シャーレの医務室で過ごした一週間は、黒夜にとって、長かったのか短かったのか、自分でもよく分からない時間だった。
目を覚ませば誰かがいた。眠ろうとすれば誰かがいた。食事の時間になれば、先生が「今日はちゃんと食べられそう?」と聞き、プレ先が「無理はしなくていい。ただ、食べられる分だけでいい」と静かに補足した。
それだけなら、まだ穏やかだったのだと思う。
問題は、その誰かが一人で済まなかったことだった。
ナギサは紅茶を飲ませようとし、ミカは心配そうに布団を直し、セイアは何も言わずに椅子に座っていたかと思えば、ふと黒夜が動くたびに目を細めた。
マコトは何故か毎回大声で見舞いに来てはヒナに叱られ、ヒナは叱りながらも、黒夜の顔色だけは見逃さなかった。カヨコは余計なことを言わず、ただ部屋の隅に立っていた。
リオは検査結果を理由に訪れ、ヒマリは「天才美少女の経過観察ですよ。うれしいですか?」と言いながら、どう見ても心配していた。
アツコはよく花を持ってきてくれた。テラー達は、その花を見て圧を放っていた。
黒夜が少し咳き込めば、彼女達の気配が乱れる。黒夜が寝返りを打てば、誰かが息を呑んだ。
黒夜が「水を」と言う前に、机の上には水、スポーツドリンク、栄養ゼリー、飴、チョコバー、粥、紅茶、謎の高級菓子、そしてなぜかラーメンの出前チラシまで並んでいた。
先生は頭を抱えた。
プレ先は遠い目をした。
黒夜は、諦めたように瞳を閉じた。
そんな一週間を経て、ようやく黒夜は医務室のベッドから一人で起き上がれる程度には回復した。
もちろん、完治にはほど遠い。身体は自分のものではないように重く、少し歩くだけで呼吸が浅くなる。神秘を失った反動なのだと、リオとヒマリは言っていた。ヘイローは残っている。生徒としての耐久性も失われていない。けれど、無理をしていい理由にはならない。
だから、先生とプレ先から外出許可が出た時も、黒夜は素直に頷いた。
「外出許可、ですか」
「うん。ただし、シャーレの周辺だけ。遠くまでは行かないこと。走らないこと。戦闘なんて絶対ダメ!疲れたらすぐ戻ること」
先生は指を折りながら、子供に言い聞かせるように条件を並べた。
「それから、誰かに連れて行かれそうになったらすぐ連絡してね」
「……最後の条件だけ妙に具体的ですね」
「具体的にしないと危ないからね」
否定できなかった。
黒夜は少しだけ視線を逸らした。プレ先はその様子を見て、柔らかく笑う。
「外の空気を吸ってくるといい。君はもう、世界を背負うために立つ必要はない。今日はただ、歩けるかどうかを確かめるだけでいい」
「はい。ありがとうございます、先生。プレ先も」
「無理はしないでね」
「分かっています」
そう答えた黒夜に、先生は少し疑わしそうな目を向けた。プレ先も同じ顔で、同じような目をした。二人分の先生に疑われるというのは、なかなか逃げ場がない。
黒夜は苦笑しながら、ゆっくりと医務室を出た。
廊下を歩く足取りは、まだ完全ではない。けれど、一週間前に比べれば随分ましだった。壁に手をつかずに歩ける。呼吸も乱れない。足元がふらつくこともない。普通の生徒なら当たり前のことが、今の黒夜には少しだけ嬉しかった。
シャーレの自動扉が開く。
久しぶりの外気が頬を撫でた。
眩しい、と思った。
特別な光景ではない。D.U.地区のいつもの朝。車の音。遠くで聞こえる人々の声。ビルの窓に反射する日差し。どこかの店から漂ってくる食べ物の匂い。特別なものなど、何一つない。
それなのに、黒夜は少しだけ立ち止まった。
ああ、と胸の奥で何かが緩む。
自分は、ここに戻ってきたのだ。
そう思った瞬間、黒夜は自然と背筋を伸ばしていた。長く寝ていた身体は、少し伸ばしただけで軋むような感覚がある。肩を回すと、関節が小さく音を立てた。首筋を伸ばす。腕を上げる。深く息を吸う。体力が落ちている。足にも力が戻りきっていない。以前なら気にも留めなかった動きが、今は一つ一つ確認しなければならなかった。
「……また、鍛えなおしですね」
小さく呟く。
その声を聞いた者は、いないはずだった。
少なくとも、普通なら。
けれど黒夜は、次の瞬間には微かに眉を寄せていた。
どこかから視線を感じる。一つではない、二つでもない…もっと多い。しかも、それぞれが隠れているつもりで、まるで隠れきれていない。
