――
彼という人間そのものに、ますます興味が湧き始めていた。
キッチンから香ばしい匂いが漂い始める。
アカリが反応した。
「肉ですね」
ジュンコがごくりと喉を鳴らす。
「なんか緊張してきた」
イズミは楽しそうに笑う。
「でも絶対美味しいよね」
ハルナは優雅に微笑んだ。
「ええ、楽しみですわ」
騒がしいゲヘナの食堂の中で、そのテーブルだけが静かな期待に包まれていた。
そして黒夜は、キッチンの奥で主菜の仕上げに入っていた。
昼下がりのささやかな饗宴は、いよいよ佳境へ向かっていく。
ほどなくして黒夜が皿を運んで戻ってきた。
テーブルに丁寧に配膳されるメインディッシュ。
皿の中央には美しく焼き上げられた肉料理が盛り付けられている。表面には香ばしい焼き色が付き、ナイフを入れれば柔らかくほどけそうな質感が見て取れた。添えられたソースは濃厚そうでありながら上品な艶を持ち、周囲には彩りを添える野菜が控えめに配置されている。
視覚だけで分かる。
これは間違いなく一級の料理だ。
四人の喉が自然と鳴る。
さっそく頂こうかとフォークを手に取ったその瞬間だった。
「少しお待ちください」
黒夜の声で、四人の動きが止まった。
黒夜は軽く一礼すると、そのままキッチンへ戻っていく。
アカリが首を傾げた。
「まだ何かあるんですか?」
ジュンコも不思議そうに言う。
「メインディッシュの追加……?」
イズミは笑った。
「まさかもう一皿出るとか?」
ハルナは黙ってその様子を見ていた。
そして数十秒後、黒夜が戻ってくる。
その手に持っていたものを見て、食堂の空気が一瞬止まった。
ワイングラス四つ。
そして一本のワインボトルだった。
それを見た瞬間、食堂に居た生徒たちの視線が一斉にこちらへ向く。
ざわめきが広がる。
ジュンコが小声で言う。
「……あれって」
イズミが続ける。
「ワイン……だよね?」
二人は顔を見合わせた。
「まずくない?」
「私たち未成年だよ?」
「バレたら怒られるよね……?」
不安そうに囁き合う。
一方でアカリは違った。
目が輝いている。
完全に期待している顔だった。
ハルナは小さく息を吐き、代表して黒夜に問いかける。
「これは……ワインですか?」
黒夜はボトルをテーブルに置きながら首を傾げる。
「え?」
ハルナは言葉を続ける。
「流石のゲヘナでも、飲酒はまずいのではありませんか?」
周囲の生徒たちも聞き耳を立てている。
黒夜は一瞬きょとんとした顔をした。
そして次の瞬間、ぱっと表情を明るくする。
「あぁ!」
手を軽く打つ。
「すいません、これはワインのように見えますが」
ボトルを持ち上げながら説明する。
「中身は“高級葡萄ジュース”ですよ」
爽やかな笑顔だった。
「誤解させてしまいましたね」
その声は、周囲にもはっきり聞こえる大きさだった。
食堂のざわめきが少し落ち着く。
ジュンコがほっと息を吐いた。
「なんだ、ジュースか……」
イズミも安心したように笑う。
「びっくりした」
アカリだけは少し残念そうだった。
「ジュースですか」
黒夜は慣れた手つきでボトルを構える。
コルクを抜く音が静かに響いた。
その仕草は驚くほど優雅だった。
グラスを傾け、ゆっくりと液体を注ぐ。
深い紫色の液体がグラスの中で光を受け、柔らかく揺れる。
ハルナ達は、思わずその所作に見惚れていた。
静かな時間が流れる。
やがて四つのグラスが満たされた。
黒夜は軽く微笑む。
「お待たせしました」
手を差し出す。
「メインディッシュをお楽しみください」
ようやく許可が出る。
四人は同時に料理へ手を伸ばした。
ナイフが肉に触れる。
その瞬間、抵抗はほとんどなかった。
柔らかい。
驚くほど滑らかに刃が入る。
ジュンコが思わず声を漏らす。
「うわ……」
イズミも驚く。
