用意された部屋は、驚くほど豪華だった。
広い寝室。柔らかなソファ。
整えられた調度品。大きな窓からはトリニティの庭園が見える。
紅茶も、菓子も、必要な衣類も揃えられていた。待遇だけを見れば、客人としては十分すぎるほどだ。
だが、部屋の外には見張りがいる。
表向きは安全確保。
実質的には監視。
ナギサ*テラーは窓辺に立ち、静かに外を見下ろしていた。
『……相変わらず見てくれだけは良い部屋ではありますね』
声は穏やかだったが、機嫌は良くない。
ミカ*テラーはソファの上で膝を抱え、不満を隠そうともしなかった。
『黒夜を一人にするの嫌なんだけど』
「すぐに戻りますよ」
黒夜は苦笑しながら答えた。
「ナギサ様達の意向を確認して、必要なことだけ手伝ってきます」
『この世界の私ですが、黒夜さんを便利な道具として使う気ではないでしょうね』
ナギサ*テラーの声に、鋭さが混じる。
黒夜は首を横に振った。
「少なくとも、今のところはそういう意図ではないと思います。警戒されているだけですよ」
『警戒だけなら良いのですが』
ミカ*テラーが頬を膨らませる。
『いざとなったら呼んでね。すぐ行くから。ほんとにすぐ行くから』
「分かっています」
セイア*テラーは椅子に座り、静かに紅茶を口にした。
『黒夜なら、見てしまった以上放っておけないだろうね』
その言葉に、黒夜は少しだけ黙る。
見てしまった。
この世界のナギサの硬い声。
この世界のミカの崩れかけた笑顔。
そして、テラー達が告げた真実の輪郭。
何が正しいのかも分からない。
けれど、苦しんでいる人を見た。
それだけで、背を向けることはできなかった。
「……必ず戻ってきます」
黒夜は三人へ向き直る。
「何かあれば、すぐに呼んでください」
『約束ですよ』
『絶対だよ』
『黒夜の言う事は偶に信用できない時があるからね』
「黒セイア様…」
『冗談だよ』
「約束は守ります」
黒夜は困ったように笑った。
その笑みを見て、ミカ*テラーは少しだけ不満そうに目を逸らす。
『……あの私たちに優しくしすぎないでよ』
黒夜は一瞬、返答に困った。
「優しく、というより……できる範囲で手伝うだけです」
『それを優しいって言うんだよ、黒夜』
ミカ*テラーの声は、拗ねた子供のようだった。
ナギサ*テラーは小さく息を吐く。
『気をつけてくださいね』
「はい。行ってきます」
黒夜は部屋を出ていった。
その瞬間、ミカ*テラーはソファに倒れ込んだ。
『あー……嫌だ嫌だ。黒夜があの私と話してると思うと、なんか嫌だ』
『ミカさんは分かりやすいですね』
『ナギちゃんだって嫌でしょ?』
『そうですね』
ナギサ*テラーは窓の外を見たまま答えた。
『ただ、黒夜さんが放っておけないのも分かっています』
セイア*テラーは紅茶を置き、静かに言う。
『黒夜は、壊れそうな人を見たら放っておけない。私たちがそれを一番よく知っているだろう?』
ミカ*テラーは黙った。
ナギサ*テラーも、少しだけ目を伏せる。
『……ええ』
『分かってるけどさぁ……』
ミカ*テラーは腕で目元を隠した。
『あの私、見てるとむかつく』
その声には、怒りだけではない。
自分と同じ顔をした少女が、壊れかけている。
笑って、隠して、何かを背負っている。それが見ていて苛立つ。
そして何より、黒夜がその少女を放っておけないことが分かってしまう。
セイア*テラーは、何も言わずに目を閉じた。
黒夜は、その頃すでにテラスへ向かっていた。
案内された先にはナギサがいた。
テーブルの上には資料が積まれている。
補習授業部に関する記録。生徒の成績。出席状況。行動履歴。関係者の報告書。
ナギサは紅茶を前にしていたが、飲んでいる様子はなかった。
黒夜が入ると、彼女は顔を上げる。
「来ましたか」
「はい。お呼びと伺いました」
