ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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記憶の向こう側 ~5~

「……未来の俺、何やったんだよ」

 

 黒夜の問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 医務室の中も、扉の外も、静まり返っていた。

 その問いは、あまりにも難しかった。

 

 ひとことで説明できるものではない。

 黒夜が積み重ねてきた時間は、あまりにも多くの人の中に残っていた。だからこそ、過去の黒夜が明るく「早く元に戻らなきゃな」と言った瞬間、誰もが胸を締め付けられた。

 

 元に戻ってほしい。それは本心だった。

 けれど、今目の前にいるこの荒っぽい黒夜も、確かに黒夜だった。

 ホシノは、ベッドのそばで小さく息を吐いた。

 

「うへ~……黒夜君。それはね~、たぶん一言じゃ説明できないかな」

 

「なんだよ、それ」

 

 黒夜は不満そうに眉を寄せる。

 

「俺の話なんだろ? 俺が知らねぇってのも変な話だけどさ」

 

「うん。君の話だよ」

 

 ホシノは、いつものゆるい声で言った。

 

「でも、ここにいるみんなの話でもあるんだよね~」

 

「……うーんそこが分かんねぇ」

 

「だろうね~」

 

 ホシノは否定しない。

 シロコは黒夜を見つめたまま、短く言った。

 

「黒夜は、みんなの中にいる」

 

「死んだみたいな言い方すんな」

 

「ん、生きてる」

 

 シロコは即答した。

 

「だから、ここにいる」

 

 黒夜は返す言葉を失った。

 シロコ*テラーは静かに目を伏せる。

 

『あなたは、色々な人の中に残っている。だから、あなたが自分を軽く扱うと、皆が痛い』

 

「軽く扱ったつもりはねぇよ」

 

『わかってる』

 

 シロコ*テラーは、少しだけ苦しそうに言った。

 

『でも、黒夜は昔からそういう言い方をする』

 

「……」

 

 黒夜は黙った。何かを言い返したかったが、言葉が見つからない。

 扉の外で聞いていたナギサが、そっと胸元を押さえた。

 

 黒夜は知らない。この場にいる者達が、どれだけ彼を失いかけたのかを。

 彼が自分を消そうとした時、どれだけの人が息を止めるような恐怖を覚えたのかを。

 

 だから責めることはできない。

 けれど、痛いものは痛かった。

 

 ミネが静かに医務室へ入ってくる。

 

「黒夜さん。少し疲労が出ています。今日はもう休みましょう」

 

「もう来客は無しか?」

 

「ええ、お疲れさまでした」

 

 ミネは真面目な顔で頷いた。

 

「頭部への衝撃だけでなく、記憶の混乱による精神的負担も大きいはずです。今は眠ることが一番の治療です」

 

 黒夜は不満そうに唇を曲げた。

 だが、先ほどまでより顔色が悪い。本人もそれを分かっているのだろう。しばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。

 

「……わかった」

 

 ホシノが笑う。

 

「うへ~、素直でえらいね~」

 

「子供扱いすんな」

 

「頭打ってる子はみんな子供扱いだよ~」

 

「理不尽だな」

 

「世の中そういうものだよ~」

 

 黒夜は呆れたように目を逸らした。

 それでも、ベッドに横になる。

 

 ミネが灯りを少し落とし、医務室の空気が静かになる。

 廊下で待っていた者達も、誰からともなく声を潜めた。ナギサ、ミカ、セイア。ヒナ、マコト、カヨコ、イロハ、サツキ、カスミ。リオ、ヒマリ、ユウカ。アリウススクワッド。アビドスの面々。テラー達。

 多すぎるほどの人が、黒夜を心配していた。

 黒夜は眠る直前、かすかに呟いた。

 

「……変な未来だな」

 

 誰にも向けていない言葉だった。

 

「俺が、こんなに心配されるなんて」

 

 その言葉を最後に、黒夜はゆっくりと目を閉じた。

 眠りは、思ったより早く訪れた。

 

 黒夜は夢を見た。

 夢の中で、彼はゲヘナの薄暗い路地に立っていた。

 

 手には缶コーヒー。口の中には苦み。身体中が痛い。

 ヒナに負けた直後だった。

 

 自分よりずっと強い相手がいた。手も足も出なかった。

 悔しいはずなのに、それより先に胸が熱くなった。

 

 あの人に教わりたい。

 あの人の見ている光景を見てみたい。

 そんな未熟な願いを抱えていた。

 

 すると、景色が揺れた。

 

