ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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我が儘の練習

 ミレニアムの一角にある、特異現象捜査部は静かだった。

 静か、と言っても、完全な無音ではない。複数の端末が、壁際に並んだ機材が一定の間隔で点滅している。モニターには無数の文字列とログが流れ、時折、処理完了を告げる小さな電子音が鳴った。

 その中央で、黒夜はノート端末を前にしていた。

 

「ここで、認証を突破する前にログを見るんですね」

 

「ええ、その通りです」

 

 ヒマリは車椅子に座ったまま、どこか得意げに頷いた。

 

「さすがは黒夜さん。理解が早いですね。この超天才清楚系病弱美少女ハッカー直々の講義を受けているだけのことはあります」

 

「教え方が丁寧なので助かっています」

 

「ふふん。もっと褒めても構いませんよ」

 

「ありがとうございます、ヒマリさん」

 

「……そこはもう少し乗ってくださってもよいのですが」

 

 ヒマリはわざとらしく肩を落とした。

 黒夜は少し困ったように笑う。

 

 今日、黒夜はヒマリからハッキング技術の基礎と応用を教わっていた。とはいえ、基礎と言ってもヒマリの基準である。一般的な生徒が聞けば数分で頭を抱えるような内容を、ヒマリは「ここは簡単ですね」と言いながらさらりと進めていく。

 

 黒夜も必死についていっていた。

 

 ログの見方。

 侵入経路の選定。

 痕跡の消し方。

 逆探知を避ける手順。

 防御側に立った時の穴の塞ぎ方。

 

 戦闘とは違う技術なのに、どこか考え方は似ていた。

 

 相手の初動を読む。

 こちらの意図を悟らせない。

 相手が動く前に道を潰す。

 逆に、こちらが逃げる経路を確保しておく。

 

 黒夜にとって、技術そのものは新鮮だったが、考え方には馴染む部分も多かった。

 だからこそ集中していた。そのはずだったのだが…

 

「では次に、この防壁の迂回手順ですが――」

 

 ヒマリが説明を続けようとした時、黒夜の口元から小さな欠伸が漏れた。

 

「……っ!」

 

 黒夜は慌てて口元を押さえた。

 

「すみません」

 

 ヒマリの目が、すっと細くなる。

 

「黒夜さん…今、欠伸をしましたか?」

 

「……申し訳ありません。講義が退屈というわけでは決してなくてですね――」

 

「それは分かっています」

 

 ヒマリは端末の表示を一度閉じ、黒夜をじっと見た。

 

「目元に疲れが出ていますね。集中力も、先ほどからほんの少し落ちています」

 

「そうでしょうか」

 

「超天才の目は誤魔化せません」

 

 黒夜は視線を逸らした。

 

「少し寝不足なだけです。問題ありません」

 

「黒夜さんの“問題ありません”は、もはや警告音のようなものですね」

 

 ヒマリは断言した。

 黒夜は軽く息を吐く。

 ここ数日、確かに少し予定が詰まっていた。

 

 シャーレの当番。

 トリニティの護衛。

 ゲヘナ情報部の仕事。

 アリウスからの相談。

 ミレニアムでの訓練と講義。

 

 どれも無理をしたつもりはない。

 ただ、少しずつ積み重なっただけだ。

 

 それを疲労と呼ぶのだと、最近は周囲によく言われる。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 ヒマリはあっさりと言った。

 黒夜はそのヒマリの言葉を聞いてすぐに顔を上げる。

 

「いえ、まだ大丈夫です。せっかく時間を取っていただいたのですから」

 

「いいえ、ここまでです」

 

「ですが!」

 

「黒夜さん。私の講義を受けながら眠気を隠し続けるのは、かなり失礼ですよ?」

 

「……それは、申し訳ありません」

 

「ですので、少し休みましょう」

 

「分かりました。では、少し外の空気を――」

 

「違います」

 

 ヒマリはにこりと笑い、車椅子から近くのソファに腰かける。

 黒夜が首を傾げた瞬間、ヒマリは自分の膝を軽く叩いた。

 

「こちらへどうぞ」

 

 黒夜は固まった。

 

「……え?」

 

