ゲヘナ学園情報部の仕事は、派手さとは縁遠い。
少なくとも、黒夜が普段受け持っている業務に限れば、銃撃戦よりも書類、潜入よりも記録、追跡よりも報告書の整理が多かった。
もちろん、必要とあれば現場に出ることもある。けれど今の黒夜は、以前ほど無茶な任務ばかりを引き受けるわけではない。
それは、良い変化なのだろう。
先生にも、ヒナにも、カヨコにも、そして他の多くの人にも、何度も言われた。
無理をするな・休め・自分を勘定に入れろ。
言われた時は、分かったつもりになっていた。けれど、実際にそうするのは思ったより難しかった。
自分が手を止めれば誰かの負担が増える。自分が動けば片付くものがある。そう考える癖は、簡単には抜けない。
だからこそ、最近の黒夜は意識して手を止めるようにしている。
ただ、それでも。
「……これは、今日中に終わらせた方がいい案件だな」
目の前に積まれた書類を見て、黒夜は小さく呟いた。
情報部の小さな執務室。窓の外では、ゲヘナらしくどこかで小さな爆発音が響いている。それでも何事もなかったかのように日常が進んでいくあたり、本当にゲヘナらしい。
黒夜はペンを取り、報告書に目を通した。
不良生徒の移動記録。
風紀委員会の巡回経路との衝突可能性。
万魔殿から回ってきた確認依頼。
それに、トリニティとの連絡調整に関する覚書。
いくつもの所属を持つようになってから、黒夜の机には自然と各校に関わる書類が集まるようになった。ゲヘナ、トリニティ、ミレニアム、加えて最近ではシャーレやアリウス、アビドスとのやり取りもある。情報部所属としては便利な立場なのかもしれないが、本人としては、時々自分が一体どこの学園の生徒なのか分からなくなることがあった。
そんなことを考えながら、黒夜が次の書類に手を伸ばした時だった。
「黒夜」
扉の方から、だるそうな声がした。
顔を上げると、そこにイロハがいた。いつものように肩の力が抜けた姿勢で、手には何かの書類を持っている。けれど、その書類を処理する気はあまりなさそうだった。
「イロハさん。どうしました?」
「どうしました、じゃないですよ。まだ仕事してるんですか?」
「まだ、というほど遅い時間ではありませんよ」
「ゲヘナ基準ならそうかもしれませんけど、黒夜基準は信用できません」
イロハはそう言いながら、黒夜の机の上を眺めた。
報告書の束。
未処理の書類。
確認待ちのメモ。
それを見るなり、イロハは露骨に顔をしかめた。
「うわ……普通に多いですね…」
「ですが、優先度の高いものだけでも今日中に――」
「サボりません?」
「……はい?」
黒夜は、思わずペンを止めた。
イロハは当然のような顔で言う。
「サボりませんかって言いました」
「聞き間違いではなかったんですね」
「そうですね」
「イロハさん。私は今、情報部の仕事をしていまして」
「知ってますよ」
「この書類も今日中に片付けた方が――」
「残ってる書類は、どうせ明日も残ってます」
「それは、仕事をしない人の理屈では?」
「でも事実です」
イロハは平然としていた。
黒夜は少し困ったように笑う。
「それに、私が抜けたら誰かに負担が――」
「黒夜が倒れたら、もっと負担が増えますよ」
その一言に、黒夜は口を閉じた。
イロハは特別、黒夜に対して熱心に世話を焼くタイプではない。だが、トリニティに潜入していた頃のことも、黒夜がどれだけ苦労してきたかも、ある程度は知っている。
知っているからこそ、時々こうして何でもない顔で休む方へ引っ張るようにしている。
心配している、などとは言わない。
ただ、サボろうと言う。
その軽さが、今の黒夜には少しありがたかった。
「わかりました……少しだけですよ」
黒夜がそう言うと、イロハは小さく笑った。
「最近、聞き分けが良くなりましたね♪」
「先生やヒナさんに散々言われていますからね」
「いい傾向です」
「サボりに誘っておいて、良い傾向と言われるのは少し複雑ですね」
「休憩です。言い方の問題です」
イロハはくるりと背を向けた。
「じゃ、行きましょう」
「どこへですか?」
「いつもの場所です」
いつもの場所。
それだけで、黒夜には大体分かった。
イロハがよく使う、人気の少ない休憩場所。通称、サボり部屋。万魔殿の者ですら把握しているのか怪しい、微妙に隠れた部屋だった。
黒夜は机の上の書類を整え、処理中のものに印を挟む。
「本当に少しだけですからね」
「はいはい」
「返事が軽いなー」
「気のせいですよ」
そうして、二人は執務室を出た。
ゲヘナ校舎の廊下は、いつも通り騒がしかった。遠くで誰かが走っている。別の場所では、何かが壊れる音がした。それでも黒夜とイロハは、慣れた様子で歩いていく。
イロハは、人目を避ける道をよく知っていた。
表の廊下を避け、あまり使われない階段を降り、物置のような通路を抜ける。黒夜も情報部所属として校内の構造には詳しい方だが、イロハのサボり経路に関しては別種の知識だと思っている。
「よくこんな道を覚えていますね」
「サボるには努力が必要なので」
「努力の方向が独特ですね」
「黒夜も覚えてきたじゃないですか」
「……まぁ」
イロハは横目で黒夜を見る。
