ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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今でこそ落ち着いていますけど

 シャーレに併設されたカフェテリアは、昼の混雑が少し落ち着いた頃合いだった。

 

 それでも、完全に静かというわけではない。先生への相談待ちの生徒、資料を広げながら昼食を取る生徒、ただ休憩しているだけの生徒。ほどよいざわめきと食器の音が混ざり、シャーレらしい、どこか学園の境界が曖昧になる空気がそこにはあった。

 

 そんな中、イロハはトレーを片手に、空いている席を探していた。

 

「はぁ……せっかくサボ……休憩に来たのに、意外と混んでますねぇ」

 

 言い直したところで、意味はほとんど変わっていない。

 ただ、今日のイロハは本当に休憩のつもりだった。万魔殿での書類整理、マコトの思いつき、イブキのお願い、チアキの妙な企画案。その全部から少しだけ距離を置くために、シャーレのカフェテリアまで逃げてきたのである。

 すると、少し離れた席に見知った顔を見つけた。

 

 羽川ハスミ。

 

 トリニティの正義実現委員会に所属する彼女は、姿勢よく座り、紅茶と軽食を前にしていた。だが、その表情にはどこか疲れが見える。

 イロハは少しだけ考えた後、その席へ近づいた。

 

「どうもお久しぶりですねハスミさん。相席いいですか?」

 

 ハスミが顔を上げる。

 

「貴女はゲヘナの戦車長の…ええ、どうぞ」

 

「ありがとうございます。いやぁ、席がなくて困ってたんですよ」

 

 イロハは向かいに腰を下ろした。

 ハスミは穏やかに微笑む。

 

「シャーレのカフェテリアは、学園を問わず生徒が集まりますからね。時間を外しても、意外と混んでますよね」

 

「ほんとですよ。サボり場所としては優秀なんですけど、人気なのが難点ですねぇ」

 

「……今、サボり場所と仰いましたか?」

 

「気のせいです」

 

 ハスミは苦笑した。

 その時、さらに別の生徒がトレーを手に近づいてきた。

 

「あの、こちら相席してもよろしいですか?」

 

 その声の主はユウカだった。

 ミレニアムのセミナー所属。いつも数字と規則と予算に追われている印象のある彼女は、少し疲れた顔をしていたが、それでも背筋はきちんと伸びている。

 ハスミはすぐに頷いた。

 

「もちろんです。どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 ユウカは礼儀正しく頭を下げ、空いている席へ腰を下ろした。

 

 そこで、イロハとユウカの視線が合う。

 

 互いに名前くらいは聞いたことがあった。

 ミレニアムのセミナー会計、早瀬ユウカ。

 ゲヘナの万魔殿所属、棗イロハ。

 

 だが、こうして直接向かい合うのは初めてだった。

 

 ユウカが先に姿勢を正す。

 

「申し遅れました。ミレニアムサイエンススクール、セミナー所属の早瀬ユウカです」

 

 イロハは少しだけ気だるげに、けれど失礼にならない程度に会釈した。

 

「どうもご丁寧に。ゲヘナ学園、万魔殿所属の棗イロハです。まあ、今日はただの休憩中なので、そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」

 

「万魔殿の……」

 

 ユウカは少しだけ目を瞬かせる。

 

「お名前は聞いたことがあります。確か、万魔殿の実務をかなり支えている方だと」

 

「いやぁ、支えているというか、押し付けられているというか……」

 

 イロハは遠い目をした。

 

「そのあたりの話をすると長くなりますねぇ」

 

「お二人とも、学園こそ違いますが苦労の方向性は近いかもしれませんね」

 

「苦労、ですか…」

 

 ユウカは少しだけ苦笑した。

 

「私も否定できませんねぇ」

 

 イロハも同じように肩をすくめた。

 その一言で、三人の間に少しだけ柔らかい空気が生まれた。

 

「ユウカさんも休憩ですか?」

 

「はい。正確には、休憩を取らないと効率が落ちると判断したので、強制的に休憩時間を確保しました」

 

「うわぁ、休憩まで合理的ですねぇ」

 

「イロハさんは……」

 

「私は純粋な休憩です」

 

 ユウカの視線が少し鋭くなる。

 

 イロハは目を逸らした。

 

「……八割くらいは」

 

「残り二割は?」

 

「万魔殿からの一時避難です」

 

「それはサボりでは?」

 

「考え方の違いですねぇ」

 