「座ってください」
礼儀正しい声。
だが、警戒は解けていない。
黒夜はそれを理解した上で、静かに椅子へ座った。
「何をお手伝いすればよろしいでしょうか」
「まずは、資料整理をお願いします。貴方が本当に別世界のティーパーティーに関わっているというのなら、この程度は問題なくこなせるでしょう」
「承知しました」
黒夜は余計なことを言わず、資料へ目を通し始めた。
分類。
日付順の整理。
重複した報告の確認。
不自然に欠けている情報の洗い出し。
手は自然に動いた。
元の世界でも、ナギサの補佐として似たような作業をしたことが何度もある。
ナギサはその様子を横目で見ていた。
最初は試すような目だった。
けれど、黒夜が何も言われずとも資料を整理し、不備を見つけ、必要な箇所に付箋を挟んでいくのを見て、少しずつ目つきが変わる。
「……手慣れていますね」
「元の世界でも、ナギサ様の補佐をすることがありましたので」
「私の、ですか」
「はい」
「そちらの私は、貴方を随分信頼しているようですね」
黒夜は少しだけ手を止めた。
「……ありがたいことに」
ナギサはそれ以上言わなかった。
ただ、紅茶のカップへ視線を落とす。
しばらく、紙の擦れる音だけが続いた。
やがてナギサは、一枚の資料を見つめたまま口を開く。
「現在、補習授業部には裏切者がいる可能性があります」
黒夜は顔を上げた。
「裏切者、ですか」
「ええ、トリニティを揺るがす脅威が、内部に潜んでいる可能性がある。私は、それを見つけなければなりません」
「……」
黒夜はナギサの顔を見る。
美しく整った表情。
けれど、そこにあるのは余裕ではなかった。
追い詰められている。
ナギサは、疑うことを選んでいるのではない。
疑うしかないところまで追い詰められている。
黒夜にはそう映った。
「ナギサ様」
「何でしょう」
「その裏切者を見つけた後、どうされるおつもりですか」
ナギサは一瞬、答えを用意していたように口を開いた。
「トリニティのために、然るべき処置を取ります」
「然るべき処置ですか」
「裏切りを見逃すことはできません。トリニティの秩序を守るためにも」
「では」
黒夜は静かに問いを重ねた。
「その方がなぜ裏切ったのかは、聞かないのですか?」
ナギサの動きが止まった。
指先が、資料の端を押さえたまま固まる。
「……理由など」
声が少しだけ揺れた。
「理由など、関係ありません。裏切りは裏切りです」
「そうかもしれません」
黒夜は否定しなかった。
ただ、穏やかに続ける。
「ですが、理由を知らなければ、同じことがまた起きるかもしれません」
「……」
「責めるためではなく、知るために聞くことも必要なのではないかと、私は思います」
ナギサは黙った。
黒夜はそれ以上踏み込まなかった。
自分は、この世界の事情を知らない。
だから断定はしない。
ただ、問いを置くだけ。
ナギサはしばらく資料を見つめていたが、やがて静かに言った。
「……貴方は、不思議な方ですね」
「よく言われます」
「責めているようで、責めない。否定しているようで、否定しない」
「そのつもりはありません」
「ええ。だからこそ、妙に胸に残る」
ナギサは紅茶を一口飲んだ。
冷めかけていた。
それでも、その香りはまだ残っている。
「……作業を続けましょう」
その日は、それ以上深い話はしなかった。
だが、ナギサの手は何度か止まった。
裏切者を見つけた後、どうするのか。
なぜ裏切ったのかを聞かないのか。
黒夜の問いが、彼女の中に残った。
翌日。
黒夜は再びテラスに呼ばれた。
今度は資料整理ではなく、紅茶の準備を頼まれた。
「貴方の淹れる紅茶は……少なくとも、腕は確かなようですから」
ナギサはそう言った。
信頼、というにはまだ遠い。
だが、昨日よりもわずかに声が柔らかかった。
