ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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少しだけ、私を見てください

 その日は、珍しく穏やかな日だった。

 

 トリニティの空は高く澄み、窓の向こうに広がる中庭にも、どこかゆったりとした空気が流れている。忙しさが消えたわけではない。やるべき仕事も、気を配るべき問題も、学園の上に立つ者として目を逸らせない課題も、変わらずそこにある。それでも今日は、午前中のうちに主だった業務がひと通り片付き、午後からは比較的自由な時間が取れそうだった。

 

 それだけでも十分に気が楽になるというのに、今日はもう一つ、ナギサの胸を静かに満たしている要素があった。

 

 黒夜が、トリニティに来ている日。

 

 それだけで、今日という日の輪郭が少しだけ柔らかく感じられるのだから、自分でもどうかしていると思う。かつての自分であれば、こんなささやかな幸福にすら恐怖を覚えていたかもしれない。いつまでここにいてくれるのか、またどこかへ行ってしまうのではないか、次はもう戻ってこないのではないか。そんな不安ばかりが先に立ち、穏やかな時間を穏やかなまま受け取ることなど出来なかった。

 

 けれど今は違う。

 

 少なくとも、以前よりは。

 

 彼を閉じ込めなくても、疑わなくても、ちゃんとここへ来てくれる。自分たちのもとへ戻ってきてくれる。ゲヘナとトリニティ、その両方を居場所として選んだ上で、それでもこちらへ足を向けてくれるのだと知っているからこそ、今日のような日は素直に嬉しいと思えた。

 

 午前の視察を終えて学園へ戻る道すがら、ナギサはふとそんなことを考えていた。予定していた確認事項はすべて滞りなく終わった。生徒たちの様子にも大きな問題はない。午後の急ぎの案件も今のところ入っていない。執務室へ戻れば、しばらくは落ち着いて過ごせるはずだった。

 

 ならば、その時間をどう使うか。

 

 考えるまでもない。

 

 ほんの少しでいい。長い時間でなくても構わない。ただ、黒夜と二人で紅茶を飲みながら、他愛のない話をする。任務のことでも、最近の学園のことでも、あるいは本当にどうでもいいような日常の断片でもいい。そういう静かな時間を、今日は持てるかもしれない。

 

 そんな期待を胸の奥にそっとしまい込みながら、ナギサは執務室へと向かった。

 

 扉を開けた瞬間、彼女の視線は反射的に室内を探す。

 

 だが、そこにいたのはセイアただ一人だけだった。

 

 窓際に差し込む午後前の光の中で、セイアはいつものように落ち着いた様子で書類に目を通していた。ナギサが入ってきたことに気付くと、静かに顔を上げる。その表情は穏やかで、何の含みもない。

 

「おかえり。視察は問題なかったかい?」

 

 労わるような声音だった。

 

 ナギサはすぐにいつもの調子を取り戻す。

 

「ええ、特に問題ありませんでした」

 

 続けてなるべく自然に尋ねる。

 

「ところで、黒夜さんは今どこに居るか知ってますか?」

 

 何気ない問いのつもりだった。少なくとも、そう聞こえるようにしたつもりだった。だが、わずかに弾んだ自分の声を、ナギサ自身ははっきりと自覚していた。

 

 セイアは何でもないことのように答える。

 

「黒夜なら、少し前にミカに相談があると頼まれて一緒に出掛けているよ」

 

 さらりと続く言葉に、ナギサの指先がほんの少しだけ止まった。

 

「恐らく今度使う資料でも準備しているんじゃないかな?」

 

 それだけだった。

 

 ただの説明。何の悪意も含まれていない、事実を述べただけの一言。

 

 ナギサはすぐに頷く。

 

「そうですか」

 

 声は平静そのものだった。少なくとも表面上は、何一つ乱れていないように見えたはずだ。

 けれど胸の奥では、小さな期待が肩透かしを食らったようにしぼんでいくのを感じていた。

 

 ミカに相談を頼まれたのなら仕方がない。黒夜はそういう頼みを無下に出来る性格ではないし、実際、彼が居て助かることは多い。トリニティでの立場も、今や正式な専属護衛だ。必要とされれば動くのは当然だし、それを責めるのは違う。