「ほら、やっぱりサボりの才能ありますよ」
「嬉しくない評価です」
そんな会話をしながら、二人は並んで歩いていった。
その姿を、廊下の曲がり角から一人のゲヘナ生が見ていた。
黒夜とイロハが、人目を避けるように並んで移動している。
しかも、黒夜は普段より少し表情が緩んでいる。
イロハはいつものようにだるそうだが、黒夜を自然に先導している。
その生徒は、じっと二人の背中を見送った。
「……え?」
小さな声が漏れる。
その隣にいた別の生徒が、同じ方向を見る。
「どうしたの?」
「今の……イロハと黒夜じゃなかった?」
「え、黒夜ってあの?」
「うん。なんか二人で、すごい自然に裏の方へ……」
「裏の方?」
「人目を避けてる感じで」
二人は顔を見合わせた。
ゲヘナでは、噂が広まるのに時間はかからない。
特に、それが少しでも面白そうなものであれば。
黒夜とイロハは、そんな視線に気づかないまま、サボり部屋へ向かった。
部屋は、予想通り静かだった。
最低限の椅子と机。古いソファ。隅に置かれた毛布。誰かが持ち込んだ菓子の空き箱。窓はあるが、外からは見えにくい位置にある。サボるためだけに整えられたような空間だった。
黒夜はソファに腰を下ろし、小さく息を吐いた。
「……静かでいい場所ですね」
「でしょう?」
イロハは向かいの椅子に座り、持っていた書類を机の上に置いた。
やはり、処理する気はなさそうだった。
「黒夜は休むのが下手ですからね」
「自覚はあります」
「自覚があるだけマシです」
「イロハさんは、休みすぎでは?」
「バランスを取ってるんです」
「誰と?」
「黒夜と」
黒夜は一瞬黙り、それから困ったように笑った。
「それは、少し極端では?」
「黒夜が極端なので」
「……それも否定しづらいですね」
イロハは面倒そうにしながらも、机の下からお菓子を取り出した。
「食べます?」
「用意がいいですね」
「サボりには準備が必要なので」
「やはり努力の方向が独特です」
二人はしばらく、特に意味のない会話をした。
仕事の愚痴。
最近のゲヘナの騒ぎ。
黒夜がまたイブキにプリンを頼まれた話。
チアキが妙な噂を面白がっていた話。
サツキが黒夜を見るたびにやたらと構ってくる話。
それは、仕事とは程遠い楽しい休憩の時間だった。
けれど、それを外から見た者がどう受け取るかまでは、二人の知るところではなかった。
そして数日後、噂は、万魔殿まで届いた。
黒夜がマコトに呼び出されたのは、情報部の仕事を終えて次の資料を取りに向かおうとしていた時だった。
万魔殿からの使いが来た時、黒夜は特に疑問を持たなかった。マコトに呼ばれること自体は珍しくない。
情報部所属として確認を求められることもあるし、時には単純に万魔殿の雑務を手伝わされることもある。
今回もその類だろうと思っていた。
ただ、呼び出しの文面は少し妙だった。
至急来い、重要案件。
万魔殿会議室へ来ること。
それだけならまだ分かる。
最後に、なぜかこう書かれていた。
逃げるな。
黒夜は、その文面を見て首を傾げた。
「……逃げるような案件なのでしょうか」
とはいえ、呼び出された以上は行くしかない。
黒夜は書類を整え、万魔殿の会議室へ向かった。
扉の前に立つと、中から妙な気配がした。
いつもの賑やかさが鳴りを潜め、妙に静かすぎる。
だが、その静けさが不自然だった。まるで中にいる全員が、何か大きな発表を待っているような空気。黒夜は一度だけ深く息を吐き、扉をノックする。
「黒夜です。失礼します」
「入れ」
マコトの声が返ってきた。
黒夜は扉を開けた。
そして、すぐに足を止めた。
会議室には、万魔殿の面々が揃っていた。
中央にはマコト。いつものように堂々と座っているが、その表情は妙に重々しい。
隣にはサツキ。にこにこと笑っているが、目は完全に黒夜を見ている。
チアキは椅子に背を預け、面白がるような顔をしていた。
イブキは机に手を乗せ、黒夜を見るなりぱっと顔を輝かせた。
そして、少し離れた席にはイロハがいた。
心底面倒そうな顔をしている。
「……イロハさんも?」
「ハァー…巻き込まれました」
イロハは短く答えた。
黒夜はますます分からなくなった。
「黒夜先輩!」
イブキが元気よく手を振る。
「こんにちは、イブキさん」
「この前のプリン、すっごくおいしかった!」
「それはよかったです。また時間がある時に作りますね」
「えっ!いいの!?」
「勿論です」
イブキの顔が嬉しそうに明るくなる。
そのやり取りを見て、サツキが頬に手を当てた。
「相変わらず黒夜ちゃんは優しいわね〜。そういうところ、大好きよ~」
「サツキさんも相変わらずですね…あまりそういう事言ってると勘違いされてしまいますよ?」
「うふふ、可愛いわね~」
黒夜は少し困ったように笑った。
チアキはそれを見て、軽く手を振る。
「おひさ~黒夜。呼び出されて早々大変だね~」
「チアキさん。これは何の集まりですか?」
「さあ? 私も面白そうだから来ただけだから」
「それは、かなり不安になる答えですね」
黒夜は会議室全体を見渡した。
重要案件というには、空気が妙に落ち着かない。
それでいて、誰も本題を切り出そうとしない。