 ハスミが小さく笑った。

 

「どの学園も、大変ですね」

 

 その一言に、三人の間で妙な共感が生まれた。

 

 トリニティにはトリニティの苦労がある。

 ゲヘナにはゲヘナの苦労がある。

 ミレニアムにはミレニアムの苦労がある。

 

 所属も立場も違う三人だったが、「苦労している」という一点だけは妙に噛み合っていた。

 

 ハスミは紅茶を一口飲み、静かに言う。

 

「トリニティは比較的秩序ある学園だと思われがちですが、実際には日々さまざまな問題があります。正義実現委員会としても、対応に追われることは多いですね」

 

「トリニティでもそうなんですね」

 

 イロハが少し意外そうに言う。

 

「まあ、ゲヘナは言うまでもないですけど。万魔殿は万魔殿で、急に何かが始まるので」

 

「急に何かが始まるって、どういう事?」

 

 ユウカが聞く。

 

「マコト先輩が急に思いつくんですよ。演説とか、企画とか、号令とか、妙な作戦とか」

 

「……それは大変そうですね」

 

「ええ。しかも本人は本気なので、止める側はもっと大変です」

 

 イロハはストローで飲み物をかき混ぜながら、気だるげに息を吐いた。

 

 ユウカも深く頷く。

 

「ミレニアムも、問題がないわけではありません。主に予算と申請書と、無計画な開発と、勝手に増える発明品と、勝手に始まるプロジェクトと……」

 

「ユウカさん、段々話が具体的になってますよ」

 

「それはもう!具体的な被害があるので!」

 

 ユウカは笑顔だったが妙に圧がある。

 

 イロハは少し肩をすくめる。

 

「どこも似たようなものですね」

 

「そうですね。学園ごとに色は違いますが、どこも抱えている問題は案外同じなのかもしれません」

 

 ハスミが穏やかにまとめた。

 

 しばらく三人は、各学園の苦労話を交わした。

 

 ハスミは正義実現委員会での巡回や規律維持の話をした。

 イロハは万魔殿でのマコトの突発的な思いつきと、それに振り回されるイロハ自身の話をした。

 ユウカはミレニアムの予算管理と、申請書を通さずに何かを作ろうとする生徒達への苦労を語った。

 

 話は意外と弾んだ。

 そして、その流れの中で、ユウカがふと口を開いた。

 

「あの、話題が変わるのですが、少し聞きたい事があるのだけどいいかしら?」

 

「はい?」

 

 ハスミが首を傾げる。

 

「月城黒夜さんって、どういう人なんですか?」

 

 その名前が出た瞬間、ハスミとイロハの表情が少し変わった。

 

 ハスミは嬉しそうに。

 イロハは少しだけ「ああ、その話ですか」という顔に。

 

 ユウカは少し恥ずかしそうに続ける。

 

「私は、黒夜さんとはあまり接点がなくて。お名前や評判は聞いていますし、ミレニアムでも何度か見かけたことはあります。ただ、どういう人なのか、まだよく分かっていないんです」

 

「なるほど」

 

 ハスミは優しく頷いた。

 

「黒夜さんは、とても誠実で真面目な方ですよ。任されたことには丁寧に取り組みますし、周囲への気配りもできます。トリニティの中でも選りすぐりの優等生です。常に礼儀正しく振る舞われて弱者に手を差し伸べるような人です」

 

 その口調には、少し自慢するような響きがあった。

 トリニティの秩序の体現者を紹介するような、そんな誇らしさ。

 

「黒夜さんは、自分のことを後回しにしてしまうところはありますが……それでも、誰かのために動ける方です。軽々しく人を傷つけるような人ではありません」

 

 ユウカは少し驚いたように目を瞬かせる。

 

「そうだったんですね…」

 

「ええ。少なくとも、私の知っている黒夜さんはそうです」

 

 ハスミは柔らかく微笑んだ。

 イロハも飲み物を一口飲み、少し気だるげに言う。

 

「ゲヘナにしては珍しいくらい落ち着いている人ですよ。真面目ですし、仕事もできますし、変に問題を起こさないし」

 

「ゲヘナにしては、ですか」

 

「そこ大事ですよ」

 

 イロハは真顔で言った。

 

「ゲヘナ基準だと、落ち着いてるだけでかなり貴重ですからねぇ」

 

「こんな事言っては失礼ですが……否定しづらいですね」

 

 ユウカは少し困ったように笑った。

 

