シャーレに併設されたカフェテリアは、昼の混雑が少し落ち着いた頃合いだった。
それでも、完全に静かというわけではない。先生への相談待ちの生徒、資料を広げながら昼食を取る生徒、ただ休憩しているだけの生徒。ほどよいざわめきと食器の音が混ざり、シャーレらしい、どこか学園の境界が曖昧になる空気がそこにはあった。
そんな中、イロハはトレーを片手に、空いている席を探していた。
「はぁ……せっかくサボ……休憩に来たのに、意外と混んでますねぇ」
言い直したところで、意味はほとんど変わっていない。
ただ、今日のイロハは本当に休憩のつもりだった。万魔殿での書類整理、マコトの思いつき、イブキのお願い、チアキの妙な企画案。その全部から少しだけ距離を置くために、シャーレのカフェテリアまで逃げてきたのである。
すると、少し離れた席に見知った顔を見つけた。
羽川ハスミ。
トリニティの正義実現委員会に所属する彼女は、姿勢よく座り、紅茶と軽食を前にしていた。だが、その表情にはどこか疲れが見える。
イロハは少しだけ考えた後、その席へ近づいた。
「どうもお久しぶりですねハスミさん。相席いいですか?」
ハスミが顔を上げる。
「貴女はゲヘナの戦車長の…ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。いやぁ、席がなくて困ってたんですよ」
イロハは向かいに腰を下ろした。
ハスミは穏やかに微笑む。
「シャーレのカフェテリアは、学園を問わず生徒が集まりますからね。時間を外しても、意外と混んでますよね」
「ほんとですよ。サボり場所としては優秀なんですけど、人気なのが難点ですねぇ」
「……今、サボり場所と仰いましたか?」
「気のせいです」
ハスミは苦笑した。
その時、さらに別の生徒がトレーを手に近づいてきた。
「あの、こちら相席してもよろしいですか?」
その声の主はユウカだった。
ミレニアムのセミナー所属。いつも数字と規則と予算に追われている印象のある彼女は、少し疲れた顔をしていたが、それでも背筋はきちんと伸びている。
ハスミはすぐに頷いた。
「もちろんです。どうぞ」
「ありがとうございます」
ユウカは礼儀正しく頭を下げ、空いている席へ腰を下ろした。
そこで、イロハとユウカの視線が合う。
互いに名前くらいは聞いたことがあった。
ミレニアムのセミナー会計、早瀬ユウカ。
ゲヘナの万魔殿所属、棗イロハ。
だが、こうして直接向かい合うのは初めてだった。
ユウカが先に姿勢を正す。
「申し遅れました。ミレニアムサイエンススクール、セミナー所属の早瀬ユウカです」
イロハは少しだけ気だるげに、けれど失礼にならない程度に会釈した。
「どうもご丁寧に。ゲヘナ学園、万魔殿所属の棗イロハです。まあ、今日はただの休憩中なので、そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ」
「万魔殿の……」
ユウカは少しだけ目を瞬かせる。
「お名前は聞いたことがあります。確か、万魔殿の実務をかなり支えている方だと」
「いやぁ、支えているというか、押し付けられているというか……」
イロハは遠い目をした。
「そのあたりの話をすると長くなりますねぇ」
「お二人とも、学園こそ違いますが苦労の方向性は近いかもしれませんね」
「苦労、ですか…」
ユウカは少しだけ苦笑した。
「私も否定できませんねぇ」
イロハも同じように肩をすくめた。
その一言で、三人の間に少しだけ柔らかい空気が生まれた。
「ユウカさんも休憩ですか?」
「はい。正確には、休憩を取らないと効率が落ちると判断したので、強制的に休憩時間を確保しました」
「うわぁ、休憩まで合理的ですねぇ」
「イロハさんは……」
「私は純粋な休憩です」
ユウカの視線が少し鋭くなる。
イロハは目を逸らした。
