ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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記憶の向こう側 ~3~

 ヒナへ連絡が入ったのは、その日の夕方だった。

 

 トリニティで黒夜が倒れた。

 正義実現委員会の生徒を庇い、爆発物の破片で後頭部を打った。

 命に別状はないが、記憶に混乱が起きている。

 そして、記憶はゲヘナ学園一年時点になってしまって、ヒナに返り討ちにされた直後まで戻っている。

 その報告を聞いた時、ヒナはしばらく何も言わなかった。

 

 風紀委員会の執務室で、書類に向けていた視線が止まる。

 ペン先が紙の上で動かなくなる。

 

 黒夜が倒れた。

 それだけでも、胸の奥が冷えるには十分だった。

 だが、その記憶が過去に戻っているという話は、ヒナに別の感情を呼び起こした。

 

 ゲヘナ学園一年の時の黒夜。

 あの頃の彼は、今とは違った。

 丁寧で穏やかで、自分を後回しにして微笑む今の黒夜ではない。

 もう少し荒く、少し調子に乗っていて、強さに対して貪欲すぎるほど真っ直ぐだった。

 私に挑み、返り討ちにされ、それでも目を輝かせて「教えてほしい」と言ってきた少年。

 

 懐かしい。

 

 そう思ってしまったことに、ヒナは少しだけ胸を痛めた。

 

「……すぐに行くわ」

 

 ヒナが立ち上がる。それだけで十分だった。

 だが、廊下へ出たところで、すでに何人かが待っていた。

 

「ヒナ」

 

 カヨコが壁にもたれたまま、静かに声をかける。

 

 その隣にはイロハ。

 さらにサツキと、なぜかマコトまでいる。

 

 マコトは腕を組み、いつもの尊大な態度を保とうとしていた。だが、その表情には明らかに焦りが滲んでいる。

 

「黒夜が倒れたと聞いたぞ」

 

「……誰から聞いたの?」

 

 ヒナが問う。

 マコトは少しだけ視線を逸らした。

 

「万魔殿には優秀な情報網があるのでな」

 

 イロハが気だるげに補足する。

 

「正確には、チアキがどこかから聞きつけて騒ぎ始めました」

 

「なるほど」

 

 ヒナは短く息を吐いた。

 サツキは普段の余裕ある笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。

 

「黒夜ちゃんが怪我して、しかも記憶が昔に戻ってるんでしょ? 行かない理由ないわよ」

 

 カヨコも静かに頷く。

 

「私も行く。今の黒夜がどうなってるか、見ておきたい」

 

「トリニティにぞろぞろ押しかけるつもり?」

 

 ヒナが言うと、マコトが胸を張った。

 

「黒夜はゲヘナ学園情報部の生徒だぞ。ならば万魔殿議長であるこの私が様子を見に行くのは当然だろう」

 

 イロハが小さくため息を吐く。

 

「マコト先輩、心配なら普通に心配って言えばいいのに」

 

「うるさいぞイロハ!」

 

「はいはい」

 

 ヒナは少しだけ目を伏せた。

 黒夜を心配しているのは、自分だけではない。

 

 それは分かっている。分かっているからこそ、胸が少し重くなる。

 過去の黒夜は、この中のほとんどを知らない。

 

 マコトも、カヨコも、イロハも、サツキも。

 今の黒夜と関係を築いてきた者達は、その黒夜から見れば見知らぬ相手になる。

 

「……行きましょう」

 

 ヒナは静かに言った。

 その時だった。

 

「はーはっはっ! 随分面白そうな話をしているじゃないか!」

 

 聞き慣れた、やたら楽しそうな声が響く。

 廊下の曲がり角から、鬼怒川カスミが顔を出した。

 ヒナの眉がわずかに動く。

 

「カスミ。なぜ貴方がここにいるの」

 

「なぜって? 風が私を呼んだからだよ!」

 

「呼んでいない」

 

「細かいことは気にするな! 黒夜が昔に戻ったんだろう? それなら、私がいないと寂しいじゃないか。何せ黒夜とは同期の桜だからね!」

 