 ハスミがイロハを見る。

 

「ですが、黒夜さんはゲヘナ出身でありながら、トリニティでもきちんと礼儀を守っています。とても穏やかで、丁寧な方ですよ」

 

「まあ、確かに今はそうですね~」

 

 イロハがぽつりと言った。

 ユウカは、二人の話を聞きながら少し考え込んでいた。

 

「正直に言うと、私が想像していた人物像とかなり違います」

 

「想像していた人物像、ですか?」

 

 ユウカは少し恥ずかしそうに視線を落とした。

 

「はい。黒夜さんはゲヘナ出身だと聞いていたので……その、もっと気性が荒くて、乱暴な問題児のような方なのかと」

 

 言ってから、ユウカは慌てて手を振る。

 

「もちろん、偏見だったのは分かっています。実際に見かけた時も、落ち着いた方だとは思っていました。ただ、噂だけ聞いていた時は、どうしてもゲヘナのイメージが先に来てしまって……」

 

 ハスミは穏やかに微笑んだ。

 

「安心してください。黒夜さんはそんな人ではありませんから」

 

「そうですよね。お二人の話を聞いて、よく分かりました」

 

 ユウカは少しほっとしたように言う。

 

「誠実で、真面目で、落ち着いていて……私が思っていたような方ではなかったです」

 

「ええ」

 

 ハスミが頷く。

 

「黒夜さんは、優しい人ですよ」

 

 そこで、イロハが飲み物を啜りながら、何気なく言った。

 

「あぁ~、でも黒夜も昔はそんな感じでしたね~」

 

 空気が止まった。

 

 ハスミの笑顔が固まる。

 ユウカも、手元のカップを持ったまま動きを止めた。

 イロハは数秒遅れて、自分が何を言ったかに気づいた。

 

「……あ」

 

 ハスミがゆっくりとイロハを見る。

 

「イロハさん」

 

「な、なんでしょうか?」

 

「今、何と仰いましたか?」

 

「いえ、その……」

 

 ユウカも身を乗り出す。

 

「昔はそんな感じ、というのは……?」

 

 イロハは目を逸らした。

 

「いやぁ……」

 

「詳しく聞かせていただけますか?」

 

 ハスミの声は丁寧だった。

 けれど、逃がす気のない声だった。

 

 ユウカも真剣な顔で頷く。

 

「私も気になります。今の黒夜さんと、昔の黒夜さんが違うということですか?」

 

「……まあ、違うと言えば違いますね」

 

 イロハは観念したようにため息を吐いた。

 そして、少しだけ懐かしそうに目を細める。

 

「今でこそ、黒夜はあんな丁寧で落ち着いてますけど」

 

 イロハは、カップを置いた。

 

「昔は今よりもう少し、ゲヘナらしかったですよ」

 

 ハスミとユウカの視線が、さらに強く向けられる。

 

 イロハは小さく肩をすくめた。

 

「喧嘩を売られたら、普通に買うタイプでしたね」

 

 イロハがそう言った瞬間、ハスミは完全に固まった。

 ユウカも、カップを持ったまま動かない。

 カフェテリアのざわめきだけが、やけに遠く聞こえた。

 

「あの……黒夜さんが、ですか?」

 

 ハスミが、ようやく声を絞り出す。

 イロハは少し気まずそうに頬をかいた。

 

「まあ、今の黒夜からは想像しづらいですよね」

 

「想像しづらい、どころではありません。黒夜さんはいつも礼儀正しくて、穏やかで……」

 

「今はそうですよ」

 

 イロハはストローを指先で弄びながら、少しだけ目を細めた。

 

「でも、昔はもう少し口調も荒かったですし、ゲヘナらしいところがありました。別に弱い者いじめをするようなタイプではなかったですけど、喧嘩を売られたら買う。邪魔なら邪魔と言う。必要なら手が出るのも早い。そういう感じです」

 

 ユウカは思わず眉を寄せる。

 

「それは、私が最初に想像していた人物像に近いのですが……」

 

「でしょうね」

 

 イロハは苦笑した。

 

「ただ、誤解しないでください。黒夜は昔から根っこは真面目でしたよ。理不尽に誰かを傷つけるような人じゃありませんでした。ただ、当時は今よりずっと尖っていたんです」

 

「尖っていた……」

 

 ハスミはその言葉を、信じられないもののように繰り返した。

 