「膝枕です」

 

「いえ、それは――」

 

「遠慮なさらず」

 

「ヒマリさん」

 

「いいですから」

 

 なぜか、言葉を重ねられるほど逃げ場がなくなっていく。

 黒夜は少し顔を赤くしながら、控えめに首を横に振った。

 

「お気持ちはありがたいのですが、さすがにそれは申し訳ありません。私は椅子で少し休めば十分ですので」

 

「椅子で休むと、黒夜さんは目を閉じながら頭の中で仕事の整理を始めるでしょう」

 

「……」

 

「図星ですね」

 

「そんな事は…」

 

「そうやって無理が積み重なった結果が今の状態なのではないですか?」

 

 返す言葉がなかった。

 ヒマリは満足げに頷く。

 

「ですから、きちんと休ませます。この超天才清楚系病弱美少女ハッカーによる、極めて合理的な理論です」

 

「反論出来ませんね……」

 

「ええ。異論は認めません」

 

 黒夜は困ったように眉を下げた。

 

 断りたい。

 

 恥ずかしい、申し訳ない。

 何より、どう反応していいか分からない。

 

 だが、ヒマリの表情はいつになく真剣だった。

 芝居がかった言い方をしてはいる。けれど、その奥には本気の心配がある。

 黒夜はそれを読み取ってしまった。

 

「……本当に、よろしいのですか?」

 

「もちろんです」

 

「重くありませんか?」

 

「黒夜さん。私は超天才であると同時に、清楚系で病弱な美少女ですが、膝枕ひとつで倒れるほど柔ではありません」

 

「その説明で安心していいのか迷いますね」

 

「安心してください」

 

 ヒマリは軽く膝を叩いた。

 

「ほら。早く」

 

 黒夜はしばらく迷った。

 それから、観念したようにゆっくりと立ち上がる。

 

「……失礼します」

 

「どうぞ」

 

 黒夜は慎重に、ヒマリの膝へ頭を預けた。

 思っていたより、柔らかかった。

 そして、思っていたよりずっと落ち着かなかった。

 

「……ヒマリさん」

 

「何でしょう」

 

「やはり、これは少し……」

 

「駄目です! もう逃がしません」

 

「逃げるつもりは」

 

「嘘ですね」

 

「……少しだけ」

 

「正直でよろしい」

 

 ヒマリは小さく笑った。

 黒夜は天井を見上げる。

 機材のランプが、ゆっくりと点滅している。端末の音も、いつもより少し遠く聞こえた。視界の端にヒマリの顔がある。いつもの自信に満ちた微笑みではなく、少し穏やかな表情だった。

 

「落ち着きませんか?」

 

「……初めての経験なので、落ち着きません」

 

「でしょうね♪」

 

「分かっていて提案されたのですか?」

 

「もちろんです。黒夜さんには、少し強引にでも休む環境を与えないといけませんので」

 

 ヒマリはそう言って、黒夜の前髪にそっと触れた。

 黒夜の身体がわずかに強張る。

 

「嫌でしたか?」

 

「いえ……驚いただけです」

 

「では、続けますね」

 

 ヒマリの指が、ゆっくりと黒夜の頭を撫でた。

 優しい手つきだった。

 黒夜は、しばらく言葉を失った。

 誰かに頭を撫でられること自体は、最近ではまったくないわけではない。ミカやアツコ、ナギサ達が過保護に構うこともある。けれど、こうして静かに、眠るためだけに撫でられるのは、また違った。

 抵抗する理由を探そうとしたが、見つからなかった。

 

「黒夜さん、貴方はもう少し我が儘を言ってもいいのですよ」

 

 唐突にそう言われ、黒夜は目を瞬かせた。

 

「我が儘、ですか…?」

 

「そうです」

 

 ヒマリは手を止めずに続ける。

 

「誰かの頼みを聞くこと。誰かを助けること。誰かのために動くこと。それらは悪いことではありません。黒夜さんの美点でもあります。ですが、自分の望みを後回しにし続けることが、美徳だとは限りません」

 

 黒夜は何も言わなかった。

 ヒマリの声は、普段より少しだけ柔らかい。

 

