ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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黒夜が居なかった世界 ~5~

 用意された部屋は、驚くほど豪華だった。

 

 広い寝室。柔らかなソファ。

 整えられた調度品。大きな窓からはトリニティの庭園が見える。

 

 紅茶も、菓子も、必要な衣類も揃えられていた。待遇だけを見れば、客人としては十分すぎるほどだ。

 だが、部屋の外には見張りがいる。

 

 表向きは安全確保。

 実質的には監視。

 

 ナギサ*テラーは窓辺に立ち、静かに外を見下ろしていた。

 

『……相変わらず見てくれだけは良い部屋ではありますね』

 

 声は穏やかだったが、機嫌は良くない。

 ミカ*テラーはソファの上で膝を抱え、不満を隠そうともしなかった。

 

『黒夜を一人にするの嫌なんだけど』

 

「すぐに戻りますよ」

 

 黒夜は苦笑しながら答えた。

 

「ナギサ様達の意向を確認して、必要なことだけ手伝ってきます」

 

『この世界の私ですが、黒夜さんを便利な道具として使う気ではないでしょうね』

 

 ナギサ*テラーの声に、鋭さが混じる。

 黒夜は首を横に振った。

 

「少なくとも、今のところはそういう意図ではないと思います。警戒されているだけですよ」

 

『警戒だけなら良いのですが』

 

 ミカ*テラーが頬を膨らませる。

 

『いざとなったら呼んでね。すぐ行くから。ほんとにすぐ行くから』

 

「分かっています」

 

 セイア*テラーは椅子に座り、静かに紅茶を口にした。

 

『黒夜なら、見てしまった以上放っておけないだろうね』

 

 その言葉に、黒夜は少しだけ黙る。

 見てしまった。

 

 この世界のナギサの硬い声。

 この世界のミカの崩れかけた笑顔。

 そして、テラー達が告げた真実の輪郭。

 

 何が正しいのかも分からない。

 けれど、苦しんでいる人を見た。

 それだけで、背を向けることはできなかった。

 

「……必ず戻ってきます」

 

 黒夜は三人へ向き直る。

 

「何かあれば、すぐに呼んでください」

 

『約束ですよ』

 

『絶対だよ』

 

『黒夜の言う事は偶に信用できない時があるからね』

 

「黒セイア様…」

 

『冗談だよ』

 

「約束は守ります」

 

 黒夜は困ったように笑った。

 その笑みを見て、ミカ*テラーは少しだけ不満そうに目を逸らす。

 

『……あの私たちに優しくしすぎないでよ』

 

 黒夜は一瞬、返答に困った。

 

「優しく、というより……できる範囲で手伝うだけです」

 

『それを優しいって言うんだよ、黒夜』

 

 ミカ*テラーの声は、拗ねた子供のようだった。

 ナギサ*テラーは小さく息を吐く。

 

『気をつけてくださいね』

 

「はい。行ってきます」

 

 黒夜は部屋を出ていった。

 その瞬間、ミカ*テラーはソファに倒れ込んだ。

 

『あー……嫌だ嫌だ。黒夜があの私と話してると思うと、なんか嫌だ』

 

『ミカさんは分かりやすいですね』

 

『ナギちゃんだって嫌でしょ?』

 

『そうですね』

 

 ナギサ*テラーは窓の外を見たまま答えた。

 

『ただ、黒夜さんが放っておけないのも分かっています』

 

 セイア*テラーは紅茶を置き、静かに言う。

 

『黒夜は、壊れそうな人を見たら放っておけない。私たちがそれを一番よく知っているだろう?』

 

 ミカ*テラーは黙った。

 ナギサ*テラーも、少しだけ目を伏せる。

 

『……ええ』

 

『分かってるけどさぁ……』

 

 ミカ*テラーは腕で目元を隠した。

 

『あの私、見てるとむかつく』

 

 その声には、怒りだけではない。

 

 自分と同じ顔をした少女が、壊れかけている。

 笑って、隠して、何かを背負っている。それが見ていて苛立つ。

 そして何より、黒夜がその少女を放っておけないことが分かってしまう。

 セイア*テラーは、何も言わずに目を閉じた。

 

 黒夜は、その頃すでにテラスへ向かっていた。

 案内された先にはナギサがいた。

 

 テーブルの上には資料が積まれている。

 補習授業部に関する記録。生徒の成績。出席状況。行動履歴。関係者の報告書。

 ナギサは紅茶を前にしていたが、飲んでいる様子はなかった。

 黒夜が入ると、彼女は顔を上げる。

 

