シャーレの訓練場は、普段より少し空気が重かった。
訓練用に広く取られた床。遮蔽物として配置された低い壁やコンテナ。弾痕を想定した模擬損傷のあるパネル。戦闘データを記録するための端末が壁際に並び、天井には安全管理用のセンサーが静かに点滅している。
本来なら、ここは生徒達が先生の立ち会いのもとで模擬戦や戦術訓練を行う場所だ。
だが、今日の顔ぶれは少々物騒だった。
ゲヘナ学園、風紀委員長・空崎ヒナ。
ミレニアムサイエンススクール、C&Cリーダー・美甘ネル。
トリニティ総合学園、ティーパーティー・聖園ミカ。
そしてアビドス高等学校、対策委員会・小鳥遊ホシノ。
各校のトップクラスが揃っている。
黒夜は訓練場の中央で、ひとり静かに息を吐いた。
「……本当に、この面子でやるんですね」
そう呟くと、少し離れたところでホシノがいつもの調子で手を振った。
「おじさんは軽くでいいって言ったんだけどね~」
「軽くで済む面子ではないと思います」
「それはそうかも~」
ホシノは気だるげに笑っている。
だが、その緩さが逆に読めない。先日のカフェテリアでネルとミカが一瞬で察した通り、ホシノはただの気の抜けた少女ではない。
黒夜はそれをよく知っていた。
だからこそ、少し胃が重い。
ヒナは腕を組み、静かに黒夜を見ていた。
「黒夜」
「はい、ヒナさん」
「無理はしないこと」
「分かっています」
ヒナの声は淡々としていたが、そこには明確な心配があった。
黒夜は苦笑する。
「今日はあくまで訓練です。無茶はしません」
「ならいいけど」
隣でネルが肩を鳴らした。
「おい黒夜、固くなってんじゃねぇぞ。訓練っつっても、やるならちゃんとやれよ?」
「もちろんです、ネルさん」
「へっ。そういう返事だけはいいんだよな」
ネルは挑発するように笑う。
その目はすでに戦闘のものだった。
ミカは少し楽しそうに、黒夜の周りを覗き込むように歩いていた。
「黒夜って、ホシノさんに訓練してもらってるんだよね?」
「はい。主に盾の扱いや、守り方を」
「ふーん。じゃあ今日は、黒夜がどれくらい強くなったのか見られるってこと?」
「期待されるほどではありませんよ」
「またそうやって謙遜する~」
「謙遜ではなく事実です。皆さんを相手に一対一で勝てるとは思っていません」
黒夜がそう言うと、ネルが眉を上げた。
「あ? やる前から負ける気かよ」
「負ける気ではありません。ただ、実力差を見誤るつもりもありません」
黒夜は静かに答える。
「ヒナさん、ネルさん、ミカ様、ホシノさん。皆さんそれぞれ、私より遥かに上の領域にいます。正面から一対一で挑んで勝てる相手ではありません」
ミカが頬を膨らませた。
「黒夜、そういうのちょっと寂しいよ? もっとこう、勝つつもりで来てほしいな」
「勝つつもりで動きますよ。ただ、勝てると思い込むのとは別なだけです」
それを聞いて、ホシノが小さく笑った。
「そういうところはちゃんと現実的だね~」
「無謀と挑戦は違うと思っていますので」
「その割に、たまに無謀なことするけどね~」
「……それは」
黒夜は視線を逸らした。
訓練場の端では、先生とプレ先が安全管理用の端末を確認している。観戦というより、万が一に備えた監督役だ。さすがにこの面子を放置するわけにはいかないのだろう。
先生がこちらへ声をかけた。
「全員、模擬弾と訓練用に設定してるね?」
「問題ないわ」
ヒナが答える。
「こっちも大丈夫だぜ」
ネルが銃を軽く掲げる。
「私も大丈夫だよ~」
ミカが笑う。
「おじさんも準備できてるよ~」
ホシノも気の抜けた声で応じた。
黒夜も、自分の装備を確認する。
今日の目的は勝敗ではなく、自分がどこまで対応できるかの確認だ。
そう思っていると、ネルが言った。
「じゃあまず、準備運動代わりに一対一でやってみるか?」
「一対一、ですか」
「本番の乱戦の前に身体慣らしだよ。いいよなぁ?」
ネルが他の三人を見る。
ヒナは少し考えてから頷いた。
「黒夜の状態を確認する意味でも悪くないわ」