「この私を見習ってください」

 

「ヒマリさんを、ですか」

 

「ええ。私は我が儘です。休みたい時は休みますし、助けてほしい時は助けを求めますし、褒めてほしい時は堂々と褒めるよう要求します」

 

「確かに…」

 

「そこは否定してください!」

 

「すみません」

 

「まぁいいです。事実ですから」

 

 ヒマリは少し得意げに笑った。

 

「我が儘を言うことは、誰かを困らせるだけではありません。時には、相手に頼られる機会を与えることでもあります」

 

「頼られる機会……」

 

「そうです。黒夜さんは、他人にそれを与えるのが少し下手です」

 

 黒夜は目を伏せた。

 

「……そうかもしれません」

 

「ですので、練習です」

 

「練習?」

 

「はい。今、何か我が儘を言ってみてください」

 

 黒夜は困った。

 

「急に言われても……」

 

「何でも構いません。眠る前にしてほしいこと、欲しい言葉、少しだけ甘えたいこと」

 

「甘えたいこと……」

 

 その言葉に、黒夜の頬がうっすら赤くなった。

 ヒマリは気づいていたが、あえて何も言わなかった。

 急かさず、ただゆっくりと頭を撫で続ける。

 

 黒夜はしばらく黙っていた。

 

 規則正しい機材の音。

 廊下から聞こえてくる足音。

 ヒマリの手の温度。

 

 眠気が、少しずつ戻ってくる。

 このまま目を閉じれば、すぐに眠ってしまいそうだった。

 だから、その前に黒夜は小さく口を開いた。

 

「……では」

 

「はい」

 

「眠るまでで、いいので」

 

 黒夜は言いながら、視線を逸らす。

 

「このまま頭を……撫でていただけませんか?」

 

 言い終えた後、黒夜は自分で少し驚いたように黙った。

 

 こんなことを頼むつもりはなかった。

 けれど、言ってしまった。

 

 ヒマリは数秒、何も言わなかった。

 黒夜が不安になりかけた時、彼女は優しく微笑んだ。

 

「もちろんです」

 

 黒夜の表情が、ほんの少しだけ緩む。

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 ヒマリは、先ほどよりも少し丁寧に黒夜の頭を撫でた。

 

 ゆっくり。

 同じリズムで。

 眠りを妨げないように。

 

「黒夜さん」

 

「はい」

 

「よくできました」

 

「……子供扱いされている気がします」

 

「今は我が儘を言う練習中ですから」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものです」

 

 黒夜は小さく笑った。

 その声も、すぐに眠気に溶けていく。

 

 ヒマリの膝の上は、思っていたよりずっと安心できた。

 撫でられる手は優しく、言葉は穏やかで、部屋の機械音すら子守唄のように聞こえてくる。

 

「ヒマリさん」

 

「はい」

 

「……すみません。少しだけ、眠ります」

 

「謝ることではありませんよ」

 

 ヒマリは囁くように言った。

 

「ゆっくりお休みなさい、黒夜さん」

 

「はい……」

 

 黒夜の声が小さくなる。

 

 まぶたが落ちる。

 呼吸が深くなる。

 

 しばらくして、黒夜は完全に眠りに落ちた。

 ヒマリは、その寝顔を静かに見下ろしていた。

 

 普段、黒夜はよく笑う。困ったように、穏やかに、相手を安心させるように。

 だが、眠っている時の顔は少し幼い。

 何かを背負う前のような、ただ疲れた生徒の顔だった。

 ヒマリはそっと、もう一度黒夜の髪を撫でる。

 

「……本当に、もう少し我が儘でよいのですよ」

 

 返事はない。

 黒夜は静かに眠っている。

 ヒマリは微笑み、声を落として続けた。

 

「少なくとも、今日くらいは」

 

 作業室には、端末の低い駆動音だけが響いていた。

 黒夜が眠ってから、ヒマリはしばらく動かなかった。

 膝の上で静かに寝息を立てる黒夜の髪を、ゆっくりと撫で続ける。

 黒夜の呼吸は穏やかだった。眠る直前まで、彼は申し訳なさそうにしていた。休むことにすら、どこか許可を求めるような顔をしていた。

 