マコトだけが、腕を組んだまま黒夜をじっと見ている。
「マコト様」
「……」
「何か、情報部関連の案件でしょうか」
「……黒夜」
マコトの声は低かった。
普段の大仰な調子とは違う。
妙に真剣で、妙に重い。
黒夜は自然と背筋を伸ばした。
「これは、ゲヘナにとって重要な問題だ」
「場合によっては、万魔殿としても看過できん」
「……かなり重大な案件なのですね」
「ああ、重大だ」
黒夜は表情を引き締めた。
イロハは隣で、もうすでに全てを諦めたように目を閉じている。
黒夜はそれに気づいたが、理由までは分からない。
マコトはゆっくりと立ち上がった。
会議室の空気が、さらに張り詰める。
イブキはきょとんとしている。
サツキは楽しそうに微笑んでいる。
チアキは完全に面白がっている。
イロハは帰りたそうにしている。
マコトは黒夜をまっすぐ見た。
そして、重々しく口を開く。
「黒夜……正直に答えろ。 お前はイロハと付き合っているのか?」
マコトの声は、会議室に妙な重さを持って落ちた。
その言葉を受けて、黒夜はしばらく動けなかった。
情報部の案件かと身構えていたらそうではない。
万魔殿として看過できない問題でも、おそらくない。
少なくとも、黒夜が想像していたような不良生徒の動向や、風紀委員会との衝突や、他学園との調整問題ではない。
だが、マコトの目は真剣だった。
真剣すぎて、逆に黒夜はどう返せばいいのか分からなかった。
「……マコト様」
「なんだ」
「確認なのですが」
「ああ」
「それは、情報部の業務に関係する話でしょうか」
「大いに関係する!」
マコトは力強く言い切った。
「どこがですか?」
「貴様はゲヘナ学園情報部、そして我が万魔殿にとっても重要な人材だ。その黒夜が、よりにもよってイロハと……イロハと……!」
そこでマコトは一度言葉を詰まらせた。
イロハは心底面倒そうな顔で、椅子にもたれている。
「マコト先輩。そこまで言いづらいなら、無理に言わなくてもいいですよ~」
「黙れイロハ! これは重要な確認なのだ!」
「重要ですかね、これ?」
「重要だ!」
マコトが机を叩く。
イブキが少しびくっとして、それを見た黒夜が自然に視線を向けた。イブキは黒夜と目が合うと、少し安心したように笑う。
「黒夜先輩、イロハ先輩と仲良しなの?」
純粋な声だった。
黒夜は、少しだけ表情を緩める。
「まぁ、仲は良いですよ」
その瞬間、会議室が揺れた。
「やはりそうなのか……!?」
マコトが椅子から半分立ち上がる。
「あらあら〜」
サツキが楽しそうに頬へ手を当てる。
「黒夜ちゃん、そういう言い方は、ちょっと聞き逃せないわね〜」
「え、今のでそんな反応になりますか?」
黒夜が困惑すると、チアキが肩を揺らして笑った。
「いやー、黒夜ってこういう時、変に正直だよね。普通そこはもうちょっと言い方を選べばいいのに」
「チアキさんまで乗らないでください」
「こんな面白い事、乗っかるに決まってるじゃーん!」
「面白くありません」
「少なくとも私は面白い!」
「ハァ…」
黒夜は助けを求めるようにイロハを見る。
イロハは目を閉じ、深く息を吐いた。
「黒夜。今のは完全に墓穴です」
「事実を言っただけなのですが」
「こういう場では、事実をそのまま言うと余計に燃えるんですよ」
「ふむ…難しいですね」
二人のやり取りは、当人たちにとってはただの会話だった。
だが、万魔殿側から見ると、やけに気安い。
マコトの眉間に深い皺が寄る。
「……今の会話も、妙に慣れているな」
「普段から普通に話しているだけですよ」
イロハが言う。
「普通に?」
「まぁ…」
「普段から?」
「そうですね~」
「つまり、頻繁に会話をしているということか!」
「いや、万魔殿で仕事してれば会話くらいしますよ」
「仕事以外でもだろう!」
「まあ、サボりに誘うことはありますけど」
「サボりに誘う!?」
マコトが再び机を叩いた。
黒夜は頭を押さえたくなった。
「イロハさん。それも言い方が」
「でも事実でしょう?」
「私の言い方を指摘したばかりでは?」
「人に言うのと実践するのは別です」
「理不尽ですね」
チアキはもう隠す気もなく笑っていた。
「いいね、いいね。二人とも弁明してるつもりで燃料足してるよ」
「チアキさん」
「ごめんごめん。でも、これ私じゃなくてもそう思うよ」
サツキが頷く。
「そうね〜。黒夜ちゃんとイロハちゃん、思ったより息が合っているもの」
「サツキさんまで……」
「だって黒夜ちゃん、私にはそんなに気安くしてくれないじゃない?」
「そんなことは」
「じゃあ今度、私とも一緒にサボる?」
「それは……」
黒夜が言葉に詰まった瞬間、サツキはにこにこと笑みを深めた。
「ほら、イロハちゃんとは行くのに」
「黒夜ちゃん」と呼ばれるたびに、黒夜はどこか落ち着かなくなる。サツキは昔からこうだ。黒夜のことを後輩として可愛がり、必要以上に距離を詰めてくる。
悪意がないのは分かっている。むしろ情が深いからこそなのだと、黒夜も知っている。
だが、今その距離感で追い込まれると、逃げ道が消える。
「サツキさん、違います。イロハさんとは、本当にただ休憩をしていただけです」