「私も賛成~。黒夜の動き、ちゃんと見たいし」
ミカが手を上げる。
「うへ~、じゃあおじさんも軽くやろうかな~」
ホシノもゆるく同意した。
黒夜は一瞬だけ沈黙した。
四人と順番に一対一。
どう考えても準備運動という名の確認作業ではない。
だが、逃げる理由もない。
「分かりました、ではよろしくお願いします」
黒夜は静かに頭を下げた。
最初の相手は、ヒナだった。
訓練場の中央に立った黒夜は、ヒナと向かい合う。
距離は中距離。
遮蔽物は少ない。
ヒナの得意な間合いに入れば、黒夜はほぼ間違いなく押し切られる。だからこそ、最初の一手で主導権を握る必要がある。
ヒナは静かに銃を構えた。
「いつでもいいわよ」
黒夜は息を整える。
相手の初動を抑える。
ヒナが動き出す前、その重心が変わる瞬間を狙う。
合図が鳴った。
黒夜は即座に踏み出した。
正面からではない。わずかに角度をずらし、ヒナの射線を外しながら、先に動きを封じにいく。ヒナの足の位置、銃口の向き、視線。そこから次の動きを読む。
だが。
「遅い」
ヒナの声が聞こえた瞬間、黒夜の進路はすでに潰されていた。
牽制の一発。
足を止めざるを得ない位置。
さらに二発目で横移動を封じられ、三発目で黒夜の退路が切られる。
黒夜は無理に突っ込まず、身を低くして避けようとした。だがヒナは、その避け先にすでに銃口を置いていた。
模擬弾が黒夜の肩に当たる。
「そこまで」
先生の声が響いた。
開始から、数秒。
黒夜は動きを止め、息を吐いた。
「……ありがとうございました」
ヒナは銃を下ろす。
「初動を抑える意識は悪くない。でも、黒夜の踏み込みには癖がある。相手の初動を見る時、右肩がほんの少し先に落ちる」
「……そんな所まで見てるんですか?」
「当たり前でしょ」
ヒナは当然のように言う。
「それと、相手の動きを止めようとする意識が強すぎる。止められなかった時、次の一手が遅れる」
「肝に銘じます」
黒夜は素直に頷いた。
ヒナには届かない。
それは分かっていた。
それでも、あまりにも正確に潰されると、改めて差を思い知らされる。
次はネルだった。
ネルは訓練場の中央に立つなり、獰猛に笑った。
「あたしとお前の仲だ、下手な遠慮とかすんなよ?」
「ネルさんこそ、軽くでお願いします」
「あ? 何度も言われなくたって分かってるって言ってるだろ」
「ネルさんの軽くは、少し信用できません」
「言うじゃねぇか!」
ネルは楽しそうに笑った。
開始の合図が鳴る。黒夜はまず距離を取ろうとした。
ネル相手に近接間合いへ入られるのは危険すぎる。踏み込みの速度、攻撃の鋭さ、圧力。どれを取っても、黒夜が正面から捌き切れるものではない。
だから、距離を取り、初手ではなく二手目を抑える。
そう思った瞬間。
ネルの姿が、黒夜の視界から消えかけた。
「っ」
速い!
黒夜は銃口を向けるより先に、身体を引いた。だが、ネルはすでに間合いを詰めている。
距離を取るどころか、初動の速度そのものでこちらの上を取られた。
「ほらよ!」
ネルの踏み込みが床を鳴らす。
黒夜は横へ逃げようとしたが、ネルの手がすでにそこへ伸びていた。避ける方向を読まれたのではない。ネルの速度が、黒夜の選択肢を奪っている。
黒夜は咄嗟に姿勢を低くし、足払いを狙う。
だがネルはそれを軽く跳ねるように避け、そのまま黒夜の背後へ回り込んだ。
訓練用の一撃が背中に入る。
「そこまで」
再び、数秒。
黒夜は膝をつきかけた姿勢から立ち上がり、軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ネルは楽しそうに肩を回す。
「悪くねぇ反応だけどよ、考える前に潰されてんぞ」
「はい。ネルさんの踏み込みが想定より速かったです」
「想定が甘ぇんだよ」
「仰る通りです」
黒夜が真面目に返すと、ネルは少しつまらなそうに眉を寄せた。
「そこで素直に認めんなよ。やりづれぇな」
「事実ですので」
「そういうとこだぞ」
ネルは呆れたように笑った。
三番目はミカだった。