 ヒマリは小さく息を吐く。

 

「……本当に、困った人ですね」

 

 その声は、誰に聞かせるものでもなかった。

 

 黒夜は答えない。

 ただ、ヒマリの膝の上で静かに眠っている。

 その姿を見ていると、普段の黒夜がどれだけ肩に力を入れているのかがよく分かった。丁寧に笑い、穏やかに受け答えし、求められればすぐに動く。誰かを安心させるために、自分の疲れを後ろへ押し込む。

 だからこそ、こうして眠っている時くらいは、何も考えずに休んでいてほしい。

 ヒマリはもう一度、黒夜の髪を撫でた。

 

 その時だった。

 作業室の扉が、こんこん、と控えめに叩かれた。

 ヒマリは顔を上げる。

 

「どうぞ」

 

 扉が開く。

 そこから顔を出したのは、トキだった。

 

「ヒマリ様、失礼します。黒夜さんはこちらに――」

 

 トキはそこで言葉を止めた。

 視線の先に、ヒマリの膝枕で眠っている黒夜を見つけたからだ。

 トキは少しだけ目を瞬かせる。

 

「……いましたね」

 

「眠っていますので、声は控えめにお願いします」

 

「わかりました。小声にします」

 

 トキは素直に声量を落とした。

 しかし、その後ろから慌ただしい足音が近づいてくる。

 

「黒夜、違うのよ! 偶々なのよ! 本当に偶然半額弁当が多かっただけで――」

 

 リオだった。

 顔を赤くし、何かを必死に弁解するような勢いで作業室に入ってくる。

 その瞬間、ヒマリの視線が鋭くなった。

 

「リオ」

 

 静かな一言。

 リオの動きが止まる。

 

「……?」

 

「静かにしてください」

 

 ヒマリの声は穏やかだった。

 けれど、明確に怒っていた。

 

 リオはそこでようやく、ヒマリの膝の上にいる黒夜に気づいた。

 

「……黒夜?」

 

 その声は、先ほどよりずっと小さい。

 

 黒夜は目を覚まさない。

 ヒマリの膝の上で、気持ちよさそうに眠っている。

 

 トキは小声で補足する。

 

「黒夜さんは睡眠中です。ヒマリ様の膝枕つきです」

 

「見れば分かるわ」

 

「ですが、リオ様は少し固まっていたので」

 

「トキ」

 

「黙ります」

 

 トキは真顔で口を閉じた。

 しかし、すぐにまた小声で言う。

 

「でも、半額弁当の件はまだ解決していません」

 

「それは今言わなくていいわ」

 

「黒夜さんに手伝ってもらおうと思っていたので」

 

「寝ているのだから無理に決まっているでしょう」

 

「なので今は待つしかないですね」

 

 トキは当然のように言った。

 ヒマリは小さくため息を吐いてリオを見つめた。

 リオはヒマリからの視線に耐えれず逸らすしか出来なかった。

 

「……少し、部屋の状況が悪化しただけよ」

 

 トキが真面目な顔で言う。

 

「私が少し目を離した隙に、また半額弁当を買い込んでいました」

 

「トキ」

 

「机の上と床が空容器で大変なことになっています」

 

「トキ」

 

「それとこれで三回目ですよ? これを偶々とは呼ばないと思います」

 

「トキ!」

 

「黙ります」

 

 トキは再び黙った。

 

 ヒマリは呆れたようにリオを見る。

 

「貴女、また食事を半額弁当で済ませていたのですか」

 

「忙しかったのよ」

 

「忙しいことと、部屋を散らかすことは別問題です」

 

「それは……分かっているわ」

 

「分かっていて繰り返すところが、リオらしいと言うべきでしょうか」

 

 リオは少し不満そうに唇を引き結んだ。

 だが、言い返す前に、視線が黒夜へ移る。

 

 ヒマリの膝の上で眠る黒夜。

 穏やかな寝顔。

 撫でられるたびに、ほんのわずかに呼吸が深くなる。

 

 リオはそれを見つめて、言葉を止めた。

 少しだけ、羨ましそうに。

 もちろん、顔には出さないつもりだった。

 

