ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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ゲヘナの流儀

 トリニティの自宅で、黒夜は一人、夕食後の片付けをしていた。

 シンクに残った皿を洗い、布巾で水気を拭き取る。今日は特に誰かが来る予定もなく、久しぶりに静かな夜になるはずだった。

 鍋を棚に戻し、明日の朝食に使う食材を確認する。

 

「……卵は、明日買い足した方がよさそうですね」

 

 そう呟いた時だった。玄関のチャイムが鳴った。

 黒夜は少しだけ首を傾げた。こんな時間に来客。

 ナギサ達なら連絡を入れてくる。ミカなら勢いで来る可能性はあるが、それでも大抵はモモトークが先に飛んでくる。

 アリウススクワッドなら、最近は遠慮がちにだが事前に一言くれることが多い。黒夜は手を拭き、玄関へ向かった。

 

「はい、どちら様でしょうか?」

 

 扉を開ける。

 そこに立っていたのは、ヒヨリだった。

 

「……黒夜さん」

 

 その声を聞いた瞬間、黒夜は表情を変えた。

 ヒヨリの顔は青白く、今にも泣き出しそうだった。目元は赤く、服には少し土埃がついている。いつものような弱々しい笑みすら浮かんでいない。

 

「ヒヨリさん、どうしたんですか?」

 

 黒夜はすぐに扉を大きく開いた。

 

「中へ入ってください。寒かったでしょう」

 

「で、でも……急に来てしまって……」

 

「構いやしませんよ」

 

 黒夜は静かに言った。

 

「今は、まず中へどうぞ」

 

 ヒヨリは小さく頷き、部屋へ入った。

 リビングに通し、温かいお茶を出す。ヒヨリは両手でカップを包むように持ったが、口をつけることはできないようだった。

 

「何があったのですか?」

 

 ヒヨリの肩が震えた。言葉にするだけで、また泣いてしまいそうなのだろう。

 黒夜は急かさなかった。ただ、静かに待つ。

 やがて、ヒヨリは震える声で話し始めた。

 

「今日……ブラックマーケットで、依頼を受けたんです」

 

「依頼、ですか」

 

「はい……いつもみたいに、報酬をもらうために……みんなと一緒に、少し危ない仕事でしたけど、ちゃんとこなして……」

 

 ヒヨリはカップを握る手に力を込めた。

 

「でも、終わって報酬をもらおうとしたら……依頼主が、急に言ったんです」

 

 黒夜は黙って聞いていた。

 

「契約書も交わしていない依頼に払う報酬はない、って……」

 

 空気が、少しだけ冷えた。

 ヒヨリは俯いたまま続ける。

 

「サオリ姉さんとミサキさんは食って掛かってくれました。でも、その人は……これ以上騒ぐならマーケットガードを呼ぶぞ、って……」

 

「……それで、退くしかなかった」

 

「はい……。私たち、馬鹿でした……契約書とか、ちゃんと確認しなくて……口約束でも、仕事をすれば払ってくれると思って……」

 

 それは、アリウススクワッドの不備でもあった。

 

 契約書を交わしていない。証拠を残していない。

 ブラックマーケットで仕事を受けるなら、本来その危険性を考えるべきだった。

 

 だが、それを分かった上で、黒夜の胸の奥に、静かに熱いものが沈んでいった。

 彼女達がまだ慣れていないことを。生きるために、報酬を得るために、危険な仕事を受けざるを得ないことを。

 そして、そういう相手だからこそ踏み倒せると見下されたことを。

 

 黒夜は理解してしまった。

 

「隠れ家に帰ったら……サオリ姉さんも、ミサキさんも、姫ちゃんも……みんな、すごく落ち込んでいて……」

 

「私、誰かに助けてもらいましょうって言ったんです。黒夜さんとか、先生とか……きっと助けてくれますって」

 

「……」

 

「でも、サオリ姉さんが……身寄りのない私たちを助けるもの好きなどいないさ、って……」

 

 黒夜の指が、膝の上でわずかに動いた。

 ヒヨリは涙を堪えながら言う。

 