黒夜はいつものように湯を沸かし、茶葉を選び、カップを温める。
その途中で、ミカがふらりと現れた。
「やっほー、黒夜くん」
「ミカ様」
黒夜は軽く頭を下げる。
ミカはいつものような明るい笑みを浮かべていた。
しかし、昨日よりも少しだけ目元に疲れがあった。
「ナギちゃん、まだ忙しそう?」
「はい。現在は別室で打ち合わせ中です」
「そっか」
ミカはテーブルに腰かけるようにして、黒夜を眺めた。
「ねえ黒夜くん」
「なんですか?」
「そっちの世界の私は、どんな感じなの?」
黒夜の手が、少しだけ止まった。
ミカは笑っている。
けれど、その笑みの奥に何かがある。
黒夜は少し考えてから答えた。
「明るくて、優しくて、少し強引で……」
「うんうん」
「それから、とても寂しがりな方です」
ミカの笑顔が、一瞬だけ固まった。
すぐに笑い直す。
「あはは、なにそれ。私と同じじゃん」
「はい。似ていると思います」
「へぇ。そっちの私は、そんなに分かりやすいんだ?」
「分かりやすいというより、隠すのがあまり上手ではない方ですね」
「ひどくない?」
「すみません」
黒夜は少しだけ微笑んだ。
ミカも笑った。
だが、その笑顔は長く続かなかった。
崩れかけるように、少しだけ口元が震える。
黒夜はそれを見てしまった。
「ミカ様」
「ん?」
「笑えない時まで、無理に笑わなくてもいいと思います」
空気が止まった。
ミカは黒夜を見た。
その目から、ほんの一瞬だけ明るさが消える。
「……変なの」
小さな声だった。
「初対面のくせに、そういうこと言うんだ」
「すみません」
黒夜はすぐに頭を下げる。
「私の悪い癖です。踏み込みすぎました」
「……別に」
ミカは視線を逸らした。
「怒ってないよ」
それから、いつもの調子に戻すように軽く笑う。
「でも、黒夜くんって危ないね。そういうこと、さらっと言うんだ」
「よく注意されます」
「だろうね」
ミカは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私行くね。ナギちゃんによろしく」
「はい」
ミカは数歩進んで、足を止めた。
振り返らずに言う。
「……明日もいる?」
「必要でしたら」
「そっか」
ミカは少しだけ笑ったようだった。
「じゃあ、また話そ」
そう言って去っていく。
黒夜はその背中を見送った。
笑えない時まで、無理に笑わなくていい。
その言葉は、ミカの中に残った。
さらに数日が過ぎた。
黒夜は毎日、ナギサの補佐をした。
資料を整理し、紅茶を淹れ、時折問いを置く。
必要以上に踏み込まず、しかし完全に距離を取るわけでもない。
ナギサは相変わらず警戒を解いていない。
だが、少しずつ、黒夜へ頼むことが増えた。
「この資料を日付順に」
「紅茶をお願いします」
「貴方の世界の私は、このような時どうしていましたか?」
黒夜は答えられることだけ答えた。
「私の知るナギサ様は、悩む時ほど紅茶を濃く淹れる傾向がありました」
「……それは、私も同じかもしれませんね」
「そうみたいですね」
小さな会話。
それだけだった。
だが、その小さな会話が、ナギサの硬さを少しだけ削っていった。
ミカも時々やって来た。
軽口を叩き、黒夜をからかい、そちらの世界の自分の話を聞きたがった。
「そっちの私は、ナギちゃんと仲良い?」
「ええ」
「セイアちゃんとは?」
「もちろん」
「……そっか」
ミカは笑う。
けれど、以前より少しだけ無理に笑う回数が減った。
黒夜はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
ある日の夕方。
黒夜はテラー達の部屋へ戻った。
ミカ*テラーは扉が開くなり立ち上がる。
『黒夜!』
「ただいま戻りました」
『遅いよ!』
「すみません。ナギサ様の資料整理が長引きまして」