「すご……」
アカリは既に一口食べていた。
「美味しい…」
それだけだった。
だがその声には確かな満足が込められていた。
肉汁が溢れる。
濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
それを葡萄ジュースで流す。
また一口食べる。
気が付けば、四人の口数は自然と少なくなっていた。
決して不味いわけではない。
むしろ逆だ。
美味しすぎるのだ。
この味わいを逃さないよう、全員が無意識に集中していた。
肉の甘み。
ソースの深み。
付け合わせの野菜がそれを整える。
そして葡萄ジュースの爽やかな酸味が、口の中をリセットする。
完璧な流れだった。
やがてハルナのグラスが空になる。
黒夜はそれにすぐ気付いた。
何も言わずにボトルを持ち上げる。
そしてグラスへ注ごうとしたその瞬間だった。
ハルナの視線が、ふとボトルのラベルへ向いた。
そこに書かれていた文字。
アルコール表記がはっきりと、存在していた。
ハルナの思考が一瞬止まる。
え?
慌てて黒夜の方を見る。
黒夜はちょうど注ぎ終わったところだった。
その瞬間、黒夜もハルナの視線に気付く。
そして。
ほんの少しだけ微笑んだ。
ゆっくりと、人差し指を口元に立てる。
静かに。
そして小さく肩をすくめる。
――黙っていれば、バレませんよ。
言葉ではない。
だが確かに伝わるジェスチャーだった。
ハルナの顔が一瞬で赤くなる。
完全に不意打ちだった。
この男、最初から分かっていてやっている。
食堂全体に聞こえる声で「ジュース」と説明しながら、実際には本物を出している。
しかも堂々と。
ハルナは思わず視線を逸らす。
胸の奥が妙にざわつく。
驚き。
呆れ。
そして、少しだけ可笑しさ。
黒夜は何事も無かったようにボトルを置いた。
そのまま自然にテーブルから離れる。
完全に平然としている。
ハルナは小さく息を吐いた。
そして言葉ではなく、静かに頷く。
了解しましたわ。
そういう意味を込めて。
グラスを持ち上げる。
ほんの少しだけ口に含む。
ワインの味だった。
ハルナはまた少し顔を赤くする。
まったく困った人ですわ。
この昼食は、まだ終わりそうにない。
そしてその時間は、予想以上に楽しいものになりつつあった。
デザートが運ばれてきた頃には、食堂の一角だけがすっかり別の場所のようになっていた。最初は半ば物珍しさと警戒を含んでこちらを見ていた周囲の生徒たちも、今ではあからさまに近寄ることこそしないものの、遠巻きに様子を窺っている。純白のテーブルクロスの上に並ぶ皿はどれも綺麗に片付いていて、最後に残った甘味だけが、この昼食会の余韻を惜しむように静かに存在を主張していた。
黒夜が用意したデザートは、ここまでの流れに違わず、見た目にも洗練されたものだった。食後に重すぎず、それでいて満足感を損なわない絶妙な塩梅。冷たさと甘さ、果実の香り、口に残る後味の軽やかさ。そのすべてが、この時間を綺麗に締め括るために計算されていることが伝わってくる。
イズミはスプーンを口に運ぶたびに表情を緩め、ジュンコは完全に警戒心を失った顔で夢中になっていた。アカリですら、ここに至っては量よりも味わいそのものを噛み締めているようで、食べる速度は普段より幾分ゆっくりだった。ハルナはそんな三人を眺めながら、静かにデザートを口に含む。
美味しい、という言葉だけでは足りないと思った。
料理の一皿一皿が完成度の高いことは、もはや疑いようがない。それだけではない。最初のスープから始まり、前菜、魚料理、肉料理、そして今のデザートに至るまで、流れそのものが一つの物語のように組み立てられている。軽やかに始まり、期待を膨らませ、深みへ沈み、最後に柔らかく着地する。食べる者の感情を静かに導くその構成力は、美食研究会の部長であるハルナから見ても、決して無視できるものではなかった。