「姫ちゃんも、黒夜や先生たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないって……ミサキさんも、諦めるしかないって……」

 

 そこで、ヒヨリはとうとう涙をこぼした。

 

「でも、嫌だったんです……!」

 

 声が震える。

 

「みんな、頑張ったんです。怖かったけど、危なかったけど、ちゃんと依頼をこなしたんです。それなのに、何も貰えなくて……悔しいのに、怒ってるのに、みんな諦めようとして……」

 

「私、我慢できなくて……黒夜さんなら、話を聞いてくれるって……勝手に来ちゃって……」

 

「ご、ごめんなさい……! やっぱり迷惑ですよね……こんなこと、黒夜さんにまで……」

 

「ヒヨリさん」

 

 黒夜の声は、穏やかだった。だが、少しいつもと違っていた。

 ヒヨリは顔を上げる。黒夜は、いつものように静かに座っていた。

 表情は大きく変わらない。声も荒げていない。怒鳴りもしない。

 

 けれど、ヒヨリは気づいた。

 

 黒夜の目が、据わっていた。

 

 普段の柔らかな眼差しではない。

 何かを深く、冷たく、見据えている目だった。

 

「迷惑なんかじゃありません」

 

「来てくださってありがとうございます」

 

「黒夜さん……?」

 

「少し、情報を集めて整理します。ですから、今はアツコさん達の所へ帰っておいてください」

 

「え……でも」

 

「一人で出歩くのは危ないです。帰り道は私が途中まで送りましょうか?」

 

「そんな、そこまで……」

 

「ヒヨリさん」

 

 黒夜は、はっきりと彼女を見る。

 

「大丈夫です」

 

 その言葉は、いつもの黒夜のものだった。

 けれど、なぜかヒヨリには、その奥に別の響きがあるように聞こえた。

 

「アツコさん達には、今日はゆっくり休んでくださいと伝えてください。そういえば食事は取れていますか?」

 

「えっと……たぶん、あまり……」

 

「分かりました。少し待っていてください」

 

 黒夜は立ち上がり、台所へ向かった。

 手早く保存容器に作り置きの惣菜とご飯を詰め、温め方を書いたメモを添える。ヒヨリはそれを見て、また泣きそうになった。

 

「黒夜さん……」

 

「簡単なものですが、皆さんで食べてください」

 

「……ありがとうございますぅ……」

 

「帰ったら、まず温かいものを食べてください。それから休むこと。今回の件は、私の方からも確認してみます」

 

 ヒヨリは何度も頷いた。黒夜は彼女を途中まで送り、トリニティの安全な通りまで来たところで足を止めた。

 

「ここからなら大丈夫ですね」

 

「はい……黒夜さん、本当にありがとうございます」

 

「いえ」

 

 ヒヨリは容器の入った袋を抱きしめる。

 

「でも……無理はしないでくださいね」

 

 黒夜は少しだけ目を細めた。

 

「大丈夫ですよ、無理はしません」

 

 そう答えた。ヒヨリはまだ不安そうだったが、それでも黒夜の言葉を信じるように頷いた。

 

「じゃあ……帰りますね。話を聞いてくれてありがとうございました」

 

「気をつけてくださいね」

 

 ヒヨリの背中が見えなくなるまで、黒夜はその場に立っていた。

 そして、完全に姿が消えた後、静かに踵を返す。

 自宅へ戻る道中、黒夜の表情は変わらなかった。

 

 穏やかでもない。怒りに歪んでもいない。

 ただ、無表情だった。

 けれど、その胸の内では、黒い熱が渦を巻いていた。

 

 アリウススクワッドが契約を甘く見ていたのは事実だ。

 証拠を残していなかったのも不備だ。

 ブラックマーケットで口約束など信用するべきではない。

 

 そんなことは分かっている。

 

 だが、それを承知で利用した。

 

 彼女達が身寄りのない立場であることを。騒ぎを大きくできないことを。

 マーケットガードを呼ぶと言えば引くしかないことを。

 それを見越して、踏み倒した。

 