「……八割くらいは」
「残り二割は?」
「万魔殿からの一時避難です」
「それはサボりでは?」
「考え方の違いですねぇ」
ハスミが小さく笑った。
「どの学園も、大変ですね」
その一言に、三人の間で妙な共感が生まれた。
トリニティにはトリニティの苦労がある。
ゲヘナにはゲヘナの苦労がある。
ミレニアムにはミレニアムの苦労がある。
所属も立場も違う三人だったが、「苦労している」という一点だけは妙に噛み合っていた。
ハスミは紅茶を一口飲み、静かに言う。
「トリニティは比較的秩序ある学園だと思われがちですが、実際には日々さまざまな問題があります。正義実現委員会としても、対応に追われることは多いですね」
「トリニティでもそうなんですね」
イロハが少し意外そうに言う。
「まあ、ゲヘナは言うまでもないですけど。万魔殿は万魔殿で、急に何かが始まるので」
「急に何かが始まるって、どういう事?」
ユウカが聞く。
「マコト先輩が急に思いつくんですよ。演説とか、企画とか、号令とか、妙な作戦とか」
「……それは大変そうですね」
「ええ。しかも本人は本気なので、止める側はもっと大変です」
イロハはストローで飲み物をかき混ぜながら、気だるげに息を吐いた。
ユウカも深く頷く。
「ミレニアムも、問題がないわけではありません。主に予算と申請書と、無計画な開発と、勝手に増える発明品と、勝手に始まるプロジェクトと……」
「ユウカさん、段々話が具体的になってますよ」
「それはもう!具体的な被害があるので!」
ユウカは笑顔だったが妙に圧がある。
イロハは少し肩をすくめる。
「どこも似たようなものですね」
「そうですね。学園ごとに色は違いますが、どこも抱えている問題は案外同じなのかもしれません」
ハスミが穏やかにまとめた。
しばらく三人は、各学園の苦労話を交わした。
ハスミは正義実現委員会での巡回や規律維持の話をした。
イロハは万魔殿でのマコトの突発的な思いつきと、それに振り回されるイロハ自身の話をした。
ユウカはミレニアムの予算管理と、申請書を通さずに何かを作ろうとする生徒達への苦労を語った。
話は意外と弾んだ。
そして、その流れの中で、ユウカがふと口を開いた。
「あの、話題が変わるのですが、少し聞きたい事があるのだけどいいかしら?」
「はい?」
ハスミが首を傾げる。
「月城黒夜さんって、どういう人なんですか?」
その名前が出た瞬間、ハスミとイロハの表情が少し変わった。
ハスミは嬉しそうに。
イロハは少しだけ「ああ、その話ですか」という顔に。
ユウカは少し恥ずかしそうに続ける。
「私は、黒夜さんとはあまり接点がなくて。お名前や評判は聞いていますし、ミレニアムでも何度か見かけたことはあります。ただ、どういう人なのか、まだよく分かっていないんです」
「なるほど」
ハスミは優しく頷いた。
「黒夜さんは、とても誠実で真面目な方ですよ。任されたことには丁寧に取り組みますし、周囲への気配りもできます。トリニティの中でも選りすぐりの優等生です。常に礼儀正しく振る舞われて弱者に手を差し伸べるような人です」
その口調には、少し自慢するような響きがあった。
トリニティの秩序の体現者を紹介するような、そんな誇らしさ。
「黒夜さんは、自分のことを後回しにしてしまうところはありますが……それでも、誰かのために動ける方です。軽々しく人を傷つけるような人ではありません」
ユウカは少し驚いたように目を瞬かせる。
「そうだったんですね…」
「ええ。少なくとも、私の知っている黒夜さんはそうです」
ハスミは柔らかく微笑んだ。
イロハも飲み物を一口飲み、少し気だるげに言う。
「ゲヘナにしては珍しいくらい落ち着いている人ですよ。真面目ですし、仕事もできますし、変に問題を起こさないし」
「ゲヘナにしては、ですか」
「そこ大事ですよ」
イロハは真顔で言った。
