その日の朝、黒夜が目を覚ますと、部屋の空気が少しだけ違っていた。
窓の外には、いつもと同じトリニティの朝が広がっている。
けれど、部屋の中にいる三人の表情だけが、いつもと違っていた。
ナギサ*テラーは窓の外の景色を眺めている。
ミカ*テラーはソファに座り、珍しく大人しくしている。
セイア*テラーは窓辺に立ち、指先をじっと見つめていた。
その指先に、淡い光が集まっていた。
「……時間ですか?」
黒夜が声をかけると、セイア*テラーは振り返った。
『そろそろ元の世界に戻される頃だよ』
ミカ*テラーが小さく息を吐く。
『思ったより短かったね。黒夜との旅行、結局できなかったし』
「旅行目的ではなかったでしょう」
『でも百鬼夜行に行く予定だったじゃん』
「行く前にミカ様と出会ってしまいましたからね」
黒夜はそう言って苦笑した。
だが、その胸の内は軽くなかった。
戻れる事、それは本来、喜ぶべきことだった。
ナギサ*テラー達も、自分も、元の世界へ帰れる。
元の世界には、自分を知っている人達がいる。ナギサも、ミカも、セイアも、皆がいる。
けれど、この世界のナギサとミカを残していくのだと思うと、胸の奥が少しだけ重くなる。
セイア*テラーはそれを見透かしたように言った。
『まだ少し時間はある。けれど、長くはないだろうね』
ナギサ*テラーが黒夜の前に紅茶を置く。
『黒夜さん。今日も、あちらへ行くのでしょう?』
「はい」
『……最後かもしれませんね』
「そうですね」
その言葉を口にすると、思った以上に実感があった。
ミカ*テラーが不満そうに頬を膨らませる。
『あの私に変な情を移してない?』
「…世界は違えどミカ様ですし、あんなにも苦しんでいるのに――」
『分かってるよ。黒夜は壊れそうな人を見たら放っておけないんでしょ』
ミカ*テラーは、少しだけ視線を逸らした。
『でも、帰る時はちゃんと傍に居てよ』
「もちろんです」
ナギサ*テラーも静かに言う。
『黒夜さん。どれほど気にかかっても、ここは私たちの世界ではありません』
「分かっています」
『本当に?』
「……分かっているつもりです」
セイア*テラーが微笑んだ。
『ならいい。最後に、君が言いたいことを言っておいで』
黒夜は三人を見た。
そして、深く頷く。
「行ってきます」
テラスには、いつものようにナギサがいた。
ここ数日、黒夜は彼女の補佐として資料を整理し、紅茶を淹れ、言葉を交わしてきた。
最初の頃の警戒が消えたわけではない。
だが、完全な不審者として扱われることはなくなっていた。
ナギサは黒夜を見ると、少しだけ表情を和らげた。
「来ましたか、黒夜さん」
「おはようございます、ナギサ様」
「ええ、今日もいい朝ですね」
短い挨拶。
それだけでも、最初の日よりはずっと自然だった。
黒夜はいつものように茶器を整え、紅茶を淹れる。
ナギサはその様子を静かに見ていた。
「……不思議ですね」
「何がでしょうか?」
「貴方は完全に部外者です」
ナギサはカップへ視線を落とす。
「この世界のトリニティに所属しているわけでもなく、補習授業部とも、今起きている問題とも関わりがない」
「………」
「だからこそ、貴方が裏切者であるはずがない」
その声は、少しだけ疲れていた。
「貴方と過ごしている時間は……不思議と、不安を忘れていられました」
黒夜は手を止めた。
ナギサは、どこか恥じるように目を伏せる。
「私は、誰かを疑い続けています。疑わなければならないと思っていました。けれど、貴方と話している時だけは、少しだけそのことを忘れられた」
「ナギサ様……」
「感謝しています」
ナギサは、黒夜を見た。
「貴方が来たことが正しいのかどうか、私には分かりません。ですが、少なくとも私は、貴方に救われた時間がありました」
黒夜はすぐには答えられなかった。
自分は何か大きなことをしたわけではない。
資料を整理した。紅茶を淹れた。問いを置いた。
それだけだ。
それでも、ナギサにとっては少しだけ息ができる時間になっていたのなら。
「……そう言っていただけるなら、来た意味があったのだと思います」