この人は、料理の腕だけではなく、食事という時間そのものを作っている。
そんな評価が、もはや当然のように胸の内で固まりつつあった。
そして何よりも厄介なのは、そのすべてが嫌味なく行われていることだった。技術を誇示するでもなく、恩を売るでもなく、ただ相手に楽しんでほしいという顔でやってのける。善意が自然体すぎて、受け取る側が勝手に言葉を失ってしまうのだ。
最後の一口を味わっていた頃、黒夜がテーブルの側へとやって来た。エプロン姿のまま、しかし姿勢だけは丁寧に整え、四人の表情を順番に確かめるように視線を巡らせる。その眼差しには、料理人特有の緊張と、もてなす側としての不安が滲んでいた。
「どうですか? 皆さん、ご満足いただけましたか?」
その問いかけに、真っ先に反応したのはジュンコだった。先ほどまでデザートを惜しむように味わっていたはずなのに、もう完全に興奮が勝っている。
「すごく美味しかった!」
勢いよく身を乗り出しながら、ジュンコは目を輝かせる。
「いや、ほんとに想像以上だったっていうか、最初のスープから最後までずっと美味しかったし、なんか途中から食べるたびに『まだ上があるの!?』ってなって……その、えっと、とにかくすごかった!」
あまりに率直で、あまりに飾りのない感想だった。だがそのぶん、嘘のない満足が真っ直ぐ伝わってくる。
黒夜は少し目を丸くしてから、嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、本当に作った甲斐があります」
続いてイズミも、感動を隠しきれないまま言葉を重ねる。
「うん、すごかったよ。なんていうか、一皿ずつちゃんと違う楽しさがあって、それなのに全部ちゃんと繋がってて……また食べたいですね」
最後の一言には、食いしん坊というより純粋な称賛が乗っていた。美味しいものに出会った時の素直な憧れ。それを受けて、黒夜は丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます。機会があれば、ぜひまた」
その返答にイズミがぱっと顔を明るくする。社交辞令ではなく、本気でまた作るつもりなのだと分かったのだろう。そのこと自体が嬉しいらしかった。
黒夜は二人へ礼を告げたあと、今度はアカリへと視線を向けた。そこには少しだけ、先ほどまでとは違う種類の遠慮があった。彼は彼女の食欲をよく知っている。いや、ゲヘナで美食研究会の一員として知られている以上、知らない方が難しいと言ってもよかった。
「アカリさんは……」
一度言葉を切る。
「今日は余り量が用意できませんでしたが、満足していただけましたか?」
その問いには、料理の出来への確認だけではなく、量が足りなかったのではないかという本気の心配が滲んでいた。
アカリはすぐには答えなかった。珍しく少しだけ考え込むように視線を落とし、手元の空になった皿を見つめる。普段の彼女なら、量に関しては即答で物足りないと言ってもおかしくない。いや、おそらくそれが自然ですらある。だが今は、そう単純には口にできない何かがあった。
やがてゆっくり顔を上げる。
「量だけで言えば、物足りないです」
非常にアカリらしい、率直な答えだった。ジュンコが思わず小さく吹き出し、イズミも肩を揺らす。だがアカリはそこで終わらせず、真面目な顔のまま続けた。
「でも」
少しだけ視線を柔らかくする。
「黒夜さんが、私たちのために全力で作ってくれた料理の数々で、心が満たされたのか……不思議と満腹なんですよね」
その言葉は、テーブルの上に静かに落ちた。
気の利いた表現ではない。洒落た比喩でもない。けれど、だからこそ重みがあった。アカリが本気でそう感じていることが、その声音だけで十分に分かってしまう。
