「あなたたち……誰?」
姿は同じだ声も同じ。纏う空気にも、どこか共通する明るさがある。
けれど、違う。黒夜の知るミカなら、目の前に自分がいればまず名前を呼ぶ。距離を詰めてきて、少し強引なくらい心配して、そして当然のように腕を絡めてくる。
だが、この世界のミカは黒夜のことを知らない目で見ている。
その事実が、思った以上に胸の奥を冷やした。
ミカの視線は、黒夜よりも後ろにいる三人へ向いていた。
特に、セイア*テラーへ注がれていた。
「セイアちゃん……なの?」
震えた声だった。
セイア*テラーは、何も隠さずそこに立っている。
フードを被ることも、姿を誤魔化すこともない。
堂々と、ミカの前にいた。
しかし、その表情は穏やかなままだった。
『私は、君の知るセイアではないよ』
「……っ」
ミカの顔が、苦しそうに歪む。
黒夜は、その反応の意味が分からない。
だが、ただの驚きではないことだけは分かった。
ナギサ*テラーは、冷静に周囲を見回した。
『困りましたね。ここで時間を取られる予定ではなかったのですが』
ミカ*テラーも、ミカを見ながら肩をすくめる。
『ねぇ、もう行っていい? こっちも百鬼夜行での予定が詰まってるんだよね』
「百鬼夜行?」
ミカが呆然と聞き返す。黒夜はすぐに前へ出た。
「申し訳ありません。私たちは少し道に迷ってしまっただけですので、これで失礼します」
できるだけ穏やかに。できるだけ怪しまれないように。
そう言ったつもりだった。
だが、ミカは道を譲らなかった。
むしろ、道を塞ぐように一歩前へ出る。
「待って!」
ナギサ*テラーの目が、わずかに細くなる。
ミカ*テラーの表情から、笑みが消えた。
セイア*テラーだけは変わらず静かにミカを見ていた。
「あなたたち、何なの? どうして私と同じ顔の子がいるの? どうしてナギちゃんとそっくりの子もいるの? それに……」
ミカの視線が、セイア*テラーへ吸い寄せられる。
「どうして、セイアちゃんがいるの……?」
その声は、責めているようで、縋っているようでもあった。
黒夜は眉をひそめる。この世界のセイアに、何かがあったのか?
だが、何があったのかは分からない。知らない以上、迂闊には踏み込めない。
「……ミカ様」
黒夜が呼ぶと、ミカの視線が一瞬だけこちらへ向いた。
「ミカ様? どうして私の名前を……」
「…それは」
黒夜が言いかけたところで、セイア*テラーがそっと彼の袖を引いた。
『黒夜。余計なことは言わない方がいい』
「……」
黒夜は言葉を飲み込む。
その様子を見て、ミカの警戒が強くなった。
「何か知ってるんだよね」
「……申し訳ありません。今は、何も」
「何もって顔じゃないよ」
ミカは笑おうとした。
けれど、その笑みは歪んでいた。
「ねえ。教えてよ。あなたたち、何なの? セイアちゃんに似たその子は、何なの?」
『似た、ではなくて別人だと言っているだろう?』
セイア*テラーが静かに答える。
「そんなの、信じられるわけないじゃん……!」
ミカの声が少し大きくなる。
その瞬間、ミカ*テラーの表情が完全に冷めた。
『……めんどくさい』
「ちょっとま――」
黒夜が止めるより早く、ミカ*テラーはセイア*テラーに視線を向けた。
『セイアちゃん、もう面倒くさいから畳んじゃっていいよ』
黒夜の背筋に、冷たいものが走った。
言葉の意味を、すぐに理解してしまった。
この世界のミカに対して、ミカ*テラーは何の躊躇もなく口にした。
ナギサ*テラーも止めない。むしろ、冷めた視線をミカへ向けていた。
『そうですね。黒夜さんとの予定を邪魔される理由もありませんし』
「黒ナギサ様まで……!」
黒夜は息を呑む。
セイア*テラーは、少しだけ考えるように顎に手を添えた。
『それもそうだね』
その声も、ひどく軽かった。
『黒夜との旅行の予定も控えているしね』
次の瞬間、セイア*テラーの姿が消えた。
音もなく、ミカとの距離を詰める。
ミカは反応しきれていない。目の前のセイアに似た存在が急に動いたことに、ただ目を見開いている。
黒夜の身体は、考えるより先に動いていた。
セイア*テラーとミカの間に割り込む。
「待ってください!!」
必死な黒夜の声が響いた。
セイア*テラーの足が止まる。
あと一歩で、彼女はミカを制圧していた。
黒夜は両手を広げるようにして、ミカを背に庇った。
ミカが息を呑む。
「あなた……」
黒夜は振り返らない。
ただ、セイア*テラーを見ていた。