黒夜は静かに答えた。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「おはよ、ナギちゃん。黒夜くんも」
ミカだった。
いつものように明るい笑みを浮かべている。
けれど、黒夜はもう、その笑顔の奥に揺れるものを見逃さなかった。
「おはようございます、ミカ様」
「うん、おはよ」
ミカはテーブルの近くに腰を下ろす。
「今日も黒夜くんの紅茶?」
「はい。ミカ様の分も淹れましょうか」
「お願いしていい?」
「もちろんです」
黒夜はミカの好みに合わせた紅茶を淹れる。
ミカはそれを受け取り、香りを確かめてから小さく笑った。
「やっぱり、黒夜くんの紅茶って不思議。私の好きな味がする」
「私の知るミカ様の好みと似ているので」
「そうだったね」
ミカはカップを両手で包む。
しばらく、静かな時間が流れた。
やがてミカは、何気ない調子を装って言った。
「黒夜くんとの会話、とっても楽しかったよ」
黒夜は顔を上げた。
「そう言っていただけて、嬉しいです」
「ほんとだよ。そっちの私の話とか、ナギちゃんの話とか、セイアちゃんの話とか……聞いてると、なんか変な感じだったけど」
ミカは笑う。
「でも、楽しかったのはホント」
その声が、ほんの少しだけ震える。
「これからも、居てくれると嬉しいな」
黒夜は答えられなかった。
居られない。
もうすぐ、自分達は帰ってしまう。この世界に残ることはできない。
それを言わなければならないけれど、言葉が喉で止まる。
その時だった。
テラスの入り口に、三つの影が現れた。
ナギサとミカが驚いて立ち上がる。
「貴女達……」
「どうしてここに……?」
だが、三人は二人を見ていなかった。
ナギサ*テラーは真っ直ぐ黒夜を見る。
『黒夜さん』
ミカ*テラーが、少し寂しそうに笑った。
『ごめん、思ってたよりもすぐに帰る時間が来ちゃったよ』
彼女の体には、今朝よりも淡い光が集まり始めていた。
ナギサ*テラーの羽根にも、セイア*テラーの指先にも、同じ光が滲んでいる。
ナギサとミカは息を呑んだ。
「帰る……?」
ミカが呟く。
黒夜は立ち上がった。
「もう、ですか…」
『まだ少し時間はある』
セイア*テラーが黒夜へ近づく。
『けれど、あまり長くはないだろう。何か伝えたいことがあるなら、言っておきたまえ』
黒夜は、ナギサとミカを見る。
二人とも、混乱していた。
突然現れた三人に突然の帰還の知らせ。
それはつまり、目の前の黒夜がいなくなるという事実。
その全てが、二人の思考を揺らしているのが分かった。
黒夜は静かに息を吸った。
「ナギサ様、ミカ様――」
二人の視線が、黒夜に向く。
「私は、この世界でお二人が何を抱えているのか、最後まで分かりませんでした」
黒夜は正直に言った。
「私は本当に部外者で、この世界の事情を知りません。何が正しいのかも、何が間違っているのかも、断言できません」
ナギサは唇を結ぶ。
ミカは、紅茶のカップを握る手に力を込めた。
「ですが、そんな私にも分かることがあります」
黒夜は一歩、前へ出る。
「ナギサ様とミカ様が、お互いを凄く大事に思っているということです」
ナギサの目が揺れた。
ミカの顔から、笑みが消える。
「それなのに、お二人がすれ違ったまま過ごしているのは、悲しい限りです」
黒夜の声は、穏やかだった。
けれど、逃げ道を塞ぐような真っ直ぐさがあった。
「一度、お互いに腹を割って話してみてはいかがでしょうか?」
テラスに、風が吹いた。
誰もすぐには答えない。
ナギサは何かを言おうとして、言葉を失った。
ミカは俯いたまま、肩を震わせている。
黒夜達が帰る。黒夜が残した言葉。
そして、ここ数日で胸に積もった後悔。
それらが、ミカの中で限界を超えた。
「……私なの」
小さな声だった。
ナギサがミカを見る。
「ミカさん……?」
ミカは俯いたまま、震える声で言った。
「私が、ナギちゃんの探しているトリニティの裏切者なの……」
時間が止まった。
ナギサは何も言えなかった。
その目が、信じられないというように見開かれる。
「……何を」
声がかすれる。
「何を、言っているのですか!?」
ミカは顔を上げられない。