黒夜は一瞬だけ目を見開いた。さすがにそこまで言ってもらえるとは思っていなかったのだろう。すぐにいつもの柔らかな微笑みに戻ったが、その頬にははっきりと喜色が滲んでいる。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯のようだった。
そして最後に、黒夜の視線はハルナへと向いた。
最初に彼を試すような言葉を投げかけたのも、料理を最も厳しく見定めようとしていたのも彼女だった。だからこそ、最後にその口からどんな評価が出るのかを気にしてしまうのは、黒夜にとっても自然なことだった。
ハルナはそんな彼の様子を見て、小さく口元を緩める。
今日は本当に満足していた。料理の味も、流れも、そしてその裏にある真摯さも。多少なりとも心配させた意趣返しに厳しい事を言ってやろうかと思わなくもなかったが、この時間を前にしてはそれも無粋に思えた。
だからこそ、彼女は珍しく素直に言う。
「今日は本当に美味しかったですわ」
一拍置く。
「黒夜さんも、随分と腕を上げられましたわね」
その言葉には、上から目線の響きがあるようでいて、実際にははっきりとした称賛が込められていた。ハルナなりの最大級の賛辞と言ってもよかった。
黒夜はそれを受け取り、目に見えて嬉しそうにした。肩の力が抜けるように表情が和らぐ。
「ありがとうございます」
そして少し照れたように続ける。
「本日は楽しんでもらえたようで、よかったです」
その顔を見て、ハルナはほんの僅かに胸の奥がくすぐられるのを感じた。こうもあっさり喜ばれると、言った側まで気恥ずかしくなる。先ほどのワインの件もそうだが、この男は妙なところで人の調子を狂わせる。
だが、黒夜の言葉はそれで終わりではなかった。
「あぁ、それと」
自然な口調のまま、さらりと付け加える。
「この後は大人しくしておいた方がいいでしょう」
何気ない忠告のようでいて、そこにはどこか含みがあった。
「特に、車の運転などしてはいけませんよ」
ジュンコ、イズミ、アカリの三人は、ほぼ同時に不思議そうな顔をした。
「え?」
「なんで?」
「私たち、そんなに食べすぎましたか?」
それぞれが首を傾げる中、ハルナだけは意味を理解してしまっていた。あのワインボトルのラベル。自分だけが見てしまったアルコール表記。そして、口元に立てられた人差し指。
つまりこれは、黒夜なりの最後の念押しだ。
ばらさず、騒がず、けれど危険は避けてほしい。
その配慮が分かった瞬間、ハルナは再び少しだけ頬が熱くなるのを感じた。周囲の三人には意味が分かっていないのだから、ここで余計な反応を見せるわけにもいかない。
だから彼女は、あくまで自然に、優雅な笑みを崩さず返す。
「ええ、本日はもうお腹がいっぱいですから」
グラスを置く仕草まで淀みなく整えて続ける。
「今日くらいは、ゆっくり過ごさせてもらいますわ」
黒夜はそれを聞いて、静かに頷いた。その目には、一瞬だけ通じ合った者同士のような安堵が浮かんでいた。
三人は依然としてよく分かっていない様子だったが、ハルナが納得しているのならそれでいいか、と深く追及することもなかった。美味しい料理の余韻が強すぎて、細かいことに頭を使う気が起きないというのもあったのだろう。
やがてデザートも綺麗に食べ終え、四人は席を立つ。満足感がそのまま表情に出ていた。特にアカリは、量だけで言えば足りないと口にしたにもかかわらず、どこか穏やかな顔をしている。イズミは終始楽しそうで、ジュンコは食後特有の幸福感に緩み切っていた。
ハルナは席を離れる前に、もう一度だけテーブルの上を見渡した。最初の警戒や試す気持ちは、もうどこにも残っていない。ただ、久しぶりに心から満ち足りた昼食だったという感覚だけがある。
