「……未来の俺、何やったんだよ」
黒夜の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
医務室の中も、扉の外も、静まり返っていた。
その問いは、あまりにも難しかった。
ひとことで説明できるものではない。
黒夜が積み重ねてきた時間は、あまりにも多くの人の中に残っていた。だからこそ、過去の黒夜が明るく「早く元に戻らなきゃな」と言った瞬間、誰もが胸を締め付けられた。
元に戻ってほしい。それは本心だった。
けれど、今目の前にいるこの荒っぽい黒夜も、確かに黒夜だった。
ホシノは、ベッドのそばで小さく息を吐いた。
「うへ~……黒夜君。それはね~、たぶん一言じゃ説明できないかな」
「なんだよ、それ」
黒夜は不満そうに眉を寄せる。
「俺の話なんだろ? 俺が知らねぇってのも変な話だけどさ」
「うん。君の話だよ」
ホシノは、いつものゆるい声で言った。
「でも、ここにいるみんなの話でもあるんだよね~」
「……うーんそこが分かんねぇ」
「だろうね~」
ホシノは否定しない。
シロコは黒夜を見つめたまま、短く言った。
「黒夜は、みんなの中にいる」
「死んだみたいな言い方すんな」
「ん、生きてる」
シロコは即答した。
「だから、ここにいる」
黒夜は返す言葉を失った。
シロコ*テラーは静かに目を伏せる。
『あなたは、色々な人の中に残っている。だから、あなたが自分を軽く扱うと、皆が痛い』
「軽く扱ったつもりはねぇよ」
『わかってる』
シロコ*テラーは、少しだけ苦しそうに言った。
『でも、黒夜は昔からそういう言い方をする』
「……」
黒夜は黙った。何かを言い返したかったが、言葉が見つからない。
扉の外で聞いていたナギサが、そっと胸元を押さえた。
黒夜は知らない。この場にいる者達が、どれだけ彼を失いかけたのかを。
彼が自分を消そうとした時、どれだけの人が息を止めるような恐怖を覚えたのかを。
だから責めることはできない。
けれど、痛いものは痛かった。
ミネが静かに医務室へ入ってくる。
「黒夜さん。少し疲労が出ています。今日はもう休みましょう」
「もう来客は無しか?」
「ええ、お疲れさまでした」
ミネは真面目な顔で頷いた。
「頭部への衝撃だけでなく、記憶の混乱による精神的負担も大きいはずです。今は眠ることが一番の治療です」
黒夜は不満そうに唇を曲げた。
だが、先ほどまでより顔色が悪い。本人もそれを分かっているのだろう。しばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「……わかった」
ホシノが笑う。
「うへ~、素直でえらいね~」
「子供扱いすんな」
「頭打ってる子はみんな子供扱いだよ~」
「理不尽だな」
「世の中そういうものだよ~」
黒夜は呆れたように目を逸らした。
それでも、ベッドに横になる。
ミネが灯りを少し落とし、医務室の空気が静かになる。
廊下で待っていた者達も、誰からともなく声を潜めた。ナギサ、ミカ、セイア。ヒナ、マコト、カヨコ、イロハ、サツキ、カスミ。リオ、ヒマリ、ユウカ。アリウススクワッド。アビドスの面々。テラー達。
多すぎるほどの人が、黒夜を心配していた。
黒夜は眠る直前、かすかに呟いた。
「……変な未来だな」
誰にも向けていない言葉だった。
「俺が、こんなに心配されるなんて」
その言葉を最後に、黒夜はゆっくりと目を閉じた。
眠りは、思ったより早く訪れた。
黒夜は夢を見た。
夢の中で、彼はゲヘナの薄暗い路地に立っていた。
手には缶コーヒー。口の中には苦み。身体中が痛い。
ヒナに負けた直後だった。
自分よりずっと強い相手がいた。手も足も出なかった。
悔しいはずなのに、それより先に胸が熱くなった。
あの人に教わりたい。