黒夜は腕を下ろし、何事もないように前を向いたまま、その視線の気配を探った。
まず、シャーレの建物の角。そこには、白く大きな翼の先が見えていた。角からほんの少しだけはみ出している、というには存在感がありすぎる。
本人はきっと、優雅に身を潜めているつもりなのだろう。だが、あの翼を見間違えることはない。
ナギサ様ですね、と黒夜は心の中で判断した。
その少し下、同じ物陰から桃色の髪がふわふわと揺れている。隠れる気があるのかないのか、顔の半分どころか肩まで出ていた。こちらを見たい、けれど飛び出してはいけない。
そんな葛藤が全身から漏れている。
ミカ様ですね、と黒夜は再び判断した。
そして、その近くに不自然なダンボール箱があった。
D.U.地区の道端に、あまりにも都合よく置かれたダンボール。中から誰かがこちらを見ているらしい。本人としては完璧な隠密行動なのかもしれない。
だが、箱の後ろからふわりと綺麗な尻尾が出ていた。しかも、緊張しているのか、先端が時々ぴくりと動いている。
セイア様ですね。
黒夜は、何も見なかったことにした。
視線をわずかにずらす。今度は反対側の街路樹の陰。小柄な身体なら隠れられる場所だが、黒く鋭い角が枝の間からちらちら見え隠れしていた。隠密としては相当に高水準なのだろう。足音も気配もほとんど消えている。だが、角だけはどうしようもなかった。
ヒナさんですね。
その少し後ろ、同じく目立たない場所に立っているカヨコは、実際かなり上手く隠れていた。というより、他の面々があまりにも隠れるのに向いていなさすぎるせいで、相対的にまともに見える。黒夜が気づいたことにも、おそらく気づいている。だが、何も言わずにため息をついていた。
カヨコさんは……巻き込まれた側でしょうか?
さらに視線を滑らせると、電柱の陰にリオがいた。
リオは姿勢を正したまま、何故か電柱の幅に自分が収まると信じているようだった。端末を片手に持ち、いかにも「気付かれていないわね」と言いたげな顔をしている。だが、肩が完全にはみ出している。髪も見えている。端末の画面が日差しを反射して、時々きらりと光っている。
いつものように監視カメラを使えばいいのでは、と黒夜は少し思った。
いや、リオさんのことだ。使おうと思えば使える。むしろ、使わない理由がない。
それなのに現場に来ている。しかも、隠れ慣れていないせいで細かいところが全部甘い。
黒夜は少しだけ目を伏せた。
……会いに来てくださったのでしょうか?
そう考えると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。けれど、その横を見て温かさは別の意味に変わった。
人込みの中に、ヒマリがいた。
彼女は実に堂々としていた。隠れるというより、周囲に紛れているつもりなのだろう。木を隠すなら森の中、という理屈なのかもしれない。
確かに、通行人はそれなりにいる、生徒達も行き交っている。
だが、特徴的な車椅子と、その上で自信満々に微笑む白髪の天才美少女は、どう考えても目立っていた。
黒夜は、一度だけ瞬きをした。
本人は気づいていないようだった。
さらに奥、植え込みの裏にはアツコがいた。隠れているというより、しゃがんでいるだけだった。目が合えば普通に手を振ってきそうな雰囲気がある。実際、黒夜がそちらを見た瞬間、アツコの手が少し上がりかけた。すぐ隣から伸びてきた誰かの手が、それを慌てて押さえた。
おそらくサオリさんではない。今日は見えない。
では誰か、答えはすぐ分かった。
黒い気配が、三つ。
ナギサ*テラーは、本家ナギサと同じように優雅に隠れているつもりらしい。ただし、圧がまったく隠れていなかった。微笑んでいるのに、周囲の空気だけが妙に張り詰めている。近くを通った生徒が何かを察して、無言で道を変えていた。
ミカ*テラーは、今にも飛び出しそうだった。黒夜を見るたびに肩が跳ね、足が前に出る、そのたびにセイア*テラーが襟首を掴むようにして止めている。止める側のセイア*テラーも、余裕があるわけではない。黒夜の様子を見つめる目には、かつて失ったものを二度と離さないとでも言いたげな熱があった。
そして少し離れた場所に、シロコ*テラーがいた。
彼女は他の者達よりは上手く隠れている。アビドスの生徒らしい身軽さで、ビルの影に自然に溶け込んでいた。だが、黒夜の視界から完全に消えるほどではない。白い髪が風に揺れ、耳がわずかに動く、こちらを見ている、心配しているというより、確認しているような目だった。
