救護騎士団の医務室前の廊下は、重い沈黙に包まれていた。
扉の向こうには黒夜がいる。
けれど、それは自分達が知っている黒夜ではなかった。
穏やかに微笑み、誰に対しても礼儀正しく、少し困ったように「大丈夫です」と言う黒夜ではない。
ゲヘナ学園一年。
ヒナに返り討ちにされた直後。
今より荒く、警戒心が強く、トリニティへの偏見も隠そうとしない黒夜。
ナギサは廊下の壁に背を預け、震える指先を押さえた。
「……あれが、昔の黒夜さん」
声に出した途端、胸の奥が痛んだ。
黒夜が自分達を知らない。
それは頭では理解できる。
彼の本心が変わったわけではない。記憶が過去に戻っているだけだ。
けれど、目の前で「馴れ馴れしく呼ぶな」と言われた事実は、簡単には消えてくれなかった。
ミカは目元を赤くしながら、何度も医務室の扉を見ている。
「……黒夜、本当に私たちのこと分からないんだよね」
「今の彼にとって、私たちは初対面に近い存在なのだろう」
「それも、トリニティの生徒として見られている。彼の記憶がゲヘナ一年当時なら、警戒されるのも無理はない」
「でも……」
ミカは唇を噛む。
「でも、黒夜だよ…?」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
黒夜であることは間違いない。
荒い口調も、刺々しい態度も、すべて過去の黒夜のものなのだろう。
だが、今の黒夜を知っている彼女達にとって、それはあまりにも遠い姿だった。
ナギサ*テラーは、じっと扉を見つめていた。
『黒夜さんが……私たちを知らない』
その声は、普段よりずっと細かった。
ミカ*テラーは両手を握りしめる。
『やだよ……あんなふうに、近づくなって言われるの……』
セイア*テラーは静かに目を伏せた。
『過去の黒夜だと分かっていても、痛いものは痛いね』
ミネは彼女達の様子を見て、少しだけ息を吐いた。
「皆さん。黒夜さんにとっても、今の状況は混乱の中にあります。知らない場所で目を覚まし、知らない人達に囲まれているのですから」
「分かっています」
ナギサはすぐに答えた。
けれど、その声にはまだ震えがある。
「分かっては、いるのです……」
ミネは柔らかく頷く。
「まずは、今の黒夜さんにとって負担にならない距離で接する必要があります。焦って関係を取り戻そうとすると、かえって警戒を強めてしまうでしょう」
「距離……」
ミカが小さく繰り返す。
今のミカにとって、それはとても悲しい言葉だった。
いつもの黒夜なら、近づけば困ったように笑ってくれる。抱きつけば少し慌てながらも受け止めてくれる。
でも今は、近づいただけで拒絶される。
それでも、彼が黒夜であることは変わらない。
その時、廊下の向こうから急ぎ足の音が聞こえた。
「ナギサ様!」
現れたのはハスミだった。
息を整えながら、彼女はナギサ達の前で足を止める。
「黒夜さんが怪我をされたと聞いて……容態は?」
「命に別状はありません。ですが……」
ナギサは言葉に詰まった。
ミネが代わりに説明する。
「頭部への衝撃で、一時的な記憶障害が起きています。現在の黒夜さんの記憶は、ゲヘナ学園一年時点まで遡っているようです」
「ゲヘナ学園、一年……」
ハスミの表情が変わった。ただ驚いただけではない。
何かに思い当たったような顔だった。
セイアがその反応に気づく。
「君は、何か知っているのかい?」
ハスミは一瞬迷った後、静かに頷いた。
「以前、イロハさんから少しだけ聞いたことがあります」
「イロハさんから?」
ナギサが目を向ける。
「黒夜さんは今でこそ礼儀正しく、落ち着いた方ですが……昔は、もう少しゲヘナらしかったと」
ミカが顔を上げる。
「ゲヘナらしいって……」
「喧嘩を売られたら買うタイプだったそうです。口調も今より荒く、必要なら手が出るのも早かったと聞いております」
ナギサの表情が痛むように歪んだ。
先ほどの黒夜の言葉が、ハスミの説明と重なる。
あれは、突然現れた別人ではない。本当に、昔の黒夜なのだ。
ハスミは続ける。
「ですが、根本は今と変わらなかったとも聞いています。弱い者いじめをするような方ではなく、理不尽なことにはすぐに割って入る。荒くても、筋は通す方だったと」
セイアが静かに息を吐いた。
「だから、正義実現委員会の生徒の安否を気にしたのか…」
「おそらく」
ハスミは医務室の扉を見る。