あの人の見ている光景を見てみたい。
そんな未熟な願いを抱えていた。
すると、景色が揺れた。
トリニティの白い廊下。
ナギサの震えた声。ミカの泣きそうな顔。セイアの静かな瞳。
黒い羽根の三人が、何かを堪えるように自分を見ている。
ゲヘナの執務室。
マコトが大げさに怒鳴っている。サツキが笑っている。
イロハが気だるげに手を振る。カヨコが短く「戻ってきたんだね」と言う。
ミレニアムの機材音。
ヒマリの膝枕。リオの真剣な声。
アリウスの食卓。
生姜焼きの匂い。
アツコの「また食べたいな」という声。
サオリ達の静かな表情。
アビドスの砂と空。
ホシノの盾。シロコの短い言葉。
シロコ*テラーの静かな謝罪。
そして、シャーレ。
先生の声。プレ先の落ち着いた声。
おかえり。
誰かがそう言った。
その声に向かって、黒夜は手を伸ばした。
次の日
目を開けた時、天井は救護騎士団の医務室のものだった。
黒夜は何度か瞬きをした。
頭が重い。けれど、先ほどまでの霧のような感覚は薄れていた。
「……ここは?」
声が漏れる。その声を聞いて、そばにいたミネがすぐに顔を上げた。
「黒夜さん。分かりますか?」
黒夜はゆっくりとミネを見る。
数秒、記憶を辿るように沈黙した。
そして、いつもの声で言った。
「……救護騎士団の医務室、ですね」
ミネの表情が変わった。
「黒夜さん。自分の名前は?」
「月城黒夜です」
「所属は?」
「ゲヘナ学園情報部兼トリニティ総合学園ティーパーティー専属護衛兼ミレニアムサイエンススクールのゲーム開発部所属です」
その答えを聞いた瞬間、ミネは深く息を吐いた。
「……よかった」
その一言が、廊下へ伝わった。
扉の向こうで、ざわめきが起こる。
次の瞬間、ミカが飛び込んできた。
「黒夜!」
「ミカ様」
黒夜が名を呼んだ。
それだけで、ミカの目から涙が溢れた。
「黒夜ぁぁぁあああ!」
「わっ……」
ミカが勢いよく抱きつき、黒夜はベッドの上で少しだけ身体を揺らした。
ミネがすぐに注意する。
「ミカ様、黒夜さんは頭を打っています。あまり強く抱きつかないでください」
「あっ、ごめん! ごめんね黒夜!」
「いえ、大丈夫ですけど…」
「それ! それ黒夜だ!」
「え?」
黒夜は困惑した。
続いて、ナギサとセイアが入ってくる。
ナギサはいつもの優雅さを保とうとしていた。だが、目元は赤い。
「黒夜さん……私のことが分かりますか」
「ナギサ様ですね。もちろんわかりますよ」
ナギサは唇を噛んだ。
それから、静かに黒夜の手を取る。
「……本当によかった」
その一言は、震えていた。
セイアはベッドのそばに立ち、静かに息を吐く。
「治ったんだね、黒夜」
「すいません。ご心配をおかけしました」
「本当にね」
セイアの声は穏やかだったが、そこには確かな安堵があった。
テラー達も入ってくる。ナギサ*テラーは、黒夜の顔を見るなり、祈るように両手を握った。
『黒夜さん……』
「黒ナギサ様」
黒夜がそう呼ぶと、ナギサ*テラーの目に涙が滲んだ。
『私たちのことが、分かるのですね!?』
「え?わかりますよ?」
ミカ*テラーは堪えきれずに黒夜へ近づく。
『黒夜……!』
「黒ミカ様、申し訳ありません。頭を打っているので、抱きつくのは少しだけ優しくしていただけると……」
『うん! 優しくするね!』
そう言いながら、ミカ*テラーは黒夜の肩にそっと触れる。いつもよりずっと慎重だった。
セイア*テラーは黒夜を見つめ、静かに言った。
『おかえり、黒夜』
黒夜は少しだけ目を細める。
「……ただいま戻りました」
その言葉に、部屋の空気がようやくほどけた。
だが、黒夜はすぐに違和感に気づいた。
廊下に人の気配が多すぎる。
見れば、扉の外に何人もの顔がある。ヒナ、マコト、カヨコ、イロハ、サツキ、カスミ。リオ、ヒマリ、ユウカ。アリウススクワッド。ホシノ、シロコ、シロコ*テラー。
