その日、黒夜はトリニティの自宅で、ナギサ*テラー達と紅茶を飲んでいた。
特別な用事があったわけではない。
ナギサ*テラーが勝手に棚から茶葉を選び、ミカ*テラーが勝手にソファに寝転がり、セイア*テラーが勝手に黒夜の隣の席を確保していた。
もはや見慣れた光景だった。
「……皆さん、せめて来る前に一言連絡をください」
『黒夜さんの家に来るのに、連絡が必要なのですか?』
「当たり前では?」
『えー、でも黒夜の家ってもはや私たちの実家みたいな物じゃんね』
「私の家です」
『つまり、帰省だね』
「黒セイア様まで乗らないでください」
黒夜が困ったようにため息を吐くと、三人は楽しそうに笑った。
その光景は、何度も繰り返された日常だった。
だからこそ、黒夜は最初、その異変に気づくのが遅れた。
ナギサ*テラーの指先に、淡い光が集まっていた。
「……黒ナギサ様なんですか、それ?」
黒夜が声をかける。
見ると、ミカ*テラーの肩にも、セイア*テラーの髪にも、同じような光が絡み始めていた。粒子のような光が、三人の身体を包んでいく。
黒夜は椅子から立ち上がった。
「何か変ですよ……!」
黒夜は取り乱したが、三人はまたかといった表情で至って平常心だった。
ナギサ*テラーは自分の手元を見て、少しだけ眉を下げる。
『ああ、またですか』
ミカ*テラーも、面倒そうに頬を膨らませた。
『えー、今? せっかく黒夜の淹れた紅茶飲んでたのに』
セイア*テラーは光に包まれながらも、落ち着いた様子でカップをテーブルへ置いた。
『今回は少し早いね。前回から、そこまで経っていないと思ったのだけどね』
「皆さん、どうしてそんなに落ち着いて……!」
黒夜には、そう見えなかった。
彼女達が消えていく。
光に包まれ、手の届かない場所へ連れて行かれるようにしか見えなかった。
ミカ*テラーは慌てる黒夜を見て、すぐに手を振った。
『大丈夫だよ、黒夜。これ、たまにあるやつだから』
「なにを言ってるんですか!?」
『すぐに戻るから――』
その言葉を最後まで聞く前に、黒夜は動いていた。
近くにいたセイア*テラーの手を、反射的に掴む。
「待ってください!」
セイア*テラーの目が見開かれた。
『黒夜、離すんだ!このままだと君も――』
言い終わる前に光が弾けた。
部屋の輪郭が歪む。床の感触が消える。
紅茶の香りも、窓の外の景色も、すべてが白く塗り潰されていく。
黒夜は掴んだ手を離さなかった。
次の瞬間、身体が強く引っ張られる感覚があった。
落ちているのか、飛ばされているのかも分からない。
ただ、握ったセイア*テラーの手だけが、確かにそこにあった。
そして――。
黒夜は、硬い地面に膝をついた。
「っ……!」
視界が揺れる。
空気の匂いが変わったのを感じた。自宅ではない、外だ。
黒夜は顔を上げる。そこは、トリニティ近郊の外れのようだった。遠くに白い校舎が見える。見慣れたトリニティの景色に似ているが、どこか空気が違う。
隣には、セイア*テラーがいた。
少し離れた場所に、ナギサ*テラーとミカ*テラーも倒れ込むように現れている。
「大丈夫ですか!?」
黒夜は立ち上がり、三人の無事を確認した。
ナギサ*テラーは軽く髪を整えながら起き上がる。
『問題ありません。慣れているとはいえ、少し乱暴な転移でしたね』
ミカ*テラーは草を払いながら、黒夜を見た。
『ていうか黒夜も来ちゃったの!? 大丈夫!? 怪我してない!?』
「私は大丈夫です。皆さんこそ……」
『私たちは平気だよ。でも……』
ミカ*テラーは、少し困ったように笑った。
『ついてきちゃったんだね』
「……すみません。皆さんが消えるように見えて、咄嗟に」
セイア*テラーは握られたままだった手をちらりと見て、静かに息を吐いた。