 トリニティの白い廊下。

 ナギサの震えた声。ミカの泣きそうな顔。セイアの静かな瞳。

 

 黒い羽根の三人が、何かを堪えるように自分を見ている。

 

 ゲヘナの執務室。

 マコトが大げさに怒鳴っている。サツキが笑っている。

 イロハが気だるげに手を振る。カヨコが短く「戻ってきたんだね」と言う。

 

 ミレニアムの機材音。

 ヒマリの膝枕。リオの真剣な声。

 

 アリウスの食卓。

 生姜焼きの匂い。

 アツコの「また食べたいな」という声。

 サオリ達の静かな表情。

 

 アビドスの砂と空。

 ホシノの盾。シロコの短い言葉。

 シロコ*テラーの静かな謝罪。

 

 そして、シャーレ。

 

 先生の声。プレ先の落ち着いた声。

 

 おかえり。

 

 誰かがそう言った。

 その声に向かって、黒夜は手を伸ばした。

 

 次の日

 

 目を開けた時、天井は救護騎士団の医務室のものだった。

 黒夜は何度か瞬きをした。

 

 頭が重い。けれど、先ほどまでの霧のような感覚は薄れていた。

 

「……ここは?」

 

 声が漏れる。その声を聞いて、そばにいたミネがすぐに顔を上げた。

 

「黒夜さん。分かりますか?」

 

 黒夜はゆっくりとミネを見る。

 数秒、記憶を辿るように沈黙した。

 そして、いつもの声で言った。

 

「……救護騎士団の医務室、ですね」

 

 ミネの表情が変わった。

 

「黒夜さん。自分の名前は?」

 

「月城黒夜です」

 

「所属は?」

 

「ゲヘナ学園情報部兼トリニティ総合学園ティーパーティー専属護衛兼ミレニアムサイエンススクールのゲーム開発部所属です」

 

 その答えを聞いた瞬間、ミネは深く息を吐いた。

 

「……よかった」

 

 その一言が、廊下へ伝わった。

 扉の向こうで、ざわめきが起こる。

 次の瞬間、ミカが飛び込んできた。

 

「黒夜!」

 

「ミカ様」

 

 黒夜が名を呼んだ。

 それだけで、ミカの目から涙が溢れた。

 

「黒夜ぁぁぁあああ!」

 

「わっ……」

 

 ミカが勢いよく抱きつき、黒夜はベッドの上で少しだけ身体を揺らした。

 ミネがすぐに注意する。

 

「ミカ様、黒夜さんは頭を打っています。あまり強く抱きつかないでください」

 

「あっ、ごめん! ごめんね黒夜!」

 

「いえ、大丈夫ですけど…」

 

「それ! それ黒夜だ!」

 

「え?」

 

 黒夜は困惑した。

 続いて、ナギサとセイアが入ってくる。

 ナギサはいつもの優雅さを保とうとしていた。だが、目元は赤い。

 

「黒夜さん……私のことが分かりますか」

 

「ナギサ様ですね。もちろんわかりますよ」

 

 ナギサは唇を噛んだ。

 それから、静かに黒夜の手を取る。

 

「……本当によかった」

 

 その一言は、震えていた。

 セイアはベッドのそばに立ち、静かに息を吐く。

 

「治ったんだね、黒夜」

 

「すいません。ご心配をおかけしました」

 

「本当にね」

 

 セイアの声は穏やかだったが、そこには確かな安堵があった。

 テラー達も入ってくる。ナギサ*テラーは、黒夜の顔を見るなり、祈るように両手を握った。

 

『黒夜さん……』

 

「黒ナギサ様」

 

 黒夜がそう呼ぶと、ナギサ*テラーの目に涙が滲んだ。

 

『私たちのことが、分かるのですね!?』

 

「え?わかりますよ?」

 

 ミカ*テラーは堪えきれずに黒夜へ近づく。

 

『黒夜……!』

 

「黒ミカ様、申し訳ありません。頭を打っているので、抱きつくのは少しだけ優しくしていただけると……」

 

『うん! 優しくするね!』

 

 そう言いながら、ミカ*テラーは黒夜の肩にそっと触れる。いつもよりずっと慎重だった。

 セイア*テラーは黒夜を見つめ、静かに言った。

 

『おかえり、黒夜』

 

 黒夜は少しだけ目を細める。

 

「……ただいま戻りました」

 

 その言葉に、部屋の空気がようやくほどけた。

 だが、黒夜はすぐに違和感に気づいた。

 