拳を握りしめ、泣くのを堪えるように唇を噛む。
ナギサはゆっくりと立ち上がった。
「ミカさんが……裏切者……?」
その言葉は、ナギサ自身にも信じられないものだった。
テラー達は、その光景を静かに見ていた。
誰も口を挟まない。
ただ、ようやく言ったか、という表情を浮かべていた。
黒夜も黙っていた。
これは、二人の会話だ。
自分が割って入る場面ではない。
ナギサは震える息を吸った。
「……私は」
その声は、今まで黒夜が聞いたどの声よりも弱かった。
「セイアさんが殺されたと知らされた時、次は私だと思いました」
ミカの肩が跳ねる。それでもナギサは続けた。
「私は、いつ殺されてもおかしくない。ならば、私が殺された後に残るミカさんを守るために、一人でも多く敵を減らさなければならないと思ったのです」
「ナギちゃん……」
「裏切者を探していたのは、トリニティのためでもありました。けれど、それだけではありません」
ナギサの声が震える。
「私がいなくなった後、ミカさんを危険から遠ざけるためでもあったのです」
ミカの目から、涙が溢れた。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい、ナギちゃん……私が……私がバカなばっかりに……」
ナギサは動けなかった。
ミカは涙を拭うこともできず、ただ言葉を吐き出す。
「でも……もう私は止まれないの……」
「ミカさん」
「セイアちゃんを殺してしまった……」
ナギサの顔が、真っ白になった。
ミカは両手で顔を覆った。
「そんな私が、今さら立ち止まったら……セイアちゃんの死は何だったの? 私がやったことは、何だったの? 全部、全部、無駄だったってことになるじゃん……!」
泣き声が混じる。
「だから、もう進み続けるしかないの……! 止まったら、私には、何も残らない……!」
ナギサは、ただミカを見つめていた。
裏切者。
セイアの死。
ミカの罪。
それらが一気に押し寄せてきて、ナギサの思考を壊していく。
けれど、その中にもう一つ、別のものがあった。
ミカは、泣いていた。
今にも壊れそうな顔で、謝っていた。
ミカは敵ではない。
少なくとも、ナギサの知るミカは、こんな顔で泣く子だった。
黒夜は、そのやり取りを黙って見届けていた。
胸が痛かった。
だが、口を挟まなかった。
これは二人が、ようやく腹を割って話し始めた瞬間だったから。
その時、視界の端で光が強くなった。
テラー達の身体に、光が集まり始めている。
本格的に時間がない。
セイア*テラーが黒夜の手を握った。
今度は、黒夜が離れないようにするためではない。
黒夜を連れて帰るために。
『そろそろだね』
黒夜はセイア*テラーを見る。
「ですが……!」
『黒夜』
セイア*テラーは静かに首を横に振った。
『ここから先は、彼女達の世界の話だ』
黒夜は唇を噛む。
ナギサとミカは、ようやく話し始めた。
だが、まだ何も解決していない。
むしろ今、全てが壊れ始めたところかもしれない。
それでも、帰る時間は来てしまった。
ナギサ*テラーはナギサを、ミカ*テラーはミカを見た。
二人とも、もう冷めた笑みは浮かべていなかった。
ただ、どこか呆れたような、けれど少しだけ安心したような表情をしている。
ようやく、言ったのですね。
ようやく、話せたんだね。
セイア*テラーは、黒夜の手を握ったまま、何気ない声で言った。
『ようやく腹を割って胸の内を話した二人に、贈り物だよ』
ナギサとミカが、涙に濡れた顔を上げる。
セイア*テラーは、穏やかに微笑んだ。
『この世界の私は、生きてるよ』
世界が、再び止まった。
ナギサの目が見開かれる。
ミカは息を呑み、震える唇で言葉にならない声を漏らした。
「セイア、ちゃん……?」
「生きて……?」
ナギサが立ち上がりかける。
「それは、どういう――」
『ただ、これ以上の助言はしないよ』
セイア*テラーは、少しだけ意地悪く笑った。
『ここから先は、こっちの先生とでも探してくれたまえ』
「待ってください!」
ナギサが叫ぶ。
ミカも手を伸ばす。
「待って! セイアちゃんが生きてるって、どういうこと!? ねえ!」
