便利屋68の事務所は、黒夜の記憶にあるゲヘナの空気を堪能できる場所だった。
整っているとは言いがたい。
けれど、散らかっていると言い切るには妙な秩序がある。
机の上には書類と菓子の袋が一緒に置かれ、壁際には用途の分からない箱が積まれている。依頼書らしきものは無造作に置かれているのに、なぜか銃器や弾薬の類はすぐ手に取れる位置にある。応接用のソファは少し古びていたが、座り心地は悪くなかった。
黒夜はそのソファに腰を下ろし、差し出されたお茶に軽く口をつけた。
「久々に来ましたが……落ち着きますね、ここ」
何気なく呟くと、隣に座っていたカヨコが目だけを向けた。
「本気で言ってる?」
「はい。ゲヘナらしくて」
「それ、褒め言葉なのか微妙だね」
カヨコはそう言いながらも、別に嫌そうではなかった。
黒夜は少しだけ笑った。
療養期間も終わり、日常生活に戻ってしばらく経つ。トリニティ、ミレニアム、シャーレと、行く先々で心配される生活にも少しずつ慣れてきた頃、ふとカヨコから連絡があった。
時間があるなら、便利屋に顔を出してくれない? 社長がうるさいから。
それだけだった。
黒夜は、その文面を見て少し笑った。
カヨコらしい誘い方だと思った。
そして実際に来てみれば、出迎えたアルは予想以上に張り切っていた。
「ふふん、よく来たわね黒夜! ここが新しく新調した、便利屋68の事務所よ!」
アルは社長椅子に座り、足を組み、腕を組み、いかにも大物らしく振る舞っていた。
ただし、椅子の高さが少し足りないせいで、威厳よりも背伸び感が勝っていた。
「凄いですね。ではお邪魔しますよ、アルさん」
「ええ、歓迎するわ。今日は特別に、私たち便利屋68の偉大な仕事ぶりを聞かせてあげる!」
「それは楽しみですね」
黒夜が素直にそう言うと、アルの表情がぱっと輝いた。
その横でムツキがにやにやしている。
「くふふ、アルちゃん、黒夜がちゃんと来てくれたからって張り切ってる〜」
「ム、ムツキ! 余計なことを言わないの!」
「でも本当じゃん?」
「本当でも言わなくていいの!」
ハルカは黒夜の前にお茶を置きながら、やけに緊張していた。
「黒夜さん…どうぞお茶です。熱すぎないようにしました」
「ありがとうございます、ハルカさん」
黒夜がそう言うと、ハルカは顔を赤くして小さく頷いた。
カヨコはそのやり取りを見て、浅く息を吐く。
「あんたってさ、ゲヘナにいる時はちょっと脇が甘いよね」
「そう見えますか?」
「見えるね」
「まあ……ここは、私にとって原点みたいなものですからね」
その言葉に、カヨコは少しだけ嬉しそうな表情をしていた。
そしてそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、アルが机を叩く。
「そう! ゲヘナこそ黒夜の原点。つまり、便利屋68とも深い縁があるということよ」
「そこは少し飛躍していませんか?」
「細かいことはいいのよ!」
アルは胸を張り、得意げに語り始めた。
「この前の依頼なんて見事なものだったわ。依頼人は、ある荷物を指定の倉庫まで運んでほしいと言ってきたの。もちろん、普通の運搬依頼なら私たち便利屋68にかかれば朝飯前よ」
「けれど、依頼には一つ問題があった。その荷物を狙う不良たちが、途中で襲撃してくる可能性があったのよ」
「それは大変ですね」
黒夜が相槌を打つと、アルはますます調子づいた。
「そう、大変だったわ! でも私は社長として冷静に判断した。正面から行けば狙われる。ならば、あえて裏道を使い、敵の予想を外すべきだと!」
「なるほど」
「結果、裏道で別の不良集団と鉢合わせしたんだよね~」
「駄目だったのでは?」
「でも勝ったから成功よ!」
黒夜は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「それは……アルさんらしいですね」
「ふふん、そうでしょう?」