「ゲヘナ基準だと、落ち着いてるだけでかなり貴重ですからねぇ」
「こんな事言っては失礼ですが……否定しづらいですね」
ユウカは少し困ったように笑った。
ハスミがイロハを見る。
「ですが、黒夜さんはゲヘナ出身でありながら、トリニティでもきちんと礼儀を守っています。とても穏やかで、丁寧な方ですよ」
「まあ、確かに今はそうですね~」
イロハがぽつりと言った。
ユウカは、二人の話を聞きながら少し考え込んでいた。
「正直に言うと、私が想像していた人物像とかなり違います」
「想像していた人物像、ですか?」
ユウカは少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「はい。黒夜さんはゲヘナ出身だと聞いていたので……その、もっと気性が荒くて、乱暴な問題児のような方なのかと」
言ってから、ユウカは慌てて手を振る。
「もちろん、偏見だったのは分かっています。実際に見かけた時も、落ち着いた方だとは思っていました。ただ、噂だけ聞いていた時は、どうしてもゲヘナのイメージが先に来てしまって……」
ハスミは穏やかに微笑んだ。
「安心してください。黒夜さんはそんな人ではありませんから」
「そうですよね。お二人の話を聞いて、よく分かりました」
ユウカは少しほっとしたように言う。
「誠実で、真面目で、落ち着いていて……私が思っていたような方ではなかったです」
「ええ」
ハスミが頷く。
「黒夜さんは、優しい人ですよ」
そこで、イロハが飲み物を啜りながら、何気なく言った。
「あぁ~、でも黒夜も昔はそんな感じでしたね~」
空気が止まった。
ハスミの笑顔が固まる。
ユウカも、手元のカップを持ったまま動きを止めた。
イロハは数秒遅れて、自分が何を言ったかに気づいた。
「……あ」
ハスミがゆっくりとイロハを見る。
「イロハさん」
「な、なんでしょうか?」
「今、何と仰いましたか?」
「いえ、その……」
ユウカも身を乗り出す。
「昔はそんな感じ、というのは……?」
イロハは目を逸らした。
「いやぁ……」
「詳しく聞かせていただけますか?」
ハスミの声は丁寧だった。
けれど、逃がす気のない声だった。
ユウカも真剣な顔で頷く。
「私も気になります。今の黒夜さんと、昔の黒夜さんが違うということですか?」
「……まあ、違うと言えば違いますね」
イロハは観念したようにため息を吐いた。
そして、少しだけ懐かしそうに目を細める。
「今でこそ、黒夜はあんな丁寧で落ち着いてますけど」
イロハは、カップを置いた。
「昔は今よりもう少し、ゲヘナらしかったですよ」
ハスミとユウカの視線が、さらに強く向けられる。
イロハは小さく肩をすくめた。
「喧嘩を売られたら、普通に買うタイプでしたね」
イロハがそう言った瞬間、ハスミは完全に固まった。
ユウカも、カップを持ったまま動かない。
カフェテリアのざわめきだけが、やけに遠く聞こえた。
「あの……黒夜さんが、ですか?」
ハスミが、ようやく声を絞り出す。
イロハは少し気まずそうに頬をかいた。
「まあ、今の黒夜からは想像しづらいですよね」
「想像しづらい、どころではありません。黒夜さんはいつも礼儀正しくて、穏やかで……」
「今はそうですよ」
イロハはストローを指先で弄びながら、少しだけ目を細めた。
「でも、昔はもう少し口調も荒かったですし、ゲヘナらしいところがありました。別に弱い者いじめをするようなタイプではなかったですけど、喧嘩を売られたら買う。邪魔なら邪魔と言う。必要なら手が出るのも早い。そういう感じです」
ユウカは思わず眉を寄せる。
「それは、私が最初に想像していた人物像に近いのですが……」
「でしょうね」
イロハは苦笑した。
「ただ、誤解しないでください。黒夜は昔から根っこは真面目でしたよ。理不尽に誰かを傷つけるような人じゃありませんでした。ただ、当時は今よりずっと尖っていたんです」