「いくら別世界の方でも、ミカ様です。理由もなく傷つけるのはやめてください!」
セイア*テラーは、少しだけ目を細める。
『理由ならあるよ。私たちを逃がさないようにしている』
「それだけで!!」
『黒夜は甘いね』
「何と言われようと、私はミカ様をお守りします!」
「それに、その甘さを捨てるつもりはありません!」
ミカ*テラーが頬を膨らませる。
『そっちの私の味方をするの? 私もミカなのにー!』
「今は、誰かを傷つけないために止めています」
『むう……!』
ナギサ*テラーは小さく息を吐いた。
『黒夜さんがそう言うなら、仕方ありませんね』
セイア*テラーも、肩の力を抜いた。
『黒夜に嫌われるのは得策ではないしね』
「嫌いにはなりませんが、怒ります」
『それは避けたい』
セイア*テラーはあっさり引いた。
黒夜はようやく息を吐く。最悪の事態は避けられた。
だが、背後のミカは震えていた。
黒夜が少し横に退くと、ミカは黒夜の向こうにいるセイア*テラーを見つめた。
「お願い……」
その声は、先ほどまでよりずっと弱かった。
「お願いだから……私の前から居なくならないで…」
ミカはセイア*テラーへ手を伸ばしかける。
けれど、触れられない。触れていいのか分からない。
「ナギちゃんに……会って。お願い。私だけじゃ、説明できないから……」
黒夜はミカを見る。
その表情は、黒夜の知るミカが滅多に見せないほど追い詰められていた。
セイア*テラーの目が、静かに細まる。
ナギサ*テラーとミカ*テラーも、互いに視線を交わした。
その瞬間、三人は確信した。
あの世界だ。
以前、黒夜を探していた時、鏡を通して見た世界。
セイアが死んだと思われ、ナギサが疑心暗鬼に陥り、ミカが裏切者となる世界。
まだ、その序盤。
決定的な破滅へ向かう前の、しかしすでに歯車が狂い始めている時期。
ミカ*テラーは、泣き出しそうなミカを冷めた目で見た。
内心で、言葉が浮かぶ。馬鹿みたい。
黒夜がいないだけで、自分はこんなふうになるのか。
ナギサ*テラーも同じ事を思っていた。
疑うことでしか守れない自分。
裏切ることでしか手を伸ばせないミカ。
黒夜がいないだけで、こうも歪む。
馬鹿みたいですね。
だが、その言葉を口には出さない。
言ったところで、この世界の彼女達には届かない。
セイア*テラーは、ほんの少しだけ笑った。
『分かった。案内してくれるかな』
ミカの顔に、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。
「……ありがとう」
その声は、ひどく脆かった。
黒夜達は、ミカに連れられてトリニティへ向かった。
道中、ミカはほとんど話さなかったが時折セイア*テラーをちらりと見る。
それから、苦しそうに目を逸らすという行為を繰り返していた。
黒夜はその様子を見ながら、言葉を選び続けていた。
何も知らない。この世界の事情も、セイア*テラー達が何を隠しているのかも。
だが、空気だけは分かる。
このミカは、何かに押し潰されかけている。
そして、セイア*テラーを見るたび、その痛みが増している。
トリニティの校舎は、黒夜の知るものとよく似ていた。
白い廊下。
整えられた庭。
静かな空気。
だが、やはり違う。
黒夜の知るトリニティには、もう少し温かさがあった。
ミカが笑い、ナギサが紅茶を淹れ、セイアが穏やかに皮肉を言う。
その空気が、ここにはない。
通されたのは、見慣れたテラスだった。
ティーパーティーのための場所。
紅茶と会話と、時に政治が交わされる場所。
そこに、ナギサがいた。
この世界の桐藤ナギサ。
彼女はミカに案内されてきた黒夜達を見て、最初は警戒の色を浮かべた。
だが、その視線がセイア*テラーに向いた瞬間、表情が崩れた。
「……セイア、さん……?」
カップを持つ手が、わずかに震える。
紅茶の水面が揺れた。
セイア*テラーは、堂々とそこに立っている。
『何度も言うが、私は君たちの知る百合園セイアではないよ』
ナギサは何も言えなかった。
次に、ナギサ*テラーを見た。
自分と同じ顔。
しかし黒い羽根を持つ少女。
さらにミカ*テラー。
ミカと同じ顔の、黒いミカ。
ナギサの視線が、最後に黒夜へ移る。
「……あなた達は何者ですか?」
声は静かだった。
だが、その奥には強い警戒心がある。
「ミカさん。説明を」
ミカは口を開きかけた。
しかし、言葉が出ない。