「ごちそうさまでしたわ」
その一言に、黒夜は丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございました」
四人はそのまま食堂を後にした。行きと違って、足取りには露骨な高揚と緩みがある。イズミとジュンコは今食べた料理の感想を早速語り合い始め、アカリはまた食べたいですねと真顔で呟き、ハルナはそんな三人を見ながら、まったくと内心で小さく笑った。
だが、その騒がしささえ今日は妙に心地よい。おそらく自分も、同じくらい満たされているのだろうと認めざるを得なかった。
四人の姿が食堂から消えると、そこに残されたのは食後の余韻と、後片付けに取り掛かる黒夜の背中だった。テーブルクロスを整え、食器を下げ、キッチンへ戻る。料理を作っていた時の張り詰めた雰囲気は抜け、今はどこか穏やかな達成感が漂っていた。
そんな彼のもとへ、フウカがやって来る。腕を組んだまま、少しだけ疑わしそうな顔をしていたが、その目はしっかりとキッチンの隅へ向いている。そこには、先ほど使っていたワインボトルがまだ置かれていた。
「ねぇ」
フウカが声を潜める。
「あのワイン、少し余ってるなら飲ませてくれない?」
黒夜は皿を運んでいた手を止め、振り返った。その表情に驚きはない。むしろ、やっぱり気付いていましたか、とでも言いたげな穏やかな笑みが浮かぶ。
「ええ、もちろんいいですよ」
ボトルを手に取り、中身を確かめるように軽く傾ける。
「丁度あと一杯分くらいはありますからね」
そう言うと、黒夜は手近なグラスを取り出して、残っていた液体を丁寧に注いだ。深い色合いが再びガラスの中を満たしていく。その様子を見ながら、フウカは半ば呆れ、半ば感心したように肩を竦める。
「ごめんね。私も少し気になってたんだよね、このワイン……」
グラスを受け取ると、恐る恐るといった様子で一口だけ口をつける。次の瞬間、目が少し見開かれた。
「……すごい」
思わず本音が零れる。
「口当たりが良くて、すごく飲みやすい……」
それはワインに詳しい者の評価ではない。ただ、美味しいものを口にした時の純粋な驚きだった。黒夜は皿を洗いながら、その感想に小さく笑う。
「癖が少なくて、香りが綺麗なんですよね」
さらりとした説明は、まるで日常的にそういうものを選んでいる人間のように自然だった。フウカはグラスの中を見つめながら、妙な不安がじわじわと膨らんでくるのを感じる。
この感じ、ただの良いワインではないのではないか。
しかも、さっきまで未成年の生徒四人にこっそり飲ませていたのだ。いや、本人たちは三人ほど完全に気付いていなかったが、問題の本質はそこではない。
フウカは咳払いを一つしてから、恐る恐る尋ねる。
「このワインの値段って、どれくらいなの?」
聞かなければよかったと後悔する予感が、既に半分くらいしていた。
黒夜は皿を洗う手を止める。
「えーと、確か……」
そう言いながら手を拭き、ポケットからスマホを取り出した。少し慣れた手つきで画面を操作し、目的のページを見つける。そして何の気負いもなく、その画面をフウカの前に差し出した。
「これくらいですね」
そこに表示されていた数字を見た瞬間、フウカの思考は止まった。
六百万クレジット。
一杯いくら、などという次元ではない。ボトル一本の値段として認識することすら脳が拒否したくなるような額だった。
「っ、げほっ……!?」
飲み込もうとしていたワインが盛大に気管に入り、フウカは激しく咳き込んだ。慌てて黒夜が背中をさすろうとしたが、彼女はそれを手で制しながらどうにか呼吸を整える。
数秒後、ようやく落ち着きを取り戻したフウカは、信じられないものを見る目で黒夜を睨んだ。
「黒夜!!」