「休憩ね〜」
「そうです」
「人目を避けて?」
「人目を避けたのは、イロハさんのサボり場所がそういう場所にあるからで」
「いつもの場所、だったのよね?」
「……はい」
黒夜は答えてから、また失敗したことに気づいた。
マコトが低く唸る。
「いつもの場所……」
チアキが机に肘をつく。
「うわ、これはだいぶ怪しいね~」
「怪しくありません」
イロハはだるそうに手を上げた。
「補足しますけど、サボり部屋は私が一人で使ってた場所です。黒夜を誘うようになったのは最近です」
「最近だと!?」
マコトの反応が大きい。
「つまり、最近になって黒夜を特別に誘うようになったということか!?」
「なんでそうなるんですか」
「そう聞こえる!」
「聞き手の問題ですね」
「ならば誤解されないように話せ!」
「説明してるんですけどね」
イロハは面倒そうに黒夜を見る。
「黒夜、代わってください」
「私が説明しても、たぶん同じ結果になります」
「ハァ…面倒くさい…」
「そこで諦めたら余計に面倒な事になりますよ」
イブキは話の流れについていけていないようで、首を傾げた。
「付き合ってるって、仲良しってこと?」
黒夜は一瞬、どう答えるべきか迷った。
イブキに余計な説明をする必要はない。
けれど、ここで曖昧にすると、また周囲が勝手に盛り上がる。
黒夜はできるだけ穏やかに言った。
「仲が良い、とは少し違いますね。特別に、ずっと一緒にいたいと思う相手……という意味で使われることが多いです」
「じゃあ黒夜先輩は、イロハ先輩とずっと一緒にいたいの?」
「イブキさん!?」
黒夜は固まった。
イロハも固まった。
サツキが口元を押さえる。
チアキは笑いを堪えて肩を震わせている。
マコトは息を呑んでいた。
黒夜は、慎重に言葉を選ぶ。
「イロハさんとは、話していて気が楽ですし、休憩に誘っていただけるのもありがたいと思っています」
「うん!」
「ですが、ずっと一緒にいたい、という話とは別です」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、黒夜先輩は誰とずっと一緒にいたいの?」
黒夜はまた固まった。
今度は、完全に固まった。
会議室の空気が変わる。
サツキの目が輝いた。
チアキが「おっ」と声を漏らした。
マコトが椅子の肘掛けを握る。
イロハはすでに帰りたそうな顔をしている。
「イブキさん。その質問は、少し難しいですね」
「難しいの?」
「はい。とても」
「黒夜先輩でも難しいんだ」
「難問ですね…」
黒夜は何とか穏やかに返した。
だが、マコトは見逃さなかった。
「つまり、いるのか?」
「いえ、そういう意味では…」
「答えられぬということは、心当たりがあるということだろう!」
「違います、マコト様」
「ならば答えろ! 黒夜、貴様は誰と付き合っているのだ!?」
黒夜は、困ったように笑った。
「私は……皆さんと、それぞれの形で関わっていければ、それで十分ですよ」
その答えは、黒夜にとっては本心だった。
ゲヘナにも、トリニティにも、ミレニアムにも、アリウスにも、アビドスにも、それぞれの居場所がある。誰か一人を選ぶというより、そこにある繋がりを失わずにいたい。
けれど、その答えはこの場では悪手だった。
サツキが、ふわりと笑う。
「黒夜ちゃん、そういうところよ?」
「何がですか?」
「みんな大事、なんて言い方されたら、余計に放っておけなくなるじゃない」
「……そういうつもりでは」
「知ってるわよ。でも、そういうところが可愛いのよね~」
黒夜は返す言葉に困った。
マコトは、腕を組んだままむすっとしている。
「黒夜は昔からそうだ。妙なところで真っ直ぐで、妙なところで無自覚だ」
「マコト様?」
「だからこそ心配なのだ! イロハに流されて、気づけばサボり部屋に入り浸り、そのままなし崩し的に……」
「マコト先輩は私を何だと思ってるんですか?」
「サボりの常習犯だ」
「それは否定しませんけど」
チアキが笑いながら言う。
「でもさ、実際どうなの? イロハは黒夜のこと、そういう意味で気になったりしないの?」
「ないですね」
イロハは即答した。
「……即答でしたね」
「嘘をついても仕方ないので」
「それはそうですが」
「黒夜も私に対してそういう感情はないですよね?」
「ないですね」
黒夜も即答した。
今度はイロハが少しだけ眉を上げる。
「黒夜も随分早いですね」
「嘘をついても仕方ありませんので」
「真似しました?」
「少し」
そのやり取りを見て、チアキが机を軽く叩いて笑った。
「ほら、やっぱり気安いじゃん」
「チアキさん」
「いや、恋愛じゃないのは分かったけどさ。仲はいいよね、普通に」
「それは……否定しません」
黒夜は諦めたように言った。
イロハも小さく頷く。
「まあ、サボり仲間くらいではありますね」
「サボり仲間…」
マコトが重々しく繰り返した。
「黒夜が……サボり仲間……」
その言い方があまりにも深刻だったので、黒夜は少し慌てた。
「マコト様、悪い意味ではありません。むしろ、最近は休むことも覚えた方がいいと周囲から言われていますし」
「それは、そうだが……」
