夜のシャーレは、相変わらず静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消え去り、照明に照らされた執務室には、紙をめくる音とペンが走る微かな音だけが残っている。
先生は一人、机に向かい、淡々と業務を片付けていた。
アビドス関連の報告書。
各学園から上がってくる形式ばった書類。
そして、どこか意図を感じさせる、曖昧な文章の数々。
――いつも通りだ。
そう思いながらも、胸の奥には、言葉にできない違和感がわずかに引っかかっていた。
最近、各学園の動きが、妙にぎこちない。
特に、トリニティとゲヘナ。
直接的な衝突はないが、水面下で何かが静かに進んでいる気配がある。
「……考えすぎかな」
独り言のように呟き、先生は次の書類に手を伸ばした。
その時だった。
――ジリリリリリ。
静寂を切り裂くように、電話の着信音が鳴り響いた。
先生は一瞬だけ手を止め、目の前のスマホに視線を向ける。
この時間帯に掛かってくる電話は、そう多くない。
表示された名前を見て、先生は小さく目を見開いた。
「……ヒナ?」
何の気なしにスマホを取り、耳に当てる。
「もしもし。こちらシャーレだけど――」
『……先生』
聞こえてきたのは、確かにヒナの声だった。
久しぶりに聞く声。
だが、いつもよりも少し硬く、余裕がない。
「久しぶりだね、ヒナ。急にどうしたの?」
なるべく普段通りの調子で、先生はそう尋ねた。
一拍の沈黙。
『……アビドスの件、覚えてるかしら?』
その言葉に、先生はすぐ理解した。
「ああ。もちろん、
あの時は、ヒナや風紀委員会のみんなには助けられたからね」
忘れるはずがない。
シャーレとして介入し、ヒナたちにとっても決して小さくない「借り」を作った出来事だ。
『その……あの時の“貸し”を、返してほしい』
ヒナの声は、低く、しかしはっきりしていた。
先生は、椅子の背にもたれながら、ほんの少しだけ考える。
貸しを返せと言われること自体は、想定していた。
だが、こうして電話越しに、しかもこの時間に、というのは珍しい。
「いいよ」
答えは、思ったよりも早く口をついて出た。
『……え?』
ヒナの声に、わずかな戸惑いが混じる。
「わかった。それで、具体的には何をすればいいのかな?」
先生は、落ち着いた声で続けた。
電話の向こうで、ヒナが一度息を整えるのが分かった。
『トリニティ総合学園の……ティーパーティーの三人と』
その名前が出た瞬間、先生の意識が、少しだけ研ぎ澄まされる。
『非公式で、極秘の会談をしたい』
「……非公式?」
『ええ。
シャーレの権限で、三人を“呼び出して”ほしいの』
先生は、無意識に指を組んだ。
トリニティのティーパーティー。
それも、非公式での極秘会談。
どれか一つでも重い条件なのに、それが全部揃っている。
「……ずいぶん大掛かりだね」
『そう思うのも無理はないわ』
ヒナは、すぐに続けた。
『今は“なぜ?”って思うかもしれない。でも』
一瞬、言葉を選ぶような間が空く。
『その会談には、先生にも第三者として立ち会ってもらうつもり』
「僕も?」
『ええ。詳しい事情は、その場で話すわ』
その言葉には、はっきりとした意図があった。
――電話では話せない。
記録にも残せない。
先生は、ゆっくりと目を閉じた。
これが、ただの根回しや形式的な会談ではないことは明らかだった。
『……お願い、先生』
ヒナの声が、わずかに揺れる。
『今は、本当に時間がないの』
その一言で、決定的だった。
先生は、これまでのヒナの姿を思い出す。
冷静で、理性的で、簡単に感情を表に出さない彼女。
そんなヒナが、ここまで焦りを隠さずに頼んでくる。
「……わかった」
先生は、はっきりと答えた。
「すぐに手配する。
できるだけ速く、場所も含めて調整しよう」
電話口の向こうで、ヒナが息を吐く音が聞こえた。
『……ありがとう、先生』
その声は、心からのものだった。
「詳細は、会談の場で聞かせてもらうよ」
『ええ。それで十分』
短い沈黙のあと、通話は切れた。
ツー、という音だけが、耳に残る。
先生は、しばらくそのままスマホを持ち続けていた。
「……ヒナが、あそこまで焦るなんてね」
独り言のように呟き、ゆっくりと立ち上がる。
机に戻り、すでに別の思考に切り替わっていた。
トリニティ。
ゲヘナ。
そして、シャーレ。
これは単なる学園間の問題ではない。
――何かが、決定的に歪み始めている。
先生はタブレットに手を伸ばし、静かに手配を開始した。
公式記録には残らない。
だが、確実に分岐点となる会談。
その場に、自分も立ち会う。
「……さて」
先生は、小さく息を吸い、画面を見つめる。
「嫌な予感が、当たりませんように」
そう願いながら。
夜のシャーレで、新たな歯車が、静かに回り始めていた。
先生の一人称を「私」から「僕」に変更しました。
ご了承ください。
この話までが幕間で次話から続きを書いていきます!