 廊下に人の気配が多すぎる。

 見れば、扉の外に何人もの顔がある。ヒナ、マコト、カヨコ、イロハ、サツキ、カスミ。リオ、ヒマリ、ユウカ。アリウススクワッド。ホシノ、シロコ、シロコ*テラー。

 黒夜は数秒、全員を見回した。

 

「……あの」

 

「はい、黒夜さん」

 

 ナギサが答える。

 

「これは、一体……?」

 

 全員が一瞬黙った。

 そして、ミカが気まずそうに笑う。

 

「えっと……黒夜、覚えてない?」

 

「何をでしょうか?」

 

 黒夜は不安そうに眉を寄せた。

 ミネが説明する。

 

「黒夜さん。貴方は頭部への衝撃で、一時的に記憶が過去へ戻っていました」

 

「過去へ?」

 

「はい。ゲヘナ学園の一年生、ヒナさんに敗北した直後の時期です」

 

 黒夜の表情が固まった。

 

「……え?」

 

 イロハが廊下から手を振る。

 

「いやぁ、なかなか懐かしい黒夜でしたよ」

 

 カスミが楽しそうに笑う。

 

「久々に尖っていた黒夜が見られて、私は楽しかったぞ!」

 

「カスミさん」

 

 黒夜の声が静かに震える。

 

「私は、何を言いましたか…?」

 

 医務室の空気が少しだけ気まずくなる。

 ナギサが目を逸らした。

 ミカも視線を泳がせる。

 セイアは静かに言った。

 

「聞きたいかい?」

 

「聞かない方が良い気もしてきました」

 

 マコトが腕を組み、どこか複雑そうに言う。

 

「私に向かって、偉そうでバカそうだと言ったぞ…!」

 

 黒夜の顔色が変わった。

 

「マコト様に、ですか?」

 

「さらに『偉そうに言えばどうにかなると思っている奴は嫌い』とも言った」

 

「……」

 

 黒夜は両手で顔を覆った。

 

「本当に申し訳ありません……」

 

 マコトはふんと鼻を鳴らす。

 

「まあ、今の貴様ではなかったからな。特別に許してやる」

 

 サツキが微笑む。

 

「私には黒夜ちゃん呼びをやめろって言っていたわね」

 

「それは……今も少し思っていますが」

 

「あら?」

 

「いえ、申し訳ありません」

 

 カヨコが淡々と言う。

 

「私には誰だって言ってた」

 

「カヨコさん……すみません」

 

「別に。知らない時期なら気にしてないよ」

 

 リオも静かに続ける。

 

「私たちにも随分遠慮がなかったわ」

 

 ヒマリは楽しげに笑う。

 

「私の自称を長いと言いました」

 

「……それは、申し訳ありません。ですが、確かに少し長いとは思います」

 

「黒夜さん?」

 

「すみません」

 

 ユウカが苦笑する。

 

「でも、ちゃんと黒夜さんでしたよ。昔は少し荒かったと聞いていましたが、根本は変わっていませんでした」

 

 アツコが静かに言う。

 

「私たちのことは知らなかったけど、謝ってくれた」

 

「アツコさん……」

 

 ヒヨリは涙目で頷く。

 

「昔の黒夜さんも優しかったですぅ……!」

 

 サオリは真面目に言う。

 

「生姜焼きの話もした」

 

「なぜそこで生姜焼きの話を……」

 

 黒夜は頭を抱えたまま呟いた。

 ホシノがのんびり笑う。

 

「うへ~、黒夜君。昔の君もだいぶ面白かったよ~」

 

「ホシノさん……私は、ホシノさんにも失礼なことを?」

 

「アビドスは砂だらけで大変な学校って言ってたね~」

 

「……大変申し訳ありません」

 

「だいたい合ってるから大丈夫だよ~」

 

 シロコが短く言う。

 

「ん、傷ついた」

 

 シロコ*テラーも静かに頷いた。

 

『ん、慰謝料としてハグを請求する』

 

 黒夜は、しばらく黙った。

 謝りたいことが多すぎる。

 

 だが、それ以上に胸の奥に残るものがあった。

 

 自分が覚えていない間にも、皆は自分のそばにいてくれた。

 過去の自分に拒絶されても、知らない相手として扱われても、それでも離れなかった。

 

「……皆さん」

 

 黒夜はゆっくりと顔を上げた。

 

「本当に、ご迷惑をおかけしました」

 

 深く頭を下げようとした瞬間、ミネが止める。

 

「頭を打っています。深く頭を下げないでください」

 

「……あぁ、すいません」

 

 黒夜は中途半端な角度で止まり、余計に申し訳なさそうな顔になった。

 その姿を見て、ミカが泣き笑いする。

 