「イロハさんの誘いも、私にとっては息抜きになっています」
「うーむ」
マコトは何かを考え込むように黙った。
その横で、サツキの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「ちゃんと息抜きできるようになったのね」
「はい。少しずつですが」
「いい傾向よ」
黒夜はサツキを見る。
サツキはいつものように笑っていた。けれど、その目にはわずかな安堵があった。
「サツキさん?」
「ううん、何でもないわ。ただ黒夜ちゃんが休めるようになって嬉しいだけ」
「……ありがとうございます」
黒夜が素直に頭を下げると、サツキはまた楽しそうな顔に戻った。
「でも、それはそれとして、イロハちゃんと二人きりでサボり部屋に行くのはちょっと誤解されるわよ?」
「……はい」
「次からは私も混ぜてくれる?」
「それは、また別の誤解が生まれませんか?」
「生まれるかしら?」
「生まれると思います」
イロハがぼそりと言う。
「そもそも人数が増えたら、サボりじゃなくて集会ですよ」
「確かに」
黒夜は納得しかけた。
マコトがそこで咳払いをした。
「とにかくだ!」
会議室の視線がマコトに集まる。
「黒夜とイロハが付き合っていないことは、一応分かった」
「一応なんですね」
イロハが言う。
「完全に納得したわけではない!」
「まだ疑ってるんですか」
「疑っているわけではない。万魔殿の議長として、慎重に確認しているだけだ」
「それを疑っていると言うのでは」
黒夜が小さく呟く。
マコトはそれを聞かなかったことにした。
「だが、黒夜…お前が誰かと付き合うこと自体を、私は否定するつもりはない」
その言葉に、黒夜は少し驚いた。
マコトは腕を組んだまま、どこか偉そうに胸を張る。
「黒夜が幸せになるなら、それは喜ばしいことだ。だが、相手が本当に貴様を大事にする者なのか、ゲヘナ学園議長として確認する義務がある!」
「……マコト様」
「だからイロハだったら駄目というわけではないぞ! ないが、イロハはサボる! 非常にサボる! 黒夜まで巻き込んでサボる!」
「それが私の性分ですからね」
「そこは否定しろ、イロハ!」
「面倒なので」
「面倒で済ませるな!」
マコトの叫びに、会議室が少しだけ明るくなる。
けれど黒夜は、マコトの先ほどの言葉が少しだけ胸に残っていた。
黒夜が幸せになるなら、それは喜ばしい。
普段のマコトらしい大げさな言葉に紛れていたが、そこに嘘はないように聞こえた。
黒夜は小さく頭を下げる。
「ご心配ありがとうございます、マコト様」
「ふ、ふん! 分かればいいんだ」
マコトは満足げに頷く。
チアキが横から茶化した。
「マコト先輩~、完全にお母さんじゃん」
「誰がお母さんだ!」
「いや、今のはだいぶ保護者だったよ」
「チアキ!」
「黒夜もそう思わない?」
突然振られ、黒夜は少し考えた。
「……ノーコメントで」
「黒夜!?」
マコトの声が裏返った。
イロハは肩を震わせて笑いを堪えている。サツキはにこにこしながらマコトを見ていた。イブキはよく分からないまま、楽しそうに笑っている。
「マコト先輩って黒夜先輩のお母さんなの?」
「違う!」
「じゃあお父さん?」
「もっと違うぞ!」
「じゃあ黒夜先輩の何?」
イブキの純粋な疑問に、黒夜は思わず笑いそうになった。
マコトは一瞬言葉に詰まり、それから大きく頷く。
「そうだ! 私は黒夜の上司だ!」
「いいんですか、それで」
イロハが呟く。
「何かおかしいか?」
「いや、だいぶおかしいですけど」
「おかしくない、黒夜は私を尊敬しているのだからな」
そう言われ、会議室の視線が黒夜へ向く。
黒夜は少し困ったように笑った。
「はい。尊敬していますよ、マコト様」
その瞬間、マコトの表情が目に見えて緩んだ。
「そ、そうだろう! そうだろうとも!」
チアキが小声で言う。
「ちょろい」
「チアキさん」
「だってちょろいじゃん」
サツキは何も言わず、ただ少しだけ優しい目でマコトを見ていた。
マコトは気を取り直すように咳払いをする。
「ともかく、今回の件は保留だ!」
「保留?」
イロハが嫌そうな顔をする。
「付き合っていないと言うなら、それでよい。だが、今後も妙な噂が立つようなら、また事情聴取を行う!」
「黒夜、次からサボる時は別々に行きましょう」
「それはそれでサボる前提では?」
「休憩です」
「言い換えても同じ意味ですよ」
サツキが手を叩いた。
「じゃあ、今回は解散でいいのかしら?」
「待って!」
マコトがまだ何か言おうとした時、イブキが黒夜の方へ駆け寄った。
「黒夜先輩!」
「どうしました?」
「今度、プリン作ってくれる?」
空気が一気に緩んだ。
黒夜は自然と微笑む。
「はい。時間がある時に作りますね」
「やった!」
「ただ、マコト様に怒られない範囲で」
「イブキのためならむしろ歓迎するぞ」
マコトが力強く言う。
イロハがぼそりと呟いた。
「プリンなら許されるんですね。黒夜、ついでに私の分もお願いします」
「イロハさんまで…?」
「サボり仲間なので」
「その言い方はまた誤解を招きますよ」
案の定、マコトが反応しかける。
