ゲヘナ学園の食堂が、平和だった。
その事実だけで、黒夜は少しだけ不安になっていた。
いや、平和なのは良いことだ。料理の匂いは穏やかで、生徒達の声もいつものように騒がしい。
厨房ではフウカが手際よく昼食を捌き、食堂の席には昼休みを過ごす生徒達がそれぞれ思い思いに座っている。
ただ、問題は黒夜の周囲だった。
「ゲヘナでこの面子が揃っているのにこんな事もあるんだねぇ、いやぁ、今日は実にいい日だね。何も爆発していないんだからね」
「それをいい日と呼ぶ基準が、まずおかしいと思います」
黒夜の向かいで笑っているのはカスミ。
その隣には、美食研究会のメンバー。ハルナは優雅に紅茶を傾け、アカリは追加の料理を嬉しそうに見つめ、ジュンコはその食欲に呆れ、イズミは謎の調味料を眺めている。
さらに別の席には便利屋の面々。アルは必要以上に偉そうに腕を組み、ムツキはにこにこしながら何か面白いことが起こらないか待っている。ハルカはアルの横でそわそわし、カヨコは座りながら静かに昼食を取っていた。
ゲヘナでも有名な問題児達。
温泉開発部。美食研究会。便利屋68。
誰が呼んだか、ゲヘナ三大テロリスト。
その三組が同じ食堂で、同じ時間に、同じ空間で、何も起こさずに過ごしている。
それはもう、平和というより嵐の前の静けさのようだった。
「黒夜、何か失礼なこと考えてない?」
カヨコがこちらを見ずに言った。
黒夜は少しだけ視線を逸らす。
「いえ。皆さんが珍しく平和に過ごされているな、と」
「それ、失礼だね」
「事実でしょう」
ムツキがくすくす笑う。
「くふふ、カスミも美食研も私たちもいるのに、何も起きてないなんて確かに珍しいよね」
「ふっ、当然よ。便利屋68は時と場合を弁える大人のアウトローだからね!」
アルが得意げに胸を張った。
その直後、ハルカが真顔で言う。
「アル様が命じれば、いつでも制圧できます!」
「しないわよ!?」
カヨコが小さくため息を吐いた。
「平和なの、今だけかもね」
ハルナは微笑んだ。
「平和とは、美食を味わうために必要な調味料のようなもの。今日のこの静けさもまた、味わい深いものですわ」
「ハルナさんがそう言うと、次に爆発する前振りに聞こえますね」
「あら、黒夜さん。美食に爆発はつきものですわ」
「そんな事は無いと思いますが」
そんな会話をしながらも、珍しく誰も騒ぎを起こさない。
だからこそ、退屈だったのだろう。
カスミがふと、テーブルの上に置かれたトランプを見つけた。
「おや? これは誰のものだい?」
「あ、それは私が暇潰しに持ってきたやつ」
ムツキが手を挙げる。
「せっかくだし、何かやるかい?」
アカリが目を輝かせた。
「いいですね~。負けた人がご飯を奢るとかどうでしょうか?」
「それだとアカリが本気になりすぎるでしょ」
ジュンコが呆れる。
アルは不敵に笑った。
「ふっ、勝負なら便利屋68の出番ね。どんなゲームでも、この私が華麗に勝利してみせるわ!」
「アルちゃん、トランプ弱かったよね?」
「ムツキ!?」
黒夜はその様子を見て、少しだけ笑った。
「トランプですか。たまには良いかもしれませんね」
「お、君も乗り気だね」
カスミがにやりと笑う。
「では、ただ遊ぶだけではつまらない。何か賭けようじゃないか」
「賭けるんですか?」
「もちろんさ。勝負とは、賭けるものがあるからこそ熱くなるって相場が決まっているものだ!」
カスミはそう言って胸を張った。
「私はそうだね……秘湯と呼ばれている、とっておきの温泉の場所を賭けよう!」
黒夜は少し目を細めた。
「その温泉、合法的に入れる場所ですか?」
「細かいことを気にしてはいけないよ、黒夜」
ハルナは優雅に手を添える。
「では美食研究会からは、最高ランクの牛肉を賭けましょう」
「最高ランクの牛肉!?」
厨房から声がした。フウカだった。
手元の鍋をかき混ぜながら、耳だけはこちらに向いている。
「……いや、何でもない。続けて」
何でもない顔ではなかった。
アルは腕を組む。
「なら便利屋68からは、一回だけどんな仕事でもタダで引き受ける権利を賭けるわ!」