思わず声が大きくなる。
「なんてもん気軽に出してんのよ!?」
食堂にまだ残っていた何人かが、びくりと肩を震わせてこちらを見た。それでもフウカは構わなかった。だっておかしい。どう考えてもおかしい。学食の一角で、しかも未成年への誤魔化し込みで、そんな代物をさらっと出していいはずがない。
だが黒夜は、怒鳴られた本人とは思えないくらい穏やかだった。少し困ったように笑いながら、まるで当たり前のことを言うように返す。
「それぐらい感謝しているって事ですよ」
その言葉に、フウカは二の句が継げなくなる。
ふざけているわけではない。本気だ。この男は本心から、あの四人が助けに来てくれたことにそれだけの価値を感じていて、だからこそこのくらいは当然だと思っている。頭がおかしいと言いたくなるような金銭感覚の飛び方を、妙な誠実さで塗り潰してしまうのだ。
フウカは片手で額を押さえ、大きく息を吐いた。
「……ほんと、あんたって時々とんでもないわね」
呆れ半分、感心半分。そんな声だった。
黒夜は答えず、ただ皿洗いを再開する。水の音が静かに響く。ついさっきまで豪華な昼食会の舞台だった場所で、今はただ後片付けだけが進んでいる。そのギャップが妙に可笑しくて、フウカはもう一度グラスに口をつけた。
美味しい。悔しいくらいに。
これが六百万の味かと言われても、正直その価値はよく分からない。だが少なくとも、簡単に手に入るものではないということだけは確かだった。そしてそんなものを、報酬の席だからという理由でさらっと使ってしまう月城黒夜という男の危うさも、改めてよく分かった。
あいつらも知らぬが仏ね、とフウカは小さく呟く。
ハルナは一応気付いていたようだったが、ジュンコもイズミもアカリも、恐らくあの一杯の正体を最後まで高級葡萄ジュースだと思っているのだろう。いや、ハルナが黙っていた以上、この先もそう信じ続ける可能性すらある。
想像すると少しだけ可笑しくて、そして少しだけ羨ましくもあった。あれほどの料理と、あれほどのワインを、ただ純粋に美味しい時間として受け取れたのだから。
黒夜は洗い終えた皿を拭きながら、ふと思い出したように言う。
「そういえばフウカさん」
「なによ」
「今日の件、美食研究会の皆さんには内緒にしておいてくださいね」
その声音はどこまでも穏やかで、頼み事というより確認に近かった。
フウカは半眼になる。
「今さら言うと思う?」
そして小さく肩を竦めた。
「言ったところで、どうせ信じないでしょ。あいつら」
それもそうですね、と黒夜が笑う。その笑い方が妙に楽しそうで、フウカはますます呆れた。
食堂の外では、相変わらず銃声と爆発音が絶えない。いつものゲヘナだ。騒がしくて、危なくて、どうしようもなく秩序が足りない。けれど、そんな日常の片隅で、今日だけは少しだけ特別な時間が流れていた。
誰かの助力に感謝して、全力で料理を振る舞う少年がいる。そんな彼のもてなしに、問題児たちが本気で心を奪われて帰っていく。しかもその裏では、とんでもない値段のワインが何食わぬ顔で開けられている。
ひどく馬鹿げていて、ひどくゲヘナらしくて、そして妙に温かい出来事だった。
フウカは最後に残ったワインを飲み干し、空になったグラスを見つめる。
「……まあ」
ぼそりと零す。
「たまにはこういうのも、悪くないか」
その呟きに、黒夜は手を止めて振り返った。
「何か言いましたか?」
フウカはすぐに顔を背ける。
「別に。独り言」
そう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
黒夜もそれ以上は聞かず、ただ柔らかく笑ってまた片付けに戻る。水音と食堂の喧騒が混ざり合う中、昼下がりのささやかな饗宴は、ようやく静かに幕を閉じたのだった。