モモトークの通知音が鳴ったのは、黒夜がシャーレでの当番を終え、帰る前に先生へ提出する書類を整理していた時だった。
最近は、身体もほとんど以前の調子に戻ってきている。神秘を失った反動でしばらくは絶対安静を言い渡されていたが、先生とプレ先、そしてリオとヒマリによる過剰なまでの経過観察を経て、ようやく日常生活に支障はないと言われる程度には回復した。
もっとも、周囲の過保護が完全に消えたわけではない。
むしろ、黒夜が少し元気になったことで、以前とは別の方向に騒がしくなった気がする。
それでも、こうして自分の足で動けることはありがたかった。
誰かに手を引かれなくても歩ける。
誰かに止められなくても、無茶をしない選択ができる。
そんな当たり前のことを、黒夜は少しずつ取り戻していた。
だからこそ、端末に表示されたメッセージを見た時も、最初は穏やかに目を細めただけだった。
“黒夜~!助けて~!!このままだとゲームがお蔵入りになっちゃう!”
“黒夜、緊急クエストです!勇者パーティーには黒夜の助力が必要です!”
黒夜は、しばらく画面を見つめた。
それぞれの言葉の意味は分かる。分かるが、何が起きているのかはまったく分からない。少なくとも、救援要請としては、かなり情報が足りていなかった。
数秒ほど考えた後、黒夜は返信を打つ。
“落ち着いてください。何があったのですか?”
“説明すると長いから!とにかく来て!”
“すみません、黒夜さん本当に少し困っていて……”
“あ、あの……無理なら大丈夫です……でも、来てもらえると……助かります……”
ユズにまでそう言われると、断りづらい。
黒夜は端末を伏せ、机の上の書類を整えた。幸い、今日の仕事はほとんど終わっている。先生に確認を取れば、ミレニアムへ向かうくらいの時間はあるだろう。
先生に事情を説明すると、先生は少しだけ苦笑した。
「ゲーム開発部からの緊急依頼かあ」
「はい。内容は不明ですが、モモイさんの文面を見る限り、かなり切迫しているようです」
「モモイの文面はいつも切迫しているから判断が難しいけどね」
「フフフ…確かに」
「でも、ミドリとユズも困っているなら、本当に何かあったのかも。行ってあげて」
「わかりました」
「ただし、無理はしないこと」
「分かっています」
「黒夜の“分かっています”は、信用ならないからなあ」
先生はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
黒夜は否定しようとして、できなかった。
「……今回は、本当に無理はしません」
「うん。信じてるよ」
そう送り出され、黒夜はミレニアムへ向かった。
ゲーム開発部の部室に着くと、扉の向こうから妙な熱気が漏れていた。
いつものようにゲームで盛り上がっている時の騒がしさではない。キーボードを叩く音、資料をめくる音、誰かが唸る声、そして時折聞こえるモモイの悲鳴に近い叫び声。
黒夜は少しだけ眉を寄せ、扉をノックした。
「失礼します」
扉を開けると、そこには珍しく、真剣に作業しているゲーム開発部の面々がいた。
モモイは机に突っ伏しながらも資料を睨み、ミドリは画面とにらめっこしている。ユズは隅の方で小さくなりながら、何かの音声ファイルらしきものを整理していた。
アリスは両手を胸の前で握りしめ、黒夜を見るなりぱっと顔を輝かせる。
「黒夜! 来てくれたんですね!」
「はい。メッセージを見て来ましたが……皆さん、珍しく真面目に制作をされているのですね」
「珍しくってなに!?」
モモイが勢いよく顔を上げた。
その反応に少し安心しながら、黒夜は部室の中を見回す。ホワイトボードにはキャラクター相関図らしきものが書かれており、机には台本のような物、設定資料、ゲーム画面のスクリーンショットが散らばっている。
思っていたより、かなり本格的だった。
「これは……新作ゲームですか?」
「そう!」
モモイは椅子から立ち上がり、胸を張った。
「ゲーム開発部、渾身の新作! 恋と選択と破滅の乙女ゲーム!」
「最後に不穏な単語が聞こえたのですが」
「気のせいだよ」
「なるほど…一旦話を聞きましょうか」
ミドリが小さくため息をついた。
「一応、乙女ゲームです。攻略対象のキャラクターを選んで、会話やイベントを進めて、エンディングを目指す形式で……システム自体はほぼ完成しています」
「それはすごいですね」
「はい。ですが……」
ミドリの声がそこで沈んだ。
モモイも勢いを失い、ユズはさらに小さくなる。アリスだけは真剣な顔で黒夜を見上げていた。
「重大なミスが発生しました」