「同学年では頭一つ抜けて強かったですよ」

 

 イロハは続ける。

 

「だから、少し調子に乗ってた時期もありました。まあ、ゲヘナでは珍しくもないですけどね。強いと、それだけで周りが少し黙るので」

 

 ユウカは小さく息を吐いた。

 

「ゲヘナらしい、と言えばそうなのかもしれませんが……」

 

「で、その勢いのまま挑んじゃったんですよね……」

 

 イロハが言った。

 ハスミが首を傾げる。

 

「誰にですか?」

 

「風紀委員長に」

 

 ユウカが目を見開いた。

 

「空崎ヒナさんにですか!?」

 

「そうです」

 

 イロハは軽く頷く。

 

「同学年相手なら負け知らずに近かった黒夜が、その勢いで風紀委員長に挑んで、見事に返り討ちです」

 

 ハスミは言葉を失った。

 

 ユウカも、思わず額に手を当てる。

 

「無謀すぎませんか、それは……」

 

「今の黒夜なら絶対にしないでしょうね」

 

 イロハは少し楽しそうに笑う。

 

「でも昔の黒夜は、そういう勢いがありました。強い相手を見れば挑みたくなる。自分の力がどこまで通じるか試したくなる。そういう、ゲヘナらしい勢いがあったんですよ」

 

「それで、返り討ちにされたのですか…」

 

「ええ。もう綺麗に」

 

「何もできなかった、というほどではなかったと思いますけど、実力差は圧倒的でした。黒夜もその場で理解したでしょうね。ああ、自分よりずっと上がいるんだって」

 

 ハスミは、今の黒夜を思い浮かべる。

 

 丁寧に頭を下げる黒夜。

 誰に対しても礼儀正しく、穏やかに話す黒夜。

 自分のことよりも周囲を優先しがちな黒夜。

 その黒夜が、昔は喧嘩を買い、調子に乗り、あの空崎ヒナへ挑んだ。

 

 あまりにも違いすぎて、すぐには結びつかない。

 

「それで、返り討ちになってしまった黒夜さんはどうされたのですか?」

 

 イロハは少し肩をすくめた。

 

「普通なら、そこで心が折れそうなものじゃないですか。少なくとも、もう二度と挑まないって思ってもおかしくない」

 

「はい」

 

「でも黒夜は逆でした」

 

「逆?」

 

「ヒナさんの強さに惚れ込んだんです」

 

 ユウカは瞬きをした。

 

「え、それって……?」

 

「恋愛とかそういう意味ではなく、純粋に強さにですよ。自分を完璧に叩き伏せた相手を見て、悔しがるより先に憧れたんでしょうね」

 

 イロハは、当時の光景を思い出すように言った。

 

「それで、すぐに弟子入りを申し込みに行ったんです」

 

 ハスミが思わず身を乗り出す。

 

「返り討ちにした相手にですか!?」

 

「そうです」

 

「それで、認められたのですか?」

 

「最初は当然断られましたよ」

 

 イロハはあっさり答えた。

 

「ヒナさんは忙しいですし、黒夜一人に構っている暇なんてありませんから。たぶん『私にそんな余裕はない』とか『自分で訓練しなさい』とか、そんな感じで断ったんじゃないですかね?」

 

「それでも黒夜さんは諦めなかったのですね」

 

「ええ。何度も行きました」

 

 イロハは少しだけ笑う。

 

「ただ、しつこく頼むだけじゃなかったんです。ヒナさんの仕事を、手伝える範囲で手伝っていたんですよ」

 

 ユウカの目が少し変わる。

 

「仕事を?」

 

「書類運びとか、情報整理とか、巡回の補助とか、報告書の下準備とか。黒夜にできる範囲で、ですけど」

 

「それは……」

 

 ユウカは少し考え込む。

 

「ただの問題児ではできませんね」

 

「そうでしょう?」

 

 イロハは少し得意げに言った。

 

「喧嘩っ早かったし、口も今より悪かったですけど、根は真面目なんですよ。断られても腐らない。手伝うなら手を抜かない。自分が認めてもらいたいなら、行動で示す」

 

 ハスミの表情が、少し柔らかくなる。

 

「やはり、黒夜さんは昔から誠実な方だったのですね」

 

「まあ、誠実という言葉が当時の黒夜に合うかは微妙ですけどねぇ」

 

 イロハは苦笑した。

 

「でも、筋は通す人でした。そこは今と変わりません」

 

