ヒナへ連絡が入ったのは、その日の夕方だった。
トリニティで黒夜が倒れた。
正義実現委員会の生徒を庇い、爆発物の破片で後頭部を打った。
命に別状はないが、記憶に混乱が起きている。
そして、記憶はゲヘナ学園一年時点になってしまって、ヒナに返り討ちにされた直後まで戻っている。
その報告を聞いた時、ヒナはしばらく何も言わなかった。
風紀委員会の執務室で、書類に向けていた視線が止まる。
ペン先が紙の上で動かなくなる。
黒夜が倒れた。
それだけでも、胸の奥が冷えるには十分だった。
だが、その記憶が過去に戻っているという話は、ヒナに別の感情を呼び起こした。
ゲヘナ学園一年の時の黒夜。
あの頃の彼は、今とは違った。
丁寧で穏やかで、自分を後回しにして微笑む今の黒夜ではない。
もう少し荒く、少し調子に乗っていて、強さに対して貪欲すぎるほど真っ直ぐだった。
私に挑み、返り討ちにされ、それでも目を輝かせて「教えてほしい」と言ってきた少年。
懐かしい。
そう思ってしまったことに、ヒナは少しだけ胸を痛めた。
「……すぐに行くわ」
ヒナが立ち上がる。それだけで十分だった。
だが、廊下へ出たところで、すでに何人かが待っていた。
「ヒナ」
カヨコが壁にもたれたまま、静かに声をかける。
その隣にはイロハ。
さらにサツキと、なぜかマコトまでいる。
マコトは腕を組み、いつもの尊大な態度を保とうとしていた。だが、その表情には明らかに焦りが滲んでいる。
「黒夜が倒れたと聞いたぞ」
「……誰から聞いたの?」
ヒナが問う。
マコトは少しだけ視線を逸らした。
「万魔殿には優秀な情報網があるのでな」
イロハが気だるげに補足する。
「正確には、チアキがどこかから聞きつけて騒ぎ始めました」
「なるほど」
ヒナは短く息を吐いた。
サツキは普段の余裕ある笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「黒夜ちゃんが怪我して、しかも記憶が昔に戻ってるんでしょ? 行かない理由ないわよ」
カヨコも静かに頷く。
「私も行く。今の黒夜がどうなってるか、見ておきたい」
「トリニティにぞろぞろ押しかけるつもり?」
ヒナが言うと、マコトが胸を張った。
「黒夜はゲヘナ学園情報部の生徒だぞ。ならば万魔殿議長であるこの私が様子を見に行くのは当然だろう」
イロハが小さくため息を吐く。
「マコト先輩、心配なら普通に心配って言えばいいのに」
「うるさいぞイロハ!」
「はいはい」
ヒナは少しだけ目を伏せた。
黒夜を心配しているのは、自分だけではない。
それは分かっている。分かっているからこそ、胸が少し重くなる。
過去の黒夜は、この中のほとんどを知らない。
マコトも、カヨコも、イロハも、サツキも。
今の黒夜と関係を築いてきた者達は、その黒夜から見れば見知らぬ相手になる。
「……行きましょう」
ヒナは静かに言った。
その時だった。
「はーはっはっ! 随分面白そうな話をしているじゃないか!」
聞き慣れた、やたら楽しそうな声が響く。
廊下の曲がり角から、鬼怒川カスミが顔を出した。
ヒナの眉がわずかに動く。
「カスミ。なぜ貴方がここにいるの」
「なぜって? 風が私を呼んだからだよ!」
「呼んでいない」
「細かいことは気にするな! 黒夜が昔に戻ったんだろう? それなら、私がいないと寂しいじゃないか。何せ黒夜とは同期の桜だからね!」
カスミは楽しげに笑う。
カヨコが小さく呟いた。
「……ややこしくなりそう」
「もうなってますよ」
サツキはカスミを見て、少しだけ苦笑した。
「まあ、過去の黒夜ちゃんが知っている相手がもう一人くらいいた方が、安心するかもしれないわね」
ヒナは少し考えた。
確かに、今の黒夜にとって自分以外で見知った相手がいるなら、それは悪いことではない。
問題は、その相手がカスミであることだ。
「余計なことはしないで」
「約束しよう!」
カスミは満面の笑みで答えた。
「その返事が一番信用できない」