 

 分かっている。

 

 資料の準備程度なら、そう長引くこともないだろう。少し待てば戻ってくるはずだ。たまたま自分が帰ってきた時に席を外していただけ。それだけのこと。

 

 ナギサはそう考えて、自分を納得させた。

 

 今日は少しだけ、自分で紅茶を淹れてみてもいいかもしれない。戻ってきた黒夜に、一緒にどうですかと声をかけるのも悪くない。そんな風に思い直しながら、彼女は静かに湯を注いだ。

 

 茶葉が開いていく香りは、いつだって心を落ち着かせる。だが今日は、落ち着かせようとするたびに、別の感情が底から浮かび上がってくる気がした。

 

 少しだけ、残念だった。

 

 それだけのはずなのに、その「少し」が思ったより心に引っかかっている。

 

 待てばいい。そう自分に言い聞かせながら、ナギサは手元のカップに視線を落とした。

 

 執務室には静かな時間が流れた。

 

 時計の針が進む音は聞こえないが、それでも時間だけが確実に過ぎていくのが分かる。書類をめくる音、ティーカップがソーサーに触れる小さな音、窓の外から微かに届く生徒たちの喧騒。それらが混ざり合う中で、ナギサは表面上の平静を保ちながら、内心では何度も扉の方へ意識を向けていた。

 

 もうそろそろ戻ってきてもいい頃ではないか。

 いや、資料準備なのだから多少時間がかかっても不思議ではない。

 それにミカのことだ。途中で話が逸れている可能性もある。だとしても、それは別に珍しいことではない。

 そんな風に考えながらも、時間が一時間ほど過ぎた頃には、流石に気持ちの整理が追い付かなくなり始めていた。

 

 一時間。

 

 資料の準備にしては少し長い。

 もちろん、ミカが相手ならそれくらいはあり得る。そう頭では理解できる。だが理解と感情は別だった。

 ようやく扉が開いたのは、その少し後のことだった。

 ナギサは反射的に顔を上げる。

 

 入ってきたのは、黒夜とミカだった。

 

 二人は何やら楽しそうに会話をしながら戻ってきていた。ミカはいつも通り感情の起伏が分かりやすく、笑いを含んだ明るい表情をしている。黒夜もそれに穏やかに応じていて、硬さのない、柔らかな空気が二人の間に流れていた。

 

 その光景を見た瞬間、ナギサの胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さる。

 別に、何もおかしなことではない。

 ミカが楽しそうにしているのも、黒夜がそれに付き合っているのも、いつも通りだ。むしろ微笑ましいと言ってもいいはずの光景だった。

 それなのに、何故か心がざわついた。

 戻ってきたのなら、今度こそ話しかけられる。そう思ってナギサが口を開きかけた、その時だった。

 

「戻ってきて早々にすまないが」

 

 先に声を掛けたのはセイアだった。

 落ち着いた声音で、黒夜へ視線を向ける。

 

「他校に関する事で相談があるのだが、少しいいかい?」

 

 黒夜は足を止め、すぐに応じる。

 

「ええ、もちろんです。何か問題が?」

 

「問題というほどではないが、少し整理しておきたい事があってね」

 

「承知しました」

 

 そうして二人は自然に仕事の話へ入っていった。

 ごく自然に。何の淀みもなく。

 ナギサの口元で、掛けるはずだった言葉が行き場を失う。

 ほんの一瞬だった。けれどその一瞬で、またしても自分の番が後ろへずれたことを、彼女は嫌というほど理解してしまった。

 その時、ミカがようやくナギサに気付いた。

 

「あれ、ナギちゃん戻ってきてたんだね」

 

 ぱっと明るい声が向けられる。

 ミカはすぐに首を傾げた。

 

「……あれ?」

 

 無邪気な観察が、遠慮なく続く。

 

「なんか微妙に不機嫌?」

 

 ナギサは一拍遅れて、すぐに笑顔を作った。

 

「そうですか?」

 

 なるべく何でもないように返す。

 

「気のせいではないですか?」

 

 言いながら、自分の表情筋がほんの少しだけ強張っているのを感じていた。

 