褒められたと思ったのか、アルはさらに胸を張った。
ムツキはソファの背もたれに腕を置きながら、楽しそうに話を足す。
「しかもその時、アルちゃんってば『予定通りよ!』って叫んでたんだよね〜。完全に予定外だったのに」
「ムツキ!」
「でも結果的には、依頼の荷物も無事だったし、不良たちも追い払ったし、大成功だったじゃん」
「そうよ! つまり予定通りだったの!」
「まぁ…そうなのかな?」
黒夜が穏やかに言うと、アルは少しだけ目を逸らした。
「……結果を出すのが、プロというものよ」
「それは確かに」
黒夜が楽しそうに頷くと、アルはすぐに機嫌を直した。
次に語られたのは、行方不明になった依頼人のペットを探した話だった。
「それでね、そのペットがとても珍しい生き物で――」
「普通の猫だったよね?」
「ムツキ、今は黙っていて」
「かわいい猫だった」
「カヨコまで!?」
アルは咳払いをして続けた。
「とにかく、依頼人にとっては大切な存在だったの。だから私たちはゲヘナ中を捜索したわ。路地裏、倉庫街、廃ビル、飲食店の裏口……どんな危険な場所にも足を踏み入れた」
「それは大変でしたね」
「ええ。最後にはハルカが排水溝に潜ろうとして――」
「アル様のためなら、どこへでも潜ります!」
「そこまではしなくてよかったのよ、ハルカ」
カヨコが静かに補足する。
「結局、猫は依頼人の家の屋根にいた」
「……最初から近くにいたんですね」
「そう。でも依頼は達成した」
「おめでとうございます」
黒夜は微笑みながら頷いた。
アルの話は、どれも少し抜けていた。
格好よく始まるのに、途中でだいたい予定外の方向へ転がる。けれど最後には、なぜか依頼そのものは達成している。
それが便利屋68らしかった。
黒夜は、そういう話を聞くのが嫌いではなかった。
ゲヘナにいた頃、黒夜の周りにはいつも騒動があった。風紀委員会と不良の抗争、万魔殿の無茶な指示、突然始まる銃撃戦。どれも面倒で、危険で、まともではなかった。
けれど今思えば、それも自分の原点だった。
「……楽しそうですね、便利屋の仕事」
黒夜がそう言うと、アルは少し驚いた顔をした。
そしてすぐ、得意げに笑う。
「当然よ! 便利屋68は、どんな依頼も華麗にこなすアウトロー集団なんだから!」
「アウトローって自分で言うと、ちょっと安っぽいよね」
「ムツキ!」
「でも、黒夜が楽しそうでよかったじゃん」
ムツキがそう言うと、アルは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
それから、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「ま、まあ……せっかく来てくれたんだし、退屈させるわけにはいかないからね」
「ありがとうございます。退屈どころか、かなり面白いです」
黒夜が素直にそう返すと、アルはまた分かりやすく表情を輝かせた。
その時だった、カヨコが、ふと顔を上げた。
それまで何気なく椅子にもたれていた彼女の空気が、ほんのわずかに変わる。
黒夜は、その変化に気づいた。
「カヨコさん?」
「……静かに」
カヨコは短く言った。
その声に、室内の空気が変わる。
アルは話を止め、ムツキの笑みも少し薄くなった。ハルカはお茶のポットを持ったまま固まる。
カヨコは窓の方へ視線を向けた。
「外の足音が変だ…」
黒夜も耳を澄ませた。
最初は、気のせいかと思うほど微かな音だった。だが、すぐに分かる。事務所の周囲を囲むように、複数の足音が動いている。規則的で、訓練された動き。適当な不良集団のものではない。
黒夜はゆっくり立ち上がった。
カヨコも窓際へ移動する。
ムツキは楽しそうに目を細め、アルは早くも表情を引きつらせていた。ハルカはなぜか鞄の中に手を入れている。おそらく、取り出してはいけないものを探っている。
黒夜はカーテンの隙間から外を見た。
事務所の前の通り、路地の角、向かいの建物の影。