黒夜は、そこまで把握してから、静かに息を吐いた。
十二人。
なぜ、この面々が揃って物陰からこちらを見ているのか。
普通に考えれば、心配しているのだろう。黒夜は一週間前まで、動くことすらまともにできなかった。
今日、初めて医務室の外に出た。様子を見に来る理由なら、いくらでもある。
けれど、黒夜の思考はそこで止まらなかった。
自分は、神秘を失った。
ほぼ完全に消失していると、リオとヒマリは言った。プレ先も、先生も、その事を説明してくれた。自分の喪失によって周囲の神秘が反転する危険は、大きく下がった。
少なくとも、以前のような連鎖的な破滅は起こりにくくなったはず。
だが、本当に完全なのだろうか。
何か、残っているのではないか。
自分の中に、まだ誰かを縛るものがあるのではないか。
自分が外に出ることで、それがまた周囲に影響を与えるのではないか。
だから彼女達は、直接近づかず、距離を取って様子を見ているのではないか。
黒夜の思考が、ほんの少しだけ不味い方向に向かい始めた。
経過観察、あるいは、危険性の確認。
その言葉が頭をよぎり、胸の奥に冷たいものが落ちかけた、その時だった。
「だから言っただろう! 黒夜が真っ先に帰るべきは、当然ゲヘナに決まっている! 何しろ我がゲヘナが母校なのだからな!」
とてもよく通る声が、建物の角の向こうから響いた。
バカマコト様も居たんですね。訂正十三人っと。
「ちょ、声が大きいってば!」
「マコト、隠れている意味がない」
「ふふん、隠れる必要などあるか! 我々は正々堂々と黒夜の帰還を――」
「今は様子を見るという話だったでしょう!」
「マコト。ちょっと黙ってて」
「なっ、お前! 貴様、私に命令を――」
「ん、黙って」
「……はい」
短い沈黙が落ちた。
黒夜は、もう一度ゆっくり息を吐いた。
先ほどまで胸に落ちかけていた冷たいものが、するするとほどけていく。監視でも、神秘の残滓でも、危険性の確認でもない、少なくとも、今聞こえてきた会話から判断する限り、もっと単純で、もっと騒がしく、もっと訳の分からない何かだった。
おそらく、また皆さんが何かを始めたのだろう。
黒夜はそう結論づけた。
何を始めたのかは分からない。分からないが、少なくとも自分が恐れていたようなものではなさそうだった。それだけわかれば、黒夜としては十分だった。
身体の力を少し抜く。
背筋を伸ばし直す。
まだ重い足に、ゆっくりと意識を通す。
黒夜は振り返らなかった。
巻き込まれたら面倒くさそうな気がしたので、気づいていないふりをすることにした。
今すぐ声をかければ、全員が一斉に出てくるだろう。そして、おそらく大変な目に遭う。あるいは、どこへ帰るかという話で揉め始める。どちらにしても、せっかくの外出許可が一瞬で終わる可能性が高い。
それは、少し惜しかった。
久しぶりの外で自分の足で歩ける貴重な時間だ。
ならば少しくらい、散歩をしても許されるだろう。
黒夜は何も知らない顔で、ゆっくりと歩き出した。
その瞬間、物陰の向こうで複数の気配が一斉に揺れた。誰かが小さく息を呑み、誰かが「あっ」と声を漏らし、誰かが慌てて移動しようとして何かにぶつかった。リオの端末が小さく音を立て、ヒマリの車椅子が人込みの中で動く。ダンボール箱がかさりと揺れ、尻尾が慌てたように引っ込んだ。
黒夜は前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
気づいていないふりをする。
そう決めたはずだった。
けれど、気づいていることを隠すのも、これはこれでなかなか難しい。
背後から注がれる十三人分の視線を受けながら、黒夜はD.U.地区の通りへと足を踏み出した。
その歩幅はまだ小さく、決して力強いものではなかった。けれど、確かに前へ進んでいた。
そして黒夜は、心の中で静かに呟いた。
フフフ…皆さん、本当に隠れるのが下手ですね。
黒夜は、背後から十三人分の視線を浴びながら、D.U.地区の通りをゆっくり歩いていた。
たったそれだけのことが、今の黒夜には少しだけ新鮮だった。
医務室の白い天井も、消毒液の匂いも、先生とプレ先の心配そうな顔も、決して嫌だったわけではない、むしろ安心できる場所だった。
