朝のトリニティは、いつもと変わらないはずだった。
石畳を踏みしめる足音、礼拝堂の鐘の余韻、白い校舎に差し込む柔らかな光。そのどれもが、数日前までの私の日常と何一つ違わない。違わない、はずなのに。
「黒夜さん、こちらへ」
ナギサ様の声に応じ、私は半歩後ろに位置を取る。距離はいつも通り。立ち位置も、所作も、完璧に身に染みついた“正しい形”。
ただ一つ違うのは、私の左右と背後に、必ず誰かがいることだった。
今日はナギサ様。昨日はミカ様。その前はセイア様。
三人が交代で、私の傍を離れない。
「……ご不便ではありませんか?」
そう問いかけると、ナギサ様は書類から目を離さないまま、淡々と答えた。
「必要な措置です。あなたを守るための」
守るため。
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
廊下を歩けば、視線が突き刺さる。
ひそひそと交わされる声は、もはや隠す気もない。
――ゲヘナのスパイ。
――ティーパーティーを騙していた男。
――裏切り者。
誰も私に直接言わない。言えない。
なぜなら、私の隣には常にティーパーティーの誰かがいるからだ。
それでも、視線だけは止められないらしい。
恐れ、嫌悪、疑念。時折混じる、歪んだ好奇心。
私は背筋を伸ばし、表情を崩さず、歩き続ける。
それが、私にできる唯一の誠意だと思っていた。
「……黒夜」
小さな声で呼ばれ、視線を落とすと、セイア様がこちらを見ていた。
今日は体調が良いらしく、歩調も安定している。
「大丈夫かい?」
その問いに、私は一瞬だけ言葉を探し――そして、いつもの答えを選ぶ。
「はい。問題ありません」
嘘ではない。
少なくとも、今は問題ない。
三人がそばにいてくれる限り、私は直接的な危険に晒されることはない。
それは理解している。理解している、はずなのに。
「……」
セイア様は何か言いたげに口を開きかけ、しかし結局、微笑むだけだった。
「無理はしないでくれたまえ」
その優しさが、胸に痛い。
午前の業務を終え、ティーパーティーの会議室へ向かう途中。
廊下の角を曲がった瞬間、空気が変わった。
ざわり、と。
明確な敵意が、肌を撫でる。
遠巻きに集まる生徒たち。
足を止める者、わざと進路を塞ぐ者、聞こえるように咳払いをする者。
ナギサ様が一歩前に出る。
「皆さん、道を空けて下さい」
その一言で、空気は一応、従順に割れる。
だが、その背後――私に向けられる視線は、より鋭くなった。
私は俯き、何も言わない。
言える立場ではない。
――当然だ
心のどこかで、冷静にそう思っている自分がいる。
一年間、私は嘘をつき続けてきた。善意に甘え、信頼を利用し、笑顔の裏で報告書を書いた。
敵意を持たれるのも、必然。
罵られるのも、疑われるのも、当然。
むしろ、まだ優しい方だ。
「……黒夜」
ミカ様の声が、少しだけ震えていた。
「気にしなくていいからね。あんなの」
私は首を横に振る。
「いえ。ミカ様が気にされる必要はありません」
それは本心だった。
私が蒔いた種だ。
私が刈り取るべきものだ。
昼食の席でも、状況は変わらない。
食堂の一角、私たちの周囲だけが、奇妙に空白になっている。
視線
囁き
敵意
私は黙々と食事を摂る。味は、ほとんど分からない。
「……」
ナギサ様は何度かこちらを見ていたが、結局、何も言わなかった。
言葉にすれば、余計に私を追い詰めると分かっているのだろうか。
午後の業務。
本来なら私が単独で処理する雑務も、今日は必ず誰かが付き添う。
守られている。
確かに、そうだ。
それなのに。
……なぜ、こんなにも息苦しいのだろうか?