ミカは開始前から妙にそわそわしていた。
「黒夜、痛かったらすぐ言ってね?」
「訓練弾ですし、大丈夫ですよ」
「でも黒夜、すぐ大丈夫って言うからなぁ」
「今だけはミカ様を護衛対象と見ないようにしますね」
「本気で来てくれるって事?」
「そうです」
「ほんとにほんと?」
「ええ」
ミカはまだ不安そうだったが、それでも構えた。
黒夜はミカを見据える。
ミカの恐ろしさは、単純な身体能力と破壊力だ。明るく無邪気な表情の下に、圧倒的な力がある。下手に受ければ押し潰される。避けても、次の一撃がすぐ来る。
黒夜の選択肢は始めから一つしか残されていない、受け流す。
正面から受けない。
力の向きをずらす。
初動を抑えられなくても、軌道を崩す。
開始の合図と共にミカは一瞬で距離を詰めてきた。
「いくよ、黒夜!」
声は明るい。
だが、その踏み込みは重い。
黒夜はミカの一撃を正面から受けず、斜めに流そうとした。実際、最初の接触は成功した。力の向きをずらし、身体を逃がす。
しかし。
「わっ、黒夜うまい!」
ミカはそのまま、力任せに軌道を戻した。
黒夜の受け流しが、力で押し返される。
「っ……」
黒夜は咄嗟に後退するが、ミカはその距離を許さない。
次の一撃が迫る。
黒夜は回避しようとする。
だが、足元にかかる圧だけで逃げ道が狭まる。
ミカは技巧で黒夜を詰ませているわけではない。
純粋な力と速度で、逃げる余地を減らしてくる。
黒夜は最後にミカの動きを潰そうと手を伸ばしたが、ミカの勢いは止まらなかった。
ミカの一撃が黒夜の防御ごとねじ込まれる。
「そこまで」
黒夜は数歩後ろへ下がって止まった。
盾で受けた腕が少し痺れている。
「……ありがとうございました、ミカ様」
「黒夜、大丈夫!?」
「ええ、平気ですよ」
「ほんと?」
「本当です」
ミカは黒夜の腕を覗き込む。
「私、強くやりすぎてない?」
「訓練としては適切だったと思います」
「ならいいけど……」
ミカは少し不満そうに頬を膨らませた。
「でも、黒夜すごいね。最初の一撃、ちょっと流されたもん」
「完全には流せませんでした」
「それでもだよ」
「ありがとうございます」
黒夜は微笑む。
だが、勝負としては明確に負けていた。
そして最後は、ホシノだった。
ホシノは、相変わらず気だるげに訓練場の中央へ出てくる。
「うへ~、おじさんは軽くでいいかな~」
「ホシノさんの軽くも、信用していいのか迷います」
「ひどいな~。おじさん、ちゃんと軽くするよ~」
ホシノは盾を構える。
その瞬間、空気が変わった。
ヒナやネル、ミカの時とは違う圧。
前へ出てくる圧ではない。
こちらがどこへ動いても、受け止められるような圧。
黒夜は一瞬だけ呼吸を整える。
ホシノ相手には、初動を抑えるだけでは足りない。
相手の守りの内側へ入る必要がある。だが、下手に入れば逆に誘導される。
開始の合図、今回初めて黒夜から攻めた。
正面からは行かない。
ホシノの盾の角度を見て、右へずれる。さらに一歩踏み込むふりをして、逆側へ流れる。
ホシノは動かない。
「…下手な考えって奴じゃない?」
その声が聞こえた瞬間、黒夜は嫌な予感を覚えた。
自分が動いているはずなのに、距離が詰まらない。
それどころか、自分の進路が少しずつ狭まっている。
ホシノは大きく動いていない。
ただ、盾の角度と立ち位置をわずかに変えているだけ。
それだけで、黒夜の選択肢が消えていく。
「……っ」
黒夜は強引に初動を潰しにいった。
だが、そこはすでにホシノが待っていた。
盾が、黒夜の動きを受ける。
受けられた、と思った瞬間、力の向きが変わった。
黒夜の身体がわずかに崩れる。
次の瞬間、足元を取られた。
気づけば、黒夜は背中から床に転がっていた。
「そこまで」
先生の声。
黒夜は天井を見上げる。
ホシノが覗き込んできた。
「おじさん、ちゃんと軽くやったでしょ?」
「その通りですね」
黒夜は身体を起こし、息を整える。
「……ありがとうございました」