黒夜は数秒、全員を見回した。
「……あの」
「はい、黒夜さん」
ナギサが答える。
「これは、一体……?」
全員が一瞬黙った。
そして、ミカが気まずそうに笑う。
「えっと……黒夜、覚えてない?」
「何をでしょうか?」
黒夜は不安そうに眉を寄せた。
ミネが説明する。
「黒夜さん。貴方は頭部への衝撃で、一時的に記憶が過去へ戻っていました」
「過去へ?」
「はい。ゲヘナ学園の一年生、ヒナさんに敗北した直後の時期です」
黒夜の表情が固まった。
「……え?」
イロハが廊下から手を振る。
「いやぁ、なかなか懐かしい黒夜でしたよ」
カスミが楽しそうに笑う。
「久々に尖っていた黒夜が見られて、私は楽しかったぞ!」
「カスミさん」
黒夜の声が静かに震える。
「私は、何を言いましたか…?」
医務室の空気が少しだけ気まずくなる。
ナギサが目を逸らした。
ミカも視線を泳がせる。
セイアは静かに言った。
「聞きたいかい?」
「聞かない方が良い気もしてきました」
マコトが腕を組み、どこか複雑そうに言う。
「私に向かって、偉そうでバカそうだと言ったぞ…!」
黒夜の顔色が変わった。
「マコト様に、ですか?」
「さらに『偉そうに言えばどうにかなると思っている奴は嫌い』とも言った」
「……」
黒夜は両手で顔を覆った。
「本当に申し訳ありません……」
マコトはふんと鼻を鳴らす。
「まあ、今の貴様ではなかったからな。特別に許してやる」
サツキが微笑む。
「私には黒夜ちゃん呼びをやめろって言っていたわね」
「それは……今も少し思っていますが」
「あら?」
「いえ、申し訳ありません」
カヨコが淡々と言う。
「私には誰だって言ってた」
「カヨコさん……すみません」
「別に。知らない時期なら気にしてないよ」
リオも静かに続ける。
「私たちにも随分遠慮がなかったわ」
ヒマリは楽しげに笑う。
「私の自称を長いと言いました」
「……それは、申し訳ありません。ですが、確かに少し長いとは思います」
「黒夜さん?」
「すみません」
ユウカが苦笑する。
「でも、ちゃんと黒夜さんでしたよ。昔は少し荒かったと聞いていましたが、根本は変わっていませんでした」
アツコが静かに言う。
「私たちのことは知らなかったけど、謝ってくれた」
「アツコさん……」
ヒヨリは涙目で頷く。
「昔の黒夜さんも優しかったですぅ……!」
サオリは真面目に言う。
「生姜焼きの話もした」
「なぜそこで生姜焼きの話を……」
黒夜は頭を抱えたまま呟いた。
ホシノがのんびり笑う。
「うへ~、黒夜君。昔の君もだいぶ面白かったよ~」
「ホシノさん……私は、ホシノさんにも失礼なことを?」
「アビドスは砂だらけで大変な学校って言ってたね~」
「……大変申し訳ありません」
「だいたい合ってるから大丈夫だよ~」
シロコが短く言う。
「ん、傷ついた」
シロコ*テラーも静かに頷いた。
『ん、慰謝料としてハグを請求する』
黒夜は、しばらく黙った。
謝りたいことが多すぎる。
だが、それ以上に胸の奥に残るものがあった。
自分が覚えていない間にも、皆は自分のそばにいてくれた。
過去の自分に拒絶されても、知らない相手として扱われても、それでも離れなかった。
「……皆さん」
黒夜はゆっくりと顔を上げた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
深く頭を下げようとした瞬間、ミネが止める。
「頭を打っています。深く頭を下げないでください」
「……あぁ、すいません」
黒夜は中途半端な角度で止まり、余計に申し訳なさそうな顔になった。
その姿を見て、ミカが泣き笑いする。
「黒夜、戻ってきたんだね」
「はい」
「本当に、戻ってきたんだね…」