「……」

 

 黒夜の足音が、夜道に静かに響く。

 自宅に戻った時、部屋は出た時と同じように静かだった。

 

 そこには誰もいない。少なくとも、表面上は。

 

「……出てきても構いませんよ」

 

 黒夜が静かに言うと、空気がわずかに揺れた。

 背後に、三つの気配が増える。

 

『気づいていましたか』

 

 ナギサ*テラーの声。

 

『さすが黒夜だね』

 

 ミカ*テラーの声。

 

『盗み聞きするつもりはなかった、と言うと嘘になるかな』

 

 セイア*テラーの声。

 

 黒夜は振り返らなかった。

 ただ、テーブルの上に置いた空のカップを見つめている。

 ナギサ*テラーは一歩前へ出た。

 

『まったく……契約書を交わしていないのはヒヨリさん達の不備ですが、依頼主も大概外道ですね』

 

 ミカ*テラーは不機嫌そうに腕を組む。

 

『こんな小物、私たちが行けば十秒も掛からないでしょ』

 

 セイア*テラーも静かに言った。

 

『未来を予測するまでもないね。潰すだけなら簡単だ』

 

 三人の声には怒りがあった。

 

 アリウススクワッドへの同情というより、黒夜が大切にしている者達を踏みにじった相手への怒り。

 そして、黒夜が怒っていることに対する反応。

 

 三人は、当然黒夜が自分達に頼ると思っていた。

 少なくとも、助力を申し出れば受け入れてくれると思っていた。

 

 だが。

 

「三人とも――」

 

 黒夜がゆっくりと振り返った。

 その顔を見た瞬間、三人の動きが止まる。

 黒夜は無表情だった。

 

 怒鳴っていない。

 声を荒げてもいない。

 口元も歪んでいない。

 

 けれど、その瞳の奥に、耐えがたい怒りが押し込められていた。

 静かすぎる怒り、それは、普段の黒夜からは想像できないものだった。

 

「ありがたいですが、今回は手を出さないでください」

 

『なんで!?』

 

 真っ先に声を上げたのはミカ*テラーだった。

 

『黒夜も怒ってるんでしょ!? だったら私たちが――』

 

「駄目です」

 

 黒夜は短く言った。

 ミカ*テラーの言葉が止まる。

 ナギサ*テラーは困惑する。

 

『黒夜さん。相手はブラックマーケットの依頼主でしょう。私たちが行けば、すぐに――』

 

「すぐに終わるでしょうね」

 

 黒夜は淡々と答えた。

 

「ですが、それでは駄目です」

 

『なぜだい?』

 

 セイア*テラーが問う。

 黒夜は、少しだけ視線を伏せた。

 

「トリニティ出身の三人は、知らないと思いますが」

 

「ゲヘナには、ある決まりがあります」

 

 三人は息を呑む。黒夜の声に、いつもの柔らかさはなかった。

 

「仲間を傷付けられた時、何をもってしても報復するという、鉄の決まりが」

 

 その言葉と共に、黒夜の口元がゆっくりと吊り上がった。

 

 笑み。

 

 だが、それはいつもの困ったような笑みでも、穏やかな微笑みでもない。

 獰猛な笑みだった。

 

 ゲヘナの路地で喧嘩を売られた時のような、理不尽を踏みつける相手を前にした時のような。

 自分の大切なものを傷つけられた時だけ現れる、黒夜の奥底に眠っていた笑み。

 

 三人の背筋に、冷たいものが走った。

 戦闘力で言えば、黒夜は彼女達より遥かに下だ。

 ナギサ*テラーも、ミカ*テラーも、セイア*テラーも、本気を出せば目の前の黒夜を制圧することなど難しくない。

 

 そのはずだった。それなのに、今この瞬間、三人は動けなかった。

 

 恐怖。

 

 そう呼ぶには奇妙な感覚だった。

 黒夜の強さでもない、神秘でもない。

 ただ、目の前の黒夜が本気で怒っているという事実が、三人の足を縫い止めていた。

 