「来ましたか」

 

「はい。お呼びと伺いました」

 

「座ってください」

 

 礼儀正しい声。

 だが、警戒は解けていない。

 黒夜はそれを理解した上で、静かに椅子へ座った。

 

「何をお手伝いすればよろしいでしょうか」

 

「まずは、資料整理をお願いします。貴方が本当に別世界のティーパーティーに関わっているというのなら、この程度は問題なくこなせるでしょう」

 

「承知しました」

 

 黒夜は余計なことを言わず、資料へ目を通し始めた。

 

 分類。

 日付順の整理。

 重複した報告の確認。

 不自然に欠けている情報の洗い出し。

 手は自然に動いた。

 

 元の世界でも、ナギサの補佐として似たような作業をしたことが何度もある。

 ナギサはその様子を横目で見ていた。

 

 最初は試すような目だった。

 けれど、黒夜が何も言われずとも資料を整理し、不備を見つけ、必要な箇所に付箋を挟んでいくのを見て、少しずつ目つきが変わる。

 

「……手慣れていますね」

 

「元の世界でも、ナギサ様の補佐をすることがありましたので」

 

「私の、ですか」

 

「はい」

 

「そちらの私は、貴方を随分信頼しているようですね」

 

 黒夜は少しだけ手を止めた。

 

「……ありがたいことに」

 

 ナギサはそれ以上言わなかった。

 ただ、紅茶のカップへ視線を落とす。

 しばらく、紙の擦れる音だけが続いた。

 やがてナギサは、一枚の資料を見つめたまま口を開く。

 

「現在、補習授業部には裏切者がいる可能性があります」

 

 黒夜は顔を上げた。

 

「裏切者、ですか」

 

「ええ、トリニティを揺るがす脅威が、内部に潜んでいる可能性がある。私は、それを見つけなければなりません」

 

「……」

 

 黒夜はナギサの顔を見る。

 

 美しく整った表情。

 けれど、そこにあるのは余裕ではなかった。

 

 追い詰められている。

 

 ナギサは、疑うことを選んでいるのではない。

 疑うしかないところまで追い詰められている。

 

 黒夜にはそう映った。

 

「ナギサ様」

 

「何でしょう」

 

「その裏切者を見つけた後、どうされるおつもりですか」

 

 ナギサは一瞬、答えを用意していたように口を開いた。

 

「トリニティのために、然るべき処置を取ります」

 

「然るべき処置ですか」

 

「裏切りを見逃すことはできません。トリニティの秩序を守るためにも」

 

「では」

 

 黒夜は静かに問いを重ねた。

 

「その方がなぜ裏切ったのかは、聞かないのですか?」

 

 ナギサの動きが止まった。

 指先が、資料の端を押さえたまま固まる。

 

「……理由など」

 

 声が少しだけ揺れた。

 

「理由など、関係ありません。裏切りは裏切りです」

 

「そうかもしれません」

 

 黒夜は否定しなかった。

 ただ、穏やかに続ける。

 

「ですが、理由を知らなければ、同じことがまた起きるかもしれません」

 

「……」

 

「責めるためではなく、知るために聞くことも必要なのではないかと、私は思います」

 

 ナギサは黙った。

 黒夜はそれ以上踏み込まなかった。

 

 自分は、この世界の事情を知らない。

 だから断定はしない。

 

 ただ、問いを置くだけ。

 ナギサはしばらく資料を見つめていたが、やがて静かに言った。

 

「……貴方は、不思議な方ですね」

 

「よく言われます」

 

「責めているようで、責めない。否定しているようで、否定しない」

 

「そのつもりはありません」

 

「ええ。だからこそ、妙に胸に残る」

 

 ナギサは紅茶を一口飲んだ。

 冷めかけていた。

 それでも、その香りはまだ残っている。

 

「……作業を続けましょう」

 

 その日は、それ以上深い話はしなかった。

 だが、ナギサの手は何度か止まった。

 

 裏切者を見つけた後、どうするのか。

 なぜ裏切ったのかを聞かないのか。

 黒夜の問いが、彼女の中に残った。

 

 翌日。

 

 黒夜は再びテラスに呼ばれた。

 今度は資料整理ではなく、紅茶の準備を頼まれた。

 

「貴方の淹れる紅茶は……少なくとも、腕は確かなようですから」

 

 ナギサはそう言った。

 

 信頼、というにはまだ遠い。

 だが、昨日よりもわずかに声が柔らかかった。

 