だが、光はもう強くなっていた。
ナギサ*テラーが黒夜の肩に手を置く。
『黒夜さん、帰りましょう』
ミカ*テラーも、もう片方の腕を掴む。
『今度は離さないからね』
黒夜は、最後にナギサとミカを見た。
二人は泣いていた。
崩れかけて、縋るように、こちらを見ていた。
黒夜は何かを言おうとした。
けれど、言えることは多くなかった。
「どうか、話し続けてください」
それだけだった。
「答えがすぐに出なくても、間違えても……どうか、お互いの言葉を聞くことだけは、やめないでください」
ナギサの唇が震えた。
ミカは涙を流したまま、何度も頷こうとして失敗した。
黒夜は小さく頭を下げる。
「短い間でしたが、お世話になりました」
光が弾けた。視界が白く染まる。
テラスの景色が遠ざかる。
最後に見えたのは、ナギサがミカの方へ一歩踏み出す姿だった。
そして、ミカが逃げずにそこに立っている姿だった。
次に黒夜が目を開けた時、そこは自分の家だった。
見慣れた天井。
見慣れた家具。
テーブルの上には、飲みかけの紅茶がそのまま残っている。
まるで、ほんの数分席を外していただけのようだった。
黒夜は床に膝をつき、少しだけ息を整える。
隣にはセイア*テラーが反対側にはナギサ*テラーとミカ*テラー。
四人とも、無事だった。
「……戻って、きましたね」
黒夜が呟く。
ミカ*テラーはすぐに黒夜へ抱きついた。
『無事にちゃんと帰って来れたね!』
「はい。ありがとうございます」
ナギサ*テラーもほっとしたように息を吐く。
『あちらで何日も過ごしたのに、こちらではほとんど時間が経っていないようですね』
セイア*テラーは、テーブルの紅茶を見て頷いた。
『世界を越える現象は、時間の流れも少しずれるからね、こういったパターンもあるのだろうさ』
黒夜はしばらく黙っていた。
戻ってきたけれど、胸の中にはあの世界のテラスが残っている。
泣いていたナギサ。
泣いていたミカ。
生きていると告げられたセイア。
あの後、どうなるのかは分からない。
自分には、もう見届けられない。
黒夜は静かに目を伏せた。
「……あの二人は、大丈夫でしょうか…?」
セイア*テラーは少しだけ考えた。
『分からない』
「……」
『けれど、何も話さないまま進むよりは、ずっといい筈さ』
ナギサ*テラーも頷く。
『少なくとも、あの私はミカさんの言葉を聞けましたからね』
ミカ*テラーも、黒夜の肩に額を預けたまま言う。
『あの私も、逃げずに言った。なら、前よりはマシだよ』
黒夜は小さく息を吐いた。
「そう、ですよね…」
自分は何も解決していない。
ただ、言葉を置いただけだ。
腹を割って話してみてはどうかと。
話し続けてほしいと。
それだけ。
けれど、それが何かのきっかけになったのなら。
「……帰ってこられて、よかったです」
黒夜は小さく呟いた。
その声を聞いて、ナギサ*テラー達は少しだけ表情を和らげた。
ミカ*テラーが明るく言う。
『じゃあさ、今度こそ百鬼夜行行こうよ! 美味しいもの食べに!』
「今からですか?」
『だって旅行できなかったじゃん!』
ナギサ*テラーが微笑む。
『その前に、黒夜さんには休んでいただきたいところですが』
『えー!?』
セイア*テラーは肩をすくめる。
『まずは紅茶を淹れ直そう。話はそれからだ』
黒夜は三人を見た。
いつもの三人だった。
笑い合い、軽口を叩き、黒夜の家を当然のように占拠している三人。
その光景に、胸が少しだけ温かくなる。
「……分かりました」
黒夜は立ち上がる。
「では、紅茶を淹れ直しますか」
『やった』
『お願いします』
『ありがとう、黒夜』
黒夜はキッチンへ向かう。
その途中で、ふと窓の外を見た。
ここは、自分の世界だ。
ナギサがいて、ミカがいて、セイアがいる。
テラー達もいて、皆が自分を知っている世界。
自分のいない世界を見たからこそ、今いる場所の重みが少しだけ分かった気がした。
あの世界の二人が、どうかこれからも話し続けられますように。
そう願いながら、黒夜は湯を沸かした。
紅茶の香りが、部屋に広がっていく。
それは、帰ってきたことを告げる香りだった。