「ミスですか?」
「はい。ゲームの根幹に関わる重大な問題です」
アリスの真剣な言い方に、黒夜も少し姿勢を正す。
「どのような問題なんですか?」
アリスは重々しく頷き、そして言った。
「攻略対象の男性キャラクターに、声がありません」
「……声?」
「はい。ボイス未実装です」
黒夜は一度、ミドリを見る。
ミドリは気まずそうに視線を逸らした。
「その……シナリオや立ち絵、イベント、エンディングを優先していたら、ボイスのことを完全に後回しにしていて……」
「普通は途中で気づくのでは?」
「そうなんですけど、お姉ちゃんが最後に考えればいいよ!って」
「言ったけど! まさか本当に最後まで忘れるとは思わないじゃん!」
「言った本人が一番忘れてたよね」
「うっ」
ユズが小さな声で補足した。
「あ、あの……女性キャラクターやナレーションは、私たちでなんとか仮音声を入れていたんですけど……攻略対象の男性キャラだけ、どうしても……」
「外部に依頼することはできないのですか?」
黒夜の問いに、部室が静かになった。
モモイが目を逸らす。
ミドリが端末を見下ろす。
ユズがさらに縮こまる。
アリスが真剣な顔で答えた。
「資金がもう無い!」
「あぁ…」
「時間もありません」
「マズいですね…」
「納期も近いんです…」
「なるほど…」
黒夜は静かに頷いた。
つまり、詰んでいる。
「それで、私を呼んだ理由は何でしょうか? 声優の方を探す手伝いですか? それとも、予算の相談ですか?」
「黒夜ってさ…声いいじゃん?」
モモイが言った。あまりにも真っ直ぐに言った。
「……はい?」
「だから、黒夜の声! 落ち着いてて、丁寧で、なんかこう……攻略対象っぽい!」
「攻略対象っぽい、とは」
「分かるでしょ! 優しそうで、でもちょっと影があって、頼れそうで、たまに困った顔して謝りそうな感じ」
「それは私に対する評価ですか?」
「だいたいそうかな」
「うーん…ありがとうございますで合ってます?」
黒夜が一歩引こうとすると、アリスがすぐに前へ出た。
「黒夜…私たちを助けてください」
真っ直ぐな目だった。
黒夜は少し言葉に詰まる。
「……アリスさん」
「このままでは、ゲームは封印されます。長い冒険の末、ラスボス前でセーブデータが消えるようなものです」
「それは……確かに悲しいですね」
「はい。とても悲しいです」
アリスは真剣だった。
本当に、心の底からゲームの完成を願っている顔だった。
そこへ、ユズが遠慮がちに声を重ねる。
「あ、あの……黒夜さんが嫌なら、本当に大丈夫です。でも……少しだけでも、試してもらえたら……助かります……」
黒夜は目を閉じた。
モモイの勢いだけなら、まだ断れたかもしれない。
アリスの真っ直ぐな依頼だけでも、何とか理由を探せたかもしれない。
けれど、ユズに申し訳なさそうに頼まれると、逃げ道が細くなっていく。
「……確認しますが、私は声優の経験など当然ありませんよ?」
「大丈夫! あたし達もゲーム制作の経験、最初はなかったし」
「それとこれは別では?」
「気持ちが大事って事だよ」
「気持ちで音声収録は出来ないような気がしますが」
ミドリが台本を差し出した。
「一応、セリフの分量は整理してあります。全キャラクターにフルボイスを入れる必要はありません。重要イベントと決め台詞、それからエンディング周りだけで大丈夫です」
「全キャラクター、という言葉が聞こえたのですが」
黒夜は台本を受け取る。
手に確かな重みを感じるほどには、とても分厚かった。
「……何人いるのですか?」
「攻略対象は五人です」
「五人」
「隠しキャラを入れると六人です」
「しれっと増えましたね」
「あと、序盤で少し出てくるモブ男子が三人」
「それは攻略対象ではないのでは?」
「でも声があると雰囲気が出るかなって」
黒夜は台本を閉じた。
「先生に相談して、他の方法を――」
「黒夜!」
アリスが両手を握る。
「これは、仲間を救うイベントです!」
モモイが乗る。
「そうだよ! 黒夜がいないと、このゲームはお蔵入りなんだよ!?」
ミドリが申し訳なさそうに頭を下げる。
「本当に、無理にとは言いません。でも、黒夜さんが引き受けてくれたら、すごく助かります」
ユズが小さく呟く。
「黒夜さんの声なら……たぶん、すごく合うと思います……」
部室が静かになる。
黒夜は、もう一度台本を見た。
そして、深く息を吐く。
「……分かりました」
モモイの顔が輝いた。
「やった!」
「ただし、少しだけです。試してみて、本当に使えそうなら――」
「録音準備!」