黒夜は慌てて先手を打った。
「マコト様、プリンの話です」
「……ならばよい」
「プリンならいいんだ」
チアキがまた笑う。
サツキも黒夜の近くへ寄り、軽く肩に手を置いた。
「黒夜ちゃん、私の分も忘れないでね?」
「わかりました。サツキさんの分も作ります」
「約束よ」
「チアキさんも必要ですか?」
「え、いいの? じゃあ貰おうかな」
「では、皆さんの分をまとめて作りますね」
黒夜がそう言うと、マコトは少しだけ満足げに頷いた。
「よし。ならば黒夜、次の万魔殿への訪問時はプリンを持参することを許可する」
「命令ではなく許可なのですね」
「命令でもよいぞ!」
「許可でお願いしますね」
そのやり取りに、会議室の空気はすっかり軽くなっていた。
結局、黒夜とイロハの交際疑惑は完全に晴れたのかどうか、よく分からないままだった。少なくとも、万魔殿の面々は付き合ってはいないが仲は良いという結論に落ち着いたらしい。
イロハは席を立ち、大きく伸びをする。
「じゃ、私は帰ります。これ以上いるとまた変な話になりそうなので」
「イロハさん、帰る前に仕事は?」
「黒夜、今日くらい、そこは忘れましょう」
「……そうですね」
「ほら、そういうところです」
「何がですか?」
「わかってないなら、まあいいです」
イロハは面倒そうにしながらも、少しだけ笑った。
チアキも立ち上がる。
「いやー、面白かった。黒夜、また何か噂立ててよ。 その時はちゃんとスクープにしてあげるからさ」
「そう言われて、騒ぎを起こすと思いますか?」
「えー!?」
「黒夜ちゃんは変なところで真面目よね〜」
サツキが笑う。
黒夜は少し疲れた顔で答えた。
「今日だけで十分です」
イブキは黒夜の袖を軽く掴む。
「黒夜先輩、プリン忘れないでね!」
「はい。忘れません」
「絶対?」
「約束します」
「やった!」
黒夜はイブキの頭を軽く撫でた。
その様子を見ていたマコトは、どこか満足げに頷く。
「うむ。やはり変わって無いな」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
黒夜にはよく分からなかったが、マコトの声は先ほどよりも穏やかだった。
やがて、会議室から一人、また一人と出ていく。
イロハは最後に黒夜の横を通り過ぎながら、誰にも聞こえない様小さな声で言った。
「次からサボる時は、もっとバレない場所にしましょうね」
「だから、それが誤解の原因なのでは?」
「じゃあ、バレても面倒にならない場所で」
「そんな場所ありますか?」
「私と一緒に探しましょう」
「…わかりました」
「ふふ、楽しみにしてますね」
黒夜は小さくため息をついた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
イロハは軽く手を振って出ていく。チアキも続き、イブキは名残惜しそうに何度も振り返りながら部屋を出た。黒夜も一礼して退室する。
「では、失礼します。マコト様、サツキさん」
「ああ」
「またね、黒夜ちゃん」
扉が閉まる。
会議室の中には、マコトとサツキだけが残った。
先ほどまでの騒がしさが、嘘のように薄れていく。
黒夜とイロハ、チアキ、イブキが出ていった後、部屋には急に静けさが戻ってきた。
先ほどまで、あれほど騒がしかったのが嘘のようだった。
それは、あまりにも平和な騒ぎだった。
万魔殿の会議室に残ったマコトは、しばらく閉じた扉を見つめていた。
サツキは、その横顔を何も言わずに眺めている。
マコトは普段通りの尊大な姿勢を保っている。椅子に深く腰かけ、腕を組み、いかにもゲヘナ学園の議長らしく振る舞っている。けれど、サツキには分かっていた。
さっきの騒ぎが収まってから、マコトの表情はほんの少しだけ変わっていた。
黒夜が「尊敬していますよ、マコト様」と言った時。
マコトはいつものように得意げに胸を張った。
けれど、その直後。
ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
それを見逃すほど、サツキは鈍くなかった。
「……お前と一緒にこの部屋にいると」
ぽつりと、マコトが言った。
声は、いつものように大きくなかった。
「あの時のことを思い出すな……」
サツキは少しだけ目を細めた。
責めるような顔ではなかった。
懐かしむような顔でもなかった。
ただ、分かっている、という顔だった。
「私が本気で怒った時でしょ?」
「あぁ……」
マコトは小さく頷いた。
「お前に泣きながら胸ぐらを掴まれた時に、私も目が覚めたんだよ」
サツキは何も言わなかった。
あの時のことは、二人しか知らない。
黒夜をトリニティへ送り込む。
マコトの指示で、黒夜はスパイとしてトリニティへ向かった。
それが必要だったのだと、当時のマコトは思っていた。
ゲヘナのため、万魔殿のため。
自分が議長として果たすべき役割のため。
理由はいくらでも並べられた。
けれど、サツキは怒った。
ただ怒ったのではない。
泣きながら、マコトの胸ぐらを掴んだ。
「黒夜ちゃんを何だと思っているの!?」
「あの子は、便利な駒じゃない!」
「あなたを真っ直ぐに尊敬している、可愛い後輩でしょう!?」