「社長、それ本気?」
カヨコが横目で見る。
「もちろんよ! アウトローは約束を守るものだからね!」
「内容次第では破産するよ」
「そこは勝てば問題ないわ!」
「その発想がもう危ないんだけど」
ムツキは楽しそうに笑っていた。
そして、自然と視線が黒夜へ向く。
「で、黒夜は何を賭けるんだい?」
「私ですか…」
黒夜は少し考え込んだ。
秘湯に最高ランク牛肉に無料依頼権。
それらに釣り合うもの。
自分に出せるものが、すぐには思いつかない。
「そうですね……」
黒夜は深く考えずに言った。
「では私は、一日なんでも言うことを聞く、ということでいかかでしょうか?」
その瞬間、食堂の空気が止まった。
フウカの包丁が止まる。離れた席で食事をしていた風紀委員会の面々が、一斉にこちらを見る。
ヒナの箸が空中で止まり、イオリが変な顔をし、アコが目を見開き、チナツの眼鏡がずり落ちる。
別の席では、万魔殿の面々も反応した。
マコトが勢いよく立ち上がる。
「今、何と言った!?」
イロハは飲み物を吹きかけ、サツキは口元に手を当てて目を細め、チアキはすでにメモを取り始めている。
そんな中イブキは美味しそうにプリンを食べていた。
黒夜の周囲も同じだった。
カスミの目が輝き、ハルナの微笑みが深くなる。
アルが完全に固まっており、カヨコの目が獲物を捕らえたように細められた。
「……黒夜」
カヨコが静かに言った。
「それ、本気で言った?」
「え?」
黒夜は周囲を見回した。
全員の目の色が変わっている。
「……やっぱり釣り合ってませんか?」
「そういう意味じゃ――」
カヨコの声を遮ってマコトがずかずかと近づいてくる。
「黒夜! その勝負、この私も参加するぞ!」
「マコト様も?」
「一日なんでも言うことを聞くなど、万魔殿議長であるこの私が管理しなければ危険すぎる!」
「管理という名目で黒夜を議長補佐にする気ですよね」
イロハが後ろから言う。
「うるさいぞイロハ!」
ヒナも立ち上がっていた。
「黒夜、今の発言は不用意すぎるわ。よって私も参加する」
「ヒナさんもですか?」
「貴方を危険な相手に取らせるわけにはいかない」
それはあまりにも真面目な理由だった。
フウカも厨房から顔を出す。
「私も参加するわよ!!」
「フウカさんまで?」
「このままだと食堂がとんでもないことになりそうだし……あと、その、最高ランクの牛肉も少し気になるのよね……」
ハルナが嬉しそうに微笑む。
「フウカさんが参戦されるなら、より美食に近づきますわね」
「いつも迷惑掛けられてんだからたまにはハルナから奪うのも気分がいいでしょ?」
結局、参加者は整理された。
人数が多すぎると収拾がつかないため、それぞれの代表を出す形になり参加者が決定する。
カスミ・ハルナ・カヨコ・ヒナ・マコト・フウカ・黒夜。
ゲームはポーカー。
勝者が、全ての賭け品を得る。
食堂の一角に、即席の勝負卓が作られた。
周囲には観客が集まる。カヨコの後ろにはアル、ムツキ、ハルカ。
ハルナの後ろはアカリ、ジュンコ、イズミ。
ヒナの後ろはアコ、イオリ、チナツ。
マコトの後ろにイロハ、サツキ、チアキ、イブキ。
フウカは席に着きながらも、どこか落ち着かない。
「よく考えたら凄いメンバーになったわね、勝てるか自信なくなってきたわ…」
「フウカさんが勝てば一番平和だと思いますけどね」
カスミはカードを切りながら笑った。
「では始めようか。黒夜の一日を巡る、ゲヘナ食堂ポーカー勝負を!」
「その呼び方はやめてもらっていいですか」
黒夜の願いは、誰にも届かなかった。
序盤は、カスミが場を荒らした。
意味ありげに笑い、わざと大きく賭け、弱い手でも強気に出る。
「さあどうする? 乗るかい、降りるかい?」
「カスミさん、毎回楽しそうですね」
「当然さ! 勝負とは爆発前の導火線のようなものだからね!」
だが、カスミの派手なブラフはヒナには通じなかった。
ヒナは表情を変えず、必要な時だけ最小限に賭ける。無駄な勝負には乗らない。カスミが大きく張った時も、視線一つ動かさずに降りた。