ミカは今度こそ、優しく黒夜の手を握った。
ナギサは静かに言う。
「黒夜さん。昔の貴方は、今の貴方とは随分違いました」
「……そうでしょうね」
「口調も荒く、私たちへの警戒も強く……正直、少しだけ傷つきました」
「本当に申し訳ありません」
「ですが」
ナギサは首を横に振った。
「それでも、確かに黒夜さんでした」
黒夜はナギサを見る。
「貴方は、昔から誰かを見捨てられない方だったのですね。感謝されると困った顔をして、自分の怪我より相手の無事を気にする。今の貴方に繋がるものが、あの頃から確かにありました」
ナギサの声が少し震える。
「昔の貴方も、今の貴方も、どちらも黒夜さんなのですね」
黒夜は言葉を失った。
セイアが続ける。
「君が今の君になるまでの道を、少しだけ見た気がするよ」
「セイア様……」
「荒くて、不器用で、まだ何も知らない君だった。それでも、君だったよ」
ミカも頷く。
「ちょっと怖かったけどね」
「……すみません」
「でも、黒夜だったよ。だから、余計に泣きそうになったけど」
黒夜は目を伏せた。
ナギサ*テラーが、祈るように言う。
『私たちは、知らない黒夜さんにも会いました』
ミカ*テラーが続ける。
『私たちのこと分かってくれなくて、すごく寂しかった』
セイア*テラーは静かに目を細める。
『けれど、それでも君は君だった。だから、私たちは耐えれたよ』
黒夜の胸に、熱いものが込み上げる。
言葉にしようとしても、うまく出てこない。
その時、ヒナが一歩前に出た。
黒夜は反射的に姿勢を正そうとして、ミネに視線で止められる。
ヒナは静かに黒夜を見る。
「黒夜」
「ヒナさん…」
「昔から、貴方は無茶ばかりね」
その一言に、黒夜は苦笑した。
「……返す言葉もありません」
「あの頃の貴方も、今の貴方も、無茶をする理由はあまり変わっていない」
「そう、でしょうか?」
「ええ」
ヒナは少しだけ目を細める。
「だから、今度はちゃんと覚えておきなさい。自分が倒れたら、どれだけの人が心配するのか」
黒夜は周囲を見た。これだけの人がいる。
皆、自分のために来てくれた。
「……はい」
黒夜は静かに頷いた。
「ちゃんと覚えておきます」
ホシノがゆるく笑う。
「うへ~、本当に覚えてる?」
「努力します」
「そこは断言してほしいな~」
「……覚えます」
「よろしい」
シロコが短く言う。
「次から無茶したら怒る」
「既に怒られる予定なのですね」
「ん」
アツコも静かに言った。
「今度は、ちゃんと無事に帰ってきてね」
黒夜は彼女を見る。
そして、少しだけ柔らかく笑った。
「頑張ります」
その言葉に、アツコはようやく安心したように微笑んだ。
リオが腕を組む。
「しばらくは安静。ミレニアムでの作業も禁止よ」
「リオさんまで」
ヒマリが頷く。
「もちろん、ハッキング講義も一時停止です。代わりに我が儘の練習を再開しましょうか?」
「それは講義なのですか?」
「ええ。非常に重要な講義です」
ユウカが真顔で続ける。
「休憩時間の管理表でも作りましょうか?」
「作らなくて大丈夫です」
「それは周囲が判断します」
「……皆さん、少し厳しくなっていませんか?」
イロハが肩をすくめる。
「そりゃあ、あんな昔の黒夜を見せられたら、みんなの心配も増えますよ」
「私のせいですか?」
「だいたい黒夜のせいですねぇ」
黒夜は困ったように笑った。
マコトがふんと鼻を鳴らす。
「まったく、貴様はこの私を心配させすぎだ! 罰として、回復したら万魔殿の業務を手伝え!」
「いつも手伝ってるような」
「うるさいぞ!」
サツキが微笑む。
「黒夜ちゃん、回復したら私にも顔を見せに来てね」
「わかりました」
「ちゃんと休んでからよ?」
「……はい」
カヨコは短く言った。
「次、心配させたら覚悟してよね」
黒夜はその言葉に、小さく頷いた。