「黒夜君、さっきの入り方は悪くなかったよ~」
「ですが、誘導されました」
「ちょっと素直だったかな~」
「素直、ですか」
「黒夜君、相手の初動を見る時は上手いんだけど、自分から崩しに行く時はまだまだだね~」
ホシノは、のんびりと言う。
「そこを見られると、ちょっと苦しいかもね~」
「……勉強になります」
黒夜は素直に頷いた。
一対一は、全敗だった。
それも、どれも短時間で終わった。
ヒナには読まれ、ネルには速度で潰され、ミカには力で押し切られ、ホシノには誘導された。
黒夜は立ち上がり、訓練場の中央で軽く息を吐く。
「やはり、一対一では皆さんに届きませんね」
その言葉に、ネルが笑った。
「ずいぶんあっさり認めんだな」
「事実ですから」
「悔しくねぇのかよ」
「悔しくないわけではありません。ですが、悔しさで差が埋まるわけでもありませんので」
黒夜は静かに言った。
「今の自分に何が足りないのか、正確に把握する方が大事です」
ヒナはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「そういうところは、悪くないわ」
ミカも頷く。
「でもさ、黒夜。ほんとに全部すぐ負けちゃったね」
「これが現実ですね」
「なんか、記事でホシノちゃんとの訓練を熱く語ってたから、もっとこう……黒夜もすごい感じなのかなって思ってた」
「私は皆さんほどの戦闘力はありませんよ」
「でも、黒夜って不思議なんだよね。弱いって感じでもない」
ミカは首を傾げる。
「なんていうか……倒れそうで倒れない感じ?」
その言葉に、ホシノがほんの少しだけ目を細めた。
黒夜は気づかなかった。
ネルが肩を鳴らす。
「なら、次はお待ちかねの乱戦でやってみるか?」
「乱戦、ですか」
「ああ。一対一じゃすぐ終わっちまうしよ。全員まとめて動いた方が面白ぇだろ」
「私は見学でも」
「逃げんなよ、黒夜」
「逃げているわけでは」
ミカが明るく手を上げる。
「私も賛成! せっかくみんな集まってるんだし、全員でやった方が楽しそう!」
ヒナは少し考えた後、先生の方を見る。
「安全管理は?」
先生は端末を確認してから答える。
「出力をさらに落とせば可能。ただし、無茶はなし。危険だと思ったら即中断する」
プレ先も静かに付け加える。
「黒夜も参加するなら、無理はしないこと」
「……やはり私も参加なのですね」
黒夜が呟くと、ホシノが笑った。
「うへ~、黒夜君も一緒にやった方が訓練になるよ~」
「ホシノさんまで」
「大丈夫大丈夫。おじさん、ちゃんと見てるからさ~。ヤバくなったらおじさんが守ってあげるよ」
「それはそれで屈辱ですね」
「ひどいな~」
黒夜は周囲を見た。
ヒナ、ネル、ミカ、ホシノ。
誰も引く気はなさそうだった。
逃げ場はない。
「……分かりました。乱戦形式でお願いします」
ネルが獰猛に笑う。
「そう来なくちゃな」
ミカは嬉しそうに軽く跳ねる。
「黒夜、頑張ろうね!」
「はい。お手柔らかに」
「それは無理かも!」
「無理ですか……」
ヒナは静かに銃を確認する。
「黒夜、危ないと思ったら下がりなさい」
「分かってます」
ホシノは盾を肩に乗せ、ゆるく笑った。
「うへ~。じゃあ、おじさんも少しだけ頑張ろうかな~」
その言葉に、黒夜は少しだけ背筋を伸ばした。
一対一では届かなかった。
それは分かっている。
だが、乱戦なら何が起こるか分からない。
勝てるとは思っていない。
それでも、一対一とは違うものが見えるかもしれない。
黒夜は左目の眼帯に触れ、静かに息を吸った。
見えない左側。
そこから来る攻撃には、もう慣れている。
慣れてしまっている。
訓練場に、開始を告げる音が響いた。
その瞬間、空気が変わった。
黒夜は、反射的に一歩下がった。
今までの一対一とは違う。
正面にいる相手だけを見ればいいわけではない。
四人の強者が、それぞれ別の意思で動き、それぞれ別の速度と力で場を支配しようとしている。
最初に動いたのはネルだった。
「オラァッ!」
低く踏み込み、床を蹴る。