ヒナはそう言いながらも、カスミを追い返しはしなかった。
そしてゲヘナからの一行は、トリニティへ向かった。
救護騎士団の医務室前には、ナギサ達が待っていた。
ヒナ達が到着すると、空気がさらに重くなる。
ナギサはヒナを見て、静かに頭を下げた。
「ヒナさん。お越しいただきありがとうございます」
「黒夜は?」
「中で休んでいます。意識はありますが……」
ナギサは言葉を切った。
ヒナはその続きを待たなかった。
「状態は聞いているわ」
ミネが医務室から出てくる。
「ヒナさん。黒夜さんは現在、刺激に対してやや警戒心が強い状態です。特にトリニティの生徒には距離を取っています」
「分かっている」
「ただ、ヒナさんの名前を出した時には反応が変わりました。今の黒夜さんにとって、ヒナさんは記憶の中にある数少ない明確な存在です」
ミネは真剣な顔で続ける。
「ですので、最初はヒナさんだけが入るのが良いかと」
「……」
マコトが何か言おうとしたが、サツキが肩に手を置いて止めた。
カヨコも静かに頷く。
「その方がいい」
イロハも同意する。
「今の黒夜から見たら、私達は知らない相手ですしね」
カスミは少し不満そうに手を上げる。
「私は知り合いだぞ?」
「カスミは後」
ヒナが即座に言った。
「むう、扱いが雑だな!」
「いつものことでしょう」
カヨコが淡々と言った。ヒナは扉の前に立つ。
一瞬だけ、手が止まった。過去の黒夜がいる。
今の黒夜ではなく、あの頃の黒夜が。
ヒナは短く息を吸い、扉を開けた。
医務室の中。
黒夜はベッドの上で上体を起こしていた。
窓の外へ視線を向けていたが、扉が開いた瞬間、すぐにこちらを見る。
そして。
黒夜の目が、大きく見開かれた。
「……ヒナさん」
その声は、先ほどまでナギサ達に向けていたものとは違った。
荒さは残っている。
だが、そこには明らかな熱がある。
憧れ。尊敬。
そして、少しの緊張。
黒夜は反射的に身体を起こそうとした。
だが、頭部の痛みが走ったのか、顔をしかめる。
「っ……」
「動かなくていいわ」
ヒナはすぐにベッドのそばへ歩み寄る。
「頭を打っている。無理に起き上がらないで」
「……了解」
黒夜は素直に言った。
廊下で見守っていたミカが、扉の隙間からその様子を見て目を丸くする。
自分達にはあれほど警戒していた黒夜が、ヒナの言葉には素直に従っている。
ナギサも胸の奥がきゅっと痛んだ。
これが、ヒナへの憧れの原点なのだ。
昔から変わらない。
ヒナは静かに言った。
「昔から、貴方はそうね」
「昔から?」
黒夜は首を傾げる。
ヒナは一瞬だけ言葉に詰まった。
今の黒夜には、未来の話が通じない。
けれど、目の前にいるこの黒夜は確かに過去の彼だ。
「……何でもない」
「変なヒナさん」
「貴方に言われたくないわ」
ヒナがそう返すと、黒夜は少しだけ驚いたようにして、それから小さく笑った。
「……やっぱり、ヒナさんはすごいな」
「何が」
「いや。よく分かんねぇ状況なのに、ヒナさんを見ると少し落ち着くっていうかさ~」
黒夜は照れ隠しのように視線を逸らした。
「俺、ヒナさんに負けたばっかりのはずなんですけど」
「そうね」
「めちゃくちゃ強かった…」
「……覚えているのね」
「忘れるわけないでしょ」
黒夜の声に、熱が戻る。
「何もかも違いました。速さも、判断も、撃ち方も、こっちの動きの潰し方も。俺がどれだけ調子乗ってたか、嫌でも分からされた!」
彼は悔しそうだった。
けれど、その悔しさの奥には、まっすぐな憧れがあった。
「ヒナさん」
「何?」
「俺に、戦い方を教えてください」
医務室の外で、ナギサ達が息を呑む。
黒夜は真っ直ぐヒナを見ていた。
「俺、もっと強くなりたい。あんたみたいに……いや、ヒナさんみたいには無理でも、少しでも近づきたい」
ヒナは黒夜の言葉を黙って聞いていた。懐かしい。
本当に、懐かしい言葉だった。
あの頃も、黒夜はこうして何度も来た。
最初は断った。忙しかったし、彼の勢いに付き合う余裕などなかった。