「これは、私の私的な復讐ですから」

 

 黒夜は言った。丁寧語のまま。

 けれど、最後の言葉だけは低く、鋭く落ちた。

 

「関係ない奴らは、手を出すな」

 

 部屋の空気が凍った。

 ナギサ*テラーも、ミカ*テラーも、セイア*テラーも、何も言えない。

 黒夜はそのまま上着を手に取り、端末を確認した。すでに何かしらの情報を集め始めているのだろう。表情は戻らない。

 玄関へ向かう背中を、三人はただ見ていた。

 

『黒夜さん……』

 

 ナギサ*テラーが小さく呼ぶ。

 黒夜は足を止めない。

 

「心配はいりません、少しゲヘナのやり方で話をつけてくるだけです」

 

 扉が開けると夜の空気が部屋へ流れ込む。

 黒夜は振り返らずに出ていった。

 

 部屋に残された三人は、しばらく動けなかった。

 やがて、ミカ*テラーが震える声で言った。

 

『……今の黒夜、めっちゃかっこよかったよね!?』

 

 ナギサ*テラーが、胸元を押さえながら頷く。

 

『はい……正直、背筋が冷えましたが……とても……』

 

 セイア*テラーは片手で顔を覆い、深く息を吐いた。

 

『余韻に浸っているから、少し黙っていてくれないか』

 

『セイアちゃんもじゃん!』

 

『当たり前だろう』

 

 ナギサ*テラーは、黒夜が出ていった扉を見つめたまま、静かに呟く。

 

『……ですが、黒夜さんがあそこまで怒るとは』

 

 ミカ*テラーの表情から、少しだけふざけた色が消えた。

 

『うん。黒夜、大事な人を踏みにじられるの、本当に許せないんだね』

 

 セイア*テラーは目を伏せる。

 

『あれが、ゲヘナの血なのかな?』

 

 三人は、ようやく理解した。

 黒夜は穏やかなだけではない。

 丁寧で、優しくて、自分を後回しにしがちな彼の奥には、確かにゲヘナの血が流れている。

 

 仲間を傷つけられた時、何をもってしても報復する。

 

 その言葉が、部屋の中にまだ残っているようだった。

 そしてその頃、黒夜は夜道を歩いていた。

 

 端末には、ブラックマーケットの地図。依頼主の名前。

 過去の取引履歴。周辺監視の位置。

 情報はまだ足りない。

 

 だが、十分だった。

 

 黒夜は静かに息を吐く。

 

「……契約書がない、でしたね」

 

 口元に、先ほどの獰猛な笑みがわずかに戻る。

 

「では、契約書以外の全てを揃えましょう」

 

 夜のトリニティから、黒夜はブラックマーケットへ向かった。

 仲間を蔑ろにされた怒りを、静かに胸の奥で燃やしながら。

 

 ブラックマーケットの夜は、トリニティの夜とはまるで違っていた。

 黒夜はその中を、一人で歩いていた。

 

 足取りは速くない。

 走ってもいない。

 ただ、迷いなく進んでいる。

 

 端末には、すでに集めた情報が並んでいた。

 

 依頼主の名前。普段使っている倉庫。

 過去に同じような踏み倒しを行った相手。

 口約束で仕事をさせ、契約書がないことを理由に報酬を拒んだ記録。

 そして、今日のアリウススクワッドへの依頼内容に関する断片的なログ。

 

 契約書はない。

 

 それは確かに不利だった。

 だが、証拠が契約書だけとは限らない。

 黒夜は路地の角を曲がる。

 

「……ここか」

 

 その先にある小さな倉庫。

 中には、依頼主がいる。

 今回アリウススクワッドを使い、報酬を踏み倒した依頼主。

 

 周囲には数体の護衛ロボットもいるようだった。

 だが、黒夜は足を止めなかった。

 

 扉の前に立ち、軽くノックする。

 

 数秒後、内側から不機嫌そうな電子音声が返ってきた。

 