 ミカはうーんと首を傾げる。深く考えているというより、素直に感じた違和感をそのまま口にしただけなのだろう。そういうところがミカらしくもあり、時々少しだけ困るところでもある。

 

 ナギサはそれ以上話を広げさせないように、すっと紅茶へ手を伸ばした。

 

「今日は少し疲れているだけです」

 

 それらしい理由を添える。

 

「視察から戻ってきて。そう見えても不思議ではないでしょう?」

 

「そうかも?」

 

 ミカはあっさり引き下がったが、完全に納得したわけでもなさそうだった。それでも深追いしないあたりは、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。

 ナギサはカップを口元へ運ぶ。紅茶の温度はちょうどいいはずなのに、妙に味が薄く感じられた。

 

 視界の端では、黒夜とセイアの会話が続いている。内容自体は真面目なものだ。学園間のやり取り、今後の立ち回り、書類の整合性、そういった執務室に相応しい話題が淡々と交わされている。だからこそ余計に、そこへ割って入る隙が見当たらなかった。

 

 ミカと黒夜は楽しそうに戻ってきた。

 戻ってきたと思えば、今度はセイアが黒夜を捕まえる。

 そして黒夜は、当然のようにそちらへ向かっていく。

 

 誰も悪くない。

 

 ミカも、セイアも、黒夜も。

 分かっている。そんなことは、最初から。

 

 黒夜が皆に必要とされていることも理解している。自分だけのものではないことも、痛いほど理解している。そもそも、彼を「自分だけのもの」にしたいという欲求がどれほど危ういものだったか、自分は誰よりよく知っているではないか。

 

 それでも。

 

 それでも感情は別だった。

 今日は少し話せると思っていた。

 一緒に紅茶を飲めると思っていた。

 ほんの少し、自分のための時間があると思っていた。

 その期待が、誰にぶつけることも出来ないまま、じわじわと胸の奥に熱を持って溜まっていく。

 こんなことで気を悪くするなんて、子供じみている。ナギサは自分でそう思った。思いながら、止められない。

 

 紅茶を口に運ぶ回数がまた増える。読みかけの書類に目を落としても、文字が頭に入ってこない。黒夜に話しかけるタイミングを探そうとするたび、会話の隙間が見つからず、それがまた小さな苛立ちとなって積み重なる。

 ナギサは自分でも自覚するほど、少しずつ不機嫌になっていた。

 

 ただし、それを表に出すほど幼くもない。だからこそ厄介だった。

 

 顔には微笑を貼り付け、声色は変えず、返事も必要最低限は整える。けれど、ほんの少しだけ相槌が短くなる。視線を合わせる時間が減る。カップを置く音が、普段よりわずかに固くなる。そういう、ごく小さな変化だけがじわじわと積み重なっていく。

 

 黒夜はそのことにまだ気付いていない。

 

 彼はセイアの話に真剣に耳を傾け、必要なことを整理し、丁寧に受け答えしている。その横顔は真面目で、頼もしくて、だからこそナギサは余計に複雑な気持ちになった。

 

 彼は、こういうところがある。

 

 必要とされれば断れない。誰かのためになるなら、自分の時間をいくらでも差し出してしまう。だからこそ信頼され、頼られ、好かれるのだと分かっている。分かっているからこそ、その優しさに救われてきた自分が、その優しさに対して不満を抱いているような気がして、ますます居心地が悪くなる。

 

 やがてセイアとの話が一区切りついたらしく、黒夜が小さく頷いた。

 

「では、その件はこちらで一度整理しておきます」

 

「助かるよ」

 

 セイアがそう返した時、今度こそと思ってナギサは顔を上げた。

 だが黒夜が彼女の方へ向くより先に、ミカが椅子から身を乗り出した。

 

「ねえ黒夜、さっきの続きなんだけど」

 

 何気ない調子で呼び止める。

 

「資料の並べ方、やっぱりこっちの方が見やすいと思うんだよね。もう一回見てもらってもいい?」

 

 黒夜はすぐにそちらを見た。

 

「ええ、構いませんよ」

 