それでも黒夜は何度も来た。
ただ頼むだけでなく、風紀委員会の仕事を手伝った。書類運び、情報整理、巡回補助。手を抜かず、腐らず、真面目に動いた。
その姿を見て、ヒナは最終的に根負けした。
いや、根負けだけではない。
認めたのだ。
この子なら、少しだけ見てあげてもいいと。
ヒナは目の前の黒夜を見る。
この黒夜は、まだその未来を知らない。
「……今は駄目」
ヒナは静かに言った。
黒夜の顔が少しだけ曇る。
「やっぱり、駄目か~!」
「頭を打っている。今は休むことが最優先」
「あ……」
「訓練は、怪我が治ってから」
黒夜が目を見開いた。
「じゃあ……怪我が治ったら、見てくれるのか?」
ヒナは少しだけ目を細める。
「貴方が本気なら」
黒夜の表情が、ぱっと明るくなった。
今の黒夜ではなかなか見られない、年相応のまっすぐな喜びだった。
「本気です! 絶対、手を抜きません!」
「でしょうね」
ヒナは小さく息を吐く。
「知っているわ」
「……知ってる?」
「何でもない」
「またそれですか」
黒夜は少し不満そうだったが、すぐに嬉しさが勝ったのか、口元を緩めた。
その様子を見ていたナギサ達は、胸が締め付けられるようだった。
今の黒夜がヒナを尊敬している理由。
その原点が、目の前にある。
それは眩しくて、少し寂しかった。
ヒナが出てきた後、次に入ることを許されたのは、ゲヘナの面々だった。
ただし、一度に全員ではなく、ヒナの判断で少しずつ。
最初に入ってきたのはカヨコだった。
黒夜は彼女を見るなり、眉をひそめた。
「誰だ、お前?」
「鬼方カヨコ」
カヨコは淡々と名乗る。
「今の黒夜は、私のこと知らないと思う」
「ああ、知らねぇな」
「今はそれでいい」
カヨコはそう言って、ベッドから少し離れた椅子に座った。
黒夜は怪訝そうにする。
「何しに来たんだよ」
「様子見」
「見て楽しいか?」
「楽しくはない」
即答だった。
黒夜は少し言葉に詰まる。
カヨコは黒夜をじっと見た。
「でも、生きてるのは確認できた」
「……そりゃどうも」
「うん」
たったこれだけの短いやり取り。
だが、無事を確認出来たカヨコの表情はほんの少しだけ柔らかかった。
次に入ったのはイロハとサツキだった。
イロハはいつものように気だるげに手を上げる。
「どうも、黒夜」
「次は誰だよ」
「まあ、今はそうなりますよねぇ。棗イロハです」
「すまんが、知らねぇな」
「でしょうね」
イロハは苦笑した。
サツキは黒夜を見るなり、少しだけ目を細めた。
「本当に、昔の黒夜ちゃんね」
「ちゃん?」
黒夜が露骨に嫌そうな顔をする。
「誰が黒夜ちゃんだ」
「あら、可愛い後輩にはそう呼ぶものよ」
「知らねぇ奴に後輩扱いされる筋合いはねぇんだけど…」
「ふふ、そういうところも新鮮ね」
サツキは笑っているが、その奥には少しだけ寂しさがある。
今の黒夜なら、困ったように「サツキさん、その呼び方は……」と言うだろう。
けれど、目の前の黒夜は本気で警戒している。
イロハはその空気を軽くするように言った。
「まあまあ。黒夜、そんなに尖らなくても大丈夫ですよ」
「お前も馴れ馴れしいな」
「今の黒夜に言われると、ちょっと面白いですねぇ」
「何がだよ」
「いえ、こっちの話です」
イロハは少しだけ目を細めた。
「昔の黒夜は相変わらずですね」
「相変わらず?」
「ええ。まあ、未来の話なので今は気にしなくていいです」
「さっきからそればっかりだな。未来だの記憶だの」
黒夜は苛立つように髪を掻いた。
「俺だけ何も分かんねぇの、気持ち悪いんだよな」
その言葉に、サツキの表情が少し真剣になる。
「……そうよね」
サツキは少しだけ近づいた。
「ごめんなさいね、黒夜ちゃん。私たちだけがあなたを知っていて、あなたは私たちを知らない。気持ち悪くて当然だわ」
「……」
黒夜は反論しなかった。
意外だったのか、少しだけ目を逸らす。
「分かってるなら、変な距離の詰め方すんな」
「ええ。気をつけるわ」
サツキは微笑む。