「モモイさん!?」
「ミドリ、台本! ユズ、マイク! アリス、黒夜を収録席へ!」
「承知しました! 黒夜、こちらです!」
「待ってください。話を最後まで聞いてください!」
だが、ゲーム開発部の行動は早かった。
黒夜は気づけば部室の奥に用意された簡易収録スペースへ座らされ、目の前にはマイク、横には台本、正面には期待に満ちた四人の視線が並んでいた。
逃げ道は、なかった。
最初のキャラクターは、ヒモ男だった。
「……最初から少し癖が強くありませんか?」
「このキャラ、人気出ると思うんだよね~」
「働かず、主人公に生活費を頼り、甘い言葉で貢がせる男性キャラクター……本当に人気が出るのでしょうか…?」
「出る!」
「そう信じたいものですね…」
黒夜は台本に目を落とす。
――ごめんね。君に頼ってばかりで。
――でも、君がいないと、僕は本当に駄目なんだ。
――少しだけでいいから、そばにいてくれないかな。
黒夜は、しばらく沈黙した。
「……これは、かなり問題のある人物では?」
「そこがいいんだよ」
「マジですか…」
「でも声は優しめで、捨てられた子犬みたいな感じ」
「注文が具体的ですね」
黒夜は諦めて、マイクに向き直った。
息を整える。
声を少し柔らかくする。
普段よりも弱く、頼りなく、けれど相手の罪悪感を静かに撫でるように。
「……ごめんね。君に頼ってばかりで」
部室が静まり返った。
黒夜は続ける。
「でも、君がいないと、僕は本当に駄目なんだ。少しだけでいいから……そばにいてくれないかな…?」
黒夜はマイクから少し顔を離した。
「……どうでしょうか?」
モモイが震えていた。
「イケる」
「判断が早いですね」
「売れるよこれ!」
アリスは目を輝かせている。
「黒夜、声優ジョブに適性があります!」
「嬉しいような、困るような評価ですね」
ミドリは少し悔しそうに頷いた。
「なんか……思った以上に上手いです」
「あ、あの……今の、すごく……危なかったです……」
ユズが小さく言った。
「危ない?」
「聞いてると……つい、助けたくなる感じが……」
「それは、このキャラクターとして正しいのでしょうか」
「正しいよ!」
モモイだけが迷いなく断言した。
次はホスト風の男性キャラクターだった。
主人公をお姫様扱いし、甘い言葉を囁く。だが、ゲーム内通貨が足りなくなると露骨に態度が冷たくなるらしい。
「……このゲームの攻略対象は、全体的に危険ではありませんか?」
「恋愛ゲームには刺激も必要だから!」
「刺激の方向が間違っている気がします」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと純愛キャラもいるから」
「それは安心しました」
「詐欺師だけど」
「今の安心を返してくださーい」
黒夜は台本をめくりながら、頭を押さえたくなった。
しかし、引き受けた以上は途中で投げ出すわけにもいかない。黒夜はホストキャラの台詞を確認し、声の調子を少し変えた。
軽く、華やかに。
相手が求める言葉を迷わず差し出すように。
けれど、どこか薄い。
「君は本当に綺麗だね。今夜だけは、僕のお姫様でいてくれる?」
モモイが机を叩いた。
「はい優勝!」
「何にですか」
「これはメンヘラみたいな子に刺さるよ!」
「メンヘラ…」
黒夜はそこで言葉を切った。
気を取り直して次は、誠実そうな詐欺師だった。
序盤から中盤までは、優しく、礼儀正しく、主人公を支える理想的な男性として描かれる。
だが、終盤で正体が詐欺師だと発覚し、条件によっては主人公の全財産を持ち逃げするらしい。
「何故、攻略対象に詐欺師がいるのですか」
「どんでん返しって大事じゃん!」
「乙女ゲームのどんでん返しとしては、かなり致命的では」
「でも、裏切られた後にもう一回信じるルートもあるよ」
「地獄では?」
「かもね!」
黒夜は静かに台本を見下ろした。
セリフ自体は、穏やかだった。
――君が迷うなら、僕は待つよ。
――答えを急がなくていい。君の心が決めるまで、僕はここにいる。
――信じてくれてありがとう。
言葉だけなら、優しい。
だからこそ、性質が悪い。
黒夜は少し目を伏せ、声を整えた。
誠実に。柔らかく。
相手の不安を受け止めるように。
「君が迷うなら、僕は待つよ。答えを急がなくていい。君の心が決めるまで、僕はここにいる」
自分で読み上げながら、黒夜は思った。
これは、騙されるかもしれない。
続けて、最後の一文。
「……信じてくれてありがとう」
言い終えた瞬間、ミドリが顔を覆った。
「これは……ずるいですね」