そこに、風紀委員会の生徒たちが展開していた。
しかも、ただの巡回ではない。
明らかに包囲している。
「……風紀委員ですね」
黒夜が言うと、アルが勢いよく窓へ近づいた。
そして外を見た瞬間、顔色を変える。
「ど……どうしてここがバレたのよ!?」
「バレるようなことをした覚えは?」
「ありすぎて分からないわ!」
ムツキは別の窓から外を覗き、くふふ、と笑った。
「あぁ~、向こうも本気みたいだね~。ヒナまで居るじゃん」
その言葉に、黒夜の眉がわずかに動いた。
窓の向こう、包囲の中心に近い位置。
小柄な身体に、しかし場の空気を支配する圧。確かに、そこにはヒナがいた。隣にはアコ、少し離れてイオリ、そしてチナツの姿も見える。
周囲には風紀委員会の生徒たちが配置され、退路を塞いでいた。
どうやら本気の摘発らしい。
「……寄りにもよって今日なのか……」
黒夜は小さく呟いた。
せっかく穏やかに、アルの仕事話を聞いていただけだった。
本当に、それだけだった。
なのに、よりによって自分が便利屋68の事務所にいるタイミングで、風紀委員会が包囲してくる。
ゲヘナらしい、と言えばゲヘナらしい。
だが、もう少し空気を読んでほしかった。
外では、風紀委員会の生徒が拡声器を構えている。
「便利屋68! こちらは風紀委員会です! 事務所は包囲されています! 大人しく出てきてください!」
室内に緊張が走った。
アルは一瞬青ざめ、それから無理やり胸を張った。
「ふ、ふふん……ついに来たわね、風紀委員会。だけど、この私が簡単に捕まると思ったら大間違いよ!」
「声が震えてるよ、アルちゃん」
「震えてないわ!」
「震えてるね」
「カヨコまで!」
ハルカは鞄から何かを取り出しかけていた。
「アル様! 私がぶっ潰してきましょうか?」
声はおどおどしているのに、言っていることは完全に狂犬だった。
黒夜は反射的に手を伸ばし、ハルカの手元をそっと押さえる。
「ハルカさん、それは置きましょう」
「で、でも黒夜さん! アル様を捕まえようとするなんて、風紀委員会だろうと許せません! 私が全部、その、爆破して――」
「爆破はやめましょう。まだ誰もそこまで追い詰められていません」
「ハルカ、黒夜の言うこと聞いて」
カヨコが低く言うと、ハルカはすぐに手を引っ込めた。
「は、はい……」
カヨコは窓の外を見ながら、小さく舌打ちした。
「……面倒だね」
「カヨコさん、ヒナさんまで出てくる事に何か心当たりが?」
「ありすぎる」
「それは…すごいですね」
「褒めてないよね、それ」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「呆れています」
カヨコは、少しだけ口元を緩めた。
だがすぐに表情を戻す。
「黒夜、あんたは関係ない。こっちで何とかするから、タイミング見て逃げて」
「うーん…」
黒夜は外を見たまま答えた。
「私が無関係だと説明すれば、少なくともヒナさんは分かってくれると思います」
「なら――」
「でも、それだと便利屋の皆さんは普通に捕まりますよね?」
カヨコは黙った。
アルがぎくりとする。
「つ、捕まるとは限らないわ! 交渉という手段もあるし!」
「アルちゃん、交渉得意だっけ?」
「得意よ!」
「うっそだ~!」
ムツキが笑う。
外から再び声が響いた。
「繰り返します! 大人しく投降してください! 抵抗する場合、実力行使に移ります!」
風紀委員会の配置が少しずつ詰まってくる。
黒夜は、静かに息を吐いた。
身体はもう万全だ、ヒナとの訓練も、最近はできていなかった。
療養明け以降、周囲は自分を過剰なほど守ろうとした。ありがたいとは思う。だが、自分の中にあるものが完全に大人しくなったわけではない。
ゲヘナにいた頃の、あの感覚。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱を持つ。