小柄な身体が一気に距離を詰める。狙いはヒナ。だが、ヒナはその突進を予測していたように、最小限の足運びで横へずれた。
同時に、銃口がネルの進路へ置かれる。
ネルは舌打ちするように笑い、身体をひねって射線を外した。
そのまま流れるようにミカへ向かう。
「えっ、こっち!?」
ミカは驚いた声を上げながらも、動きは速かった。真正面から受けるのではなく、軽く跳ぶように位置をずらす。だが避けた先には、ホシノの盾があった。
「うへ~、危ない危ない」
ホシノは気の抜けた声で、ミカの動線を塞ぐように盾を傾ける。
ミカはその盾に衝突する直前で足を止め、強引に身体をひねった。普通なら姿勢が崩れる動きだが、ミカはそのまま次の動作へ繋げる。強引で、けれど破綻していない。
ヒナの牽制射撃が、今度はホシノへ向いた。
ホシノは盾で受ける。
ただ受けるのではない。衝撃を逃がす角度に盾を置き、弾を受け流すように流している。
ネルはその隙を突こうとする。
しかしヒナが、ネルの踏み込みの前に牽制を置いた。
ネルは笑う。
「よく見てんな、お前!」
「貴方の踏み込みは分かりやすい」
「言ってくれんじゃねぇか!」
ミカがそこへ割り込む。
「じゃあ私も!」
明るい声と共に、圧倒的な力が場に加わる。
その一撃を、ホシノが真正面から受けず、斜めに流した。
ミカの力が空間を押す。ホシノの盾がその力を逃がす。ヒナの射線がその隙を縫い、ネルの踏み込みがそれを乱す。
攻撃が交差する。
けれど、誰にも決定打は入らない。
避ける・外す・受ける。
流す・踏み込む・止まる。
そしてまた動く。
そのすべてが、信じられないほど高い密度で行われていた。
黒夜は、一瞬、見惚れていた。
ヒナの判断は速い。
ネルの踏み込みは鋭い。
ミカの力は理不尽なほど強い。
ホシノの守りは、ただ堅いだけではなく、場そのものを整えている。
誰か一人が目立っているわけではない。
全員が、別々の形で怪物だった。
黒夜の胸に、素直な賞賛が湧いた。
すごい。
その言葉しか出てこなかった。
自分は、この人達と同じ場所に立っている。
届かないと分かっていても、その背中を見ている。
それは恐ろしくもあり、眩しくもあった。
だが、いつまでも見惚れているわけにはいかない。
黒夜は息を吐き、右目で場を捉え直した。
自分が勝てる場ではない。
それは分かっている。
なら、何をするべきか。
倒されないこと。
捕まらないこと。
誰かの攻撃に巻き込まれながらも、次の一手へ繋げること。
黒夜は、一歩踏み出した。
乱戦の中へ入る。
最初に気づいたのはヒナだった。
「黒夜」
短く名を呼ぶ声。
警告ではない。
確認だった。
黒夜は返事をせず、ネルとミカの交差する間合いの外側へ滑り込む。真正面から入れば即座に潰される。だから、力と力がぶつかる直前、その外側の空白を使う。
ネルの踏み込み。
ミカの受け。
その交戦の余波を読んで、黒夜は身体を低くした。
風が頬を掠める。
その直後、ヒナの牽制が黒夜の進路を塞いだ。
黒夜は止まらない。
止まれば、次で終わる。
右足を半歩引き、身体を斜めに逃がす。弾道の隙間を通るように、低く、短く、前へ。
「……っ」
ヒナの目がわずかに細まった。
黒夜はその一瞬を見逃さず、ヒナの銃口が次に動く前に、自分の位置を変えた。初動を潰すのではない。潰せない相手だと知っている。だから、相手が潰す価値のない位置へ逃げる。
逃げながら、場に残る。
それが黒夜の選択だった。
「へぇ」
ネルが笑った。
「やっと入ってきたか!」
ネルの標的が、一瞬だけ黒夜へ向く。
速い。
黒夜は正面から見ていた。
だから、ネルの踏み込みには反応できた。
問題は、その次だった。
ネルは黒夜の右側を抜けると見せかけ、左へ回り込む。
黒夜の左側。
眼帯に覆われた、物理的に見えない死角。
黒夜はネルの動きが見えていなかった。
だが、ネルの足音で変わった。
床を蹴る音。
衣服が空気を切る音。
踏み込みの直前にわずかに沈む呼吸。
黒夜は左を見ないまま、半歩だけ前へ出た。