けれど、外の空気には外の空気だけが持つ騒がしさがある。遠くから聞こえる笑い声。足音。店先の呼び込み。どこかでクラクションが鳴り、誰かがそれに文句を言っている。
平和だ、と思った。
自分が戻ってきたかった世界は、こういうものだった。
「……ふむ?」
黒夜は、ちらりとショーウィンドウのガラスに視線を向けた。
反射で映った自分の背後には彼女達の拙い尾行が映っていた。
黒夜は何も見なかったことにした。
そう決めた以上、多少のことでは振り返らない。たとえ後方から「もっと右です、ミカさん」「え、こっち?」「箱が傾いているわよ、セイア」「この姿勢は意外と疲れるんだが……」などという小声が聞こえてきても、振り返らない。
ただし、心の中では思った。
小声のつもりなのでしょうか。
そんなことを考えていると、前方の通りから、聞き覚えのある声が響いた。
「あら? もしや、そこにいらっしゃるのは黒夜さんではありませんこと?」
優雅で、どこか物騒で、食事の話題になると世界の法則すら捻じ曲げそうな声。
そこにいたのは、美食研究会だった。
ハルナが微笑み、アカリが大きな袋を抱え、ジュンコが何かを食べながらこちらを見ている、イズミはすでに、何か食べ物らしきものを両手に持っていた。
「ハルナさん奇遇ですね!皆さんもお変わりないですか?」
「まあ、本当に黒夜さんでしたのね。お身体はもうよろしいのですか?」
「一応、外出許可はいただきました。まだ長時間は歩けませんが」
「それは大変ですわね」
ハルナは本気で心配しているような顔で頷いた。
だが、その目が一瞬、アカリの持つ袋へ向く。
「療養明けの身体には、まず美味しいものが必要ですわ」
「その提案は少し危険な気がしますが?」
「大丈夫! ちゃんと消化に良さそうなものもあるから!」
そう言ってアカリが袋を開く。
黒夜は中を覗いた。
粥の入った容器があった。
スープの素もあった。
柔らかそうなパンもある。
そこまでは良かった。
その隣に、なぜか巨大な肉料理があった。
さらにその隣には、見た目からして刺激の強そうな赤い何かがあった。
奥には、甘味なのか主食なのか判別しにくいものもある。
「……消化に良さそうなものも、という表現は半分正確ですね」
「黒夜、これなら食べれるでしょ、たぶん」
ジュンコが自信なさげに粥を差し出した。
黒夜は少し迷ってから、それを受け取る。まだ温かい。蓋越しにも、優しい匂いがした。
「ありがとうございます。後でいただきます」
「今ここで召し上がってもよろしくてよ?」
「立ったまま食べるのは少し……」
「でしたら、近くのお店を貸し切りましょうか?」
「その後騒動に巻き込まれそうなのでやめてください」
即答した。
その背後で、微かに空気が揺れた。
「あの人達……黒夜さんに妙なものを食べさせる気ではないでしょうね?」
ナギサの声だった。
「療養明けに刺激物は駄目だよね!? 絶対駄目だよね!?」
ミカの大きな声も続く。
「あの連中は大分信用出来ないぞ!」
「マコト、声」
「むぐっ」
どうやら、背後の監視団はかなりざわついているらしい。
黒夜は粥の容器を片手に、なるべく自然な顔で頷いた。
「本当にありがとうございます。ただ、先生から余り時間を掛けないように言われていますので、今日はこれで失礼します」
「そうですか。では、いずれ快気祝いの食事会でお会いしましょう」
「規模は控えめでお願いします」
「善処しますわ」
善処、という言葉ほど信用できない返答もそうない。
黒夜は苦笑し、美食研究会と別れた。
再び歩き出す。背後の気配は、少しだけ険しくなっていた。
おそらく、最初の遭遇でそれぞれの警戒心に火がついたのだろう。今まではただ見守っていたが、黒夜が他の生徒と会話をするたびに、隠れている者達の中で何かが膨らんでいく。
黒夜は気づいていたが、気づいていないふりを続行した。
もう少し散歩したかったからである。
しばらく歩いたところで、今度は道の向こうからシスター服の生徒が歩いてきた。
静かな足取り。柔らかいがどこか裏の在りそうな笑顔、芯のある堂々とした佇まい。
サクラコだった。
「黒夜さん」
「サクラコさん」
黒夜が軽く会釈をすると、サクラコは穏やかに微笑んだ。
「お顔を見られて安心しました。お加減はいかがですか?」
「まだ万全ではありませんが、少し歩ける程度には。今日、ようやく外出許可が出ました」