あの時のサツキの声を、マコトは今でも覚えている。
普段は軽く、柔らかく、どこか掴みどころのないサツキが、あの時だけは本気で怒っていた。涙を浮かべながら、それでもマコトから目を逸らさなかった。
マコトは、その目でようやく気づいた。
自分が何をしようとしているのか。
何を、見落としていたのか。
「……私は、なにをやってんだろうって」
マコトの声は、少しだけ弱弱しかった。
サツキは静かに息を吐く。
「もういいじゃない。マコトちゃんも反省したし、今は私もマコトちゃんに何も思ってないわよ?」
その言葉は、本心だった。
サツキはもう、マコトを恨んではいない。
怒りも、確かにあった。許せないと思った時間もあった。けれど、今は違う。
マコトも苦しんだ。
マコトも悔やんだ。
そして、マコトなりに黒夜を大事にしようとしている。
それを、サツキはわかっている。
「お前は優しいからな……」
マコトは目を伏せた。
「だが、黒夜はどうだろうな?」
「黒夜ちゃんが?」
「ああ」
マコトは、膝の上で拳を握った。
「私はどうあれ、黒夜をトリニティにスパイとして送り込み、結果的に苦しませた……その事実は覆らない」
言葉にするたび、胸の奥が軋む。
黒夜は恨み言を言わなかった。
むしろ今でも、マコトを「マコト様」と呼ぶ。
ゲヘナ学園の議長として、尊敬していると言う。
だからこそ、苦しい。
責められた方が、まだ楽だったのかもしれない。
黒夜が怒ってくれたなら。
恨んでくれたなら。
嫌いだと言ってくれたなら。
マコトは、自分を罰する理由を見つけられた。
けれど黒夜は、変わらない。
困ったように笑って、礼儀正しく頭を下げて、尊敬していますと真っ直ぐに言う。
それが、マコトにはどうしようもなく辛かった。
「私は、黒夜に恨まれても仕方ない人間だ」
言葉が落ちた。
二人の空気が、少しだけ沈む。
サツキは椅子から立ち上がった。
ゆっくりとマコトの方へ歩き、座ったまま俯いているマコトの頭を、そっと抱きしめる。
「バカね……」
サツキの声は、柔らかかった。
「泣くほど辛いなら、言わなくていいのに」
「……泣いてなどいない」
「はいはい。そういうことにしてあげる」
マコトは抵抗しなかった。
サツキの腕の中で、ただ黙っていた。
普段なら、すぐに騒ぐはずだった。
誰が泣いているだの、我はゲヘナの議長だの、そんな弱みを見せるものかだの、いくらでも言い返したはずだった。
けれど今は、何も言わなかった。
サツキはマコトの背をゆっくり撫でる。
その手つきは、黒夜に向けるものと少し似ていた。
可愛い後輩を甘やかす時のような、守るべき子を落ち着かせる時のような、そんな手つき。
ただ、相手はマコトだった。
「黒夜ちゃんはね」
サツキは静かに言った。
「マコトちゃんのことを、今でも変わらず尊敬しているわよ」
「……」
「ゲヘナ学園の議長として見ている。自分の原点にいる、大切な人として見ている」
マコトの拳が、少しだけ震えた。
「それが……余計に辛いのだ」
「うん」
「私は、あいつにそんな目で見られる資格など……」
「資格なんて、黒夜ちゃんは気にしてないわ」
サツキは、少しだけマコトを抱きしめる力を強めた。
「あの子は、マコトちゃんが失敗したことも、後悔していることも、たぶん全部知ってるわよ」
「……黒夜が?」
「ええ。あの子、変なところで鋭いもの。たぶん、気づいてる。気づいたうえで、それでもマコトちゃんを尊敬してるの」
「……」
「それが黒夜ちゃんの選択なのよ」
マコトは、顔を上げなかった。
サツキは続ける。
「だから、マコトちゃんができることは、その尊敬を否定することじゃないわ」
「…どうしろと言うんだ?」
「これからも、黒夜ちゃんが尊敬してくれる先輩でいること」
その言葉に、マコトはようやく顔を上げた。
サツキは、いつものように微笑んでいた。
柔らかくて、安心感を与える笑顔。
「黒夜ちゃんがゲヘナに帰ってきた時、胸を張って迎えられるようにすること。黒夜ちゃんが幸せになった時、ちゃんと喜んであげられること。もし誰かと並んで歩く日が来たら、泣きながらでも送り出してあげること」
「……それは」
マコトは言葉を詰まらせた。
黒夜が誰かと並んで歩く日。
イロハとの噂を聞いた時、マコトの胸は確かにざわついた。
それは単なる保護者めいた心配だけではなかった。
黒夜が誰かを特別に選ぶ。
自分ではない誰かの隣で、穏やかに笑う。
その光景を想像した時、胸の奥に小さな棘が刺さった。
けれど、それ以上に思った。
黒夜が幸せなら、それでいい。
自分の隣でなくてもいい。
自分を見ていなくてもいい。
黒夜が笑っていられるなら。
かつて自分が苦しめてしまった分まで、黒夜が幸せになれるなら。
それでいい。
「……私は――黒夜が幸せになるなら、私など踏み台になっても構わんと思っている」
サツキは、少しだけ目を伏せた。
「マコトちゃんらしいわね」
「笑うか?」
「笑わないわよ」
サツキは首を横に振る。
「重いなとは思うけど」
「……それは自覚している」
「でも、嫌いじゃないわ」
マコトはサツキを見た。
サツキは少しだけ困ったように笑う。