「黒夜さんは、昔から黒夜さんだったのでしょう」
その言葉は、少しだけ皆の胸に落ちた。
今の黒夜とは違う。けれど、今の黒夜へ繋がる黒夜。
ナギサは目を伏せ、小さく呟いた。
「……私は、昔の黒夜さんを何も知りませんでした」
「私もだよ」
ミカが掠れた声で言う。
「今の黒夜しか、知らなかった」
セイアは扉を見つめる。
「なら、知るしかない。今、目の前にいる彼を」
しばらくして、ミネの許可のもと、ナギサ達は再び医務室へ入った。
ただし、全員で一気に近づくことは避けた。
ベッドの上の黒夜は、先ほどより少し落ち着いているように見えた。だが、警戒は解いていない。背中を枕に預けながらも、視線は部屋の中を鋭く探っている。
ナギサ達が入ってくると、黒夜はすぐに眉をひそめた。
「随分早いお帰りで、羽根付き共」
ミカがびくりと肩を震わせる。
ナギサも胸が痛んだが、今度はなんとか表情を保った。
「はい。先ほどは驚かせてしまいましたから」
「驚かせた? 囲んできたの間違いだろ」
「……そう受け取られても仕方ありません」
ナギサは静かに頭を下げる。
「申し訳ありません」
黒夜は少し意外そうな顔をした。
「……なんで謝るんだよ?」
「貴方にとって、私たちは見知らぬ相手です。それなのに、距離を詰めすぎました」
ナギサの言葉に、黒夜はしばらく黙った。
そして、視線を逸らす。
「……変な奴」
「よく言われます」
「言われてんのかよ」
黒夜は少しだけ呆れたように言った。
その反応に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
ミカは慎重に一歩前へ出る。
「えっと……黒夜」
黒夜の視線が鋭く向く。
ミカは慌てて手を振った。
「あ、ごめん! 馴れ馴れしく呼ぶなって言ったよね……えっと、月城……くん?」
「なんで疑問形なんだよ」
「だ、だって……」
ミカは困り果てたようにナギサを見る。
黒夜は眉をひそめるが、さっきほど強く拒絶はしなかった。
「……好きに呼べよ。いちいち訂正すんのも面倒だ」
ミカの目が少しだけ明るくなる。
「じゃあ、黒夜って呼ぶね」
「勝手にしろ」
「うん」
ミカは泣きそうになりながらも、笑った。
セイアは椅子を少し離れた位置へ引き、そこに座った。
「黒夜。少し話してもいいかな」
「お前も俺を知ってるみたいな顔をするんだな」
「実際、知っている。君にとっては未来の話だけれどね」
「未来?」
黒夜は怪訝そうに顔をしかめる。
「さっきの医者も言ってたな。俺の記憶がどうこうって」
「君は今、本来の時間より過去の記憶で目覚めている」
「あ~…よくわかんねぇ…」
「そうだろうね」
セイアは静かに頷く。
「だから、無理に理解しなくていい。今は、ここが安全な場所だと覚えてくれればいい」
黒夜は鼻を鳴らした。
「トリニティが安全ねぇ…?」
その言葉に、ナギサの表情がわずかに揺れる。
黒夜はそれに気づいた。
「……なんだよ?」
「いえ」
「またそんな顔しやがって、俺を見て悲しそうな顔をすんなよ」
「……すみません」
「謝るな。調子が狂う」
黒夜は乱暴に言ったが、明確な悪意はなかった。
むしろ、どう扱えばいいのか分からないという戸惑いが滲んでいた。
そこで、ハスミが一歩前へ出た。
「月城さん」
黒夜はハスミを見る。
「今度はでかい羽根付きか」
ハスミの表情が一瞬止まった。
だが、すぐに落ち着いて一礼する。
「羽川ハスミと申します。正義実現委員会に所属しています」
「正義実現委員会……」
黒夜の眉が動いた。
「さっき俺が庇ったって奴らの仲間か」
「はい」
ハスミは真剣な顔で頭を下げた。
「この度は、私たちの後輩を庇ってくださり、ありがとうございました」
「……別に」
黒夜は視線を逸らす。
「俺は何も覚えちゃいねぇよ。礼を言われる筋合いも無いしな」
「それでも、貴方のおかげで彼女は大きな怪我をせずに済みました」
「だから、別に……気にすんなよ」
黒夜は少し苛立ったように頭を掻いた。
「なんなんだよ、お前ら!? 俺が何かする度にいちいちそんな顔すんのか?」
ハスミは少しだけ目を細める。
彼女は、イロハから聞いた話を思い出していた。
昔の黒夜は喧嘩を売られたら買うタイプ。
口調も荒く、手も早い。
だが、根は真面目で、理不尽を見過ごせない。
目の前の黒夜は、確かに荒い。