 カスミは楽しげに笑う。

 カヨコが小さく呟いた。

 

「……ややこしくなりそう」

 

「もうなってますよ」

 

 サツキはカスミを見て、少しだけ苦笑した。

 

「まあ、過去の黒夜ちゃんが知っている相手がもう一人くらいいた方が、安心するかもしれないわね」

 

 ヒナは少し考えた。

 確かに、今の黒夜にとって自分以外で見知った相手がいるなら、それは悪いことではない。

 問題は、その相手がカスミであることだ。

 

「余計なことはしないで」

 

「約束しよう!」

 

 カスミは満面の笑みで答えた。

 

「その返事が一番信用できない」

 

 ヒナはそう言いながらも、カスミを追い返しはしなかった。

 そしてゲヘナからの一行は、トリニティへ向かった。

 救護騎士団の医務室前には、ナギサ達が待っていた。

 

 ヒナ達が到着すると、空気がさらに重くなる。

 ナギサはヒナを見て、静かに頭を下げた。

 

「ヒナさん。お越しいただきありがとうございます」

 

「黒夜は?」

 

「中で休んでいます。意識はありますが……」

 

 ナギサは言葉を切った。

 ヒナはその続きを待たなかった。

 

「状態は聞いているわ」

 

 ミネが医務室から出てくる。

 

「ヒナさん。黒夜さんは現在、刺激に対してやや警戒心が強い状態です。特にトリニティの生徒には距離を取っています」

 

「分かっている」

 

「ただ、ヒナさんの名前を出した時には反応が変わりました。今の黒夜さんにとって、ヒナさんは記憶の中にある数少ない明確な存在です」

 

 ミネは真剣な顔で続ける。

 

「ですので、最初はヒナさんだけが入るのが良いかと」

 

「……」

 

 マコトが何か言おうとしたが、サツキが肩に手を置いて止めた。

 

 カヨコも静かに頷く。

 

「その方がいい」

 

 イロハも同意する。

 

「今の黒夜から見たら、私達は知らない相手ですしね」

 

 カスミは少し不満そうに手を上げる。

 

「私は知り合いだぞ?」

 

「カスミは後」

 

 ヒナが即座に言った。

 

「むう、扱いが雑だな!」

 

「いつものことでしょう」

 

 カヨコが淡々と言った。ヒナは扉の前に立つ。

 一瞬だけ、手が止まった。過去の黒夜がいる。

 今の黒夜ではなく、あの頃の黒夜が。

 ヒナは短く息を吸い、扉を開けた。

 

 医務室の中。

 

 黒夜はベッドの上で上体を起こしていた。

 窓の外へ視線を向けていたが、扉が開いた瞬間、すぐにこちらを見る。

 

 そして。

 

 黒夜の目が、大きく見開かれた。

 

「……ヒナさん」

 

 その声は、先ほどまでナギサ達に向けていたものとは違った。

 

 荒さは残っている。

 だが、そこには明らかな熱がある。

 

 憧れ。尊敬。

 そして、少しの緊張。

 黒夜は反射的に身体を起こそうとした。

 だが、頭部の痛みが走ったのか、顔をしかめる。

 

「っ……」

 

「動かなくていいわ」

 

 ヒナはすぐにベッドのそばへ歩み寄る。

 

「頭を打っている。無理に起き上がらないで」

 

「……了解」

 

 黒夜は素直に言った。

 廊下で見守っていたミカが、扉の隙間からその様子を見て目を丸くする。

 自分達にはあれほど警戒していた黒夜が、ヒナの言葉には素直に従っている。

 ナギサも胸の奥がきゅっと痛んだ。

 

 これが、ヒナへの憧れの原点なのだ。

 昔から変わらない。

 

 ヒナは静かに言った。

 

「昔から、貴方はそうね」

 

「昔から?」

 

 黒夜は首を傾げる。

 ヒナは一瞬だけ言葉に詰まった。

 今の黒夜には、未来の話が通じない。

 けれど、目の前にいるこの黒夜は確かに過去の彼だ。

 

「……何でもない」

 

「変なヒナさん」

 

「貴方に言われたくないわ」

 