ネルの攻撃が、黒夜の背中を掠めて抜ける。
「あ?」
ネルの声に、驚きが混じった。
黒夜は振り返らず、そのまま前へ転がるように距離を取る。顔を上げた瞬間、ミカの一撃が近くの床を叩いた。
「わっ、黒夜! 今避けたの!?」
「避けたというより、逃げました」
答える余裕はない。
ミカの力は範囲そのものが広い。
直撃しなくても、余波で姿勢が崩れる。
黒夜は床に手をつき、跳ねるように横へ逃げる。だが、その先にホシノの盾がある。
「こっちは通行止めかな~」
「ホシノさん……!」
黒夜は即座に進路を変えようとした。
だが、ホシノの盾は道を塞ぐだけではなかった。
黒夜が逃げたくなる方向を、最初から削っている。
前にヒナ。
後ろにネル。
右にミカ。
左にホシノ。
一瞬、囲まれた。
黒夜は息を止める。
その瞬間、また左側からネルが来る。
見えない。
だが、聞こえている。
黒夜は身体を沈めた。
ネルの攻撃が頭上を抜ける。
そこへ、ヒナの牽制が入る。
黒夜は避けきれないと判断し、盾で受ける。訓練用とはいえ、衝撃はある。腕が痺れたが足は止めない。
ミカの踏み込みの圧が来る。
黒夜はそれを真正面から受けず、ミカの力が入る前に身体の角度をずらす。受け流せたわけではない。ただ、直撃を避けただけだ。
それでも、黒夜は踏みこたえた。
その光景に、ヒナがわずかに目を見開く。
「黒夜……」
ネルも、笑みを深めた。
「おいおい、まだ立ってんのかよ」
ミカは驚いたように黒夜を見る。
「黒夜、今の見えてた?」
黒夜は短く息を吸い、吐いた。
「いえ。左側でしたので、見えてはいません」
「じゃあ、なんで避けられたの?」
「慣れです」
黒夜は、当然のように答えた。
「気配で何となくですが」
ミカが固まった。
「……それ、何となくでできることなの?」
「慣れれば、ある程度は」
その言葉に、ヒナの表情が変わる。
「慣れ、という一言で済ませていい話ではないわ」
ネルが肩を震わせて笑った。
「お前も結構イカれてんな」
「…え?」
「褒めてんだよ」
「褒め言葉には聞こえませんでした」
「褒めてんだって!」
黒夜は返事をする前に、また動いた。
会話を続ける余裕はない。
乱戦はまだ終わっていない。
ヒナが黒夜を逃がさないように射線を置く。
ネルが執拗に黒夜の左側へ回ろうとする。
ミカが大きく踏み込み、場を押し込む。
ホシノが全体の動きを見ながら、黒夜の退路を削る。
黒夜は、その中で生き残る。
勝つための動きではない。
倒れないための動き。
攻撃の隙間を縫う。
遮蔽物の影を使う。
ヒナの射線をネルへの牽制として利用する。
ミカの圧で生まれた空白へ逃げる。
ホシノの盾に誘導されかけたら、一歩手前で止まる。
すべてがぎりぎりだった。
黒夜の右目は、見えている範囲を必死に追う。
だが、それだけでは足りない。
左側は見えない。
けれど、そこに来る。
敵は、本能的に死角を突く。
それは当然だ。
だから黒夜は、その当然に慣れていた。
左側から足音がする。
踏み込みが深い。ネルではない。ミカの重さでもない。軽く、滑るような足運び。
黒夜は右へ逃げると見せかけ、あえて左へ半歩入った。
ヒナの牽制が空を切る。
「……今のも!?」
黒夜は短く答える。
「勘ですよ」
ヒナの目が、痛ましさで細くなる。
黒夜は、それに気づかない。
いや、気づいている余裕がない。
ホシノは、その一連の動きを静かに観察していた。
見ていない、でも避けている。
黒夜は左側の攻撃を視認していない。
右目だけで場を追っている。なのに、左側から来る攻撃に反応している。
足音、床の反響、布擦れ。
銃口が空気を切る音、呼吸、相手の重心が変わる前の、ほんの小さな気配。
その全部を、拾っている。
しかも、意識しているというより、身体が勝手に反応している。
ホシノは盾の裏で、小さく息を吐いた。
凄いね……黒夜君。
君はよく私の事を化物を見る目で見ている時があるけど、君も化物側に半歩だけ入ってきてるって、自分で分かってるのかな?