「ヒナさんは、それで弟子入りを認めたのですか?」

 

「最終的には、根負けしたみたいですね」

 

 イロハはそう言ってから、少しだけ訂正するように続けた。

 

「いえ、根負けというより、評価したんだと思います。黒夜のしつこさだけじゃなくて、仕事を手伝う姿勢とか、真面目さとか。そういうところを見て、少しだけなら訓練を見てもいい、ってなったんでしょう」

 

 ユウカは、感心したように息を吐いた。

 

「思っていたより、ずっと努力家なのですね」

 

「努力家ですよ。今も昔も」

 

 イロハは、少しだけ遠い目をした。

 

「昔は、その努力が強くなることや、喧嘩に勝つことに向いていました。今は、誰かを守ることや、責任を背負うことに向いています」

 

 その言葉に、ハスミは目を伏せる。

 

「……黒夜さんらしいですね」

 

「お二人から聞いていた黒夜さんらしいですね」

 

 ユウカも静かに頷いた。

 

「ただ、少し危うい感じがします」

 

 その言葉に、イロハは小さく笑った。

 

「ユウカさん、鋭いですねぇ」

 

「いえ。話を聞いていて、そう思っただけです。自分の力を証明したい時も、誰かを守りたい時も、黒夜さんは自分を使いすぎるタイプなのではないかと」

 

「その通りです」

 

 イロハの声から、少しだけ軽さが消えた。

 ハスミとユウカは、その変化に気づいた。

 イロハは手元のカップを見つめる。

 

「昔は、喧嘩を買う方向に出ていました。今は、仕事や責任を抱え込む方向に出ています。形は変わりましたけど、放っておくと頑張りすぎるところは、あんまり変わってないんですよね」

 

 ハスミの表情が真剣になる。

 

「イロハさん……」

 

「だから、ハスミさん。ユウカさん」

 

 イロハは、二人を見た。

 

 普段の気だるげな空気は残っている。

 けれど、その目は本気だった。

 

「黒夜は、ほっとくと頑張り過ぎちゃうので。適度に見てあげてください」

 

 そして、イロハは静かに頭を下げた。

 

「もし無理してそうなら、無理やりにでも休ませてあげてください……お願いします」

 

 ハスミは驚いたように目を見開いた。

 ユウカも、言葉を失う。

 イロハが誰かのためにここまで真剣に頼む姿は、少なくともユウカにとっては意外だった。

 だが、それだけ黒夜のことを心配しているのだと分かる。

 

 ハスミはすぐに姿勢を正した。

 

「もちろんです」

 

 その声は、優しく、しかし確かなものだった。

 

「黒夜さんが無理をなさっている時は、私も必ずお止めします。トリニティにいる間だけでなく、シャーレでお会いした時も、きちんと様子を見るようにします」

 

 ユウカも頷いた。

 

「私も、まだ黒夜さんのことを詳しく知っているわけではありません。ですが、話を聞く限り、放っておいていいタイプではなさそうです」

 

「そうなんです。本当に困った人なんですよ」

 

「ミレニアムで見かけた時や、セミナーに関わる用件がある時は、私も気をつけます。必要なら、休憩時間の管理くらいはします」

 

 イロハは顔を上げた。

 

「ありがとうございます。助かります」

 

 それから、いつもの調子を少しだけ取り戻すように、肩をすくめる。

 

「私一人だと、見張る前にサボりたくなっちゃうので」

 

 ユウカが即座に言った。

 

「そこは頑張ってください」

 

「厳しいですね」

 

「黒夜さんのためでしょう?」

 

「そう言われると、ちょっと弱いですね」

 

 ハスミは小さく笑った。

 

「イロハさんは、黒夜さんのことを本当に大切に思っているのですね」

 

「まあ……」

 

 イロハは少しだけ視線を逸らした。

 

「大事なサボり仲間ですしね…」

 

 その言葉は軽かったが、含まれているものは軽くなかった。

 

 ゲヘナで少し尖っていた頃の黒夜。

 ヒナに挑んで返り討ちにされ、それでも憧れ、何度も弟子入りを願いに行った黒夜。

 仕事を手伝いながら、自分なりに認められようとしていた黒夜。

 

 そして今、丁寧に、穏やかに、けれど相変わらず自分を使いすぎる黒夜。

 

 イロハにとって、その全部が黒夜だった。

 

「それに」

 

 イロハは少しだけ笑った。

 