「ミドリさん?」
「詐欺師だと分かっていても、ちょっと信じたくなります」
「絶対に信じないでください」
ユズが小さく頷く。
「こ、これは……バックアップを分けた方がいいかも……」
「何故ですか」
「失敗した時のダメージが大きそうなので……」
黒夜は、だんだん不安になってきた。
その後も収録は続いた。
無口な剣士。
幼馴染風の青年。
隠しキャラの執事。
名前もないはずのモブ男子。
黒夜はキャラクターごとに声の調子を変え、言葉の間を調整し、ゲーム開発部の指示に従って何度も録り直した。
最初は素人の真似事だと思っていたが、やっているうちに、どうすればキャラクターらしく聞こえるのか少しずつ分かってくる。
それが楽しいかと聞かれれば、即答はできない。
ただ、目の前でゲーム開発部の皆が真剣に喜んでいるのを見ると、悪い気はしなかった。
アリスは録音のたびに「黒夜、今のは必殺技ボイスのようでした!」と目を輝かせ、モモイは「これは売れる!」を何度も繰り返した。
ミドリは冷静に音声を確認しながらも、時々小さく笑っていた。ユズは自分の居場所で静かに編集作業を進め、黒夜の声がゲーム画面に乗るたびに、ほっとしたように肩の力を抜いていた。
そうして、気づけば収録は予定よりもずっと長引いていた。
「……皆さん」
黒夜は台本を置き、静かに言った。
「少しだけ、という話ではありませんでしたか?」
モモイは目を逸らした。
「少しずつをいっぱいやっただけだから…」
「それは少しではありません」
ミドリが申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。でも、本当に助かりました。これで完成できます」
ユズも小さく頷く。
「あ、あの……黒夜さん、本当にありがとうございました……」
アリスは両手を上げた。
「クエスト達成です! 黒夜のおかげで、ゲームは救われました!」
黒夜は疲れたように息を吐き、それでも少しだけ笑った。
「皆さんに喜んで貰えたなら、よかったです」
部室の窓からは、夕日の光が差し込んでいた。
帰ったら先生に、少し遅くなった理由を説明しなければならない。きっと「無理はしなかった?」と聞かれるだろう。黒夜はその時、どう答えるべきか少し悩んだ。
身体的には無理はしていない。
だが精神的には、少し妙な疲れがある。
「それで、このゲームはいつ公開されるのですか?」
「数日後かな?」
「随分早いですね」
「もうほぼ完成してたからね! 黒夜のボイスを入れて、最終チェックしたら完成!」
「黒夜ボイスという言い方はやめてください」
「じゃあ、謎の豪華男性ボイス」
「それもやめてください」
黒夜は念のため確認した。
「私が声を担当したことは、どこかに記載されるのですか?」
「え? 名前出していいの?」
「絶対やめてください」
即答だった。
あまりにも早い返答に、モモイが目を瞬かせる。
「なんで? 結構うまかったし、いいじゃん!」
「恥ずかしいからです」
「黒夜でもそういうことあるんだ」
「ありますよ」
「それに、私は本職ではありません。ゲーム開発部の皆さんのお手伝いをしただけです。名前を出す必要はないでしょう」
ミドリは少し考えてから頷いた。
「分かりました。クレジットでは匿名にしておきます」
「お願いします」
「じゃあ、“謎の協力者K”とか?」
「やめてください」
「“通りすがりのイケボ生徒”」
「モモイさーん?」
「冗談だよ~」
最終的には、男性キャラクターボイス協力者という曖昧な表記に落ち着いた。
それでも黒夜は、妙な不安を覚えていた。
自分の声は、自分ではよく分からない。
だが、親しい者なら気づくかもしれない。
特に、ナギサやミカやセイアのように、日頃から近くで自分の声を聞いている人達なら。
いや、無いか…
黒夜はその考えを打ち消した。
そもそも、ティーパーティーの三人がゲーム開発部の乙女ゲームを遊ぶとは限らない。
ナギサは忙しい。ミカは興味を持てば遊びそうだが、偶然そのゲームに辿り着く可能性は低い。セイアに至っては、ゲームをする姿があまり想像できない。
きっと大丈夫だろう。
そう判断した。
数日後、ゲームは無事に公開された。
タイトルは、モモイ曰く「恋と選択と破滅の乙女ゲーム」の仮題から少しだけ整えられ、最終的にそれらしい名前になったらしい。
黒夜は詳しく聞かなかった。聞けばまた何かに巻き込まれる気がしたからだ。
公開当日、ゲーム開発部からは大量のメッセージが届いた。
“黒夜! 無事公開されたよ、評判も結構いい感じ!!”