それは自己犠牲の衝動ではなかった。
誰かのために自分を消そうとするような、あの冷たい決意ではない。
もっと単純で、もっと荒っぽい。
面倒な状況だ。
だからこそ、少しだけ血が騒ぐ。
「……私が時間を稼ぐので、皆さんは逃げてください」
黒夜がそう言うと、室内の空気が止まった。
カヨコが鋭く振り返る。
「黒夜!」
「大丈夫です。ヒナさんも居ますし、酷いことにはならないでしょう」
「そういう問題じゃない」
「最近、ヒナさんと訓練してませんでしたから。腕試しで挑んできます」
「待って!」
カヨコの声が低くなる。
アルが慌てて声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ちなさい黒夜! 客人にそんなことをさせるわけには――」
「アルさん」
黒夜は窓の鍵に手をかけながら、振り返った。
「アルさんなら、逃げるタイミングを見誤らないですよね?」
「えっ?」
「カヨコさんなら分かります。ムツキさんも、ハルカさんも。皆さんなら、隙を見て逃げられるでしょう」
カヨコが一歩踏み出す。
「黒夜、待って。あんた、また――」
「大丈夫です」
黒夜は、今度ははっきりと言った。
「遊んでくるだけですよ」
その言葉に、カヨコの動きが一瞬だけ止まる。
黒夜は窓を開けた。
外の空気が流れ込む。
風紀委員会の生徒たちの声と足音が、よりはっきり聞こえた。
ムツキが口笛を吹く。
「うわ、ほんとに行く気じゃん」
ハルカが青ざめる。
「黒夜さん!? せめて私も一緒に――」
「ハルカさんはアルさんをお願いします」
「は、はい!」
アルはまだ何か言おうとしていた。
だが、黒夜はもう窓枠に足をかけていた。
カヨコが最後に呼ぶ。
「黒夜」
「はい」
「無茶しすぎたら、怒るからね」
「それは怖いですね」
黒夜は少しだけ笑った。
そして。
「では、行ってきます」
そう言って、黒夜は便利屋68の事務所の窓から、真っ先に外へ飛び出した。
黒夜が窓から飛び出した瞬間、外の空気が肌を叩いた。
便利屋68の事務所は、決して高層階にあるわけではない。けれど、療養明けの頃なら間違いなく止められていた高さだった。
今の自分なら問題ない。そう判断しての行動だったが、地面が近づく一瞬だけ、胸の奥が妙に軽くなる。
黒夜は空中で体勢を整え、建物の壁を蹴って勢いを殺した。靴底が壁面を擦り、少し遅れて地面へ着地する。衝撃が膝に伝わったが、耐えられる範囲だった。
黒夜は顔を上げた。
目の前には、風紀委員会の包囲網が広がっていた。
事務所の出入口を塞ぐように展開した風紀委員会の生徒たち。路地の奥にも、建物の反対側にも配置がある。銃口は便利屋68の事務所に向いていたが、突然窓から現れた黒夜に反応し、数人が慌てて照準を移した。
その中で、もっとも早く黒夜に気づいたのは、やはりヒナだった。
「……黒夜?」
低く、鋭い声。
驚きはあった。
だが、動揺に飲まれてはいない。
ヒナは一瞬で状況を見て、黒夜の着地位置、窓、事務所内の気配、風紀委員会の配置まで把握したようだった。その目が、ほんの少しだけ細くなる。
黒夜は、困ったように笑った。
「奇遇ですね、ヒナさん」
「奇遇ですねじゃない。どうして貴方が便利屋68の事務所から出てくるの」
「ちょうどお邪魔していました」
「どうして?」
「カヨコさんに誘われまして」
「……そう」
ヒナは小さく息を吐いた。
その隣で、アコが明らかに混乱している。
「黒夜さん!? なぜ貴方がそこに!? いえ、そもそもなぜ便利屋68の事務所に!? まさか、便利屋68に協力を……!?」
「アコさん、落ち着いてください」
「落ち着ける状況じゃありません!」
イオリも銃を構えたまま、目を見開いていた。
「はぁ!? アンタ、何やってるのよ! こっちは便利屋68の摘発に来たのよ!?」
「それは見れば分かります」
「分かってるならそこを退きなさいよ! なんで窓から飛び出してくるの!」