「そうでしたか。快復に向かっているようで良かったです」
サクラコの声は、静かだった。
けれどそれは冷たさではない。黒夜の状態を確かめるような、けれど踏み込みすぎない距離感があった。
「無理をなさらないでくださいね。黒夜さんが戻ってこられたことを、喜んでいる方はたくさんいます。ですが、だからこそ、今はご自身を大切になさってください」
黒夜は少しだけ目を伏せた。
「……はい。ありがとうございます」
「何か困ったことがあれば、シスターフッドにもお声がけください。もちろん、ティーパーティーの方々に内緒でもよろしいですよ?」
「相変わらずさらっと怖い事を言いますね」
傍から見れば穏やかな会話だった。
だが、背後の彼女達は穏やかではなかった。
「サクラコさん……ずいぶん自然に黒夜さんとお話しされていますね…」
ナギサの声が、妙に丁寧だった。
丁寧すぎる時のナギサは、だいたい平静ではない。
「ナギちゃん、翼出てる。すごく出てるよー?」
「出ていません」
「出てるよ」
「出ていません!!」
「ナギサ、箱の中から見ても出ているぞ」
「セイアさんはまずご自分の尻尾をしまってください!!」
背後で小さな争いが起きている。
サクラコは一瞬だけ、黒夜の背後へ視線を向けた。
何かに気づいたようだったが、深く追及はしなかった。
ただ、少しだけ微笑みを深める。
「……賑やかですね」
「はい。大変、賑やかです」
「黒夜さんは、周りから大切に想われていると自覚した方がいいですよ?もちろん私もその一人です」
その言葉に、黒夜は少し言葉を詰まらせた。
そして、小さく頷く。
「……そうですね」
サクラコはそれ以上何も言わなかった。
ただ、祈るように手を合わせてから、道を譲る。
「では、また。どうかお気をつけて」
「はい。サクラコさんも気を付けてくださいね」
黒夜は再び歩き出した。
背後の気配は、さらに複雑になっていた。警戒、対抗心、心配、そして明らかな嫉妬。黒夜はそこまで読んで、少しだけ困った。
何故、散歩をしているだけでこんなことに。
そう思ったが、よく考えれば自分の周囲でこうならない日の方が少なかった気もする。
次の角を曲がったところで、今度は元気な声が飛び込んできた。
「あっ! 黒夜じゃん!」
反射的に顔を声のした方に向けると、そこにはゲーム開発部が居た。
モモイがこちらを指差し、ミドリが慌ててその手を下げ、ユズがゲーム機を抱えたまま目を丸くしている。
そしてアリスは、まるで重要イベントが発生した時のように目を輝かせていた。
「黒夜、ようやく復活イベントですか!?」
「復活イベント?」
「はい! 長い眠りから目覚めた仲間が、再びフィールドに戻ってくる感動のイベントです!」
「まだフィールド復帰というほどではありませんよ。今日は散歩だけです」
「散歩イベントですね!」
「急にありふれたイベントになりましたね」
モモイが笑い、ミドリがほっとしたように息を吐く。
「でも、本当に良かったです。黒夜さん、しばらく会えなかったから」
「ご心配をおかけしました」
「ほんとだよー。アリスなんて、黒夜さんのお見舞いイベントが発生しないってずっとそわそわしてたんだから」
「お姉ちゃん、それは言わなくていいの!」
「アリスは黒夜のHPが心配でした」
アリスは真剣だった。
その言い方が少しおかしくて、けれど素直で、黒夜は自然と表情を緩める。
「HPはまだ最大値ではありませんが、少しずつ回復しています。だから安心してください」
「では、回復アイテムが必要ですね!」
アリスが鞄を探る。
出てきたのは、携帯ゲーム機と、何かの攻略メモと、包装されたキャンディだった。
「これをどうぞ。アリスのとっておきです」
「ありがとうございます」
黒夜はキャンディを受け取った。
その瞬間、背後でリオの気配が跳ねた。
「……あの子たち…」
声が低い。
「リオ、端末を握り潰さないでください」
ヒマリが楽しそうに言う。
「握り潰してないわ。これはただ、入力圧が少し強くなっただけよ」
「そうですか、それとあの子たちにセミナー経由で変な圧力を掛けたりもしないでくださいね~♪」
「……」
「返事が聞こえてきませんよ?」
「…わかったわ」
そんなリオとヒマリのやり取りを見ていたカヨコのため息が聞こえた。
黒夜はキャンディをしまいながら、なるべく背後を見ないようにした。