 そしてまた、自然にミカの側へ行ってしまう。

 ナギサはその様子を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 ミカに悪気などない。むしろ彼女は本当にそう思って、ただ助けを求めているだけだ。だが、それでも今この瞬間だけは、その無邪気さが少しだけ恨めしく感じられてしまう。

 

 自分は何をしているのだろう。

 

 順番を待つ子供のように、心の中で不貞腐れている。そんな自分を客観的に見てしまい、ナギサはさらに気分が沈んだ。

 言えばいいのだ。少し時間をいただけますか、と。今日は一緒に紅茶を飲みたかったのだと。それくらい、言葉にしてもいいはずだ。今の自分たちなら、以前のように歪んだ形にならずとも、きっと受け止めてもらえる。

 

 なのに、その一歩が踏み出せない。

 

 いざ口にしてしまえば、自分がどれほど彼との時間を期待していたのか、どれほど彼に意識を向けていたのか、全部知られてしまう気がした。そんなことはとうに知られているのかもしれないが、それでも改めて言葉にするのは別の話だ。

 

 だからナギサは、結局何も言えないまま、またティーカップを手に取る。

 視線の先では、ミカが資料を広げ、黒夜がその隣で身を屈めている。二人の距離は近い。必要があってそうしているだけだと分かっていても、胸の奥がちくりと痛んだ。

 

 ナギサの表情は崩れていない。だが、長く付き合ってきた者なら分かる程度には、機嫌の揺れが見え始めていた。

 穏やかな日になるはずだった午後は、いつの間にか、ナギサ一人の胸の内でひどく落ち着かない時間へと変わっていた。

 そして彼女自身、その感情がまだ始まりに過ぎないことを、薄々理解していた。

 

 そんなこんなで、気が付けば時刻はすっかり夕方へ差し掛かっていた。

 

 窓の外に差し込む光は柔らかく傾き始め、執務室の中にも昼間とは違う落ち着いた影が伸びている。静かな一日になるはずだった午後は、結局ほとんどずっと誰かしらの用件で埋まり、気付けば紅茶も何度か淹れ直されていた。ナギサの手元のカップはとうに空になっている。けれどそれを新たに満たそうという気力は、もうあまり残っていなかった。

 

 自分でも呆れるくらい、今日はひどく子供っぽい。

 そう思いながらも、ナギサの内側に積もったもやもやは、時間が経つほど綺麗に消えるどころか、むしろ少しずつ輪郭を濃くしていった。

 黒夜はずっと執務室の中にいた。

 

 トリニティのために動き、ミカの相談に乗り、セイアの話を聞き、必要な資料を整え、気が付けば一日を通して誰かのために働いていた。専属護衛という立場上、それはごく自然な振る舞いだ。むしろ頼もしいとすら言える。

 

 それなのに、ナギサはその頼もしさに対して素直に喜べない自分を持て余していた。

 今日は少しだけ、自分の方を見てほしかった。

 それだけのことなのに。

 

 執務机の上に置かれた書類へ視線を落としても、内容はほとんど頭に入ってこない。セイアはそんな彼女をあえて刺激しないように普段通りを装っていたし、ミカも途中からはようやくナギサの機嫌が少し怪しいことを察したのか、以前よりはしゃぐのを控えていた。だが、根本的な問題は何も解決していない。

 

 黒夜だけが、まだはっきりと気付いていなかった。

 

 いや、気付けなかったというべきかもしれない。彼は他人の痛みや危険には敏感だが、こういう繊細で、しかも当人が巧みに隠そうとしている感情の揺れには時々驚くほど鈍い。そしてその鈍さもまた、彼の誠実さの裏返しであることをナギサは知っていた。

 

 知っていて、なお不満だった。

 それが余計に厄介だった。

 そうして夕方の気配が部屋を満たし始めた頃になって、ようやく黒夜がナギサの方へ歩み寄ってきた。

 

 それは本当に、何気ない瞬間だった。たまたま一区切りついたから、ふと視線を巡らせたのだろう。彼はナギサの机の傍で足を止め、その手元のカップが空になっていることに気付く。ほんの少し申し訳なさそうな表情が浮かんだのは、きっと偶然ではない。

 

「紅茶のお代わりをお入れしましょうか?」

 

 穏やかな声だった。

 

 それを聞いた瞬間、ナギサの胸の内では反射的に喜びが跳ねた。ようやく来てくれた。ようやく、自分に気付いてくれた。ほんの一瞬だけ、素直にそう思いかける。

 

 だが、その直後には別の感情がそれを押し流した。

 

 今さらですか?