「わ…かりました…」
カスミがにやにや笑う。
「いやあ、しかし昔の黒夜も捨てがたかったねぇ。あの尖り具合、なかなか懐かしかったな」
「カスミさん、その話はできれば広めないでいただけると」
「う~んどうしようかな~?」
「お願いします」
「そこまで頼まれると、少し考えたくなるね!」
「カスミ」
ヒナが静かに名を呼ぶ。
カスミは即座に笑顔で両手を上げた。
「冗談だとも!」
黒夜は深く息を吐いた。
ようやく少しだけ、いつもの空気が戻ってきた。
重くて、苦しくて、泣きそうになる時間は確かにあった。けれど今、ここには黒夜が戻ってきた安堵がある。
ミネが手を叩く。
「皆さん、黒夜さんの意識が戻ったことは喜ばしいですが、まだ安静が必要です。面会はここまでにしましょう」
「ええ、そうですね」
ナギサが頷く。
ミカは名残惜しそうに黒夜の手を握っていたが、ナギサに促されて離す。
「黒夜、また来るね」
「お待ちしています」
ミカ*テラーも名残惜しそうに言う。
『絶対だからね』
ナギサ*テラーは静かに微笑む。
『戻ってきてくださって、ありがとうございます』
「こちらこそ、待っていてくださってありがとうございました」
セイア*テラーは最後に一言だけ告げた。
『次に私たちを心配させたら…一か月は監視させてもらうからね?』
「……肝に銘じます」
黒夜は苦笑した。
一人、また一人と医務室を出ていく。
最後に残ったのは、ヒナだった。
ヒナはベッドのそばに立ち、黒夜を見下ろす。
「あの頃の貴方が言っていたわ。強くなれているか、と」
黒夜の表情が少し変わる。
「……そうですか」
「私は、強くなっていると答えたわ」
「……」
「でも、まだまだとも言った」
黒夜は少し笑った。
「ヒナさんらしいですね」
「事実よ」
「そうですね」
ヒナは静かに続ける。
「強くなりなさい。けれど、倒れるためではなく、帰ってくるために」
黒夜はその言葉を、ゆっくりと胸に落とした。
「……わかりました!」
今度は、はっきりと頷く。
「帰ってくるために、強くなります!」
ヒナはその答えを聞いて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「ならいい」
それだけ言って、ヒナも医務室を出ていった。
扉が閉まる。
医務室は急に静かになった。
ミネが黒夜のそばへ戻ってくる。
「黒夜さん。今は休んでください」
「そうさせてもらいます」
黒夜は素直に頷いた。
ベッドに身体を預けると、疲労が一気に戻ってくる。
頭はまだ少し重い。
記憶の一部はぼんやりしている。
けれど、胸の奥には確かな温かさがあった。
過去の自分が何を見たのか、すべてを覚えているわけではない。
ただ、断片は残っている。
ヒナに憧れていた頃の自分。
知らないはずの人達に囲まれ、戸惑っていた自分。
それでも、誰かの心配に触れていた自分。
黒夜は天井を見上げ、小さく呟いた。
「……随分と、遠くまで来ていたのですね」
ゲヘナ一年の自分には、きっと想像もできなかった未来。
トリニティに居場所があり、ミレニアムに学びがあり、アリウスに食卓があり、アビドスに訓練があり、それぞれに帰る場所がある。
そして、それぞれの場所に、自分を待ってくれる人がいる。
黒夜は静かに目を閉じた。
今度の眠りは、恐ろしくなかった。
記憶の向こう側にいた昔の自分も、きっと今の自分へ繋がっている。
荒くて、不器用で、強さに憧れていたあの頃の自分がいたから、今ここにいる。
黒夜は小さく息を吐き、眠りに落ちる直前、かすかに笑った。
「……昔の私には、少し自慢できそうですね」
その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど確かに、穏やかだった。