 黒夜はいつものように湯を沸かし、茶葉を選び、カップを温める。

 その途中で、ミカがふらりと現れた。

 

「やっほー、黒夜くん」

 

「ミカ様」

 

 黒夜は軽く頭を下げる。

 ミカはいつものような明るい笑みを浮かべていた。

 しかし、昨日よりも少しだけ目元に疲れがあった。

 

「ナギちゃん、まだ忙しそう?」

 

「はい。現在は別室で打ち合わせ中です」

 

「そっか」

 

 ミカはテーブルに腰かけるようにして、黒夜を眺めた。

 

「ねえ黒夜くん」

 

「なんですか?」

 

「そっちの世界の私は、どんな感じなの?」

 

 黒夜の手が、少しだけ止まった。

 ミカは笑っている。

 けれど、その笑みの奥に何かがある。

 黒夜は少し考えてから答えた。

 

「明るくて、優しくて、少し強引で……」

 

「うんうん」

 

「それから、とても寂しがりな方です」

 

 ミカの笑顔が、一瞬だけ固まった。

 すぐに笑い直す。

 

「あはは、なにそれ。私と同じじゃん」

 

「はい。似ていると思います」

 

「へぇ。そっちの私は、そんなに分かりやすいんだ?」

 

「分かりやすいというより、隠すのがあまり上手ではない方ですね」

 

「ひどくない?」

 

「すみません」

 

 黒夜は少しだけ微笑んだ。

 ミカも笑った。

 だが、その笑顔は長く続かなかった。

 崩れかけるように、少しだけ口元が震える。

 

 黒夜はそれを見てしまった。

 

「ミカ様」

 

「ん?」

 

「笑えない時まで、無理に笑わなくてもいいと思います」

 

 空気が止まった。

 ミカは黒夜を見た。

 その目から、ほんの一瞬だけ明るさが消える。

 

「……変なの」

 

 小さな声だった。

 

「初対面のくせに、そういうこと言うんだ」

 

「すみません」

 

 黒夜はすぐに頭を下げる。

 

「私の悪い癖です。踏み込みすぎました」

 

「……別に」

 

 ミカは視線を逸らした。

 

「怒ってないよ」

 

 それから、いつもの調子に戻すように軽く笑う。

 

「でも、黒夜くんって危ないね。そういうこと、さらっと言うんだ」

 

「よく注意されます」

 

「だろうね」

 

 ミカは椅子から立ち上がった。

 

「じゃあ、私行くね。ナギちゃんによろしく」

 

「はい」

 

 ミカは数歩進んで、足を止めた。

 振り返らずに言う。

 

「……明日もいる?」

 

「必要でしたら」

 

「そっか」

 

 ミカは少しだけ笑ったようだった。

 

「じゃあ、また話そ」

 

 そう言って去っていく。

 黒夜はその背中を見送った。

 

 笑えない時まで、無理に笑わなくていい。

 その言葉は、ミカの中に残った。

 

 さらに数日が過ぎた。

 

 黒夜は毎日、ナギサの補佐をした。

 資料を整理し、紅茶を淹れ、時折問いを置く。

 必要以上に踏み込まず、しかし完全に距離を取るわけでもない。

 

 ナギサは相変わらず警戒を解いていない。

 だが、少しずつ、黒夜へ頼むことが増えた。

 

「この資料を日付順に」

「紅茶をお願いします」

「貴方の世界の私は、このような時どうしていましたか?」

 

 黒夜は答えられることだけ答えた。

 

「私の知るナギサ様は、悩む時ほど紅茶を濃く淹れる傾向がありました」

 

「……それは、私も同じかもしれませんね」

 

「そうみたいですね」

 

 小さな会話。

 それだけだった。

 だが、その小さな会話が、ナギサの硬さを少しだけ削っていった。

 

 ミカも時々やって来た。

 軽口を叩き、黒夜をからかい、そちらの世界の自分の話を聞きたがった。

 

「そっちの私は、ナギちゃんと仲良い?」

 

「ええ」

 

「セイアちゃんとは?」

 

「もちろん」

 

「……そっか」

 

 ミカは笑う。

 けれど、以前より少しだけ無理に笑う回数が減った。

 黒夜はそれに気づいていたが、何も言わなかった。

 

 ある日の夕方。

 黒夜はテラー達の部屋へ戻った。

 ミカ*テラーは扉が開くなり立ち上がる。

 

『黒夜!』

 

「ただいま戻りました」

 

『遅いよ!』

 

「すみません。ナギサ様の資料整理が長引きまして」

 

 ナギサ*テラーが紅茶を置く。

 