「でも、無事でよかった」
「……だから大げさなんだよ」
「大げさじゃないのよ」
その言葉は、とても静かだった。
黒夜は何も言えなかった。
次に入ってきたのは、マコトだった。
彼女はいつものように堂々と入ってきた。
「黒夜!」
その声に、黒夜が眉をひそめる。
「なんだ、今度は偉そうなのが来たな」
マコトの足が止まった。
ナギサ達も、イロハ達も、一瞬息を止める。
マコトは黒夜に知られていない。
それは分かっていた。
だが、実際に見知らぬ相手として扱われると、胸に来るものがあった。
「……私は羽沼マコト。万魔殿の議長だ」
「万魔殿の議長?」
黒夜は少し目を細める。
「へぇ。あんたが…」
「なんだ、その目は」
「いや、思ったより……」
「思ったより何だ!」
「バカそうだなって」
「貴様ぁ!」
マコトが反射的に声を上げる。
イロハがすぐに頭を抱えた。
「ああ、だめだ。相性が昔の黒夜と悪そう」
サツキは苦笑する。
「でも、マコトちゃんらしいわね」
ヒナが静かに言う。
「マコト、声を落として。ここは医務室よ」
「ぐっ……分かっている」
マコトは咳払いをした。
そして、黒夜を見た。
目の前にいるのは、過去の黒夜。
自分を知らない黒夜。
まだトリニティに送り込まれる前の黒夜。
自分が背負わせてしまったものを、何も知らない黒夜。
マコトの胸に、重いものが沈む。
だが、それを表に出すわけにはいかなかった。
「黒夜。貴様はゲヘナの生徒だ。ならば、さっさと記憶を戻せ」
「無茶言うなよ」
「この私が命じているのだぞ!」
「知らねぇよ」
黒夜はぶっきらぼうに返す。
「偉そうに言えばどうにかなると思ってる奴が一番嫌いなんだよな」
マコトは言葉を失った。
それは、かなり刺さった。
今の黒夜なら、マコトを尊敬している。
少なくとも、万魔殿議長として一定の敬意を向けている。
だが、過去の黒夜は違う。
何の積み重ねもない。
だから、遠慮もない。
サツキがそっとマコトの背中に手を置いた。
「マコトちゃん」
「……分かっている」
マコトは小さく息を吐く。
「今の貴様には、私は知らない相手なのだったな」
「そうだな」
「なら、覚えておけ」
マコトは無理やり胸を張った。
「私は偉い」
「は?」
「ゲヘナで一番偉いと言っても過言ではない!」
「過言だろ…」
「即答するな!」
黒夜が少しだけ呆れたように見る。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「お前馬鹿だな、でも面白い奴だな!」
「貴様に言われたくないわ!」
医務室に、ほんの小さな笑いが生まれた。
最後に、カスミが入ってきた。
彼女は扉を開けるなり、満面の笑みで手を振った。
「やあ黒夜! 元気そうじゃないか!」
黒夜は目を見開いた。
「……カスミ?」
「そうとも! 君の親愛なる友人、鬼怒川カスミだ!」
「親愛なる、は余計だ」
「はーはっはっは、照れるな照れるな」
「照れてねぇよ」
黒夜の警戒が、明らかに薄れた。
それを見て、ナギサ達は少しだけ驚く。
過去黒夜にとって、カスミは知り合いなのだ。
今この場で、ヒナ以外に気を許せる数少ない相手。
カスミはベッドのそばまで遠慮なく近づいた。
「しかし黒夜、聞いたぞ。トリニティで見知らぬ人々に囲まれて寝ていたそうじゃないか」
「好きで寝てたわけじゃねぇよ」
「しかも正義実現委員会を庇ったとか。君、相変わらず面倒なところで身体が動くねぇ」
「うるせぇ」
「褒めてるんだよ?」
「褒め言葉に聞こえねぇんだよ」
カスミは楽しそうに笑う。
黒夜も少しだけ気が抜けたようだった。
カスミの存在は、明らかに今の黒夜にとって安心材料だった。
それを見て、ヒナは小さく息を吐いた。
「カスミ」
「なんだい?」
「余計な刺激を与えないで」
「善処しよう!」
「する気がない返事ね」
カヨコが静かに言った。
黒夜はカヨコ達を見回す。
「で、結局なんなんだよ。ヒナさんはともかく、知らねぇ奴らまでぞろぞろ来て」