けれど、誰かを庇ったことを誇ろうとしない。
感謝されると居心地悪そうにする。
怪我人の無事を気にする。
そこには、今の黒夜へ繋がるものがあった。
「月城さん」
「なんだよ」
「貴方は、昔からそういう方なのですね」
「は?」
黒夜が怪訝そうにする。
ハスミは微笑んだ。
「いえ。少し安心しました」
「……意味分からん」
黒夜は不満そうに呟いた。
その時、医務室の扉が控えめに開いた。
救護騎士団の生徒に付き添われて、一人の正義実現委員会の生徒が入ってくる。
腕に包帯を巻いているが、足取りはしっかりしていた。
「失礼します……」
彼女は黒夜を見ると、すぐに深く頭を下げた。
「あの、助けてくださってありがとうございました!」
黒夜は露骨に困った顔をした。
「……また礼かよ」
「でも、月城さんが庇ってくれなかったら、私……」
「無事だったんだろ?」
「え?」
「ならそれでいいだろ。いちいち泣きそうな顔すんな、慰めるのも怠いからよ」
言い方は荒い。
だが、黒夜の視線は彼女の包帯へ向いていた。
「腕、動くのか?」
「あ、はい。軽い怪我です」
「ならいい、次から気を付けろよ」
「は、はい!」
彼女は、思わず背筋を伸ばした。
黒夜は少しだけ眉を寄せる。
「……なんでそんな畏まるんだよ」
「いえ、その……すみません」
「謝るなって」
黒夜はぶっきらぼうに言う。
けれど、その言葉を聞いていたナギサ達の胸には、別の感情が広がっていた。
言葉使いは確かに荒い、だが、今の言葉は優しさが滲んでいた。
ただ突き放しているのではない。
次に同じ目に遭わないように注意をしている様に見えた。
ミカが小さく呟く。
「……黒夜だ」
黒夜がそちらを見る。
「あ?」
「ううん。なんでもない」
ミカは涙を拭いながら笑った。
「なんでもないよ」
「嘘つきの顔してるぞ」
「えへへ、よく言われる」
「言われるのかよ」
黒夜はまた少し呆れた顔をした。
その横で、ミカ*テラーが堪えきれずに一歩前へ出た。
『黒夜』
黒夜は即座に身構える。
「黒い方の…双子?」
『今は黒い方でいいよ』
ミカ*テラーはいつもなら即座に抱きつく距離まで行っていただろう。
だが今は、足を止めた。
これ以上近づけば、黒夜はまた拒絶する。
それが分かっていた。
『私のこと、分からないんだよね?』
「分かるわけねぇだろ」
『そっか』
ミカ*テラーは笑おうとした。
だが、上手く笑えなかった。
『じゃあ、今はそれでいいよ』
「……何がいいんだよ」
『黒夜が生きてるから』
黒夜は言葉に詰まった。
「……大げさだな」
『大げさじゃないよ』
ミカ*テラーの声が少しだけ震えた。
『私たちにとっては、大げさじゃない』
黒夜はその意味が分からない。
だが、からかう気にはならなかった。
ナギサ*テラーも静かに近づく。
『黒夜さんと、今は、そう呼ばせてください』
「……」
『貴方が嫌なら、距離は取ります。ですが、呼び方だけは……今は、許してください』
黒夜は眉をひそめた。
ナギサ*テラーの目は、あまりにも真剣だった。
何かを懇願しているようで、それでいて壊れそうでもあった。
黒夜はしばらく黙った後、小さく舌打ちした。
「……好きにしろよ」
ナギサ*テラーの表情が、ほんの少しだけ緩む。
『ありがとうございます』
「いちいち礼を言うほどの事か?」
『私にとってはそれほどの事です』
「変な奴らばっかりだな、ここ」
黒夜はぶっきらぼうにそう言ったが、最初のような鋭い拒絶は少し薄れていた。
セイア*テラーはその様子を見ながら、静かに言う。
『黒夜。君は今の私たちを知らない、そうだね?』
「ああ」
『けれど、私たちは君を知っている』
「……らしいな」
『だから、急に理解しろとは言わない。今はただ、覚えていてくれ。ここにいる者たちは、君を傷つけたいわけではない』
黒夜はセイア*テラーを見た。
黒い狐耳。静かな目。妙に重い言葉。
何も読み取れない。だが、嘘をついているようには見えなかった。
「……少し考えさせてくれ」
『それでいい』
セイア*テラーは小さく頷いた。
医務室の空気が、少しだけ変わっていた。
最初に目覚めた時ほど、黒夜は周囲を拒絶していない。
まだ警戒心はある。トリニティへの距離感もある。
口調も変わらず荒いまま。
それでも、ほんのわずかに、こちらの言葉を聞こうとしている。
その時、ミネが黒夜の状態を確認しながら言った。