 リオ自身は、自分の表情を制御できていると思っていた。

 だが、トキはすぐに言った。

 

「リオ様」

 

「何」

 

「羨ましいのですか?」

 

「違うわ」

 

 トキは首を少し傾げる。

 

「でも、さっきから黒夜さんとヒマリ様の膝を見ています」

 

「見ていないわ」

 

「見ています」

 

「確認していただけよ」

 

「何をですか?」

 

「黒夜の休息環境が適切かどうかを」

 

 トキは少し考えた。

 

「つまり、羨ましいのでは?」

 

「違うと言っているでしょう」

 

「そうですか」

 

 トキは真顔のまま頷いた。

 そして少し間を置いて、

 

「リオ様も撫でたいなら、順番待ちでしょうか」

 

「トキ」

 

「今度こそ黙ります」

 

 トキは三度目の沈黙に入った。

 ヒマリは口元を押さえ、少しだけ笑いを堪えていた。

 

「リオ。別に羨ましがるのは悪いことではありませんよ」

 

「羨ましがっていないわ」

 

 リオは小声で言い切った。

 だが、視線はまた黒夜へ戻る。

 眠っている黒夜は、いつものように周囲へ気を配っていない。誰かに頼まれたことを考えている様子もない。予定を組み直しているわけでも、次の作業を頭の中で整理しているわけでもない。

 

 ただ、眠っている。

 

 トキがその顔を見て、ぽつりと言った。

 

「流石の黒夜さんも眠っている時は年相応ですね」

 

 リオも、ヒマリも、少しだけ黙った。

 

 トキは続ける。

 

「いつもは落ち着いていて、丁寧で、周りをよく見ていて、先に動いてくれます。でも今は、普通に疲れて眠っている生徒に見えます」

 

 その言葉は、トキらしく真っ直ぐだった。

 リオは黒夜を見つめたまま、静かに言う。

 

「……そうね」

 

 声が少し低い。

 

「ゲヘナも、トリニティも、アリウスも、テラー達も……黒夜に背負わせすぎなのよ」

 

 ヒマリは、黒夜の頭を撫でる手を止めなかった。

 

「彼は超人ではないわ。機械でもない。どれだけ我慢強くても、どれだけ器用でも、処理能力に上限はある。ただの人なのよ」

 

 トキは黙って聞いていた。

 ヒマリも茶化さない。

 

「だから……ミレニアムにいる時くらいは、普通の生徒として過ごしてほしい」

 

 リオの声には、理屈だけではない感情が混じっていた。

 

「ハッキングを学ぶなら学べばいい。ゲーム開発部に顔を出すなら出せばいい。誰かの手伝いをするなら、それも構わない。でも、何かを背負うためではなく、ただ興味を持って、学んで、休んで、楽しむためにいてほしい」

 

 リオは、少しだけ目を伏せた。

 

「黒夜は、そういう時間を持つべきだわ」

 

 しばらく、作業室には端末の駆動音だけが響いた。

 ヒマリは小さくため息を吐く。

 

「貴女の気持ちは分かります。ですが、それを他学園の生徒の前で言わないでくださいね」

 

「……分かっているわ」

 

 リオはすぐに答えた。

 自覚はあるのだ。

 

 今の言葉は、聞く人によってはかなりの波乱を呼ぶ。ゲヘナやトリニティ、アリウスの面々が聞けば、「自分達が黒夜に背負わせている」と受け取って傷つくかもしれない。あるいは、ミレニアムが黒夜を囲おうとしているように聞こえるかもしれない。

 

 リオはそれを理解している。

 だからこそ、ここでしか言わない。

 ヒマリはそれを分かったうえで、少しだけ柔らかい声で言った。

 

「ただ、黒夜さんに普通の時間を過ごしてほしいという点には同意します」

 

 トキも頷く。

 

「私も同意見です。黒夜さんには、もう少し普通に寝たり、普通にご飯を食べたり、普通に遊んだりしてほしいです」

 

「ええ」

 

 ヒマリは黒夜の髪を撫でながら微笑む。

 

「その第一歩として、今は眠ってもらっています」

 

 リオは膝枕の黒夜を見る。

 