「つまらないなぁ、ヒナ委員長、もう少し戦闘時の様な攻撃的なプレイを期待していたのだがねぇ」
「勝負に面白さを求めすぎるから貴女は負けるのよ」
次の勝負で、カスミはハルナに読まれて大きくチップを失った。
ハルナは優雅だった。
「美食とは、時に待つことも重要ですわ。熟成された勝機を見逃してはいけません」
「ポーカーを料理みたいに言うの、やめてくれないかな」
ジュンコのツッコミをよそに、ハルナは確実に勝ちを拾っていく。
フウカは堅実だった。強い手では勝ち、弱い手ではすぐ降りる。無理をしない。大勝ちはしないが、大負けもしない。
「フウカさん、かなり堅実ですね」
黒夜が言うと、フウカは少し困ったように笑った。
「普段から危ない人達を相手に料理してるから……危険な気配には敏感なのよ」
「……お疲れ様です」
マコトは逆だった。
「ふははは! この私の豪運を見よ!」
大きく賭ける。さらに大きく賭ける。そして読みやすい。
カヨコが淡々と降り、ヒナも降り、黒夜も降りる中、マコトは一人で勝った気になっていた。
「恐れをなしたか!」
直後、ハルナが静かにコールした。
結果、マコトの手はワンペア。ハルナはツーペア。
「なっ……!?」
「マコト先輩、ハッタリが顔に出すぎですよ」
イロハが遠くから言った。
「うるさいぞイロハ!」
そしてマコトはしばらくして脱落した。
「黒夜の一日独占計画が……!」
「もっとひどい事考えてたんですね」
イロハは静かに呟いた。
カスミも中盤で脱落した。
「ハーッハッハッハ、いやぁ、楽しい勝負だったよ!」
「秘湯の場所、忘れないでくださいね」
「もちろんさ。勝者にはきちんと渡そう」
ハルナも終盤まで粘ったが、ヒナとの勝負で大きく削られた。
「見事ですわ、ヒナさん」
「貴方も十分手ごわかったわよ」
フウカは最後まで堅実に残ったものの、勝負の流れが大きく動いたところで降りざるを得なくなった。
「私はここまでだわ……黒夜、勝ちなさいよ。そして出来れば牛肉を分けて頂戴!」
「フウカさんの期待に添えられるように頑張ります」
やがて、ヒナも降りた。
黒夜が少し驚く。
「ヒナさん?」
「ここからは、貴方とカヨコの勝負ね」
ヒナはカードを伏せた。
「私は、貴方が本気で勝ちに行くところを見届けるわ」
その言葉に、黒夜は小さく頷いた。
最後に残ったのは、黒夜とカヨコだった。
序盤からここまで、両者とも大きな動きこそしていないがここぞという場面できっちり勝ってきていた。
さっきまで騒がしかった周囲も、自然と静かになっていた。
カヨコはカードを見て、表情を変えない。
黒夜もまた、静かだった。
互いにチップを少しずつ動かす。
黒夜が弱い手であえて押してみる。
カヨコは乗らない。
カヨコが小さな癖をわざと見せる。
黒夜はそれが罠だと見抜く。
黒夜が沈黙する。
カヨコはその沈黙に意味を読みすぎない。
一進一退。
黒夜が勝ってもすぐにカヨコが取り返す。
カヨコが仕掛けるも黒夜が受け流す。
派手さはないが、周囲は息を呑んでいた。
「……黒夜、本気だね」
カヨコが静かに言った。
「すこし興が乗りました」
黒夜はカードを見つめたまま答える。
「今はただ、純粋にこの勝負に勝ちたいんですよ」
「同じ事思ってたんだ…」
カヨコは少しだけ笑った。
最後の勝負、互いのチップは残り少ない。
カヨコが静かにチップを全て押し出した。
「オールイン」
食堂がざわつく。
黒夜はカヨコを見る。
カヨコの表情は読めない。
黒夜は自分のカードへ視線を落とした。
黒夜はゆっくりと、残りのチップを押し出した。
「受けます」
周囲が静まり返る。
カヨコがカードを開いた。
役無しのハイカードは、J。
黒夜もカードを開く。
同じく役無しだが、ハイカードは、Q。
一枚差。
ほんの僅かな差で、黒夜が勝った。
そして次の瞬間、食堂がどっと沸いた。
「カヨコが負けた!?」
アルが叫ぶ。
「ハッハッハ!自分で自分の権利を守るとはやるじゃないか!」
カスミが笑う。
マコトは頭を抱えた。
「私の計画が……!」