『君らしいと言えば、君らしいね』
「説明していただけますか」
黒夜は真剣な顔で三人を見る。
「これは、何なのですか?」
三人は顔を見合わせた。
そして、セイア*テラーが代表するように口を開く。
『簡単に言えば、世界の補正だよ』
「世界の補正……?」
『同じ世界に、同じ人物が二人存在し続けるのは、世界にとっては不安定な状態らしい』
セイア*テラーは、いつものように落ち着いた声で説明する。
『私たちは本来、君たちの世界の存在ではない。テラー化したとはいえ、ナギサ、ミカ、私。そんな私たちと似た存在……いや、同じ根を持つ存在が、君たちの世界のナギサ、ミカ、セイアと同時に存在している』
「それで、世界のバランスが崩れると?」
『そうです』
ナギサ*テラーが続けた。
『普段は問題なく過ごせていますが、一定の周期で世界が私たちを異物として弾こうとするのです。その結果、一時的に別の世界へ飛ばされるんですよ』
「定期的に……」
『初めてではありません』
だから三人は驚かなかったのか。黒夜はようやく理解する。
彼女達にとっては慣れた現象だった。
消えるわけではなく、一時的に別の世界へ飛ばされるだけ。時間が経てば戻ってくる。
だが、黒夜はそれを知らなかった。
「……先に教えておいていただければ」
『聞かれなかったので』
ナギサ*テラーが悪びれずに言う。
「聞く機会もありませんでしたよ」
『まあ、まさか君が手を掴んで一緒に飛ばされるとは思わなかったからね』
「それは……申し訳ありません」
黒夜は素直に頭を下げた。
ミカ*テラーは慌てて手を振る。
『謝らなくていいよ! 黒夜が私たちを心配してくれたんだもん! むしろ嬉しい事だよ!』
『嬉しいかどうかと、危険だったかどうかは別問題です』
ナギサ*テラーが言う。
『ですが、黒夜さんが無事で良かったです』
黒夜は少し考えた後、ふと疑問を口にした。
「あれ? 皆さんの話の通りならシロコ*テラーさんやプレ先さんはどうなるのですか?あの方々も、別の世界から来た存在ですし、どちらも同一人物が居ますよね?」
その問いに、セイア*テラーが頷いた。
『良い疑問だね』
ナギサ*テラーは少しだけ肩をすくめる。
『シロコ*テラーさんとプレナパテスさんは、正規の手段で世界を渡ってきた存在です。世界の理に沿った通行許可証を持っている、とでも言えばいいでしょうか』
「通行許可証……」
『一方で、私たちは不法侵入に近い』
セイア*テラーがさらりと言った。
黒夜は思わず沈黙した。
「そうだったんですか?」
『ええ。黒夜さんの家に勝手に上がるのとは、少し規模が違いますね』
「どちらもやめていただきたいのですが」
ミカ*テラーが笑う。
『つまり、向こうはちゃんと門から入ったけど、私たちは塀を乗り越えて入った感じ?』
『だいたい合っているね』
「わかりやすいですね」
黒夜は頭を押さえた。
だが、説明としては納得できた。
正規の手段で世界を渡った存在は、世界に受け入れられている。
一方で、ナギサ*テラー達は本来いるべきではない存在として、不定期に弾かれる。
そして今回、黒夜はその弾かれる現象に巻き込まれた。
「では、戻る方法は?」
『基本的には時間経過だね』
セイア*テラーが答える。
『一週間ほどで戻ることが多い。ただ短い時もあれば、少し長引く時もある』
「つまり、それまではこの世界で過ごすしかないと」
『そうなるね』
黒夜は周囲を見回した。
遠くに見えるトリニティ。
見慣れたはずなのに、どこか違って見える景色。
「ここは、どの世界なのでしょうか」
その言葉に、テラー三人の表情がわずかに変わった。ほんの一瞬。
黒夜はそれを見逃さなかった。
「……皆さん?」
セイア*テラーは、遠くのトリニティを見つめていた。