だが、アリスはその背後をじっと見ていた。
「黒夜」
「はい?」
「今日はパーティーメンバーが多いですね」
「……そう見えますか」
「はい。隠密状態の味方ユニットがたくさんいます」
モモイとミドリが背後を見る。ユズもおずおずと視線を向ける。
物陰が一斉に静まり返った。
「え、なに? 黒夜尾行されてるの?」
「尾行というか……見守りというか……」
「それ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だと思います。たぶん」
黒夜は自分で言いながら、たぶん、の部分に少し自信がなかった。
これ以上ここに留まると、リオとヒマリが出てくる可能性がある。そう判断して、黒夜は軽く頭を下げた。
「皆さん、ありがとうございます。あまり長く歩けないので、今日はこの辺で」
「はい! 黒夜、またゲームしましょう!」
「体調が戻ったら、ぜひ」
「約束ですよ!」
「そうですね」
アリスは満足そうに頷いた。
黒夜はゲーム開発部と別れ、さらに歩く。
足が少し重くなってきた。呼吸も最初よりわずかに浅い。無理をしているほどではないが、先生との約束を考えれば、そろそろ引き返すべきだろう。
そう思った時だった。
「……黒夜か?」
低く、少し硬い声。
黒夜は足を止めた。
そこにいたのは、アリウススクワッドだった。
ただし、アツコの姿はない。彼女は今、後方の監視団に混ざっているからだ。
サオリ、ミサキ、ヒヨリ。
三人は偶然こちらを通りかかったらしく、黒夜の姿を見て驚いたように立ち止まっていた。
「サオリさん。ミサキさん、ヒヨリさん」
「外に出ていて大丈夫なのか?」
サオリの第一声は、挨拶よりも確認だった。
「先生とプレ先から許可はいただいています。シャーレ周辺だけですが」
「そうか」
サオリは短く頷いた。それだけだったが、肩から少し力が抜けたのが分かった。
ミサキは黒夜を見て、少しだけ目を細める。
「……前より、大分顔色も良くなってるね」
「自分でもそう思います」
「でも、まだ全快じゃないんでしょ?」
「否定できませんね」
ヒヨリはおろおろと両手を動かしながら、鞄から何かを取り出そうとしていた。
「あ、あの、黒夜さん、えっと、これ、よかったら……! その、療養中なら甘いものとか必要かなって思って……いやでも、もう誰かから何かもらってそうですけど……わ、私のなんかいらないですよね…すみません……!」
「いえ、いただけるなら嬉しいです」
「えっ」
「ありがとうございます、ヒヨリさん」
差し出された小さな菓子を受け取ると、ヒヨリは一瞬固まった後、目に見えてほっとした顔になった。
その様子を見て、黒夜の胸に柔らかいものが灯る。
彼女達は彼女達なりに心配してくれていたのだろう。
「アツコさんも、今日は近くにいますよ」
黒夜がそう言うと、三人が同時にわずかに反応した。
「近く?」
「はい。……とても近くに」
黒夜は背後を見ないまま答えた。
サオリが目を細める。ミサキが何かを察したように黒夜の後方へ視線を向ける。ヒヨリが「あっ」と小さく声を上げた。
その瞬間だった。
「……私も、そっちに行きたい」
背後から、アツコの声がした。
静かだが、はっきり聞こえた。
黒夜は立ち止まった。
周囲の空気も止まった。
「アツコさん、我慢です。まだ見守る段階です」
ナギサの声。
「でも、サオリたちは黒夜と話してる…ズルい」
「それは偶然です」
「偶然なら、私も偶然出ていく」
「理屈が強引です」
「ナギちゃん、人のこと言えないよ」
「ミカさんは黙っていてください。というか、貴女はもうほとんど出ています」
「えっ、出てないよ?」
「出ています」
「ミカ、出ているぞ」
「セイアちゃんは箱から尻尾が出てるよ!」
「これは通気性の問題だ」
「それより、アリウスに黒夜を独占されるのはまずいのではないか!?」
「マコト、また声」
「ふふん、私は事実を述べているだけだ!」
「……黒夜は物じゃないから」
カヨコの声が低く響いた、一瞬、全員が黙った。
黒夜は目を閉じた、もう駄目そうですね。
そう思った直後、ミカが飛び出した。
「黒夜!」
隠れていた意味など最初からなかったかのように、ミカは一直線に黒夜の方へ駆け寄ろうとした。だが、数歩進んだところでナギサに袖を掴まれる。
「ミカさん! 黒夜さんはまだ療養中です! 勢いよく抱きついてはいけません!」