「黒夜、戻ってきたんだね」

 

「はい」

 

「本当に、戻ってきたんだね…」

 

 ミカは今度こそ、優しく黒夜の手を握った。

 ナギサは静かに言う。

 

「黒夜さん。昔の貴方は、今の貴方とは随分違いました」

 

「……そうでしょうね」

 

「口調も荒く、私たちへの警戒も強く……正直、少しだけ傷つきました」

 

「本当に申し訳ありません」

 

「ですが」

 

 ナギサは首を横に振った。

 

「それでも、確かに黒夜さんでした」

 

 黒夜はナギサを見る。

 

「貴方は、昔から誰かを見捨てられない方だったのですね。感謝されると困った顔をして、自分の怪我より相手の無事を気にする。今の貴方に繋がるものが、あの頃から確かにありました」

 

 ナギサの声が少し震える。

 

「昔の貴方も、今の貴方も、どちらも黒夜さんなのですね」

 

 黒夜は言葉を失った。

 

 セイアが続ける。

 

「君が今の君になるまでの道を、少しだけ見た気がするよ」

 

「セイア様……」

 

「荒くて、不器用で、まだ何も知らない君だった。それでも、君だったよ」

 

 ミカも頷く。

 

「ちょっと怖かったけどね」

 

「……すみません」

 

「でも、黒夜だったよ。だから、余計に泣きそうになったけど」

 

 黒夜は目を伏せた。

 ナギサ*テラーが、祈るように言う。

 

『私たちは、知らない黒夜さんにも会いました』

 

 ミカ*テラーが続ける。

 

『私たちのこと分かってくれなくて、すごく寂しかった』

 

 セイア*テラーは静かに目を細める。

 

『けれど、それでも君は君だった。だから、私たちは耐えれたよ』

 

 黒夜の胸に、熱いものが込み上げる。

 言葉にしようとしても、うまく出てこない。

 その時、ヒナが一歩前に出た。

 黒夜は反射的に姿勢を正そうとして、ミネに視線で止められる。

 ヒナは静かに黒夜を見る。

 

「黒夜」

 

「ヒナさん…」

 

「昔から、貴方は無茶ばかりね」

 

 その一言に、黒夜は苦笑した。

 

「……返す言葉もありません」

 

「あの頃の貴方も、今の貴方も、無茶をする理由はあまり変わっていない」

 

「そう、でしょうか?」

 

「ええ」

 

 ヒナは少しだけ目を細める。

 

「だから、今度はちゃんと覚えておきなさい。自分が倒れたら、どれだけの人が心配するのか」

 

 黒夜は周囲を見た。これだけの人がいる。

 皆、自分のために来てくれた。

 

「……はい」

 

 黒夜は静かに頷いた。

 

「ちゃんと覚えておきます」

 

 ホシノがゆるく笑う。

 

「うへ~、本当に覚えてる?」

 

「努力します」

 

「そこは断言してほしいな~」

 

「……覚えます」

 

「よろしい」

 

 シロコが短く言う。

 

「次から無茶したら怒る」

 

「既に怒られる予定なのですね」

 

「ん」

 

 アツコも静かに言った。

 

「今度は、ちゃんと無事に帰ってきてね」

 

 黒夜は彼女を見る。

 そして、少しだけ柔らかく笑った。

 

「頑張ります」

 

 その言葉に、アツコはようやく安心したように微笑んだ。

 

 リオが腕を組む。

 

「しばらくは安静。ミレニアムでの作業も禁止よ」

 

「リオさんまで」

 

 ヒマリが頷く。

 

「もちろん、ハッキング講義も一時停止です。代わりに我が儘の練習を再開しましょうか?」

 

「それは講義なのですか?」

 

「ええ。非常に重要な講義です」

 

 ユウカが真顔で続ける。

 

「休憩時間の管理表でも作りましょうか?」

 

「作らなくて大丈夫です」

 

「それは周囲が判断します」

 

「……皆さん、少し厳しくなっていませんか?」

 

 イロハが肩をすくめる。

 

「そりゃあ、あんな昔の黒夜を見せられたら、みんなの心配も増えますよ」

 

「私のせいですか?」

 

「だいたい黒夜のせいですねぇ」

 

 黒夜は困ったように笑った。

 マコトがふんと鼻を鳴らす。

 

「まったく、貴様はこの私を心配させすぎだ! 罰として、回復したら万魔殿の業務を手伝え!」

 

「いつも手伝ってるような」

 

「うるさいぞ!」

 