「尖っていた……」
ハスミはその言葉を、信じられないもののように繰り返した。
「同学年では頭一つ抜けて強かったですよ」
イロハは続ける。
「だから、少し調子に乗ってた時期もありました。まあ、ゲヘナでは珍しくもないですけどね。強いと、それだけで周りが少し黙るので」
ユウカは小さく息を吐いた。
「ゲヘナらしい、と言えばそうなのかもしれませんが……」
「で、その勢いのまま挑んじゃったんですよね……」
イロハが言った。
ハスミが首を傾げる。
「誰にですか?」
「風紀委員長に」
ユウカが目を見開いた。
「空崎ヒナさんにですか!?」
「そうです」
イロハは軽く頷く。
「同学年相手なら負け知らずに近かった黒夜が、その勢いで風紀委員長に挑んで、見事に返り討ちです」
ハスミは言葉を失った。
ユウカも、思わず額に手を当てる。
「無謀すぎませんか、それは……」
「今の黒夜なら絶対にしないでしょうね」
イロハは少し楽しそうに笑う。
「でも昔の黒夜は、そういう勢いがありました。強い相手を見れば挑みたくなる。自分の力がどこまで通じるか試したくなる。そういう、ゲヘナらしい勢いがあったんですよ」
「それで、返り討ちにされたのですか…」
「ええ。もう綺麗に」
「何もできなかった、というほどではなかったと思いますけど、実力差は圧倒的でした。黒夜もその場で理解したでしょうね。ああ、自分よりずっと上がいるんだって」
ハスミは、今の黒夜を思い浮かべる。
丁寧に頭を下げる黒夜。
誰に対しても礼儀正しく、穏やかに話す黒夜。
自分のことよりも周囲を優先しがちな黒夜。
その黒夜が、昔は喧嘩を買い、調子に乗り、あの空崎ヒナへ挑んだ。
あまりにも違いすぎて、すぐには結びつかない。
「それで、返り討ちになってしまった黒夜さんはどうされたのですか?」
イロハは少し肩をすくめた。
「普通なら、そこで心が折れそうなものじゃないですか。少なくとも、もう二度と挑まないって思ってもおかしくない」
「はい」
「でも黒夜は逆でした」
「逆?」
「ヒナさんの強さに惚れ込んだんです」
ユウカは瞬きをした。
「え、それって……?」
「恋愛とかそういう意味ではなく、純粋に強さにですよ。自分を完璧に叩き伏せた相手を見て、悔しがるより先に憧れたんでしょうね」
イロハは、当時の光景を思い出すように言った。
「それで、すぐに弟子入りを申し込みに行ったんです」
ハスミが思わず身を乗り出す。
「返り討ちにした相手にですか!?」
「そうです」
「それで、認められたのですか?」
「最初は当然断られましたよ」
イロハはあっさり答えた。
「ヒナさんは忙しいですし、黒夜一人に構っている暇なんてありませんから。たぶん『私にそんな余裕はない』とか『自分で訓練しなさい』とか、そんな感じで断ったんじゃないですかね?」
「それでも黒夜さんは諦めなかったのですね」
「ええ。何度も行きました」
イロハは少しだけ笑う。
「ただ、しつこく頼むだけじゃなかったんです。ヒナさんの仕事を、手伝える範囲で手伝っていたんですよ」
ユウカの目が少し変わる。
「仕事を?」
「書類運びとか、情報整理とか、巡回の補助とか、報告書の下準備とか。黒夜にできる範囲で、ですけど」
「それは……」
ユウカは少し考え込む。
「ただの問題児ではできませんね」
「そうでしょう?」
イロハは少し得意げに言った。
「喧嘩っ早かったし、口も今より悪かったですけど、根は真面目なんですよ。断られても腐らない。手伝うなら手を抜かない。自分が認めてもらいたいなら、行動で示す」
ハスミの表情が、少し柔らかくなる。
「やはり、黒夜さんは昔から誠実な方だったのですね」
「まあ、誠実という言葉が当時の黒夜に合うかは微妙ですけどねぇ」
イロハは苦笑した。
「でも、筋は通す人でした。そこは今と変わりません」