「……そう」

 

 そして、少しだけ羨ましそうな顔をした。

 トキが小声で言う。

 

「やっぱり羨ましそうですね」

 

「トキ」

 

「小声でも駄目ですか」

 

「駄目よ」

 

「分かりました」

 

 トキは少しだけ口を尖らせるような雰囲気を出した。表情はほとんど変わらないが、どこか拗ねた大型犬のようだった。

 ヒマリが微笑む。

 

「トキ、よく気づきましたね」

 

 トキの目がわずかに明るくなる。

 

「はい。観察してました。ピースピース」

 

 両手で小さくピースを作る。

 リオは頭を押さえた。

 

「そこで喜ばないで」

 

「褒められたので」

 

「……そう」

 

 ヒマリは笑いを堪えながら、黒夜を起こさないように声を落とした。

 

「とにかく、リオの部屋の片付けは後回しです。黒夜さんが起きるまでは、ここで静かにしていてください」

 

「分かったわ」

 

 リオは素直に頷いた。

 トキも近くの椅子を静かに引き、腰を下ろす。

 

「では、待機します。黒夜さんが起きたら、片付けを手伝ってもらってもいいですか?」

 

「起きた直後に片付けへ連れていくのは駄目です」

 

 ヒマリが即座に言う。

 

「むしろ黒夜さんを休ませるために、リオとトキで先に片付ければよいのでは?」

 

 トキは少し考えた。

 

「ぐうの音も出ませんね」

 

 リオも目を逸らす。

 

「……分かっているわ」

 

「では、黒夜さんが起きる前に片付けましょうか」

 

「今から?」

 

「はい。半額弁当の容器は逃げません。でも放置すると匂いは増えます」

 

 リオは小さく呻いた。

 

「……分かったわ」

 

 それでも、リオはすぐには動かなかった。

 もう少しだけ、黒夜の寝顔を見ていたかった。

 ヒマリはそれに気づいていたが、何も言わなかった。

 

 代わりに、黒夜の髪をそっと撫でる。

 黒夜は眠ったまま、わずかに身じろぎした。

 

「……もう少しだけ……」

 

 小さな寝言だった。

 リオもトキも、ヒマリも動きを止める。

 

 黒夜は目を覚まさない。

 ただ、安心しきったようにヒマリの膝へ頭を預けている。

 

 ヒマリは柔らかく微笑んだ。

 

「もう少しだけですよ」

 

 リオはその声を聞いて、静かに息を吐いた。

 

「……本当に、普通の生徒みたいね」

 

「普通の生徒ですよ」

 

 ヒマリは即答した。

 

「少なくとも、今ここでは」

 

 トキも頷く。

 

「今の黒夜さんは休息中です」

 

 そして真面目な顔で付け加えた。

 

「起きたら、たぶんまたいつもの調子に戻ってしまうでしょう」

 

「そうでしょうね」

 

 リオが苦笑する。

 

「だから、その前に片付けを済ませましょう。黒夜に頼らないで」

 

「そうですね」

 

 そう言ってトキは立ち上がる。

 

「リオ様、行きましょう。今なら黒夜さんに気付かれずに片付けられます」

 

「それはそれで、何か負けた気がするわね」

 

「では勝ちにしましょう」

 

「どういう理屈?」

 

「片付けられたら勝ちです」

 

 トキはまた小さく両手でピースをした。

 リオは呆れたように、けれど少しだけ笑った。

 

「……そうね。片付けられたらもうそれでいいわ」

 

 二人は音を立てないように、そっと作業室を出ていく。

 扉が静かに閉まる。部屋には、再びヒマリと黒夜だけが残った。

 ヒマリは、眠る黒夜を見下ろす。

 

「黒夜さん、貴方の居場所は、どこか一つではないのでしょう」

 

 ヒマリは小さく呟く。

 

「だからこそ、せめてここにいる時は、肩の力を抜いてください」

 

 黒夜の髪を、もう一度撫でる。

 

「我が儘の練習は、まだ始まったばかりですからね」

 

 端末の光が、静かに二人を照らしていた。

 黒夜はそのまま、安心したような顔で眠り続けた。

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