 

 その思いが胸の奥からせり上がる。

 

 今日一日ずっと待っていた。何度も声を掛ける機会を失い、何度も後回しにされて、それでも自分からは言い出せずにいた。その末の、空になったカップを見ての一言。善意であることも、悪気がないことも分かっている。分かっているからこそ、余計に悔しい。

 

 ナギサは顔を上げる。

 そして、ほんの少しだけ棘を含んだ声で返してしまった。

 

「別に、このくらい自分で出来ます」

 

 一拍置き、わずかに視線を逸らす。

 

「大変お忙しい黒夜さんのお手を煩わせるほどのことではありません」

 

 言ってしまった瞬間、自分でも分かる。

 これは明らかに、いつもの自分ではない。

 少なくとも、今の黒夜に向ける言い方ではなかった。もっと柔らかく返すことだって出来たはずだ。それなのに、感情が先に立って、言葉の端が鋭くなった。

 

 黒夜はそこで初めてはっきりと異変に気付いた。

 表情が僅かに戸惑う。彼の中で何かが引っかかったのが分かった。今日のナギサが少しおかしい。いつもと違う。そう理解した顔だった。

 

「……何か、気に障ることをしてしまいましたか?」

 

 そう問い掛ける声は本気で困っているものだった。責めるでもなく、ただ原因を探ろうとしている。

 

 ナギサはその様子を見て、少しだけ胸が痛くなる。自分が不機嫌になっている理由を本人に説明させるのは、あまりにもみっともない気がした。けれど、このまま誤魔化し続ければ、きっともっと面倒になることも分かっている。

 

 それでも、すぐには言えなかった。

 

「別に、何も」

 

 反射のようにそう返しそうになった時だった。

 横から静かに、セイアが口を挟む。

 

「黒夜、君は今日ずいぶんと忙しそうだったからね」

 

 その声音には、柔らかな助け舟の響きがあった。

 

「そのぶん、見落としていたものもあったのではないかな?」

 

 黒夜はその言葉を受けて、真面目に今日一日を思い返そうとするように視線を少し落とした。

 午前からの流れ。ミカの相談。資料の整理。セイアとの確認事項。ナギサが戻ってきていた時間帯。執務室の空気。自分が後回しにしてしまったもの。

 だが、それでもまだ決定打には届かないらしい。黒夜は本当に、理由が分からないという顔をしていた。

 

「見落としていたもの……ですか」

 

 彼は小さく呟き、さらに考え込む。

 その様子を見ていたミカが、ここである意味もっともミカらしい反応をした。

 

「え、もしかして」

 

 ぱっと顔を上げ、悪気なく核心へ踏み込む。

 

「ナギちゃん、ずっと黒夜とお茶したかったんじゃないの?」

 

 執務室の空気が、一瞬だけ止まった。

 ナギサの思考も、完全に止まる。

 あまりにも真っ直ぐで、あまりにも容赦のない一言だった。オブラートも遠慮もなく、けれどそこに悪意は一片もない。ただミカは、感じ取ったことをそのまま言っただけだ。だからこそ余計に逃げ場がない。

 

 ナギサの顔が、見る間に熱くなる。

 

「……っ」

 

 恥ずかしさが先に立ちすぎていた。

 そして黒夜は、その一言でようやく理解した。

 目を見開き、次いで表情が深く悔いる色に変わる。

 

「あ……」

 

 それだけで十分だった。

 

 彼の中で点と点が繋がったのだと、ナギサにも分かってしまう。今日一日、自分がどれだけ彼との時間を期待していたのか。ミカに呼ばれ、セイアに頼られ、そのたびに後回しになっていたことを、ようやく彼は正しく把握したのだ。

 

 知られた。

 

 しかもミカに指摘される形で。

 