「誰だ。今は営業時間外だ」

 

「本日、アリウススクワッドへ依頼を出した方ですね?」

 

 相手の空気が変わった。少しの沈黙。

 そして、金属音を立てながら扉が開いた。

 現れたのは、丸みを帯びたボディを持つロボットだった。顔部分の表示装置には、露骨に不快そうな表情が映っている。

 

「……アリウス? ああ、あの契約書も交わしていないバカな連中か」

 

 依頼主は、わざとらしく肩をすくめた。

 

「それがどうした。報酬なら払わないぞ。契約書がない。つまり、正式な依頼は存在しない」

 

「ええ。そう仰ったそうですね」

 

 黒夜は静かに頷いた。

 

「なら話は終わりだ。帰れ」

 

「いいえ」

 

 黒夜は端末を取り出した。

 

「契約書はありません。ですが、貴方が依頼を出したことを示す会話記録、指定した作業場所の監視記録、作業後に成果物を受け取った搬入ログ、そして過去に同じ手口で複数の相手を踏み倒した履歴は集めました」

 

 依頼主の表情が一瞬だけ乱れた。

 

「……何?」

 

「契約書がないことを利用する手口自体は、ここでは珍しくもありません。ですが、何度も繰り返せば情報が流れます。相手の選び方、依頼の出し方、報酬を拒む時の文言、マーケットガードをちらつかせるタイミング」

 

 黒夜は淡々と続ける。

 

「貴方は、弱い立場の相手を選んでいましたね」

 

「言いがかりだ」

 

 黒夜は端末の画面を向けた。

 そこには、過去の取引記録と、踏み倒された者達の証言がまとめられていた。

 

「これをブラックマーケット内の複数の取引網に流せば、貴方の信用はどうなるでしょうかね?」

 

「脅すつもりか?」

 

 黒夜は首を横に振る。

 

「選択肢を提示しているだけです」

 

 依頼主は、ぎり、と金属音を鳴らした。

 

「アリウススクワッドへ、正当な報酬を支払うこと」

 

 黒夜は一歩、倉庫内へ入る。

 

「今回の件で彼女達に与えた精神的損害と時間的損失に対する迷惑料を上乗せすること」

 

「ふざけるな!」

 

「今後、同じ手口を使わないことを明文化すること」

 

「だから契約書はないと言っているだろう!」

 

「今回の依頼に関する契約書はありません」

 

 黒夜は静かに言った。

 

「ですが、今ここで貴方が支払いを行うという契約書なら作れます」

 

 依頼主の表示装置が赤く点滅した。

 

「人間のガキが……!」

 

 護衛ロボット達がわずかに動く。

 だが、黒夜は視線だけを向けた。

 

「動かない方がいいですよ」

 

 声は低かった。

 

「私は今、かなり機嫌が悪いので自分でも何をするかわかりません」

 

 護衛ロボット達の動きが止まる。

 依頼主は一瞬黙った後、嘲るように電子音を鳴らした。

 

「機嫌が悪い? それで何ができる。まさか、このブラックマーケットで正義の味方ごっこでもするつもりか?」

 

「そんなまさか…」

 

 黒夜の右目が、冷たく細められる。

 依頼主の動きが止まった。

 

「ただの復讐に正義もクソも無いでしょう?」

 

「仲間を踏みにじった相手に、落とし前をつけに来ただけです」

 

「……貴様」

 

 依頼主の声が低く歪む。

 

「調子に乗るな!」

 

 次の瞬間、依頼主の脚部が大きく踏み込もうとした。

 黒夜へ向かって突進するつもりだったのだろう。

 だが、その初動は成立しなかった。

 

 乾いた銃声が一発。

 

 依頼主の膝部関節――正確には脚部の駆動フレームが、火花を散らして撃ち抜かれた。

 

「がっ……!?」

 

 踏み込みは不発に終わり、依頼主の機体は前のめりに崩れかける。

 黒夜は銃口を下げない。

 

「先に動いたのは、そちらです」

 

 静かな声だった。

 