「黒夜さん。今日はこれ以上会話を続けると疲労が出ます。少し休みましょう」
「また休めってか」
「はい。頭を打っていますので」
「……分かったよ」
黒夜は不満そうだったが、逆らわなかった。
その様子に、ハスミが少し微笑む。
黒夜はそれに気づいて眉をひそめた。
「なんだよ…」
「いえ。素直に休まれるのだなと思いまして」
「医者に休めって言われたら休むだろ。馬鹿じゃねぇんだから」
ミカが思わず小さく笑った。
「黒夜、そういうところは昔からなんだね」
「だから、お前は俺の何を知ってんだよ」
「いっぱい知ってるよ。でも、今は秘密」
「気持ち悪ぃな……」
ミカはその言葉に少しだけ傷ついたが、それでも今度は笑えた。
「うん。ごめんね」
黒夜はまた困ったような顔をする。
「……すまん言い過ぎた」
ナギサはその様子を見て、胸を押さえた。
まだ苦しい。黒夜に知られていないことも、距離を取られることも、荒い言葉を向けられることも苦しい。
それでも、少しだけ分かった。
目の前の彼も黒夜なのだ。
誰かを庇い、怪我人の無事を気にし、感謝されると居心地悪そうにする。
口調は荒くても、その奥にあるものは変わらない。
「黒夜さん」
ナギサは静かに呼んだ。
黒夜は目だけを向ける。
「今は、無理に私たちを思い出そうとしなくて構いません」
「思い出せって言われても無理だしな」
ナギサは少しだけ微笑む。
「貴方が休んでいる間、私たちはここにいます。必要なことがあれば、言ってください」
「……なんでそこまでするんだ?」
ナギサは一瞬だけ言葉に詰まった。
理由はいくらでもある。
黒夜が大切だから。
失いたくないから。
何度も救われたから。
そばにいてほしいから。
だが、今の彼には重すぎる。
だから、ナギサは言葉を選んだ。
「貴方が、私たちにとって大切な方だからです」
それを聞いた黒夜は黙った。
その言葉を理解できないという顔をしていた。
けれど、否定もしなかった。
「……そうか」
黒夜はベッドに横になりながら、天井を見上げる。
「……記憶を失う前の俺ってのは、随分変な連中に囲まれてたんだな」
その言葉に、ミカが小さく笑う。
「うん。すごく変な連中だよ」
「自覚あるのかよ」
「勿論あるよ」
セイアも静かに言った。
「君も、その中の一人だ」
「俺もかよ!?」
「そうだね」
黒夜は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「……マジかよ」
そう言いながらも、先ほどより少しだけ表情は穏やかだった。
やがて、ミネに促され、ナギサ達は再び医務室を出ることになった。
正実の彼女も何度も頭を下げてから退室した。黒夜は最後まで「もういいって」と言っていたが、彼女が出る直前に小さく、
「……じゃあな。もう怪我すんなよ」
と声をかけると彼女は、泣きそうな顔で頷いた。
「はい!」
廊下に出たナギサ達は、しばらく無言だった。
最初に口を開いたのはハスミだった。
「……イロハさんが仰っていた通りでした」
ナギサが振り返る。
「昔の黒夜さんは、確かに今より荒い方です」
ハスミは静かに続けた。
「ですが、根本は何も変わっていません。誰かを見捨てられない。感謝されると困る。無理をしてでも、必要なら動く」
セイアが頷く。
「今の黒夜へ繋がる道が、少し見えた気がする」
ミカはまだ涙を浮かべていたが、少しだけ笑った。
「昔の黒夜、怖いけど……でも、黒夜だった」
ナギサ*テラーは胸に手を当てる。
『知らない黒夜さんなのに、知っている黒夜さんでした』
ミカ*テラーも頷く。
『うん……だから余計に、苦しいけど』
セイア*テラーは静かに医務室の扉を見る。
『空崎ヒナを呼んだ方がいいかもね』
その言葉に、全員の表情が変わった。
ゲヘナ学園一年。
ヒナに返り討ちにされた直後。
今の黒夜が、ヒナを深く尊敬する原点。
そのヒナが来た時、過去の黒夜はどんな顔をするのか。
ナギサは胸の奥に、少しだけ不安と、少しだけ知りたい気持ちを抱いた。
「……そうですね」
彼女は静かに呟く。
「ヒナさんに連絡を入れましょう」
廊下の向こうで、救護騎士団の生徒が静かに行き交っている。
医務室の中では、昔の黒夜が眠りにつこうとしている。
荒く、刺々しく、けれど確かに優しさを持つ、今へ繋がる黒夜。
ナギサ達は、その扉の前でしばらく立ち尽くしていた。