ホシノは、その内心を口にはしなかった。
代わりに、少しだけ動きを変えた。
今度は、わざと左側で音を立てる。
当然、黒夜は反応してしまう。
左から来ると判断し、身体をずらす。
だが、ホシノは来ない。
音だけを置いて、別方向へ回る。
黒夜の反応が、一瞬遅れた。
「……っ!?」
そこへ、ホシノの盾が振るわれる。
強くはない。
訓練用の軽い接触。
だが、黒夜の重心を崩すには十分だった。
その崩れを、ヒナは見逃さない。
ネルも、ミカも、同時に動きかける。
黒夜は無理に立て直そうとする。
左側で音がする。
ネルか?いや、違う。
ミカの足音が重なる。
ヒナの射線が前を塞ぐ。
ホシノの盾が退路を消す。
情報が多すぎる。
黒夜は、そこで初めて処理が追いつかなくなった。
次の瞬間、ホシノの盾が黒夜の動きを完全に受け止めた。
黒夜の足が包囲網の中央で止まってしまう。
ネルの攻撃が寸前で止まり、ミカの一撃も安全距離で止まる。ヒナの銃口も下がった。
先生の声が響く。
「そこまでだよ!」
訓練場に、静けさが戻る。
黒夜は膝をつき、荒く息を吐いた。
勝てなかった。当然だ。だが、すぐには倒れなかった。
一対一では数秒で負けた相手達を前に、乱戦では思っていたよりも長く残れた。
黒夜自身は、それを誇る余裕もなく、ただ呼吸を整えていた。
「黒夜」
ヒナがすぐに近づく。
「怪我は?」
「大丈夫です」
ヒナは黒夜の左側に立ち、眼帯を見る。
「今の動き……いつから?」
「今の、とは」
「見えてない左側からへの動きの事」
黒夜は少し考えた。
「いつから、と言われると……分かりません。左側から攻撃されることは多かったので、自然と――」
「見えないなら、他で補うしかありませんから」
黒夜は本気で、当たり前のことのように言った。
それを聞いていたミカの顔がしかめる。
「黒夜、それ絶対普通じゃないよ」
「そうですか?」
「そうだよ! 見えてないのに避けるって、普通じゃないから!」
ネルは腕を組み、黒夜を見下ろした。
「テメェ、一対一じゃあっさり負けるくせに、乱戦だと妙に落ちねぇな」
「一対一では、皆さんの実力差がそのまま出ますから」
「乱戦なら違うってか?」
「勝てるわけではありません。ただ……攻撃が多い分、逃げ道も増えます」
ネルの口角が楽しげに歪む。
「普通は攻撃が多いほど逃げ道は減るんだよ」
「そうなのですか?」
「そうに決まってんだろ!」
ネルは新しいおもちゃを見つけたように笑った。
ホシノが、ゆっくりと黒夜の前にしゃがむ。
「黒夜君…もう左側無理に見ようとしてないでしょ~?」
黒夜は少しだけ驚いた顔をした。
「……分かるんですか?」
「分かるよ~。おじさん、君の先生だからね~」
「相変わらず恐ろしい人ですね」
「ひどいな~」
ホシノはいつものように笑う。
けれど、その目は少しだけ真剣だった。
「見えないものを無理に見ようとすると、動きが遅れる。黒夜君はそれをしない。見えないって分かってるから、聞いて、感じて、先に身体を動かしてる」
「……そうですね」
「それ自体は悪くないよ~」
ホシノはそこで、少し声を落とした。
「でもね、黒夜君。それ、ずっと続けると疲れちゃうよ?」
黒夜は黙った。
ホシノは続ける。
「音を拾って、気配を拾って、見えない側をずっと補ってる。たぶん黒夜君は慣れてるって言うけど、身体はちゃんと疲れてる」
「……」
「だから、守り方を教えてるんだよ~。全部自分で拾って避けるんじゃなくて、拾わなくてもいい形を作る。味方を使う。盾を使う。地形を使う。自分がずっと気を張らなくてもいい場所を作る」
黒夜は、ホシノの言葉を静かに聞いていた。
ヒナも、ネルも、ミカも、黙っている。
ホシノの声はゆるい。けれど、その言葉には重みがあった。
「黒夜君は、倒れないのが上手い。でも、倒れないことと守ることは、同じじゃないからね~」
黒夜は目を伏せる。
「……以前も、似たことを言われましたね」
「何度でも言うよ~。おじさん、しつこいから」
「ありがとうございます」
「うへ~、素直だね~」
ホシノは立ち上がり、黒夜へ手を差し出した。
黒夜はその手を取って立ち上がる。
ミカがすぐに近づいて、黒夜の顔を覗き込んだ。
「黒夜、本当に大丈夫? 左側、無理してない?」