「次は、もう少し重要な駆動系を狙います」

 

 倉庫内が静まり返った。

 

 護衛ロボット達も動かない。

 依頼主は片膝をついたまま、黒夜を見上げている。

 

 黒夜の表情は変わらなかった。

 むしろ、冷静すぎるほど冷静だった。

 

「もう一度だけ言います」

 

 黒夜は端末を操作し、契約書の雛形を表示した。

 

「報酬と迷惑料を支払い、今後同様の手口を使わないと明文化してください」

 

「……っ」

 

「拒否するなら、貴方の信用情報と過去の踏み倒し履歴を流します。さらに、今の映像も添えます」

 

「映像……?」

 

 依頼主の表示装置が揺れる。

 黒夜は視線だけで、倉庫の隅を示した。

 そこには、小型の記録端末があった。

 

「入る前に置きました」

 

「いつの間に……」

 

「貴方が私を帰れと言っていた時です」

 

 黒夜は淡々と答えた。

 

「貴方が先に襲おうとした記録も残っています。こちらの発砲は防衛行動として説明できます」

 

 依頼主は、完全に沈黙した。

 しばらくして、ノイズ混じりの声で言う。

 

「……いくらだ」

 

「元の報酬の全額。加えて、それをそっくりそのまま上乗せしてください。それを迷惑料とします」

 

「高すぎる!」

 

「自分の信用情報に随分安値を付けるのですね?」

 

「……っ!」

 

 依頼主はそれ以上何も言えなかった。支払い処理が行われる。

 

 端末に送金通知が届く。それを黒夜は金額を確認した。

 

「確かに受け取りました」

 

 続けて、契約書への署名。

 依頼主は渋々、電子署名を入れた。

 黒夜はそれを保存し、複数のバックアップに送る。

 

「最後に」

 

「まだあるのか……」

 

「今後、アリウススクワッドへ接触しないでください」

 

 黒夜は依頼主を見下ろした。

 

「もし、報復や嫌がらせを行った場合」

 

 声が、少しだけ低くなる。

 

「今回の件は、ただのお遊びになります」

 

 依頼主の表示装置が青くなった。

 黒夜は銃をしまう。

 

「では、失礼します」

 

 それだけ言って、黒夜は倉庫を出た。

 背後で、依頼主が小さく呻くような電子音を鳴らしている。

 だが、黒夜は振り返らなかった。

 

 ブラックマーケットの夜風が、少しだけ冷たかった。

 黒夜は路地を歩きながら、端末を確認する。

 

 報酬は戻った。迷惑料も上乗せさせた。

 今後の抑止になる材料も残した。

 

 ひとまず、最低限の落とし前はつけた。

 だが、胸の奥の怒りは完全には消えていなかった。

 彼女達は、こんなことで諦めようとしていた。

 

 助けを求めることを遠慮していた。

 自分達には頼る資格がないように考えていた。

 

 それが、黒夜には何よりも腹立たしかった。

 

「……頼ってくれれば、いいのに」

 

 小さく呟く。そしてすぐに、少し困ったように笑った。

 

「私が言えた義理ではありませんが…」

 

 黒夜はその足で、アリウススクワッドの隠れ家へ向かった。

 扉を叩くと、中で物音がする。

 少しして、サオリが扉を開けた。

 

「黒夜……?どうしてここに…?」

 

 彼女は驚いた顔をする。

 

「ヒヨリさんから話を聞きました」

 

 サオリの表情が固まる。

 奥からヒヨリが慌てて顔を出した。

 

「黒夜さん……!」

 

 ミサキも振り返る。

 

「やっぱりさっきの料理って…黒夜の所に行ったの?」

 

「ご、ごめんなさいぃ……でも、私……」

 

 アツコは静かにヒヨリを見る。

 責めるような目ではなかった。

 

 黒夜は部屋へ入る。

 隠れ家の空気は重かった。テーブルには、黒夜が渡した保存容器が置かれている。中身は少し減っていた食べてくれたらしい。

 黒夜はそれを見て、少しだけ安心した。

 そして、封筒をテーブルへ置いた。

 