「黒夜ちゃんのこと、大事に思っているのね」
「ああ」
マコトは迷わず頷いた。
「大事だ」
その言葉は、驚くほど素直だった。
「たぶん、私が思っていたよりずっと」
「うん」
「恋だの何だのと言われれば、そういう気持ちも多少はあるのかもしれん。だが、それよりも……黒夜には、幸せでいてほしい」
マコトは目を閉じる。
「私を尊敬などしなくていい。私を恨んでもいい。私を置いて、どこへ行ってもいい。だが……あいつには、もう苦しんでほしくない」
サツキは黙って聞いていた。
そして、静かに微笑む。
「それ、黒夜ちゃんが聞いたら困った顔するわよ」
「だろうな」
「それで、『マコト様を踏み台にするつもりはありません』って言うわね」
「言いそうだ」
「それから、『私は今でもマコト様を尊敬しています』って、真っ直ぐ言うの」
「……やめろ」
「泣いちゃう?」
「泣かん」
「はいはい」
サツキは小さく笑った。
会議室の空気が、少しだけ和らぐ。
マコトはようやく、深く息を吐いた。
「サツキ」
「なあに?」
「お前は、黒夜のことをどう思っている」
サツキは少し意外そうに目を瞬かせた。
それから、頬に手を当てて考える。
「可愛い後輩」
「即答だな」
「だって本当だもの」
サツキは微笑む。
「ちょっと危なっかしくて、放っておくとすぐ無茶して、なのに自分がどれだけ大事にされてるか分かってなくて。だから、つい構いたくなるの」
「それだけか?」
「……少しは、違う気持ちもあるわよ」
サツキは正直に言った。
「黒夜ちゃんって、優しいし、真っ直ぐだし、あんなふうに困った顔で笑われると、ちょっとずるいなって思う時もあるもの」
「ふん」
「でもね、それよりも守ってあげたい気持ちの方がずっと強いわ」
サツキは、閉じた扉へ視線を向ける。
そこから出ていった黒夜の姿を、思い出すように。
「黒夜ちゃんが誰かを好きになったら、私はたぶん少し寂しいけど、それより先に心配すると思うの。その相手は黒夜ちゃんをちゃんと大事にしてくれるのかしらって。黒夜ちゃんがまた我慢してないかしらって」
「……お前も十分重いな」
「あら、貴女に言われたくないわ」
二人は、少しだけ笑った。
先ほどまでの重さが、完全に消えたわけではない。
それはたぶん、黒夜が今ここにいないからだ。
黒夜がいたら、きっと困った顔をして、二人に頭を下げてしまう。自分のことでそこまで考えなくていいと、静かに言ってしまう。
だから、この話は黒夜に聞かせない。
少なくとも、今は。
マコトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「……黒夜は、またプリンを作ると言っていたな」
「イブキちゃん、嬉しそうだったわね」
「あいつは本当に、誰にでも甘いな」
「そこがいいんじゃない」
「まったく……」
マコトは呆れたように言った。
だが、その声は穏やかだった。
「ならば、次に来た時は盛大に迎えてやらねばならんな。ゲヘナ学園の議長として、黒夜の作るプリンを正当に評価してやろう」
「食べたいだけじゃない?」
「違う! 評価だ!」
「はいはい」
サツキは笑う。
マコトも、少しだけ口元を緩めた。
会議室の外では、いつものようにゲヘナの騒がしい音が響いている。
それでも、この部屋の中だけは少し静かだった。
マコトは目を閉じる。
黒夜…自分が送り出し、苦しませ、それでも戻ってきた生徒。
自分を今でも尊敬していると言う、どうしようもなく真っ直ぐな後輩。
その幸せを願うことくらいは、許されるだろうか。
許されないとしても、願わずにはいられない。
「……サツキ」
「うん?」
「次に黒夜が無茶をしようとしたら、止めるぞ」
「もちろん」
「全力でだ」
「ええ。泣きながら胸ぐらを掴んででもね」
「それは私にもやっただろう」
「必要なら、またやるわよ?」
サツキが笑う。
マコトは一瞬だけ黙り、それから小さく鼻を鳴らした。
「ふん。ならば、その時は私も一緒に掴んでやる」
「黒夜ちゃん、びっくりするでしょうね」
「構わん。あいつは驚くくらいでちょうどいい」
二人は静かに笑った。
そして、誰もいなくなった会議室に、少しだけ柔らかな沈黙が落ちる。
黒夜は知らない。
自分が退室した後、万魔殿の会議室でそんな会話が交わされていたことを。
自分を送り出した者が、今もその罪を抱えながら、それでも自分の幸せを願っていることを。
自分を可愛い後輩として大切に思う者が、その痛みごと受け止めていることを。
黒夜は、何も知らないまま、きっと次に万魔殿へ来る時も、約束通りプリンを作ってくる。
そしてマコトは、きっといつものように胸を張って言うのだ。
「ふははは! よく来たな、黒夜!」
サツキはその隣で、黒夜に笑いかけるのだろう。
「黒夜ちゃん、待ってたわよ」
その時、黒夜は少し困ったように笑って、いつものように頭を下げる。
「はい。お待たせしました、マコト様、サツキさん」
そんな、何でもない日常が続けばいい。
マコトは、そう思った。
それが自分に許された願いなのかどうかは分からない。
けれど今だけは、その願いを胸の奥にしまっておくことにした。