 ナギサは視線を逸らし、紅くなった頬を隠すように少し俯いた。こんなことで拗ねていたのだと露見した恥ずかしさと、それをやっと理解してもらえたという安堵が混ざり合って、感情の行き場が定まらない。

 

 黒夜はそんな彼女を見つめ、数秒だけ迷うような沈黙を置いたあと、きちんと向き合うように一歩近づいた。

 

「すみません」

 

 静かな、けれどはっきりした謝罪だった。

 

「今日はずっとお待たせしてしまいました」

 

 その言葉には飾りがない。言い訳もない。ただ事実として、自分がナギサを待たせていたことを認めている。

 そして続く一言が、ナギサの胸をさらに揺らした。

 

「ナギサ様が寂しい思いをしていたのに、気付けませんでした」

 

 寂しい。

 その単語を、黒夜自身の口から言われるとは思わなかった。

 まるで図星をそのまま指で触れられたような気分になる。否定しなくては、と思うのに、心のどこかではその言葉を待っていた気もした。

 

「……別に、寂しいなどとは思っていません」

 

 ナギサは反射的に否定する。

 否定せずにはいられなかった。そんなにも分かりやすく、自分の気持ちを言い当てられるのはあまりにも居心地が悪い。

 だが、その声には以前ほどの鋭さはなかった。もう完全には取り繕えないことを、自分でも薄々理解している。

 

 黒夜はそれ以上、無理に言葉を重ねなかった。ただ静かに待つ。その待ち方が、逆にナギサへ本音を促してくる。

 

 執務室の中は、不思議なほど静かだった。ミカも空気を読んだのか、それ以上余計な言葉は差し挟まない。セイアは相変わらず紅茶を口に運びながら、半ば見守るような穏やかな目をしている。

 

 逃げ道がなくなった、というより。

 ようやく、逃げなくてもいい空気になったのだとナギサは感じた。

 

 だから彼女は、小さく息を整える。

 視線を完全には上げられないまま、それでもぽつりと本音をこぼした。

 

「今日は……」

 

 一度言葉が止まる。

 唇を噛みそうになるのを堪え、続ける。

 

「少しくらい、こちらを見てくれると期待していただけです」

 

 それは大げさな告白ではなかった。

 けれど、ナギサにとっては十分すぎるほど素直な言葉だった。

 執務室の中に、その一言が静かに落ちる。

 黒夜はそれを受け止めて、ほんの僅かに目を細めた。責められたとは思っていない顔だった。むしろ、ようやくちゃんと聞かせてもらえたことへの安堵が勝っているように見える。

 

「……ありがとうございます」

 

 謝るべき場面で礼を言うのが、いかにも黒夜らしい。ナギサは少しだけ面食らう。だが彼は続けた。

 

「本音を聞かせてもらえて、よかったです」

 

 その言葉が、じわりと胸の奥へ染み込んでいく。

 怒られるでもなく、困られるでもなく、ただ受け止められる。そんなことにまだ慣れきっていない自分がいるのだと、ナギサは改めて思い知った。

 黒夜は少し考えるように間を置いてから、改めて口を開く。

 

「では」

 

 声音が少しだけ柔らかくなる。

 

「お詫びもかねて、この後一緒に夕食でも食べに行きませんか?」

 

 ナギサはその提案に、一瞬だけ言葉を失った。

 

 夕食。

 

 それはつまり、この後の時間を明確に自分のために使ってくれるという意味だった。しかも単に紅茶を一杯淹れて済ませるのではなく、執務室を出て、改めて二人の時間を作ろうとしている。

 

 胸の奥で、機嫌の悪さがほどける音がした。

 もちろん、それを露骨に表へ出すわけにはいかない。そんな簡単に態度を和らげれば、自分がどれだけその提案を待っていたかが丸分かりだ。

 だからナギサは努めて落ち着いた声を作る。

 

「……二人きりですか?」

 

 問い掛けながらも、その答えをほとんど期待してしまっている自分がいた。

 黒夜は迷いなく頷く。

 

「ナギサ様のお望みのままに」

 

 その返答は、反則だった。

 

 あまりにも素直で、あまりにも真っ直ぐで、しかも少しだけこちらの心を読んだような言い方をする。ナギサの喉元まで上がっていた理性が、その一言で綺麗にほどけそうになった。