ナギサはそれを見て、さらに疑念を深めたようだった。
黒夜は一歩前へ出る。
「初めまして、ナギサ様。私は――」
ゲヘナ学園情報部兼。
そう言いかけた瞬間、セイア*テラーがすっと黒夜の横に寄った。
そして誰にも聞こえない様に耳元で囁く。
『黒夜。ここでゲヘナを名乗るのはやめた方がいい』
黒夜は一瞬だけ止まった。
そして、すぐに言葉を変える。
「……トリニティ総合学園所属、ティーパーティー専属護衛の月城黒夜と申します」
ナギサの目が細くなる。
「ティーパーティー専属護衛?」
「そうです」
「私は、そのような役職を任命した覚えはありません」
当然の反応だった。
この世界のナギサは黒夜を知らない。
黒夜が任命された事実もない。
黒夜は静かに頭を下げる。
「ごもっともです。私も、この世界のナギサ様から任命されたわけではありませんから」
「この世界……?」
ナギサの警戒が強くなる。
セイア*テラーは口を挟まない。
ただ、黒夜がどう話すかを見ている。
ナギサは冷たく言った。
「荒唐無稽な話ですね。別の世界から来た、とでも仰るつもりですか?」
「はい」
黒夜は即答した。
ナギサは沈黙した。
あまりに真っ直ぐな返答だったからだ。
ミカも小さく呟く。
「ほんとに……?」
「信じていただくのが難しいことは承知しています」
「では、証拠は?」
ナギサの声は鋭い。
「貴方が本当に、別の世界の私たちに関わる者だという証拠を示してください」
黒夜は少しだけ考えた。
そして、テラスのテーブルに置かれている茶器へ視線を向ける。
「紅茶を淹れてもよろしいでしょうか」
「……紅茶?」
ナギサは警戒したまま、しかし頷いた。
「構いません。ただし、不審な真似をすればすぐに止めます」
「承知しています」
黒夜は慣れた手つきで茶器を確認した。
茶葉の種類。
湯の温度。
カップの位置。
自分の世界で何度も行った動作だった。
ナギサの好み。
ミカの好み。
セイアの好み。
全部、身体が覚えている。
ここにいるナギサとミカが自分を知らなくても、黒夜にとって二人は大切な人達と同じ人物であるならば。
だから、手は迷わなかった。
まずナギサへ。
いつものように、彼女が好む銘柄を選ぶ。香りが立ちすぎず、渋みも強すぎない。落ち着いて考え事をする時に、ナギサがよく選ぶもの。
次にミカへ。
飲みやすく、少し甘さと相性が良いもの。ミカが紅茶を難しく考えずに楽しめるようにと、黒夜がよく淹れていたもの。
ナギサはその手つきをじっと見ていた。
ミカも、黙っている。
やがて、黒夜は二人の前にカップを置いた。
「どうぞ」
ナギサは警戒したまま、カップへ手を伸ばす。
香りを確かめた瞬間、表情が揺れた。
「……これは」
ミカもカップを覗き込み、恐る恐る一口飲む。
「え……」
彼女の声が漏れた。
「これ、私が好きな……」
ナギサは黒夜を見る。
「なぜ、私の好みを知っているのですか」
黒夜は静かに答えた。
「私の知るナギサ様が、よく飲まれていたものです」
ミカが小さく言う。
「じゃあ、私のも?」
「はい。私の知るミカ様がお好きなものです」
ナギサは黙った。
完全には信じられない。
この程度で信じるには、状況があまりにも異常すぎる。
自分とミカに似た黒い少女達。
死んだはずのセイアに似た存在。
そして、見知らぬ護衛を名乗る少年。
疑う要素はいくらでもある。
だが、紅茶の味は本物だった。
自分の好みを、正確に知っている。
ミカの好みも同じように。
ナギサは、静かにカップを置いた。
「……話だけは聞きましょう」
それは、信頼ではない。
だが、対話の許可だった。
黒夜は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
テラスに、重い沈黙が落ちる。
その中で、セイア*テラーが椅子に腰を下ろした。
まるで自分の居場所であるかのように、堂々と。
『それで、どこから話そうか』
その姿を見て、ナギサの表情がまた揺れる。
ミカも、息を呑む。
ナギサ*テラーとミカ*テラーは何も言わない。
ただ、二人の世界の自分達を見て、静かに思っていた。
黒夜がいないだけで。
片方は疑心暗鬼。
片方は裏切者。
馬鹿みたいだ、と。
そして黒夜だけは、その冷たさにも、この世界のナギサとミカの痛みにも、まだ気づききれずにいた。
ただ一つだけ分かっている。
休暇気分の旅は、もう終わった。
ここから先は、きっと穏やかでは済まないという予感だった。