 ヒナがそう返すと、黒夜は少しだけ驚いたようにして、それから小さく笑った。

 

「……やっぱり、ヒナさんはすごいな」

 

「何が」

 

「いや。よく分かんねぇ状況なのに、ヒナさんを見ると少し落ち着くっていうかさ~」

 

 黒夜は照れ隠しのように視線を逸らした。

 

「俺、ヒナさんに負けたばっかりのはずなんですけど」

 

「そうね」

 

「めちゃくちゃ強かった…」

 

「……覚えているのね」

 

「忘れるわけないでしょ」

 

 黒夜の声に、熱が戻る。

 

「何もかも違いました。速さも、判断も、撃ち方も、こっちの動きの潰し方も。俺がどれだけ調子乗ってたか、嫌でも分からされた!」

 

 彼は悔しそうだった。

 けれど、その悔しさの奥には、まっすぐな憧れがあった。

 

「ヒナさん」

 

「何?」

 

「俺に、戦い方を教えてください」

 

 医務室の外で、ナギサ達が息を呑む。

 黒夜は真っ直ぐヒナを見ていた。

 

「俺、もっと強くなりたい。あんたみたいに……いや、ヒナさんみたいには無理でも、少しでも近づきたい」

 

 ヒナは黒夜の言葉を黙って聞いていた。懐かしい。

 本当に、懐かしい言葉だった。

 

 あの頃も、黒夜はこうして何度も来た。

 最初は断った。忙しかったし、彼の勢いに付き合う余裕などなかった。

 

 それでも黒夜は何度も来た。

 ただ頼むだけでなく、風紀委員会の仕事を手伝った。書類運び、情報整理、巡回補助。手を抜かず、腐らず、真面目に動いた。

 その姿を見て、ヒナは最終的に根負けした。

 いや、根負けだけではない。

 

 認めたのだ。

 この子なら、少しだけ見てあげてもいいと。

 ヒナは目の前の黒夜を見る。

 この黒夜は、まだその未来を知らない。

 

「……今は駄目」

 

 ヒナは静かに言った。

 黒夜の顔が少しだけ曇る。

 

「やっぱり、駄目か~!」

 

「頭を打っている。今は休むことが最優先」

 

「あ……」

 

「訓練は、怪我が治ってから」

 

 黒夜が目を見開いた。

 

「じゃあ……怪我が治ったら、見てくれるのか?」

 

 ヒナは少しだけ目を細める。

 

「貴方が本気なら」

 

 黒夜の表情が、ぱっと明るくなった。

 今の黒夜ではなかなか見られない、年相応のまっすぐな喜びだった。

 

「本気です! 絶対、手を抜きません!」

 

「でしょうね」

 

 ヒナは小さく息を吐く。

 

「知っているわ」

 

「……知ってる?」

 

「何でもない」

 

「またそれですか」

 

 黒夜は少し不満そうだったが、すぐに嬉しさが勝ったのか、口元を緩めた。

 その様子を見ていたナギサ達は、胸が締め付けられるようだった。

 

 今の黒夜がヒナを尊敬している理由。

 その原点が、目の前にある。

 

 それは眩しくて、少し寂しかった。

 ヒナが出てきた後、次に入ることを許されたのは、ゲヘナの面々だった。

 ただし、一度に全員ではなく、ヒナの判断で少しずつ。

 最初に入ってきたのはカヨコだった。

 黒夜は彼女を見るなり、眉をひそめた。

 

「誰だ、お前?」

 

「鬼方カヨコ」

 

 カヨコは淡々と名乗る。

 

「今の黒夜は、私のこと知らないと思う」

 

「ああ、知らねぇな」

 

「今はそれでいい」

 

 カヨコはそう言って、ベッドから少し離れた椅子に座った。

 

 黒夜は怪訝そうにする。

 

「何しに来たんだよ」

 

「様子見」

 

「見て楽しいか?」

 

「楽しくはない」

 

 即答だった。

 黒夜は少し言葉に詰まる。

 カヨコは黒夜をじっと見た。

 

「でも、生きてるのは確認できた」

 