“黒夜、ゲームは無事に旅立ちました!”
“黒夜さん、本当にありがとうございました”
“あ、あの……レビューでも声、褒められてましたよ……?”
黒夜は端末を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
役に立てたなら、それでいい。
そう思って端末を閉じるのだった。
その数日後。
トリニティのティーパーティーの執務室で、黒夜は三人の顔色を見て、静かに固まることになる。
黒夜は、書類を抱えたまま、ティーパーティーの三人を順番に見た。
ナギサは、いつも通り優雅に紅茶のカップを持っている。だが、その指先にはわずかな力の入りすぎが見えた。微笑みも整っている。整っているのだが、目の下に薄く浮かんだ隈だけは隠しきれていない。
ミカは、分かりやすかった。頬杖をつきながら、どこか夢見心地の顔で宙を見つめている。時折、何かを思い出したように頬を押さえ、すぐに「でも……でもさぁ……」と小さく呟いていた。
セイアは、最も静かだった。いや静かすぎた。普段から落ち着いている彼女ではあるが、今日の沈黙は知的なものというより、深夜まで何かに精神を削られた者のそれに近い。
机の上には読みかけの書類が置かれているが、視線はそこに落ちていない。
黒夜は、慎重に言葉を選んだ。
「皆さん、昨夜はあまり眠れていないのではありませんか?」
ナギサの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「い、いえ。そんなことはありません。少し、考え事をしていただけです」
「ナギサ様」
「本当に、少しだけです」
少しだけ、という言葉ほど信用しづらいものもない。
黒夜はミカへ視線を向けた。
「ミカ様は?」
「えっ!? 私!? 私は、その……ちょっとだけ夜更かししただけだよ?」
「ちょっとだけ、ですか」
「うん。ちょっとだけ。気づいたら朝だったけど」
「それは、ちょっとではありませんよ」
ミカは気まずそうに目を逸らした。
黒夜は最後にセイアを見る。
「セイア様…大丈夫ですか?」
「……黒夜」
「はい」
「人は時に、眠るよりも向き合わなければならない物語に出会うことがあるんだよ」
「今すぐ休んでください」
黒夜は即答した。
セイアは静かに目を伏せる。
「休みたいとは思っている。だが、彼が……」
「彼?」
黒夜が聞き返すと、三人の空気が変わった。
ナギサはカップを置いた。
ミカは身を乗り出した。
セイアはゆっくりと顔を上げた。
黒夜は、少し嫌な予感を覚えた。
「その、最近……少し話題になっているゲームがありまして」
ナギサが言う。
「ゲーム、ですか」
「恋愛を主題にした、選択肢によって結末が変わる形式の作品です。最初は、ミカさんが話題にしていたので少し触れてみただけだったのですが……」
「え、ナギちゃんだって結構すぐハマってたよね?」
「ミカさん!」
「だって本当のことじゃん」
「貴女こそ、昨夜ずっと資金集めをしていたのでは?」
「そ、それは言わないで!」
資金集め。黒夜はその単語を聞き逃さなかった。
「ゲーム内の話、ですよね?」
「もちろんです」
ナギサは咳払いをした。
その仕草は上品だった。
だが、上品なまま何かを誤魔化そうとしている時のナギサは、逆に分かりやすい。
「……そのゲームが、皆さんの寝不足の原因なのですか?」
「原因というより……」
ミカが頬を染める。
「出会っちゃった、って感じ?」
「何にですか」
「運命に!」
「ミカ様?本当に大丈夫ですか!?」
「だって、すごいんだよ!? 声が!」
黒夜の心臓が、静かに跳ねた。
声。
その一単語だけでゲーム開発部の部室での記憶が、黒夜の脳裏に蘇る。
黒夜は、表情を動かさないよう努めた。
「声、ですか」
「そうなの」
ミカは机に両手を置き、夢見るように語り始める。
「すっごく優しくて、甘くて、耳元で囁かれると、もう全部どうでもよくなっちゃうんだよね♡」
「どうでもよくなってはいけないのでは?」
「でも、お姫様って呼んでくれるんだよ?」
「……それだけで?」
「それだけじゃないよ! 毎日迎えに来てくれるし、私のこと一番だって言ってくれるし、夜の街で手を取ってくれるし!」
黒夜は、記憶の中の台本をめくった。
それは、おそらくホスト風の攻略対象だ。
主人公をお姫様扱いするが、ゲーム内通貨が足りなくなると露骨に冷たくなる男性キャラクター。収録時、モモイが「これはメンヘラみたいな子に刺さる!」と言っていた事も思い出した。