「ヒナさんは、それで弟子入りを認めたのですか?」
「最終的には、根負けしたみたいですね」
イロハはそう言ってから、少しだけ訂正するように続けた。
「いえ、根負けというより、評価したんだと思います。黒夜のしつこさだけじゃなくて、仕事を手伝う姿勢とか、真面目さとか。そういうところを見て、少しだけなら訓練を見てもいい、ってなったんでしょう」
ユウカは、感心したように息を吐いた。
「思っていたより、ずっと努力家なのですね」
「努力家ですよ。今も昔も」
イロハは、少しだけ遠い目をした。
「昔は、その努力が強くなることや、喧嘩に勝つことに向いていました。今は、誰かを守ることや、責任を背負うことに向いています」
その言葉に、ハスミは目を伏せる。
「……黒夜さんらしいですね」
「お二人から聞いていた黒夜さんらしいですね」
ユウカも静かに頷いた。
「ただ、少し危うい感じがします」
その言葉に、イロハは小さく笑った。
「ユウカさん、鋭いですねぇ」
「いえ。話を聞いていて、そう思っただけです。自分の力を証明したい時も、誰かを守りたい時も、黒夜さんは自分を使いすぎるタイプなのではないかと」
「その通りです」
イロハの声から、少しだけ軽さが消えた。
ハスミとユウカは、その変化に気づいた。
イロハは手元のカップを見つめる。
「昔は、喧嘩を買う方向に出ていました。今は、仕事や責任を抱え込む方向に出ています。形は変わりましたけど、放っておくと頑張りすぎるところは、あんまり変わってないんですよね」
ハスミの表情が真剣になる。
「イロハさん……」
「だから、ハスミさん。ユウカさん」
イロハは、二人を見た。
普段の気だるげな空気は残っている。
けれど、その目は本気だった。
「黒夜は、ほっとくと頑張り過ぎちゃうので。適度に見てあげてください」
そして、イロハは静かに頭を下げた。
「もし無理してそうなら、無理やりにでも休ませてあげてください……お願いします」
ハスミは驚いたように目を見開いた。
ユウカも、言葉を失う。
イロハが誰かのためにここまで真剣に頼む姿は、少なくともユウカにとっては意外だった。
だが、それだけ黒夜のことを心配しているのだと分かる。
ハスミはすぐに姿勢を正した。
「もちろんです」
その声は、優しく、しかし確かなものだった。
「黒夜さんが無理をなさっている時は、私も必ずお止めします。トリニティにいる間だけでなく、シャーレでお会いした時も、きちんと様子を見るようにします」
ユウカも頷いた。
「私も、まだ黒夜さんのことを詳しく知っているわけではありません。ですが、話を聞く限り、放っておいていいタイプではなさそうです」
「そうなんです。本当に困った人なんですよ」
「ミレニアムで見かけた時や、セミナーに関わる用件がある時は、私も気をつけます。必要なら、休憩時間の管理くらいはします」
イロハは顔を上げた。
「ありがとうございます。助かります」
それから、いつもの調子を少しだけ取り戻すように、肩をすくめる。
「私一人だと、見張る前にサボりたくなっちゃうので」
ユウカが即座に言った。
「そこは頑張ってください」
「厳しいですね」
「黒夜さんのためでしょう?」
「そう言われると、ちょっと弱いですね」
ハスミは小さく笑った。
「イロハさんは、黒夜さんのことを本当に大切に思っているのですね」
「まあ……」
イロハは少しだけ視線を逸らした。
「大事なサボり仲間ですしね…」
その言葉は軽かったが、含まれているものは軽くなかった。
ゲヘナで少し尖っていた頃の黒夜。
ヒナに挑んで返り討ちにされ、それでも憧れ、何度も弟子入りを願いに行った黒夜。
仕事を手伝いながら、自分なりに認められようとしていた黒夜。
そして今、丁寧に、穏やかに、けれど相変わらず自分を使いすぎる黒夜。
イロハにとって、その全部が黒夜だった。