 彼女は視線を逸らし、ほんの少しだけ咳払いをする。

 それでも頬の熱は収まらない。

 

「……でしたら、二人きりでお願いします」

 

 ようやくそれだけ言う。

 黒夜は、どこか安心したように微笑んだ。

 

「ええ、承知しました」

 

 その言葉が落ちた瞬間、横からミカの大きな声が飛んできた。

 

「えー!!? ずるーい!」

 

 予想通りと言えば予想通りの反応だった。

 

「今度は私の番だからね!」

 

 頬を膨らませて抗議するミカに、ナギサは少しだけ呆れたような顔をする。つい先ほどまで恥ずかしさでいっぱいだったはずなのに、こうして騒がれると逆に冷静さが戻ってくるのだから不思議なものだ。

 

 セイアはそんなやり取りを眺めながら、やれやれとでも言いたげにティーカップを傾けた。

 

「ようやく落ち着いたようだね」

 

 その一言には、半ば面白がるような響きもあったが、同時に本心から安堵している気配もある。

 ミカはなおも不満そうに唇を尖らせている。

 

「私だって黒夜とお茶したりご飯食べたりしたいのにー」

 

「しょうがないさ、今日は譲ってあげなよミカ」

 

「今日はナギちゃんの日ってこと?」

 

「……そういう言い方はやめてください」

 

 即座に否定はするものの、その返しにも以前のような切迫感はない。

 

「じゃあ、今度は私の番ね!」

 

「ええ、もちろんです」

 

 黒夜が自然に応じると、ミカはようやく満足したらしく、分かりやすく機嫌を直す。

 その一連の流れを見ながら、ナギサは胸の内で静かに息を吐いた。

 

 少し前までの自分なら、こういう流れさえ複雑に受け止めていたかもしれない。黒夜が誰かに優しくするたび、その優しさを奪われたように感じていたかもしれない。けれど今は違う。まだ嫉妬はする。寂しさも覚える。今日のように、子供っぽく拗ねてしまうことだってある。

 

 それでも最終的には、こうして言葉に出来る。受け止めてもらえる。そして、ちゃんと自分の番も来るのだと知っている。

 そのことが、何よりも大きかった。

 黒夜はナギサの空になったカップへ再び目を向ける。

 

「その前に紅茶だけでも淹れ直しましょうか」

 

 先ほどと同じ問いかけなのに、今度はまるで違って聞こえた。

 ナギサはほんの少しだけ口元を緩める。

 

「……お願いします」

 

 ようやく、素直にそう言えた。

 

 黒夜は頷き、慣れた手つきで茶器へ向かう。湯を注ぎ、茶葉の香りを引き出し、カップを整える。その一連の動きを眺めているだけで、不思議と心が落ち着いていく。今日一日ずっと欲しかったのは、きっとこういう時間なのだとナギサは思った。

 

 自分のために、彼が少しだけ足を止めてくれる時間。

 それだけで、十分だった。

 やがて新しい紅茶がナギサの前に置かれる。立ち上る香りは先ほどと同じはずなのに、今度はきちんと味がしそうだった。

 

「どうぞお待たせしました」

 

「ありがとうございます」

 

 短い会話。けれどその間に流れる空気は穏やかだった。

 

 ミカがまだ横で小さく不満を零し、セイアがそれを軽く宥めている。執務室はいつも通りのはずなのに、ナギサの見ている景色は少しだけ違っていた。

 

 視線を落とした先、紅茶の表面が夕方の光を受けてやわらかく揺れる。

 

 ナギサはそれを一口飲んで、静かに思う。

 

 少し恥ずかしかった。

 

 少し情けなかった。

 

 でも、それ以上に嬉しかった。

 

 そしてその嬉しさを、今はもう無理に否定しなくてもいいのだと、ようやく自分に許せる気がした。

 

 黒夜がこちらを見る。

 

 その視線を、今度はちゃんと受け止める。

 

 それだけで、さっきまで胸を塞いでいたもやもやは、ほとんど嘘のように薄れていた。

 

 夕暮れの執務室には、紅茶の香りと、少しだけ照れた幸福が静かに満ちていた。

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