黒夜は、内心で静かに頭を抱えた。
刺さってしまっている。
「ミカ様。その人は……良い方なのですか?」
「良い人だよ!」
「本当に?」
「……お金がある時は」
「駄目なのでは?」
黒夜の声は、自然と低くなった。
ミカは慌てて手を振る。
「ち、違うの! たぶん、本当は優しいんだよ! ただ、お店のルールとか、立場とか、そういうのがあるんだよ!」
「ゲーム内の男性にそこまで事情を汲む必要がありますか?」
「だって、冷たくされるとつらいんだもん!」
「なおさら離れるべきでは?」
「でも、またお姫様って呼んでほしいから、頑張って金策してるの!」
黒夜は沈黙した。
ミカ様が、ゲーム内でホストのために金策をしている。
その事実が、あまりにも衝撃的だった。
ナギサが少し呆れたように言う。
「ミカさん、そのような男性に振り回されるのは感心しませんよ」
「ナギちゃんだって人のこと言えないでしょ!」
「私は、彼を更生させようとしているだけです」
「貢いでるだけじゃん!」
「違います!」
黒夜はゆっくりナギサへ顔を向けた。
「ナギサ様の推しキャラクターは、どのような方なのですか?」
「推し、という言い方は少し軽い気がしますが……」
ナギサは一度、紅茶で喉を潤した。
そして、どこか遠くを見るようにして語り始める。
「彼は、生活力に少し問題があります」
「少し」
「ええ。働くことが得意ではなく、日々の生活費にも困っていて、私に頼る場面が多いのです」
「それは、少しではない気がします」
「もちろん、最初は私もそう思いました。怠惰で、自立心に欠け、私の善意に甘えている。正直に言えば、叱責すべき相手です」
「その通りですね」
黒夜は少し安心しかけた。
ナギサは常識的だ。
きっとこのまま、きちんと距離を置くべきだという結論になる。
そう思った。
だが、ナギサは目を伏せ、ほんのりと頬を染めた。
「ですが……彼は、私がいないと駄目なのです」
「ナギサ様?」
「私が手を差し伸べなければ、彼は朝食すらまともに取れません。家賃も滞納しますし、部屋も散らかり放題です。ですが、私がそばにいると、彼は本当に安心したように笑うのです」
「それは、かなり危険な依存関係では?」
「分かっています」
「分かってはいるのですが、彼に『君だけが頼りなんだ』と言われると……」
ナギサは、そこで言葉を切った。
黒夜は、嫌な予感を覚えながら続きを待つ。
「……つい、お金を渡してしまいました」
「どのくらいですか?」
「少しです」
「ナギサ様…本当ですか?」
「……かなりです」
黒夜は静かに目を閉じた。
ナギサが、ヒモ男に貢いでいる。
こちらもまた、現実として受け止めるには少し時間が必要だった。
しかも、その声は自分である。
黒夜は、机の上の書類をそっと握り直した。
手元に集中していないと、顔に出そうだった。
セイアが静かに口を開く。
「二人とも、まだいい方だよ…」
黒夜はゆっくりとセイアを見た。
「セイア様の推しキャラクターは……」
「誠実な男だった」
「最初は、とても穏やかだった。言葉を急がず、こちらの弱さを否定せず、ただ隣にいることを選んでくれる。こちらが答えを出せない時も、彼は待つと言った」
黒夜の背筋に、じわりと嫌な汗が浮かぶ。
それは、間違いなく詐欺師キャラだ。
序盤から中盤までは誠実な青年として振る舞い、終盤で正体が発覚する攻略対象。収録時、ミドリが「詐欺師だと分かっていても、ちょっと信じたくなります」と言っていたキャラクターである。
セイアは静かに続けた。
「彼は、私の迷いを責めなかった。こちらの心が決まるまで待つと言った。信じてくれてありがとう、とも」
「……その後は?」
「全財産を持っていかれた」
「…あぁ」
黒夜は、思わず声を出した。
セイアは目を伏せる。
「正確には、ゲーム内資産の大半だ。途中で不自然な選択肢があったことには気づいていた。だが、あの声で言われると……信じたくなってしまった」
「いいですか?その人はただの詐欺師ですよ!」
「分かっている」
「分かっているのですね」
「分かってはいる。だが、もう一度やり直せば、別の未来が見えるのではないかと思ってしまう」
「セイア様、そこから先は地獄ですよ?」
「否定はしない」
セイアは淡々と言った。
淡々と言ったが、その目は明らかに精神を削られた者のものだった。
黒夜は、三人を見た。
ナギサはヒモ男に貢ぎ。
ミカはホストのために金策し。
セイアは詐欺師に全財産を持っていかれている。