「……そりゃどうも」

 

「うん」

 

 たったこれだけの短いやり取り。

 だが、無事を確認出来たカヨコの表情はほんの少しだけ柔らかかった。

 

 次に入ったのはイロハとサツキだった。

 イロハはいつものように気だるげに手を上げる。

 

「どうも、黒夜」

 

「次は誰だよ」

 

「まあ、今はそうなりますよねぇ。棗イロハです」

 

「すまんが、知らねぇな」

 

「でしょうね」

 

 イロハは苦笑した。

 サツキは黒夜を見るなり、少しだけ目を細めた。

 

「本当に、昔の黒夜ちゃんね」

 

「ちゃん?」

 

 黒夜が露骨に嫌そうな顔をする。

 

「誰が黒夜ちゃんだ」

 

「あら、可愛い後輩にはそう呼ぶものよ」

 

「知らねぇ奴に後輩扱いされる筋合いはねぇんだけど…」

 

「ふふ、そういうところも新鮮ね」

 

 サツキは笑っているが、その奥には少しだけ寂しさがある。

 

 今の黒夜なら、困ったように「サツキさん、その呼び方は……」と言うだろう。

 けれど、目の前の黒夜は本気で警戒している。

 イロハはその空気を軽くするように言った。

 

「まあまあ。黒夜、そんなに尖らなくても大丈夫ですよ」

 

「お前も馴れ馴れしいな」

 

「今の黒夜に言われると、ちょっと面白いですねぇ」

 

「何がだよ」

 

「いえ、こっちの話です」

 

 イロハは少しだけ目を細めた。

 

「昔の黒夜は相変わらずですね」

 

「相変わらず?」

 

「ええ。まあ、未来の話なので今は気にしなくていいです」

 

「さっきからそればっかりだな。未来だの記憶だの」

 

 黒夜は苛立つように髪を掻いた。

 

「俺だけ何も分かんねぇの、気持ち悪いんだよな」

 

 その言葉に、サツキの表情が少し真剣になる。

 

「……そうよね」

 

 サツキは少しだけ近づいた。

 

「ごめんなさいね、黒夜ちゃん。私たちだけがあなたを知っていて、あなたは私たちを知らない。気持ち悪くて当然だわ」

 

「……」

 

 黒夜は反論しなかった。

 意外だったのか、少しだけ目を逸らす。

 

「分かってるなら、変な距離の詰め方すんな」

 

「ええ。気をつけるわ」

 

 サツキは微笑む。

 

「でも、無事でよかった」

 

「……だから大げさなんだよ」

 

「大げさじゃないのよ」

 

 その言葉は、とても静かだった。

 黒夜は何も言えなかった。

 

 次に入ってきたのは、マコトだった。

 彼女はいつものように堂々と入ってきた。

 

「黒夜!」

 

 その声に、黒夜が眉をひそめる。

 

「なんだ、今度は偉そうなのが来たな」

 

 マコトの足が止まった。

 ナギサ達も、イロハ達も、一瞬息を止める。

 マコトは黒夜に知られていない。

 それは分かっていた。

 だが、実際に見知らぬ相手として扱われると、胸に来るものがあった。

 

「……私は羽沼マコト。万魔殿の議長だ」

 

「万魔殿の議長?」

 

 黒夜は少し目を細める。

 

「へぇ。あんたが…」

 

「なんだ、その目は」

 

「いや、思ったより……」

 

「思ったより何だ!」

 

「バカそうだなって」

 

「貴様ぁ!」

 

 マコトが反射的に声を上げる。

 イロハがすぐに頭を抱えた。

 

「ああ、だめだ。相性が昔の黒夜と悪そう」

 

 サツキは苦笑する。

 

「でも、マコトちゃんらしいわね」

 

 ヒナが静かに言う。

 

「マコト、声を落として。ここは医務室よ」

 

「ぐっ……分かっている」

 

 マコトは咳払いをした。

 そして、黒夜を見た。

 目の前にいるのは、過去の黒夜。

 

 自分を知らない黒夜。

 まだトリニティに送り込まれる前の黒夜。

 自分が背負わせてしまったものを、何も知らない黒夜。

 