「黒夜が倒れると、周りが大変なんですよ。マコト先輩もサツキ先輩も騒ぎますし、イブキも心配しますし、私もサボりづらくなります」

 

「最後だけ少し本音が混じっていませんか?」

 

 ユウカが半眼になる。

 

「全部本音ですよ」

 

 イロハは悪びれずに言った。

 ハスミは苦笑しながら紅茶を飲む。

 

「ですが、今日のお話を聞けてよかったです。黒夜さんのことを、少しだけ別の角度から知ることができました」

 

「私もです」

 

 ユウカも頷く。

 

「今まで黒夜さんの人物像が曖昧でしたが……少し分かった気がします」

 

「どういう人に見えました?」

 

 ユウカは少し考えてから答えた。

 

「昔は少し荒かったけれど、根は真面目で努力家。今は落ち着いていて誠実。でも、放っておくと自分を使いすぎる人」

 

「だいたい合ってますね」

 

 イロハは満足そうに頷いた。

 

 ハスミは微笑む。

 

「それに、とても周りから大切にされている方です」

 

「それも合ってます」

 

 イロハは小さく笑った。

 話がひと段落したところで、三人はそれぞれの飲み物へ手を伸ばした。

 

 シャーレのカフェテリアは相変わらず穏やかにざわめいている。

 さっきまでの黒夜の昔話が嘘のように、空気は柔らかかった。

 

 その頃。

 

 カフェテリアの入口近くに、黒夜が来ていた。

 今日の用事は、先生への簡単な報告だけだった。すでにシャーレでの用件は済んでいる。少し休憩してから帰ろうと、カフェテリアへ足を向けたのだが。扉の前まで来て、黒夜は足を止めた。

 

「……」

 

 何か、嫌な予感がした。

 

 具体的に何が、とは言えない。

 だが、このまま中へ入ると、自分に関係する何かしらのトラブルに巻き込まれる気がする。

 黒夜はしばらく扉の前で考えた。

 

 入るべきか。

 やめるべきか。

 

 そして、静かに踵を返した。

 黒夜はカフェテリアに入らず、その場を後にした。

 

 少し歩いたところに、自販機を見つけた。

 並んだ飲み物の中で、黒夜の目がひとつの缶コーヒーに止まった。

 

 安い、無糖の缶コーヒー。

 昔よく飲んでいたものと、よく似ていた。

 黒夜は少しだけ迷ってから、それを買った。

 

 近くの公園へ向かい、ベンチに座る。

 プルタブを開ける音が、小さく響いた。

 

 缶を口へ運ぶ。

 

 苦い

 

 特別美味しいわけではない。

 香りが豊かなわけでもない。

 ただ、少し薄くて、苦くて、缶特有の冷たさがある。

 

 黒夜は、ふっと目を細めた。

 

「……昔から変わってませんね」

 

 ゲヘナにいた頃。

 

 喧嘩の後。仕事の合間。

 風紀委員会の手伝いを終えた帰り道。

 ヒナに弟子入りを断られた日も、確か似たような缶コーヒーを飲んだ。

 

 あの頃の自分は、今よりずっと荒かった。

 

 気に入らない相手にはすぐ言い返した。

 売られた喧嘩は買った。

 自分の強さに少し調子に乗っていた。

 そして、ヒナに挑んで、自分が井の中の蛙だったと知った。

 

 あの日、自分よりずっと上がいると知った。

 悔しさよりも先に、憧れた。

 

 強い、とただそれだけを思った。

 

 あの人に教わりたい。

 あの人の見ているものを、自分も少しでいいから見てみたい。

 

 そう思って、何度も頼みに行った。

 

 何度も断られた、それでも通った。

 手伝える仕事を手伝った。

 少しずつ、少しずつ、今の自分に繋がる何かが積み重なっていった。

 

 黒夜は缶コーヒーをもう一口飲む。

 

「……今の私は、あの頃より少しはマシになれたでしょうか…」

 

 答える者はいない。

 公園には、柔らかな風が吹いていた。

 黒夜は少しだけ笑う。

 昔の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。

 

 弱くなった。

 丸くなった。

 面倒な背負い方をしている。

 あるいは、少し休めと笑うだろうか。

 

 分からないけれど、少なくとも。

 あの頃飲んでいた缶コーヒーの苦みは、今も変わらなかった。

 黒夜はベンチに座ったまま、しばらく静かに空を見上げていた。

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