しかも全員、それぞれのキャラクターを推している。
黒夜は、恐る恐る問いかけた。
「……なぜ、皆さんはそこまで危険な方々を選んでいるのですか?」
三人は、一瞬だけ顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に言った。
「この声に逆らえないのです」
「なんでもしてあげたくなっちゃうんだよね……」
「耳元で囁かれると、判断が鈍る」
黒夜は、完全に固まった。
三人が逆らえないと言っている声は、自分の声だ。
ゲーム開発部を助けるために、渋々収録したボイス。
匿名なら大丈夫だろうと判断した。
親しい者でも、まさか気づかないだろうと甘く見ていた。
それが今、目の前で三人を確実に狂わせている。
黒夜は、静かに紅茶のカップへ視線を落とした。
飲んでもいないのに、喉が渇く。
これはバレてはいけない。
絶対に言ってはいけない。
自分がその声を担当したなどと知られれば、何が起きるか分からない。少なくとも、今日の仕事は無事に終わらないだろう。
ナギサは顔を赤くして震えるだろう。ミカは詰め寄ってくるだろう。セイアは静かに、しかし逃げ場のない問いを投げてくるだろう。
それだけは避けなければならない。
黒夜は、心の中で固く誓った。
私は何も知りません。
私は何も聞いていません。
私はただ、偶然ここにいるだけです。
「黒夜さん?」
ナギサが首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いえ。皆さんが楽しそうで何よりです」
「楽しそうに見えますか?」
「……少なくとも、熱中はされているように見えます」
黒夜は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、睡眠はきちんと取ってください。ゲームは逃げませんので」
「彼は逃げるかもしれません」
「ナギサ様…ゲームですよ?」
「一定期間放置すると、好感度が下がるのです」
「それは本当に恋愛ゲームなんですか?」
黒夜が困惑していると、ミカがふと目を輝かせた。
「ねえ黒夜! 黒夜もやってみない?」
「私が、ですか?」
「うん! 黒夜なら、どのキャラ選ぶのかなって!」
黒夜は即座に首を横に振った。
「遠慮しておきます」
「即答!?」
「私には向いていないと思います」
「そんなことないよ! 黒夜なら絶対上手いって!」
別の意味では、すでに関わっているとは口が裂けても言えなかった。
黒夜は視線を逸らした。
その時だった。
端末が鳴った。
軽い通知音でモモトークが届く。
黒夜は、何気なく画面を見た。
“ゲーム売れてるよ!!黒夜の声、めちゃくちゃ評判いいよ!”
“追加ボイスの収録お願いできる?”
黒夜は、急いで端末を伏せようとした。
しかし、遅かった。
「黒夜の声?」
ミカの声が、すぐ横から聞こえた。
黒夜は動きを止めた。
ナギサの目が、ゆっくりと細くなる。
「……黒夜さん?」
セイアは黙っていた。
黙ったまま、黒夜の端末と黒夜の顔を交互に見た。
黒夜は、静かに端末を胸元へ戻す。
「……不可抗力でした」
「何がですか?」
ナギサの声は丁寧だった。
とても丁寧だった。
その分、怖かった。
「説明を、お願いできますね?」
「ナギサ様。まず落ち着いてください」
「私は落ち着いています」
「翼が広がっていますよ?」
「大丈夫です、私は落ち着いていますよ?」
説得力はなかった。
ミカは椅子から立ち上がり、黒夜へ詰め寄る。
「黒夜!? 私にお姫様って言ってたの、黒夜だったの!?」
「正確には、ゲーム内のキャラクターですよ」
「声は黒夜じゃん!」
「声は……私ですが…」
「やっぱり!」
ミカは顔を真っ赤にして、両手で頬を押さえた。
「え、待って。じゃあ私、黒夜の声にお姫様って言われたくて、ずっと金策してたの?」
「言い方を変えてください。人聞きが悪すぎます」
「事実じゃん!」
ナギサは、震える手で紅茶のカップを置いた。
「では……私が昨夜、彼のために新しいソファを買ったのも」
「ゲーム内の話ですよ…」
「黒夜さんに頼られたから……?」
「ゲーム内のキャラクターです」
「黒夜さんの声で、『君だけが頼りなんだ』と……」
「ナギサ様、現実に戻って来てください」
セイアは、しばらく沈黙していた。
そして、静かに言った。
「なるほどな」
「セイア様?」
「詐欺師の声が君だったのなら、私が全財産を失ったのも仕方がない」
「仕方なくありませんよ!?」
「いや、仕方がないのさ」