「抱きつかないよ! たぶん!」
「たぶんでは困ります!」
その言い争いを合図にしたように、次々と物陰から人が出てきた。
ナギサは何事もなかったかのように優雅に歩いてくる。翼が最初から出ていたことには触れないつもりらしい。セイアはダンボールを脱ぎ、少し乱れた髪を整えながら平然としていた。ヒナは街路樹の影から静かに現れ、カヨコは諦めたようにため息をついている。
マコトは胸を張って出てきた。
「キキキ! 私の尾行によく気づいたな、黒夜!」
「最初から気づいていました」
「なにっ!?」
マコトは衝撃を受けた顔をした。
ヒナが小さく頭を押さえる。
リオは端末をしまいながら歩いてきた。
「これは回復状況を確認していただけよ。あなたの歩行状態、呼吸、外部刺激への反応を確認するために――」
「リオさん」
「……何ですか」
「それっていつもの様にドローンでよかったのでは?」
リオは黙った、沈黙が長かった。
「……実際に見るのは大事だわ」
「なるほど?」
「それ以上でも以下でもないわ」
「わかりました」
黒夜が頷くと、リオは少しだけ視線を逸らした。
ヒマリは隣で実に楽しそうに笑っている。
「私はただの散歩です。天才美少女がD.U.地区の人込みに自然と紛れていただけですので」
「ヒマリさん、目立っていましたよ」
「まさか」
「かなり」
「……そんなはずは」
ヒマリが本気で意外そうな顔をしたので、黒夜はそれ以上言わないでおいた。
アツコは、すでにサオリ達の近くへ行っていた。
けれど、黒夜の方を見る目は柔らかい。
「歩けてるし、大丈夫そうだね」
「はい。まだ少しだけですが」
「本当によかった」
それだけ言って、アツコは小さく笑った。
黒い三人も近づいてくる。
ナギサ*テラーは黒夜を上から下まで見て、静かに息を吐いた。
『思ったよりは歩けているようですね』
「おかげさまで」
『けれど、まだまだ安心とは言えません。無理をすればすぐに連れ帰ります』
「どこへですか?」
『私の目の届く場所へ』
その一言に黒夜の背筋に寒気が走る。
ミカ*テラーは、ミカ以上に飛びつきたそうな顔をしていた。だが、セイア*テラーが腕を掴んでいるため、ぎりぎり踏みとどまっている。
『黒夜、ほんとに大丈夫? 痛いところない? 苦しくない? 誰かに変なもの食べさせられてない?』
「最後の質問だけ急に具体的ですね」
『途中で何か貰っていたから』
「お粥をいただいただけです」
『ほんとに?』
「本当です」
セイア*テラーは何も言わず、黒夜を見ていた。
その視線は鋭い。けれど、責めるものではない。むしろ、何度確認してもまだ足りないというような目だった。
『……無事だね』
ぽつりと、彼女は言った。
黒夜は少しだけ表情を和らげる。
「もちろん無事ですよ、それに約束したでしょう?」
『君の約束は信用できない』
「そう言われてしまうと困ってしまいますね」
『次に無茶しようとしたら、捕まえるからね』
「……それも、もう聞きましたよ」
『何度でも言うさ、君が理解するまでね…』
黒夜は苦笑した。
シロコ*テラーは少し離れた位置から、静かにこちらを見ていた。
黒夜が視線を向けると、彼女は短く言う。
「ん、大丈夫そう」
「はい」
「でもまだ遅いね」
「療養明けですので」
「ん、なら、無理は駄目」
「分かっています」
「分かってなさそう」
「……最近色んな方から言われます」
そのやり取りを聞いていたミカが、ふと何かを思い出したように声を上げた。
「それで! 黒夜は結局、どこに帰るの?」
その一言で空気が変わった。
黒夜は嫌な予感がした。
ナギサが一歩前に出る。
「当然、トリニティですよね? 黒夜さんはティーパーティー専属護衛ですし、左目の療養時もトリニティで過ごしていました。環境としても慣れているはずです」
「待て待て待て! 黒夜の母校はゲヘナだ! 原点に帰るという意味でも、ここはゲヘナこそが相応しいだろうが!」
「ゲヘナは危ない」
ヒナが静かに言った。
「ヒナ!?裏切るのか!?」
「でも、黒夜が望むならゲヘナでもいい。私が見張るから」
「見張るって言ったよね今!?」
「見守る、の言い間違いじゃない?」
カヨコが小さく言い直す。
リオは淡々と口を挟んだ。
「合理的に考えればミレニアムが最適よ。神秘消失後の身体変化を継続的に検査する必要があるし、設備面でも最も適しているわ」