「ドアは包囲されていたので」
「そういう問題じゃない!」
チナツは一歩前に出かけ、しかし状況が状況だけに止まった。
「黒夜さん、怪我はありませんか? 着地の衝撃は? 療養後の経過を考えると、あまり無茶な動きは――」
「チナツさん、大丈夫です」
「大丈夫と言う方ほど、大丈夫ではないことがあります」
「そう言われてしまうと…」
黒夜は苦笑した。
風紀委員会の生徒たちの間に、ざわめきが広がる。
包囲していたはずの相手とは別の、しかもヒナと縁のある黒夜が突然現れた。銃口を向けていいのか、保護すべきなのか、敵と見るべきなのか、判断に迷っているのが伝わってくる。
その迷いこそが、黒夜の狙いだった。
事務所の窓の奥では、便利屋68の面々がこちらを見ているはずだ。
今の混乱があれば、逃げるための隙は作れる。
ただし、それだけでは足りない。
風紀委員会の包囲は厚い。ヒナがいる以上、半端な撹乱ではすぐに立て直される。ならば、自分がもう少し強く視線を引きつける必要がある。
黒夜は、ゆっくりと銃を抜いた。
風紀委員会側の空気が、一気に張り詰める。
アコが目を見開いた。
「黒夜さん……!」
「すみません、アコさん」
黒夜は銃口を地面へ向けたまま、静かに言った。
「今日は、便利屋68側です」
「なっ……!?」
イオリが声を上げる。
「本気で言ってるの!? 相手は私たちよ!?」
「まぁ、遊びがてらお手合わせをお願いしようかと」
「滅茶苦茶じゃない!」
ヒナは黙って黒夜を見ていた。
かなり怒っている。
それは分かる。
だが、同時に、どこか確かめるような目でもあった。
黒夜がなぜそこに立っているのか。
何をしようとしているのか。
どこまで本気なのか。
それを見極めようとしている目だった。
「黒夜」
「なんでしょうか?」
「便利屋を逃がすつもり?」
黒夜は少し笑った。
「…さすがに分かりますか」
「当たり前」
「では、止めますか?」
「止める」
「ですよね――」
言い終えるより先に、黒夜は動いた。
最初に撃ったのは地面だった。
風紀委員会の前列の足元。銃弾がアスファルトを叩き、破片が跳ねる。狙いは生徒ではなく、足を止めるための牽制。風紀委員会の生徒たちが反射的に散開し、包囲網の一部にわずかな歪みが生まれた。
黒夜はその隙へ身体を滑り込ませる。
「各員、距離を取りなさい!」
ヒナの指示が飛ぶ。
早いな。やはり、立て直しが早すぎる。
黒夜は内心で苦笑しながら、次の遮蔽物へ走った。かつてヒナに叩き込まれた動き。止まらない。真正面から受けない。相手の照準が定まる前に位置を変え、次の一手を差し込む。
ヒナから教わった機動戦。
ホシノから学んだ盾の扱い方。
その両方を、自分なりに繋いだ動き。
黒夜は路上の標識を盾にしながら、風紀委員会の前進を止めるように撃つ。
「黒夜さん!それは敵対行動ですよ!!」
「敵対と言うほどでは……!」
黒夜は小さく抗議したが、アコには届かなかった。
「十分敵対です!」
「じゃあそうかもしれません」
「認めるの!?」
イオリの叫びが聞こえた。
その直後、便利屋68の事務所側から銃声が響いた。
ムツキの楽しそうな声が混ざる。
「くふふ、黒夜だけにいいところ持っていかせるわけにはいかないよね〜!」
窓から飛び出すようにして、ムツキが援護射撃を始めた。狙いは的確というより、相手の動きを乱すための派手な弾幕。風紀委員会の生徒たちがそちらへ反応する。
続いて、ハルカが顔を出した。
「アル様の邪魔をする人は、全員まとめて――!」
「ハルカ、爆発物は駄目!」
カヨコの声が即座に飛ぶ。
「は、はい!」
ハルカは爆発物らしきものを引っ込め、代わりに銃を構えて乱射した。おどおどしているはずなのに、火力だけは妙に容赦がない。
アルも出てきた。
最初の慌てぶりが嘘のように、彼女は堂々と窓枠に立ち、銃を構える。
「ふふん! 風紀委員会ごときに、この私が怯むと思ったら大間違いよ!」