『……あの私は、黒夜さんを便利に使いすぎでは?』

 

「いえ。私にできる範囲ですので」

 

『黒夜さんはそれを言うから危険なのです』

 

 セイア*テラーは窓辺で外を眺めていた。

 

『それで今はどんな感じなのかな?』

 

「少しだけ、話を聞いてくださるようになりました」

 

『ナギサも?』

 

「はい」

 

『ミカも?』

 

「……少しは」

 

 ミカ*テラーが不満そうに顔をしかめる。

 

『あの私、黒夜に懐き始めてない?』

 

「懐く、という表現はどうかと」

 

『絶対懐いてる!』

 

 ナギサ*テラーも小さく息を吐いた。

 

『面白くはありませんね』

 

「皆さん……」

 

 セイア*テラーがくすりと笑う。

 

『私たちが黒夜に弱いのは分かりきった事だろう?』

 

 ナギサ*テラーは黙った。

 そして、渋々というように頷く。

 

『……ええ。だからこそ怒りがこみ上げてくるのですよ』

 

 ミカ*テラーもソファに腰を下ろし、膝を抱えた。

 

『それは分かってるけどさぁ……あの私見てるとむかつく』

 

 黒夜はミカ*テラーを見る。

 

「機嫌を直してください」

 

『分かってる。黒夜が悪いんじゃないのも、あの私が全部悪いわけじゃないのもね』

 

 ミカ*テラーは唇を尖らせる。

 

『でも、むかつくものはむかつく。ナギちゃんもセイアちゃんもいるのに、何であんな顔してるのって思う』

 

 ナギサ*テラーも静かに言う。

 

『私も、あの私を見ると苛立ちます。疑いすぎて、大切なものを見失っているようで』

 

 セイア*テラーは二人を見て、少しだけ目を細めた。

 

『でも、私たちも黒夜がいなければ、どこかで似たような形になっていたのかもしれないよ?』

 

 その言葉に、二人は黙った。

 黒夜も、何も言えなかった。

 

 黒夜がいる世界。

 黒夜がいない世界。

 

 その差が、目の前にある。

 けれど黒夜は、自分が何か特別なことをしているとは思えなかった。

 

 ただ、話を聞いただけ。紅茶を淹れただけ。

 苦しそうな人に、無理をしないでほしいと言っただけ。

 それでも、何かが少しだけ変わり始めている。

 

 ナギサは問いを胸に残した。

 ミカは無理に笑わない時間を少しだけ覚えた。

 

 それは、ほんの小さな変化だった。

 だが、確かに変化だった。

 

「……私は」

 

 黒夜は静かに言った。

 

「この世界のことを、知りません」

 

 三人が黒夜を見る。

 

「だから、何かを変えられるとは思っていません。ただ……」

 

 黒夜は窓の外を見た。

 夕暮れのトリニティ。

 白い校舎が、赤く染まっている。

 

「せめて、あの二人が少しでも話せるようになればいいと、願っています」

 

 ナギサ*テラーは小さく目を伏せた。

 

『黒夜さんらしいですね』

 

 ミカ*テラーは不満そうにしながらも、少しだけ笑った。

 

『そういうところ、好きだけどさ~』

 

 セイア*テラーは穏やかに言う。

 

『なら、明日も行っておいで。私たちはここで待っているよ』

 

「そうさせてもらいます」

 

 黒夜は頷いた。

 

 その頃、テラスではナギサが一人、資料を前にしていた。

 裏切者。処置。秩序。トリニティ。

 その言葉の隙間に、黒夜の問いが残っている。

 

 ――その方がなぜ裏切ったのかは、聞かないのですか。

 

 ナギサは目を閉じた。

 そして、冷めかけた紅茶を口にする。

 

「……なぜ、ですか」

 

 その問いは、まだ答えにはならない。

 けれど、初めて彼女の中に生まれたものだった。

 

 別の場所で、ミカは一人、廊下を歩いていた。

 誰もいない場所で、笑う必要はなかった。

 だから彼女は、ほんの少しだけ笑顔を消した。

 

 ――笑えない時まで、無理に笑わなくてもいいと思います。

 

「……」

 

 ミカは小さく呟く。

 

「ほんと、変な人」

 

 けれど、その声は少しだけ穏やかだった。

 黒夜の言葉は、二人の胸に小さく残っていた。

 それが救いになるのか、傷を深くするのかは、まだ誰にも分からない。

 ただ、この世界の暗雲の中に、ほんのわずかな隙間ができ始めていた。

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