「無理というほどでは」
「その言い方がもう怪しいんだよね」
ヒナも頷く。
「しばらく休憩しときなさい」
「まだ動けますが」
「休憩してなさい」
「……はい」
ネルが笑う。
「お前、そこは逆らわねぇんだな」
「ヒナさんが休憩と言った時は、本当に休んだ方がいい場合が多いので」
「尻に引かれてんな~」
訓練場の端へ移動し、黒夜はベンチに座る。
先生が水を渡し、プレ先が端末で記録を確認していた。
「面白い結果だったね」
「面白い、ですか?」
「一対一では短時間で負けた。でも乱戦では、反応と位置取りが大きく変わった」
「……自分では、必死だっただけですが」
「その必死が、君の形なんだろうね」
黒夜は水を飲み、少しだけ息を吐いた。
ヒナ、ネル、ミカはそれぞれ黒夜を見ていた。
驚き、少しの評価、心配。
そしてホシノだけが、いつものようにゆるく笑っている。
「黒夜君」
「まだまだ教えたい事が出来たからやっぱり訓練続行だね~」
「……やはり、まだまだですか」
「うん私たちからすれば、まだまだ子犬って感じだね」
黒夜は静かに頷いた。
「分かりました。よろしくお願いします」
「ただし、勝つ訓練じゃなくて、ちゃんと帰ってくる訓練ね~」
黒夜は、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、少しだけ表情を緩める。
「……はい。ちゃんと帰ってくる訓練を、お願いします」
ホシノは満足そうに頷いた。
「よろしい」
ネルが肩を鳴らしながら言う。
「ま、次はもうちょい黒夜の乱戦向きの動きも見てぇな」
「ネルさん、まだやるつもりですか?」
「今日はもうやんねぇよ。けど、次はな」
ミカも嬉しそうに言う。
「私もまたやりたい! 黒夜、今度はもっと左側気をつけて見てあげるね!」
「見てあげる、という表現が少し怖いのですが…?」
「大丈夫大丈夫!」
ヒナは静かに、しかし有無を言わせない声で言った。
「次回は、私も立ち会うわ」
「ヒナさん?」
「黒夜が無茶をしないか確認する必要がある」
「それは訓練というより監督では」
「監督も必要」
黒夜は逃げ場がないことを理解した。
ホシノがそれを見て、のんびり笑う。
「黒夜君は大人気だね~」
「他人事みたいに言わないでください」
「半分くらいは他人事かな~」
「残り半分は?」
「興味かな~?」
「ひどいですね」
黒夜は、少しだけ笑った。
訓練場の空気は、始まる前よりも少し柔らかくなっていた。
一対一では決して届かない。
乱戦でも勝てない。
けれど、黒夜には黒夜の戦い方がある。
見えない左側。
そこを狙われ続けた結果、磨かれた感覚。
不利な状況で落ちないための技術。
それは、決して綺麗な強さではない。
誰かに憧れられるような、眩しい強さでもない。
だが、生き残るために積み上げたものだった。
ホシノは、黒夜の横顔を見ながら、心の中でだけ呟く。
君も、もう守られるだけの子じゃない。
だからこそ、ちゃんと帰ってくることを、覚えないとね。
まだ口には出さない。
代わりに、ホシノはいつもの調子で言った。
「黒夜君、次の訓練までにちゃんと休むんだよ~」
「わかりました」
「うへ~、ヒナちゃん。見張りお願いしていい?」
「わかったわ」
「え!?」
黒夜が驚いて声を上げる。
ネルが笑い、ミカも楽しそうに黒夜の腕を掴む。
「黒夜が逃げないように、私も見張るね!」
「ミカ様も!?」
「じゃあ、アタシもミレニアムに居る時はたまに見に行くか」
「ネルさんまで……」
黒夜は困ったように笑った。
どうやら今日の訓練で、自分は少し評価されたらしい。
ただし、その結果として過保護も増えた。
最近、こういう流れが多い気がする。
黒夜は小さく息を吐き、それでもどこか温かいものを感じながら、静かに頷いた。
「……分かりました。ちゃんと休みます」
その言葉に、四人がそれぞれ満足そうな顔をした。
シャーレの訓練場には、まだ模擬戦の熱が残っている。
急遽始まった訓練は、黒夜にとってまたひとつ、自分の立ち位置を知る時間になった。
勝てない。
まだ届かない。
けれど、食らいつくことはできる。
そして、ちゃんと帰ってくることを覚えなければならない。
それが、今の黒夜に必要な強さだった。