カスミがにやにや笑う。
「君が未来で人気者になっている証拠じゃないか?」
「俺が?」
「ああ。どうやら今の君は、ずいぶん多くの者に慕われているらしい」
黒夜は信じられないという顔をした。
「……無いわ~」
彼にとって、今の自分はゲヘナ一年。
少し調子に乗って、ヒナに挑んで、完膚なきまでに叩き伏せられた直後の自分だ。
そんな自分が、未来ではこれだけの人に心配されている。
その事実は、まだうまく飲み込めない。
サツキは柔らかく言う。
「そうよ。今の黒夜ちゃんは、たくさんの人に大事にされているの」
「ちゃん付けやめろ」
「そこは譲れないわね」
「譲れよ」
イロハが少し笑う。
「まあ、少なくとも退屈しない未来みたいですよ、黒夜」
「……面倒くさそうな未来だな」
「そこは否定しません」
カヨコが静かに言う。
「でも、悪くないと思う」
黒夜はカヨコを見る。
「お前、知らねぇ奴なのに妙に言い切るな」
「知ってる側だから」
「……そうかよ」
黒夜は少しだけ黙った。
そして、視線をヒナへ戻す。
「ヒナさん」
「何?」
「俺、未来でちゃんと強くなれてますか…?」
その問いに、部屋の空気が静かになる。
ヒナは黒夜を見つめた。
今の黒夜を思い浮かべる。
左目を失いながらも、死角を音で補い、乱戦で食らいつき、誰かを守るために立ち続ける黒夜。
自分の弱さも危うさも抱えながら、それでも前に進もうとする黒夜。
ヒナは静かに答えた。
「強くなっているわ」
黒夜の表情が、少しだけ緩んだ。
「……そっか」
「でも、まだまだ」
「っ……はい!」
黒夜は少し嬉しそうに頷いた。
その返事があまりにも素直で、ヒナは胸が締め付けられた。
昔の黒夜。
今の黒夜。
どちらも、黒夜だ。
そしてそのどちらも、無茶をする。
ヒナは小さく息を吐く。
「だから今は休みなさい」
「そうしますかね」
黒夜は素直にベッドへ背を預けた。
カスミがにやりと笑う。
「黒夜、相変わらずヒナには素直だねぇ」
「うるせぇよカスミ!」
「そういうところは変わらないな」
「変わらないってなんだよ」
「こっちの話さ」
黒夜は不満そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
やがて、ミネに促され、ゲヘナの面々も医務室を出ることになった。
最後にヒナが扉の前で振り返る。
「黒夜」
「ん?」
「また来るわ」
黒夜は少しだけ驚いた顔をした。
それから、真っ直ぐに頷く。
「待ってます」
その言葉に、ヒナは一瞬だけ目を伏せた。
「……ええ」
扉が閉まる。
廊下へ出た瞬間、マコトが壁に背を預けた。
「……知らない、と言われるのは――」
言葉が途中で止まる。
サツキは何も言わず、マコトの隣に立った。
カヨコは静かに呟く。
「きついね」
「ええ、きついですねぇ」
イロハも珍しく軽口を控えめにした。
カスミだけは、少しだけ目を細めていた。
「だが、あれも間違いなく黒夜だよ」
ヒナは頷いた。
「そうね」
ナギサ達もその場にいた。
トリニティの者達。
ゲヘナの者達。
それぞれが、過去の黒夜を見た。
荒く、尖っていて、知らない相手には警戒を隠さない。
けれど、誰かの無事を気にし、ヒナの言葉に目を輝かせ、未来で強くなれているかを問う黒夜。
ナギサは静かに言った。
「あの黒夜さんが、どのようにして今の黒夜さんになったのか……少しだけ、わかったような気がします」
ヒナは扉を見つめる。
「彼は昔から、無茶ばかりだった」
その声は、少しだけ苦し気に紡がれた。
「それでも、何時だって真っ直ぐで、決して歩みを止めなかった」
ナギサはヒナの横顔を見る。
今の黒夜がヒナを尊敬している理由。
その理由を、今日少しだけ知った。
そして同時に、黒夜がどれほど多くの場所で、多くの人と関係を築いてきたのかも。
医務室の中では、過去の黒夜が休んでいる。
まだ、自分の未来を知らない黒夜が。その未来を知る者達は、複雑な心境を胸に抱いたのだった。