 マコトの胸に、重いものが沈む。

 だが、それを表に出すわけにはいかなかった。

 

「黒夜。貴様はゲヘナの生徒だ。ならば、さっさと記憶を戻せ」

 

「無茶言うなよ」

 

「この私が命じているのだぞ!」

 

「知らねぇよ」

 

 黒夜はぶっきらぼうに返す。

 

「偉そうに言えばどうにかなると思ってる奴が一番嫌いなんだよな」

 

 マコトは言葉を失った。

 それは、かなり刺さった。

 

 今の黒夜なら、マコトを尊敬している。

 少なくとも、万魔殿議長として一定の敬意を向けている。

 

 だが、過去の黒夜は違う。

 

 何の積み重ねもない。

 だから、遠慮もない。

 

 サツキがそっとマコトの背中に手を置いた。

 

「マコトちゃん」

 

「……分かっている」

 

 マコトは小さく息を吐く。

 

「今の貴様には、私は知らない相手なのだったな」

 

「そうだな」

 

「なら、覚えておけ」

 

 マコトは無理やり胸を張った。

 

「私は偉い」

 

「は?」

 

「ゲヘナで一番偉いと言っても過言ではない!」

 

「過言だろ…」

 

「即答するな!」

 

 黒夜が少しだけ呆れたように見る。

 けれど、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

 

「お前馬鹿だな、でも面白い奴だな!」

 

「貴様に言われたくないわ!」

 

 医務室に、ほんの小さな笑いが生まれた。

 最後に、カスミが入ってきた。

 彼女は扉を開けるなり、満面の笑みで手を振った。

 

「やあ黒夜! 元気そうじゃないか!」

 

 黒夜は目を見開いた。

 

「……カスミ?」

 

「そうとも! 君の親愛なる友人、鬼怒川カスミだ!」

 

「親愛なる、は余計だ」

 

「はーはっはっは、照れるな照れるな」

 

「照れてねぇよ」

 

 黒夜の警戒が、明らかに薄れた。

 それを見て、ナギサ達は少しだけ驚く。

 過去黒夜にとって、カスミは知り合いなのだ。

 今この場で、ヒナ以外に気を許せる数少ない相手。

 カスミはベッドのそばまで遠慮なく近づいた。

 

「しかし黒夜、聞いたぞ。トリニティで見知らぬ人々に囲まれて寝ていたそうじゃないか」

 

「好きで寝てたわけじゃねぇよ」

 

「しかも正義実現委員会を庇ったとか。君、相変わらず面倒なところで身体が動くねぇ」

 

「うるせぇ」

 

「褒めてるんだよ?」

 

「褒め言葉に聞こえねぇんだよ」

 

 カスミは楽しそうに笑う。

 黒夜も少しだけ気が抜けたようだった。

 

 カスミの存在は、明らかに今の黒夜にとって安心材料だった。

 それを見て、ヒナは小さく息を吐いた。

 

「カスミ」

 

「なんだい?」

 

「余計な刺激を与えないで」

 

「善処しよう!」

 

「する気がない返事ね」

 

 カヨコが静かに言った。

 黒夜はカヨコ達を見回す。

 

「で、結局なんなんだよ。ヒナさんはともかく、知らねぇ奴らまでぞろぞろ来て」

 

 カスミがにやにや笑う。

 

「君が未来で人気者になっている証拠じゃないか?」

 

「俺が?」

 

「ああ。どうやら今の君は、ずいぶん多くの者に慕われているらしい」

 

 黒夜は信じられないという顔をした。

 

「……無いわ~」

 

 彼にとって、今の自分はゲヘナ一年。

 少し調子に乗って、ヒナに挑んで、完膚なきまでに叩き伏せられた直後の自分だ。

 そんな自分が、未来ではこれだけの人に心配されている。

 その事実は、まだうまく飲み込めない。

 

 サツキは柔らかく言う。

 

「そうよ。今の黒夜ちゃんは、たくさんの人に大事にされているの」

 

「ちゃん付けやめろ」

 

「そこは譲れないわね」

 