「アルちゃん、さっきすごく慌ててたよね」
「ムツキ! 今はそういうこと言わない!」
それでも、アルの声には覚悟があった。
逃げるだけではない。
黒夜を置いて、自分たちだけ安全な場所へ行くつもりはない。
黒夜は、それを感じて少しだけ笑った。
やっぱり、アルさんは社長ですね。
だが、同時に思う。
だからこそ、逃がさなければならない。
黒夜は風紀委員会の視線を引きつけるように、さらに前へ出た。イオリがすぐに反応し、銃口を向ける。
「黒夜! そこをどきなさい!」
「お断りです」
「即答するな!」
「すみません」
「謝るくらいならどいて!」
イオリの射撃は鋭い。黒夜は横へ跳び、弾道を避けながら路肩に転がる。起き上がると同時に牽制を返し、イオリの追撃を一瞬だけ遅らせた。
その間に、カヨコが動いていた。
派手な援護をしているアルたちの後ろで、彼女だけは冷静に退路を見ている。
右の路地は封鎖。
正面はヒナ。
左の狭い通路には風紀委員会の生徒が二人。
黒夜はそこを見た。
そして、カヨコと目が合った。
言葉はない。
だが、カヨコはすぐに理解した。
黒夜が次に開ける場所。
そこが、便利屋68の逃げ道になる。
カヨコの表情が一瞬だけ歪む。
怒っているのか、呆れているのか。
たぶん、その両方だった。
黒夜は小さく頷いた。
その瞬間、ヒナが動いた。
黒夜の視界から消えるように低く踏み込み、次の瞬間には目の前にいた。速い。相変わらず、速すぎる。黒夜は反射的に後ろへ下がりながら銃を向けるが、ヒナはその照準の外側へ滑るように回り込む。
「黒夜」
声が近い。
「…っ!」
「遊びのつもり?」
「少しだけ…」
「……本当に、貴方は」
ヒナの銃撃が来る。
黒夜は身をひねって避ける。完全には避けきれず、制服の肩口を弾が掠めた。熱が走る。だが、足は止めない。止めた瞬間、捕まる。
黒夜は路上の看板を蹴り倒し、ヒナとの間に障害物を作った。
同時に左の通路へ向けて牽制射撃。
風紀委員会の二人が足を止める。
カヨコが動いた。
「社長、行くよ!」
「え?」
「逃げるよ」
「で、でも黒夜が――」
「合図は出した。あいつはそのために前に出てる」
アルは一瞬、黒夜を見た。
黒夜はヒナの攻撃を受け流しながら、視線だけで答えた。
行ってください。
そう言ったつもりだった。
アルの顔が変わる。
震えや迷いが消え、代わりに社長としての意地が浮かぶ。
「……逃げるわけないでしょ」
「社長」
「でも、ここで全員捕まったら、それこそ黒夜の作った隙が無駄になる」
アルは銃を構え直し、一度だけ黒夜へ向けて叫んだ。
「黒夜! 後で絶対文句言うからね!」
「了解しました!」
「返事が素直すぎるのよ!」
ムツキが笑う。
「くふふ、じゃあ撤退戦だね」
「アル様の退路は私が切り開きます!」
「ハルカ、やりすぎないでね」
「は、はい!」
便利屋68は、カヨコの誘導で左の通路へ走った。
風紀委員会の生徒たちが追おうとする。黒夜はその進路へ割り込み、銃撃で足を止める。さらにムツキが投げた小型の煙幕が弾け、周囲に白い煙が広がった。
「煙幕です! 便利屋68、左路地へ逃走!」
アコの声が飛ぶ。
「追撃を――」
「待って」
ヒナが言った。
その一言で、風紀委員会の動きが止まる。
黒夜は煙の向こうで、わずかに息を整えた。
体力はまだ十分。だが、ヒナとやり合うには足りない。分かっていた。最初から勝つつもりはない。勝つ必要もない。
必要なのは、彼女達が逃げ切るまでの時間。
もう十分だ。
なら、最後にもう少しだけ。
黒夜は煙の中から飛び出した。
ヒナは、当然のように待っていた。
銃口が黒夜を捉える。
黒夜は真正面から向かわず、右へ滑る。ヒナの射撃が地面を穿ち、黒夜はその反動の隙に踏み込んだ。距離を詰めれば、少しは可能性がある。黒夜はそう考えた。
だが。
「甘い」
ヒナの声がした。
次の瞬間、黒夜の腕が取られていた。
「……っ」
視界が回る。