「それに」
イロハは少しだけ笑った。
「黒夜が倒れると、周りが大変なんですよ。マコト先輩もサツキ先輩も騒ぎますし、イブキも心配しますし、私もサボりづらくなります」
「最後だけ少し本音が混じっていませんか?」
ユウカが半眼になる。
「全部本音ですよ」
イロハは悪びれずに言った。
ハスミは苦笑しながら紅茶を飲む。
「ですが、今日のお話を聞けてよかったです。黒夜さんのことを、少しだけ別の角度から知ることができました」
「私もです」
ユウカも頷く。
「今まで黒夜さんの人物像が曖昧でしたが……少し分かった気がします」
「どういう人に見えました?」
ユウカは少し考えてから答えた。
「昔は少し荒かったけれど、根は真面目で努力家。今は落ち着いていて誠実。でも、放っておくと自分を使いすぎる人」
「だいたい合ってますね」
イロハは満足そうに頷いた。
ハスミは微笑む。
「それに、とても周りから大切にされている方です」
「それも合ってます」
イロハは小さく笑った。
話がひと段落したところで、三人はそれぞれの飲み物へ手を伸ばした。
シャーレのカフェテリアは相変わらず穏やかにざわめいている。
さっきまでの黒夜の昔話が嘘のように、空気は柔らかかった。
その頃。
カフェテリアの入口近くに、黒夜が来ていた。
今日の用事は、先生への簡単な報告だけだった。すでにシャーレでの用件は済んでいる。少し休憩してから帰ろうと、カフェテリアへ足を向けたのだが。扉の前まで来て、黒夜は足を止めた。
「……」
何か、嫌な予感がした。
具体的に何が、とは言えない。
だが、このまま中へ入ると、自分に関係する何かしらのトラブルに巻き込まれる気がする。
黒夜はしばらく扉の前で考えた。
入るべきか。
やめるべきか。
そして、静かに踵を返した。
黒夜はカフェテリアに入らず、その場を後にした。
少し歩いたところに、自販機を見つけた。
並んだ飲み物の中で、黒夜の目がひとつの缶コーヒーに止まった。
安い、無糖の缶コーヒー。
昔よく飲んでいたものと、よく似ていた。
黒夜は少しだけ迷ってから、それを買った。
近くの公園へ向かい、ベンチに座る。
プルタブを開ける音が、小さく響いた。
缶を口へ運ぶ。
苦い
特別美味しいわけではない。
香りが豊かなわけでもない。
ただ、少し薄くて、苦くて、缶特有の冷たさがある。
黒夜は、ふっと目を細めた。
「……昔から変わってませんね」
ゲヘナにいた頃。
喧嘩の後。仕事の合間。
風紀委員会の手伝いを終えた帰り道。
ヒナに弟子入りを断られた日も、確か似たような缶コーヒーを飲んだ。
あの頃の自分は、今よりずっと荒かった。
気に入らない相手にはすぐ言い返した。
売られた喧嘩は買った。
自分の強さに少し調子に乗っていた。
そして、ヒナに挑んで、自分が井の中の蛙だったと知った。
あの日、自分よりずっと上がいると知った。
悔しさよりも先に、憧れた。
強い、とただそれだけを思った。
あの人に教わりたい。
あの人の見ているものを、自分も少しでいいから見てみたい。
そう思って、何度も頼みに行った。
何度も断られた、それでも通った。
手伝える仕事を手伝った。
少しずつ、少しずつ、今の自分に繋がる何かが積み重なっていった。
黒夜は缶コーヒーをもう一口飲む。
「……今の私は、あの頃より少しはマシになれたでしょうか…」
答える者はいない。
公園には、柔らかな風が吹いていた。
黒夜は少しだけ笑う。
昔の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。
弱くなった。
丸くなった。
面倒な背負い方をしている。
あるいは、少し休めと笑うだろうか。
分からないけれど、少なくとも。
あの頃飲んでいた缶コーヒーの苦みは、今も変わらなかった。
黒夜はベンチに座ったまま、しばらく静かに空を見上げていた。