「譲れよ」

 

 イロハが少し笑う。

 

「まあ、少なくとも退屈しない未来みたいですよ、黒夜」

 

「……面倒くさそうな未来だな」

 

「そこは否定しません」

 

 カヨコが静かに言う。

 

「でも、悪くないと思う」

 

 黒夜はカヨコを見る。

 

「お前、知らねぇ奴なのに妙に言い切るな」

 

「知ってる側だから」

 

「……そうかよ」

 

 黒夜は少しだけ黙った。

 そして、視線をヒナへ戻す。

 

「ヒナさん」

 

「何?」

 

「俺、未来でちゃんと強くなれてますか…?」

 

 その問いに、部屋の空気が静かになる。

 ヒナは黒夜を見つめた。

 今の黒夜を思い浮かべる。

 

 左目を失いながらも、死角を音で補い、乱戦で食らいつき、誰かを守るために立ち続ける黒夜。

 自分の弱さも危うさも抱えながら、それでも前に進もうとする黒夜。

 

 ヒナは静かに答えた。

 

「強くなっているわ」

 

 黒夜の表情が、少しだけ緩んだ。

 

「……そっか」

 

「でも、まだまだ」

 

「っ……はい!」

 

 黒夜は少し嬉しそうに頷いた。

 その返事があまりにも素直で、ヒナは胸が締め付けられた。

 

 昔の黒夜。

 今の黒夜。

 

 どちらも、黒夜だ。

 そしてそのどちらも、無茶をする。

 ヒナは小さく息を吐く。

 

「だから今は休みなさい」

 

「そうしますかね」

 

 黒夜は素直にベッドへ背を預けた。

 カスミがにやりと笑う。

 

「黒夜、相変わらずヒナには素直だねぇ」

 

「うるせぇよカスミ!」

 

「そういうところは変わらないな」

 

「変わらないってなんだよ」

 

「こっちの話さ」

 

 黒夜は不満そうに眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。

 やがて、ミネに促され、ゲヘナの面々も医務室を出ることになった。

 最後にヒナが扉の前で振り返る。

 

「黒夜」

 

「ん?」

 

「また来るわ」

 

 黒夜は少しだけ驚いた顔をした。

 それから、真っ直ぐに頷く。

 

「待ってます」

 

 その言葉に、ヒナは一瞬だけ目を伏せた。

 

「……ええ」

 

 扉が閉まる。

 廊下へ出た瞬間、マコトが壁に背を預けた。

 

「……知らない、と言われるのは――」

 

 言葉が途中で止まる。

 サツキは何も言わず、マコトの隣に立った。

 カヨコは静かに呟く。

 

「きついね」

 

「ええ、きついですねぇ」

 

 イロハも珍しく軽口を控えめにした。

 カスミだけは、少しだけ目を細めていた。

 

「だが、あれも間違いなく黒夜だよ」

 

 ヒナは頷いた。

 

「そうね」

 

 ナギサ達もその場にいた。

 

 トリニティの者達。

 ゲヘナの者達。

 

 それぞれが、過去の黒夜を見た。

 

 荒く、尖っていて、知らない相手には警戒を隠さない。

 けれど、誰かの無事を気にし、ヒナの言葉に目を輝かせ、未来で強くなれているかを問う黒夜。

 

 ナギサは静かに言った。

 

「あの黒夜さんが、どのようにして今の黒夜さんになったのか……少しだけ、わかったような気がします」

 

 ヒナは扉を見つめる。

 

「彼は昔から、無茶ばかりだった」

 

 その声は、少しだけ苦し気に紡がれた。

 

「それでも、何時だって真っ直ぐで、決して歩みを止めなかった」

 

 ナギサはヒナの横顔を見る。

 

 今の黒夜がヒナを尊敬している理由。

 その理由を、今日少しだけ知った。

 

 そして同時に、黒夜がどれほど多くの場所で、多くの人と関係を築いてきたのかも。

 医務室の中では、過去の黒夜が休んでいる。

 

 まだ、自分の未来を知らない黒夜が。その未来を知る者達は、複雑な心境を胸に抱いたのだった。

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