「これを」

 

 サオリが眉を寄せる。

 

「これは……?」

 

「本来受け取るはずだった依頼達成報酬です。迷惑料も上乗せされています」

 

 部屋の空気が止まった。

 ヒヨリが目を見開く。

 

「え……?」

 

 ミサキが封筒を見る。

 

「本当に……?」

 

 アツコは黒夜を見る。

 

「黒夜、何をしたの?」

 

 黒夜は少しだけ目を伏せた。

 

「話をつけてきました」

 

「話だけで納得するような奴じゃなかったぞ!」

 

 サオリの声が硬くなる。

 黒夜は淡々と説明した。

 

「依頼主の過去の踏み倒し履歴、今回の依頼に関する記録、作業成果の受領ログを集めました。信用情報を流す可能性を提示し、支払いに応じさせました」

 

「……それだけ?」

 

 ミサキが疑うように言う。

 黒夜は少し間を置いた。

 

「相手が襲おうとしたので、脚部の駆動関節を一発撃ち抜きました」

 

「それだけじゃないじゃん」

 

 ミサキが即座に突っ込んだ。

 ヒヨリは顔を青くする。

 

「黒夜さん!? 危ないことしたんですか!?」

 

「相手はロボット市民でしたし、致命的な損傷は避けています」

 

「そういう問題ではない!」

 

 サオリが低い声で言った。

 

「黒夜。なぜそこまでした!?」

 

 黒夜はサオリを見る。

 

 いつものような穏やかな表情に戻りかけていた。

 だが、目の奥にはまだ怒りの残滓がある。

 

「仲間が蔑ろにされたからムカついただけですよ」

 

 その一言に、全員が黙った。

 アツコがゆっくりと口を開く。

 

「仲間……?」

 

 黒夜は頷いた。

 

「皆さんは、私の大切な人です」

 

 ヒヨリの目から涙が溢れた。

 

「うう……黒夜さん……!」

 

 サオリは拳を握る。

 

「私たちは、お前に迷惑をかけたくなかった…」

 

「迷惑かどうかを決めるのは、後でいいでしょう」

 

 黒夜は静かに言った。

 

「それに少なくとも、私は迷惑だとは思ってません」

 

「しかし!」

 

「サオリさん」

 

 黒夜の声が、少しだけ強くなる。

 

「困った時に助けを求めることは、恥ではありません」

 

 サオリは息を呑んだ。

 

「私も、よく周囲に言われます。もっと頼れ、と」

 

 黒夜は少し困ったように笑った。

 

「ですから、これは私自身にも言い聞かせていることです」

 

 ミサキは視線を逸らした。

 

「……でも、黒夜が怒ってるのは分かった」

 

「そうですね。かなり怒っています」

 

 アツコが黒夜を見る。

 

「まだ怒ってる?」

 

「少しだけ…」

 

「私たちに?」

 

「いいえ。皆さんをそういう扱いをしてもいい相手だと思った依頼主に対してです」

 

 アツコは目を伏せた。

 

「そっか」

 

 それから、小さく言う。

 

「ありがとう」

 

 黒夜は少しだけ表情を和らげる。

 

「どういたしまして」

 

 ヒヨリは封筒を見て、また涙を拭いた。

 

「報酬……戻ってきたんですね……うう……よかったですぅ……」

 

 サオリは深く頭を下げようとした。

 黒夜はすぐに止める。

 

「頭を下げないでください」

 

「だが」

 

「仲間が困っていたら助ける。それだけです」

 

 サオリは言葉を失った。

 

 ミサキが小さく呟く。

 

「……相変わらずゲヘナって、怖いね」

 

 黒夜は苦笑する。ミサキもそんな様子を見て、少しだけいつもの調子が戻る。

 ヒヨリは泣きながらも、保存容器を指差した。

 

「あ、あの……黒夜さん、ご飯もありがとうございました……みんなで食べました……」

 

「それなら良かったです」

 

 アツコが静かに言う。

 