「そうですね。超天才清楚系病弱美少女ハッカーである私の看護も付いてきますよ♪」
「ヒマリさんは看護される側では?」
「細かいことを気にするのですね」
「細かくありません!」
アツコが小さく手を上げる。
「やっぱりアリウスで、面倒を見る」
その一言に、サオリ達が少し驚いた顔をした。
だが、アツコは真剣だった。
「前は、たくさん迷惑をかけた。だから今度は、私たちでちゃんと守りたい」
黒夜は返事に困った。
そこへ、シロコ*テラーが無表情で言う。
「ん、アビドスも候補だよ」
「あなたはアビドス代表として来ているのですか?」
「え?そうだよ」
「皆、借金返済で忙しいから、私が来た」
何故その理屈で代表になるのかは分からない。
そして当然のように、ナギサ*テラーが口を開いた。
『黒夜さんは、私たちの目の届く場所にいるべきです』
「それはどこですか?」
『私たちの目の届く場所です』
「答えが循環していますよ!」
『黒夜さんが無事なら何も問題ないでしょう?』
問題しかなかった。
その場にいる全員が、それぞれの理屈を持ち出して黒夜の療養先を主張し始める。
黒夜は、その中心でしばらく黙っていた。
一週間前、目を覚ました医務室の中で聞いた声と同じだ。
あの時も、皆が好き勝手に心配して、好き勝手に怒って、好き勝手に泣いていた。
そして今も、好き勝手に自分をどこへ連れて行くかで揉めている。
普通なら困るべきなのだろう。
実際、困ってはいる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
黒夜は小さく息を吐き、それから少しだけ声を張った。
「お答えしましょう」
全員が止まった、十三人の瞳が黒夜を貫く。
黒夜は一瞬だけたじろいだが、すぐに表情を整えた。
「今日は、シャーレに帰ります」
「シャーレ!?」
ほぼ全員の声が重なった。
黒夜は頷く。
「はい。私はまだ、外出許可をいただいただけです。退院許可は出ていません。ですので、今日のところはシャーレに戻ります」
「で、ですが黒夜さん、トリニティならすぐに部屋を用意できます」
「ゲヘナもだ!」
「ミレニアムなら検査設備が…」
「アリウスも……」
「ん、アビドスも保健室くらいある」
「皆さん」
黒夜は少し困ったように笑った。
「帰る場所が多いのは、嬉しいです」
その一言で、また空気が止まる。
「ですが、今はまず、先生たちに怒られないように帰ります」
あまりにも現実的な理由だった。
誰も反論できなかった。
遠く、シャーレの窓から二人の先生がこちらを見ていた。
先生は片手を額に当て、プレ先は静かに笑っている。
「……やっぱりこうなったね」
先生の声は届かない。
けれど、口の動きだけで何となく分かった。
プレ先も何かを言う。
「30分も持ったなら、上出来だよ」
そんなことを言っている気がした。
黒夜は軽く息を吐き、踵を返す。
「では、戻りますね」
「ま、待って黒夜! 私も途中まで!」
「ミカさん、走らないでください」
「黒夜、安全に送って行こう」
「セイア様も近すぎます」
「黒夜、肩を貸そうか?」
「アツコさん、まだ大丈夫です」
「念のため車椅子を用意したほうがいいかしら?」
「リオさん、それは本当に大丈夫です」
「天才美少女の膝の上でも」
「ヒマリさん、それは色々と大丈夫ではありません」
「黒夜、やっぱりゲヘナに――」
「マコト、しつこい!今日は諦めなよ」
「カヨコまで!?」
結局、散歩は帰り道の方が騒がしくなった。
黒夜の周囲を囲むように、皆がぞろぞろと歩いていく。近づきすぎれば誰かが注意し、離れすぎれば誰かが心配する。
アリウススクワッドはアツコと並んで少し後ろを歩く。シロコ*テラーは無言で黒夜を見ていた。
黒夜は、その中心で少しだけ疲れた顔をした。
帰ったら先生に少し怒られるかもしれない。
プレ先には、静かに「楽しかったかい?」と聞かれる気がする。
けれど、黒夜は前を向いたまま、小さく笑った。
「……本当に、愉快な方達ですね」
誰かが「何か言った?」と聞いた。
黒夜は首を横に振る。
「いいえ。何でもありません」
その声は、少しだけ明るかった。
シャーレまでの短い帰り道は、行きよりもずっと長く、ずっと騒がしかった。
けれど黒夜は、その騒がしさの中を、確かに自分の足で歩いていた。