「正気に戻ってください!」
「私は正気だ。正気のまま、同じルートをもう一度見るべきか悩んでいる」
「絶対にやめてください!」
黒夜は頭を抱えたくなった。
だが、ここで崩れるわけにはいかない。
この場を収めなければ、ティーパーティーの仕事どころではなくなる。
「とにかく、私はゲーム開発部の皆さんに頼まれて、少しだけお手伝いをしただけです。声優として正式に活動したわけではありませんし、今後続ける予定もありません」
「少しだけで、攻略対象全員分の声を?」
セイアの指摘が鋭い。
「……結果的には、少しではありませんでしたが!」
「黒夜さん」
ナギサが、まだ赤い顔のまま言う。
「今後、そういったお仕事をされる場合は、事前に教えてください」
「お仕事ではありません」
「教えてくださいね?」
「……はい」
ミカも身を乗り出す。
「私も先にチェックするからね!」
「何をですか!?」
「黒夜がどんな台詞を言うのか!」
「勘弁して下さい」
セイアは静かに微笑んだ。
「追加ボイスがあるなら、私にも聞く権利があると思うのだが」
「無いと思いますが」
黒夜は、深く息を吐いた。
このままでは収拾がつかない。
なんとか三人を落ち着かせてティーパーティーの仕事は進んだ。
進んだが、いつもの倍は疲れた黒夜だった。
トリニティでの業務を終え、自宅に戻った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
黒夜は自室の椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
「……もう二度と、声優の真似事はしません」
静かな決意だった。
ゲーム開発部の皆には悪いが、今回だけだ。もう二度と、乙女ゲームの攻略対象に声を当てるようなことはしない。
特に、ティーパーティーに影響が出るようなことは絶対に避けなければならない。
そう思った瞬間、端末が鳴った。
黒夜は、嫌な予感を覚えながら画面を見る。
“黒夜~!大変!!ゲーム、めちゃくちゃ売れた!!”
“追加攻略キャラ作ることになったからさ追加ボイスもお願い!!”
“黒夜、新クエスト発生です。勇者パーティーには、黒夜の力が必要です!”
“あ、あの……無理なら大丈夫です。でも……黒夜さんの声、すごく評判がよくて……”
“お姉ちゃんが勝手にお願いしてすみません。でも、追加収録してもらえると正直かなり助かります”
黒夜は、しばらく画面を見つめた。
そして、静かに端末を伏せた。
「……見なかったことにしましょう」
数秒後。
また通知音が鳴った。
黒夜は目を閉じて現実逃避することにした。
――なお
その頃、トリニティのとある家では、三つの端末画面が暗がりの中で淡く光っていた。
画面に映っているのは、一人の執事だった。
柔らかく微笑み、主人公のために紅茶を淹れ、どこまでも穏やかに寄り添ってくれる男。
その声は、どこか聞き覚えがあるほど優しく、耳に残るほど甘い。
攻略対象の中でも、彼は一見まともな部類だった。
誠実で、忠実で、献身的。
主人公の幸せを第一に考え、自分の望みを決して押しつけない。
ただ静かに傍にいて、必要な時にだけ手を差し伸べてくれる。
だからこそ。
ナギサ*テラーは、画面の中で鍵のかかった屋敷から出られなくなった執事を見つめながら、静かに微笑んでいた。
『……逃げられない場所にいてくれるのなら、もう失う心配はありませんね』
ミカ*テラーは、頬を赤くしながら端末を抱きしめるようにしている。
画面の中の執事は、困ったように笑いながら、それでも主人公を責めようとはしなかった。
『ずっと一緒にいてくれるんだよ? どこにも行かないんだよ? なら、これってハッピーエンドだよね?』
セイア*テラーは、エンディング画面から目を逸らさなかった。
そこには、閉ざされた部屋の中で主人公に仕え続ける執事の姿がある。
扉の鍵は主人公の手の中、窓は開かない。
外へ続く道は、もうどこにもない。
けれど画面の中の彼は、最後まで穏やかな声で言うのだ。
――貴女が望むなら、私はここにいます。
セイア*テラーは、薄く笑った。
『望まなければ残ってくれないのなら、私は望み続けるだけさ…永遠にね』
三人の端末には、同じエンディング名が表示されていた。
――永久奉仕エンド。
世間一般では、監禁エンドと呼ばれる類のものだった。
もちろん、黒夜は知らない。
自分が見なかったことにした現実のさらに奥で、もっと見てはいけない現実が、静かに育っていることなど。