 サツキが微笑む。

 

「黒夜ちゃん、回復したら私にも顔を見せに来てね」

 

「わかりました」

 

「ちゃんと休んでからよ?」

 

「……はい」

 

 カヨコは短く言った。

 

「次、心配させたら覚悟してよね」

 

 黒夜はその言葉に、小さく頷いた。

 

「わ…かりました…」

 

 カスミがにやにや笑う。

 

「いやあ、しかし昔の黒夜も捨てがたかったねぇ。あの尖り具合、なかなか懐かしかったな」

 

「カスミさん、その話はできれば広めないでいただけると」

 

「う~んどうしようかな~?」

 

「お願いします」

 

「そこまで頼まれると、少し考えたくなるね!」

 

「カスミ」

 

 ヒナが静かに名を呼ぶ。

 カスミは即座に笑顔で両手を上げた。

 

「冗談だとも!」

 

 黒夜は深く息を吐いた。

 ようやく少しだけ、いつもの空気が戻ってきた。

 重くて、苦しくて、泣きそうになる時間は確かにあった。けれど今、ここには黒夜が戻ってきた安堵がある。

 

 ミネが手を叩く。

 

「皆さん、黒夜さんの意識が戻ったことは喜ばしいですが、まだ安静が必要です。面会はここまでにしましょう」

 

「ええ、そうですね」

 

 ナギサが頷く。

 ミカは名残惜しそうに黒夜の手を握っていたが、ナギサに促されて離す。

 

「黒夜、また来るね」

 

「お待ちしています」

 

 ミカ*テラーも名残惜しそうに言う。

 

『絶対だからね』

 

 ナギサ*テラーは静かに微笑む。

 

『戻ってきてくださって、ありがとうございます』

 

「こちらこそ、待っていてくださってありがとうございました」

 

 セイア*テラーは最後に一言だけ告げた。

 

『次に私たちを心配させたら…一か月は監視させてもらうからね?』

 

「……肝に銘じます」

 

 黒夜は苦笑した。

 一人、また一人と医務室を出ていく。

 

 最後に残ったのは、ヒナだった。

 ヒナはベッドのそばに立ち、黒夜を見下ろす。

 

「あの頃の貴方が言っていたわ。強くなれているか、と」

 

 黒夜の表情が少し変わる。

 

「……そうですか」

 

「私は、強くなっていると答えたわ」

 

「……」

 

「でも、まだまだとも言った」

 

 黒夜は少し笑った。

 

「ヒナさんらしいですね」

 

「事実よ」

 

「そうですね」

 

 ヒナは静かに続ける。

 

「強くなりなさい。けれど、倒れるためではなく、帰ってくるために」

 

 黒夜はその言葉を、ゆっくりと胸に落とした。

 

「……わかりました!」

 

 今度は、はっきりと頷く。

 

「帰ってくるために、強くなります!」

 

 ヒナはその答えを聞いて、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

「ならいい」

 

 それだけ言って、ヒナも医務室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 医務室は急に静かになった。

 ミネが黒夜のそばへ戻ってくる。

 

「黒夜さん。今は休んでください」

 

「そうさせてもらいます」

 

 黒夜は素直に頷いた。

 ベッドに身体を預けると、疲労が一気に戻ってくる。

 

 頭はまだ少し重い。

 記憶の一部はぼんやりしている。

 

 けれど、胸の奥には確かな温かさがあった。

 過去の自分が何を見たのか、すべてを覚えているわけではない。

 

 ただ、断片は残っている。

 

 ヒナに憧れていた頃の自分。

 知らないはずの人達に囲まれ、戸惑っていた自分。

 それでも、誰かの心配に触れていた自分。

 

 黒夜は天井を見上げ、小さく呟いた。

 

「……随分と、遠くまで来ていたのですね」

 

 ゲヘナ一年の自分には、きっと想像もできなかった未来。

 トリニティに居場所があり、ミレニアムに学びがあり、アリウスに食卓があり、アビドスに訓練があり、それぞれに帰る場所がある。

 そして、それぞれの場所に、自分を待ってくれる人がいる。

 

 黒夜は静かに目を閉じた。

 今度の眠りは、恐ろしくなかった。

 記憶の向こう側にいた昔の自分も、きっと今の自分へ繋がっている。

 荒くて、不器用で、強さに憧れていたあの頃の自分がいたから、今ここにいる。

 黒夜は小さく息を吐き、眠りに落ちる直前、かすかに笑った。

 

「……昔の私には、少し自慢できそうですね」

 

 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 けれど確かに、穏やかだった。

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