「さっきの黒夜、ちょっと怖かった…」

 

「……そうかもしれません」

 

「でも」

 

 アツコは小さく微笑んだ。

 

「嫌いじゃないよ」

 

 黒夜は一瞬、言葉に詰まった。

 それから、少し照れたように目を逸らす。

 

「……それはどうも」

 

 その後、黒夜は念のため依頼主に関する情報と、今後同じ相手から依頼を受けないようにする注意点を共有した。

 サオリは真剣に聞き、ミサキは「面倒だけど必要だね」と呟き、ヒヨリは何度も頷き、アツコは黒夜の横顔を静かに見ていた。

 

 報酬は取り戻した。

 

 けれど、それ以上に大事なものが戻った気がした。

 自分達は、助けを求めてもいいのだと。

 その夜、黒夜が自宅へ戻ると、部屋には当然のように三つの気配があった。

 ナギサ*テラー、ミカ*テラー、セイア*テラー

 テーブルのそばで待っていた三人は、黒夜を見るなり顔を上げた。

 

『おかえりなさい、黒夜さん』

 

「ただいま戻りました」

 

『無事!? 怪我してない!?』

 

「大丈夫です。相手はロボット市民でしたし、必要以上の損傷は与えていません」

 

『必要分は与えたんだね』

 

 セイア*テラーが静かに言う。

 黒夜は少しだけ咳払いした。

 

「……話をつけるために、最低限です」

 

 ナギサ*テラーはじっと黒夜を見る。

 

『報酬は?』

 

「取り戻しました。迷惑料も少し」

 

 ミカ*テラーの目が輝いた。

 

『迷惑料まで取ったんだ、やるね~!かっこいいじゃん!』

 

「褒められるようなことではありません」

 

『ううん、かっこよかった! あの時の“手を出すな”もすごかった!』

 

「……その件はすいません、頭に血が上っていて、忘れてくれると助かります」

 

『無理ですね』

 

 ナギサ*テラーが即答した。

 

 セイア*テラーも頷く。

 

『あれは記憶に残る』

 

「本当に忘れてください」

 

『余韻に浸る権利くらいはあると思うけれどね』

 

「余韻…?」

 

 黒夜は疲れたように息を吐く。

 だが、先ほどまでの怒りはもう薄れていた。

 ナギサ*テラーは少しだけ真面目な顔になる。

 

『貴方は、本当に仲間を大切にするのですね』

 

 黒夜は少しだけ目を伏せる。

 

「……当たり前でしょう?」

 

「皆さんも、アリウスの皆さんも、私にとっては大切な方々です」

 

 ミカ*テラーが胸を押さえる。

 

『そういうところ……本当にずるいな……』

 

 セイア*テラーは苦笑する。

 

『本人に自覚がないから、なおさらだね』

 

 黒夜は首を傾げた。

 

『こちらの話です』

 

 ナギサ*テラーが微笑む。

 それから、少しだけ呆れたように言った。

 

『ですが、次に同じようなことがあれば、次は私たちも噛ませてください』

 

「……善処します」

 

『黒夜さん』

 

「一言相談します」

 

『今はそれで納得しましょう』

 

 黒夜は素直に頷いた。

 窓の外には、静かな夜が広がっている。

 

 穏やかなだけではない。優しいだけではない。

 仲間を傷つけられた時、静かに怒り、確実に落とし前をつける。

 それもまた、月城黒夜だった。

 

 黒夜はふと、台所の方を見る。

 

「……少し遅くなりましたが、何か温かいものでも作りましょうか」

 

『食べる!』

 

 ミカ*テラーが即答した。

 ナギサ*テラーも微笑む。

 

『では、紅茶は私が』

 

『今夜は、少し穏やかな夜になりそうだね』

 

 セイア*テラーが静かに言った。

 黒夜は小さく笑う。

 

「ええ。できれば、そうあってほしいですね」

 

 怒りの夜は終わった。

 残ったのは、仲間を守れたという確かな安堵と、温かい食事の匂いだった。

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