夜は、静かだった。
あまりにも静かで、
世界そのものが息を潜めているように思えた。
黒夜の手は、セイアの細い首にかかっている。
指先に伝わる脈動は弱く、頼りなく、それでいて確かだった。
――まだ、生きている。
その事実だけが、逆に黒夜を追い詰めていた。
力を込めれば終わる。
ほんの少し、指を締めるだけで。
「……っ!」
セイアは、何も言えなかった。
抵抗も、懇願もない。
ただ、黒夜を見ている。
その瞳は、怖れていなかった。
責めてもいなかった。
信じていた。
それが、黒夜には耐えられなかった。
――見るな。
――そんな目で、見るな。
心の中で叫んでも、声にはならない。
背後に、気配があった。
白洲アズサ。
彼女は、何も言わず、ただ立っている。
止めない。
任務だから。
命令だから。
誰も、黒夜の選択に干渉しない。
それは、自由だった。
そして同時に、完全な孤独だった。
黒夜は、目を伏せた。
これ以上、見ていられなかった。
セイアの瞳が、
自分がどれほど卑怯で、
どれほど弱いかを、突きつけてくる。
――私は、正しい。
そう言い聞かせる。
――これは、仕方のないことだ。
何度も、何度も。
――選ばされたのだから。
だが、本当は分かっていた。
選んでいるのは、他でもない、自分だ。
守る勇気がないから。
拒む覚悟がないから。
ただ、それだけの理由で。
黒夜は、ゆっくりと指に力を込めた。
セイアの喉が、小さく鳴る。
苦しそうに、息を吸おうとする。
それでも、彼女は黒夜を見ていた。
「……こ…く…や……」
掠れた声。
それが、最後だった。
やがて、脈が弱くなり、
体から力が抜けていく。
黒夜は、しばらくそのまま動けなかった。
終わった。
すべてが。
達成感はなかった。
安堵もなかった。
ただ、ぽっかりと空いた穴だけが残った。
アズサが、静かに言う。
「……終わったか」
感情は、そこにはない。
黒夜は、セイアから手を離した。
その体は、もう動かない。
床に横たわる姿は、あまりにも小さく、
あまりにも静かだった。
――これで、よかったんだ。
――これしか選択肢が無かったんだ!
そう思おうとした。
だが。
胸の奥が、ひどく痛む。
何かが、壊れた音がした。
取り返しのつかない、音。
その後のことは、あまり覚えていない。
噂は、瞬く間に広がった。
百合園セイアが死亡したと。
その夜から月城黒夜は、姿を消した。
ナギサは、事態の収拾とティーパーティーホストとしての責任を一身に背負い、
ミカは、笑わなくなった。
トリニティは、以前よりも静かになった。
そして。
黒夜は、どこかの薄暗い部屋で、
一人、椅子に座っていた。
命令は、果たした。
役目も、終えた。
それなのに。
夜になると、
あの視線を思い出す。
責めず、疑わず、
ただ信じていた、あの瞳を。
黒夜は、天井を見上げた。
「……私には…これしか…選択肢が無かったはずだ…」
誰に向けた言葉でもない。
誰にも届かない、独白。
答えは、返ってこない。
救われた者は、誰もいなかった。