ナギサ*テラーが紅茶を置く。
『……あの私は、黒夜さんを便利に使いすぎでは?』
「いえ。私にできる範囲ですので」
『黒夜さんはそれを言うから危険なのです』
セイア*テラーは窓辺で外を眺めていた。
『それで今はどんな感じなのかな?』
「少しだけ、話を聞いてくださるようになりました」
『ナギサも?』
「はい」
『ミカも?』
「……少しは」
ミカ*テラーが不満そうに顔をしかめる。
『あの私、黒夜に懐き始めてない?』
「懐く、という表現はどうかと」
『絶対懐いてる!』
ナギサ*テラーも小さく息を吐いた。
『面白くはありませんね』
「皆さん……」
セイア*テラーがくすりと笑う。
『私たちが黒夜に弱いのは分かりきった事だろう?』
ナギサ*テラーは黙った。
そして、渋々というように頷く。
『……ええ。だからこそ怒りがこみ上げてくるのですよ』
ミカ*テラーもソファに腰を下ろし、膝を抱えた。
『それは分かってるけどさぁ……あの私見てるとむかつく』
黒夜はミカ*テラーを見る。
「機嫌を直してください」
『分かってる。黒夜が悪いんじゃないのも、あの私が全部悪いわけじゃないのもね』
ミカ*テラーは唇を尖らせる。
『でも、むかつくものはむかつく。ナギちゃんもセイアちゃんもいるのに、何であんな顔してるのって思う』
ナギサ*テラーも静かに言う。
『私も、あの私を見ると苛立ちます。疑いすぎて、大切なものを見失っているようで』
セイア*テラーは二人を見て、少しだけ目を細めた。
『でも、私たちも黒夜がいなければ、どこかで似たような形になっていたのかもしれないよ?』
その言葉に、二人は黙った。
黒夜も、何も言えなかった。
黒夜がいる世界。
黒夜がいない世界。
その差が、目の前にある。
けれど黒夜は、自分が何か特別なことをしているとは思えなかった。
ただ、話を聞いただけ。紅茶を淹れただけ。
苦しそうな人に、無理をしないでほしいと言っただけ。
それでも、何かが少しだけ変わり始めている。
ナギサは問いを胸に残した。
ミカは無理に笑わない時間を少しだけ覚えた。
それは、ほんの小さな変化だった。
だが、確かに変化だった。
「……私は」
黒夜は静かに言った。
「この世界のことを、知りません」
三人が黒夜を見る。
「だから、何かを変えられるとは思っていません。ただ……」
黒夜は窓の外を見た。
夕暮れのトリニティ。
白い校舎が、赤く染まっている。
「せめて、あの二人が少しでも話せるようになればいいと、願っています」
ナギサ*テラーは小さく目を伏せた。
『黒夜さんらしいですね』
ミカ*テラーは不満そうにしながらも、少しだけ笑った。
『そういうところ、好きだけどさ~』
セイア*テラーは穏やかに言う。
『なら、明日も行っておいで。私たちはここで待っているよ』
「そうさせてもらいます」
黒夜は頷いた。
その頃、テラスではナギサが一人、資料を前にしていた。
裏切者。処置。秩序。トリニティ。
その言葉の隙間に、黒夜の問いが残っている。
――その方がなぜ裏切ったのかは、聞かないのですか。
ナギサは目を閉じた。
そして、冷めかけた紅茶を口にする。
「……なぜ、ですか」
その問いは、まだ答えにはならない。
けれど、初めて彼女の中に生まれたものだった。
別の場所で、ミカは一人、廊下を歩いていた。
誰もいない場所で、笑う必要はなかった。
だから彼女は、ほんの少しだけ笑顔を消した。
――笑えない時まで、無理に笑わなくてもいいと思います。
「……」
ミカは小さく呟く。
「ほんと、変な人」
けれど、その声は少しだけ穏やかだった。
黒夜の言葉は、二人の胸に小さく残っていた。
それが救いになるのか、傷を深くするのかは、まだ誰にも分からない。
ただ、この世界の暗雲の中に、ほんのわずかな隙間ができ始めていた。