『おそらく、私たちが以前……』
言いかけて、彼女は言葉を切った。
『いや、まだ断言はできないかな?』
ナギサ*テラーも静かに頷く。
『まずは情報を集めましょう。私たちの知っている世界と似ていても、完全に同じとは限りませんから』
「そうですね」
黒夜は少しだけ違和感を覚えた。
何かを隠している。だが、今問い詰めるべきではないとも感じた。
ミカ*テラーは重くなりかけた空気を吹き飛ばすように、ぱん、と手を叩いた。
『まあまあ! とりあえず、すぐ帰れないなら休暇だと思えばいいんじゃない?』
「休暇、ですか」
『どうせやることもないし、百鬼夜行あたりに行こうよ。美味しいもの食べたいしさ!』
ナギサ*テラーは一瞬呆れたように目を細めたが、否定はしなかった。
『確かに、下手にこの世界のトリニティへ近づくより、他の学園方面へ移動した方が安全かもしれませんね』
セイア*テラーも口元を緩める。
『百鬼夜行なら、甘味も多い。温泉もある。短期滞在としては悪くないかもね』
「皆さん、切り替えが早いですね」
黒夜は少しだけ苦笑した。
けれど、悪い案ではない。
戻る方法が時間経過しかないなら、無理に動いても仕方がない。
トリニティ付近にいるより、別の場所で静かに過ごす方が問題も少ないだろう。
「分かりました。では、私も休暇気分でお供します」
『本当!?』
ミカ*テラーの顔がぱっと明るくなる。
『やった! 黒夜と旅行!』
「旅行ではありません。あくまで一時避難です」
『一時避難旅行だね』
「混ぜないでください」
ナギサ*テラーも楽しそうに微笑む。
『百鬼夜行に行くなら、和菓子も良いですね。黒夜さん、お茶に合うものを選びましょう』
「紅茶に会う和菓子はあるんでしょうかね…?」
『なら、私は温泉に入るかな~?』
セイア*テラーが言う。
『この世界の温泉が、私たちの知るものと同じとは限らないから調査も必要だろうね』
『セイアちゃん、それただ温泉入りたいだけじゃない?』
『否定はしないよ』
少しずつ、空気が軽くなる。
黒夜もようやく肩の力を抜いた。
突然の転移。知らない世界。
不安がないわけではない。
それでも、三人がいつものように笑っているなら、必要以上に怯えることはないのかもしれない。
そう思った時だった。
「……え?」
背後から、声が聞こえた。
黒夜達は一斉に振り返る。
少し離れた道の先に、一人の少女が立っていた。
淡い桃色の髪。白い羽根。
明るい雰囲気をまといながらも、今は呆然とこちらを見つめている。
聖園ミカ。
だが、黒夜の知るミカではない。
この世界のミカだった。
ミカの視線は、最初にミカ*テラーへ向いた。
自分と同じ顔をした、黒い羽根の少女。
次に、ナギサ*テラー。
さらに、セイア*テラー。
そこでミカの表情が大きく揺れた。
「セイア……ちゃん……?」
その声は、震えていた。
明らかにこの世界のミカがセイア*テラー見つめている表情が変だった。
そんなミカの様子に黒夜も自然と息を呑む。
けれど、目の前のミカの表情だけで分かった。
これは、ただの驚きではない事が薄々感じ取れた。
ミカ*テラーはこの世界のミカを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
ナギサ*テラーは何も言わない。
セイア*テラーも堂々とそこに立っている。
ミカは一歩、後ずさった。
「なに……これ……?」
その視線が最後に黒夜へ向く。
「あなたたち……誰?」
黒夜は返答に詰まった。
休暇気分で百鬼夜行へ行こうとしていたが、その予定は始まる前に崩れてしまった。
遠くに見えるトリニティの白い校舎。
その上には、どこか暗い雲が立ち込めているように見えた。