「そういう事は胸の内に秘めておいた方がいいですよ」
イロハが呆れる。
フウカは心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よ、よかった……とりあえず食堂が破壊されなくて済みそうね…」
ヒナも小さく息を吐いた。
「よく勝ったわ」
黒夜は深く息を吐く。
「……危なかったです」
カヨコは黒夜のカードを見つめ、少しだけ笑った。
「よくブラフだってわかったね」
「カヨコさんの事はよく見ていましたからね」
「そっか。いい勝負だったよ」
「ありがとうございました、カヨコさん」
「こちらこそ」
静かなやり取りだった。
その後、勝者である黒夜の前に、賭け品が揃えられた。
カスミから秘湯の場所。
美食研究会から最高ランク牛肉。
便利屋68から無料依頼権。
その他、途中で追加された細々とした副賞。
周囲が見守る中、黒夜はそれらを見つめ、少し考え込んだ。
「……では、皆さんでその秘湯に行きましょう」
カスミが目を瞬かせる。
「ほう? 独り占めしないのかい?」
「せっかくですから、皆さんで行った方が楽しいでしょう」
ハルナが興味深そうに微笑む。
「では、牛肉はどうされますの?」
「秘湯の後に、食事会を開きましょう。最高ランクの牛肉は、その時に使わせていただきます。フウカさんにお願いできれば、きっと美味しく調理していただけるでしょうし」
フウカは驚いた顔をした。
「私も行っていいの!?」
「もちろん、無理にとは言いませんが」
「……そこまで言われたら、腕によりをかけるしかないじゃない」
ハルナは満足げに頷く。
「素晴らしいですわ。秘湯の後に最高級牛肉、しかもフウカさんの料理。今から涎が零れてしまいそうですわ」
黒夜は次に便利屋68を見る。
「アルさん達には、その準備を手伝っていただきます。食材運びや会場準備などをお願いします」
アルは一瞬呆気に取られ、それからすぐに胸を張った。
「ふっ、勝者からの正式な依頼なら仕方ないわね! その仕事引き受けるわ!」
カヨコは少しだけ目を細める。
「正直、権利使わなくてもそれぐらいやるけど?」
「これでいいんですよ」
黒夜は微笑んだ。
「誰か一人が得をするより、皆さんで楽しめた方が良いでしょう?」
その言葉に、周囲が少しだけ静かになった。
ヒナは小さく息を吐く。
「……貴方らしいわね」
カヨコも頷いた。
「黒夜らしい使い方だね」
マコトは少し不満そうに腕を組んだ。
「ふん。まあ、黒夜がそう言うなら付き合ってやらんでもない」
「マコト先輩は誘われなくても行く気満々ですよね」
「イロハ!」
カスミは楽しそうに笑う。
「では秘湯までの道案内は任せたまえ! ただし少々刺激的な道のりになるかもしれないがね!」
「普通の道でお願いします」
黒夜が即座に言った。
フウカは厨房へ戻りながら、少しだけ笑った。
「それなら、食材の準備とか考えないといけないわね」
「ありがとうございます」
食堂は再び騒がしくなった。
さっきまでの緊迫したポーカー勝負が嘘のように、皆が慰安旅行の予定について話し始める。
秘湯に行くなら何を持っていくか。牛肉はどう調理するか。
便利屋は何を担当するか。マコトが勝手に万魔殿主催を名乗り、イロハに止められ、カスミが変な掘削計画を出そうとしてヒナに止められる。
黒夜はその中心で、少し困ったように笑っていた。
平和だった食堂は、黒夜の一言で一度戦場になった。
けれど最終的には、ゲヘナらしく騒がしく、そして少しだけ温かい合同慰安旅行の予定が残った。
カヨコが隣に立ち、静かに言う。
「次から、賭けるものはもう少し考えた方がいいよ」
「……本当にそう思います」
黒夜は深く頷いた。
「次がないことを願いますが」
カヨコは周囲を見た。
カスミが笑い、マコトが騒ぎ、ハルナが美食の計画を立て、フウカが頭を抱え、ヒナがため息を吐いている。
「たぶん、次もあるね」
「……ですよね」
黒夜は諦めたように笑った。
ゲヘナの食堂は、今日も騒がしい。
けれど、その騒がしさは不思議と悪くなかった。