足を払われたのだと理解した時には、黒夜の身体はすでに地面へ崩されていた。銃を持った手首を押さえられ、背中に軽く膝を当てられる。痛みはあるが、怪我をさせるほどではない。
完全に、勝負は決した。
ヒナの動きは無駄がなかった。
そして、どこまでも正確に加減されていた。
「やっぱり、まだまだ私では勝てませんね」
黒夜が地面に伏せたまま言うと、ヒナは盛大にため息をついた。
「勝てると思っていたの?」
「それはまぁ…」
「本当に?」
「……一割くらいは」
「私も舐められたものね」
ヒナは黒夜の首根っこを掴むようにして引き起こした。
その時、黒夜は視線だけを路地の方へ向けた。
カヨコがいた。
煙の向こう、建物の角。
彼女は一瞬だけこちらを見ていた。
黒夜は、申し訳なさそうに目を閉じた。
やっぱりヒナさんには勝てなかったよ。
カヨコは舌打ちするように口元を動かした。
聞こえはしなかった。
だが、たぶんこう言っていた。
黒夜、後で説教。
次の瞬間、カヨコはアルたちと共に路地の奥へ消えた。
結果として便利屋68は逃げ切った。
「黒夜」
ヒナの声が低くなる。
「今、便利屋68を逃がしたでしょ?」
「…」
「黙秘権は無いわよ」
「部分的には…そう」
「一発殴るわよ」
「はい。逃がしました」
黒夜は素直に認めた。
アコが頭を抱える。
「な、なんということを……! 黒夜さん、あなたという人は……!」
イオリは完全に呆れていた。
「ほんと何してんのよ、アンタ……風紀委員会相手に時間稼ぎって……」
チナツは黒夜の肩口を見て、眉を寄せる。
「肩、掠っています。すぐに手当てをしますね」
「大したことありませんよ」
「そういう自己判断は信用できません」
「……お願いします」
黒夜が素直に頷くと、チナツは少しだけ安心したように息を吐いた。
ヒナは黒夜の襟首を掴んだまま、もう一度深くため息をつく。
「やっぱり貴方も、根っこはゲヘナ生ね」
その言葉に、黒夜は少しだけ笑った。
責められているのは分かっている。
怒られているのも分かっている。
それでも、その言葉はどこか温かかった。
「そうですよ。私の原点ですからね」
ヒナは黙った。黒夜を見る目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
けれど、その柔らかさはすぐに消えてしまった。
ヒナはまたいつもの風紀委員長の顔に戻り、黒夜の襟首を離さないまま言う。
「はぁ……罰として、今日一日、私の補佐として書類仕事を手伝いなさい」
「わかりました」
黒夜は即答した。
あまりにも素直な返事に、ヒナが少しだけ目を瞬かせる。
「……嫌がらないの?」
「ヒナさんの補佐なら、慣れていますから」
「罰のつもりだったのだけど」
「では、きちんと罰として働きます」
「貴方ね……」
ヒナは困ったように眉を下げた。
けれど、黒夜が穏やかに笑っているのを見ているうちに、その表情も少しずつ緩んでいく。
風紀委員会の生徒たちは、便利屋68を取り逃がしたことで慌ただしく報告を続けていた。アコは「次こそ必ず摘発します」と何かの書類に書き込み、イオリは「絶対あいつらまたやらかすわ」とぼやいている。チナツは黒夜の肩の手当てをするため、すでに医療キットを取り出していた。
その中で、ヒナだけが黒夜を見ていた。
「次からは、せめて先に事情を説明して」
「次がある前提なんですね」
「ゲヘナだからね」
黒夜は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「……そうですね」
ヒナも、ほんの少しだけ笑った。
騒がしくて、面倒で、すぐに銃声が響いて、どうしようもなく落ち着かない場所。
それでもここは、黒夜の原点だった。
そして、その原点に戻ってきた黒夜は、首根っこを掴まれたまま、今日一日分の書類仕事という罰を受けることになった。
遠くの路地の奥では、逃げ切った便利屋68の誰かが、盛大にくしゃみをしている気がした。