不意に、そんな考えが浮かんでしまう。
三人は、何も悪くない。
むしろ、私のためにここまでしてくれている。
それが分かっているからこそ、私は――
――頼ってはいけない
――助けを求めてはいけない
――私は罪人なのだから…
そう、思ってしまう。
これ以上、彼女たちの立場を悪くするわけにはいかない。
これ以上、私のせいで傷つけるわけにはいかない。
だから、私は笑う。
大丈夫だと答える。
平気だと装う。
その裏で、確実に、何かが削れていく音を聞きながら。
この時の私は、まだ知らなかった。
この“守られている日常”が、
ほんの一瞬の猶予に過ぎなかったことを。
そして、
本当に一人になる瞬間が、
すぐそこまで迫っていることを。
「黒夜さんは、ここで待っていてください」
ナギサ様はそう言って、静かに微笑んだ。
その表情はいつも通りで、何一つ変わらない。
だが、その裏にある緊張を、私はもう見落とさなかった。
「今回は……三人全員で対応しなければならない案件です」
セイア様とミカ様も、すでに会議室の中にいる。
本来なら、私がここにいる理由はない。
それでも今まで一緒にいたのは、私を“守るため”だった。
「すぐ戻りますから」
その言葉に、私は頷く。
「……はい、ここでお待ちしております」
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
一人
その事実だけで、背中に冷たいものが走る。
廊下は明るく、装飾も整っている。
だが、誰かの視線が常に刺さっているのを感じた。
――少しの間だ
自分に言い聞かせ、壁際に立つ。
視線を落とし、なるべく目立たないように。
だが、罪は私を放っておかなかった。
「……あれが」
「本当に?」
「ゲヘナのスパイなんでしょ」
声は小さい。
しかし、距離は近い。
歩く足音が止まり、
立ち止まる気配が増えていく。
――来る
そう思った瞬間、肩を強く押された。
「――っ」
よろめくが、倒れない。
振り返ると、三人ほどの生徒がいた。
その目には、明確な敵意が宿っている。
「よく平気な顔して歩けるよね」
「トリニティに潜り込んで、何してたの?」
私は何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
沈黙は、彼女たちにとって最悪の答えだった。
「黙ってれば許されると思ってるの?」
腹部に、鈍い衝撃。
息が詰まる。
だが、声は出さない。
「……っ」
壁に背中を打ち付けられ、視界が揺れる。
腕を掴まれ、爪が食い込む。
――反撃するな
――逃げるな
――助けを呼ぶな
頭の中で、必死に言い聞かせる。
ここで私が何かすれば、
この騒ぎは「スパイ容疑者の暴力事件」になる。
それだけは、あってはならない。
「ほら、何か言いなさいよ」
胸倉を掴まれ、顔を近づけられる。
怒りと、正義感が混じった表情。
「……申し訳、ありません」
掠れた声で、そう答える。
その瞬間、頬に衝撃が走った。
殴られた。
口の中に、血の味が広がる。
「それだけ?」
「それで済むと思ってるの?」
膝に蹴りが入る。
力が抜け、床に崩れ落ちる。
だが、私は手をつかない。
倒れたまま、耐える。
――当然だ
――私は、裏切り者だ
――これは、私が受けるべきものだ
彼女たちの言葉は、刃のようだった。
「信じてた人たち、どんな気持ちだと思う?」
「最初から騙すつもりだったんでしょ」
「最低……」
違う。
違う、と思う心が一瞬浮かぶ。
だが、それはすぐに打ち消す。
――違わない
私は、スパイだった。
隠していた。
嘘をついていた。
だから――
暴力は続いた。
だが、どれほど時間が経ったのか、分からない。
やがて、足音が遠ざかる。
誰かが来る気配に、先ほどの生徒たちは散っていったのだろう。
廊下に残されたのは、私だけだった。
しばらく、動けなかった。
呼吸が浅い。
身体のあちこちが痛む。
制服の袖で、口元の血を拭う。
震える手を、必死に抑える。
――主人たちに見られなくて、よかった
心の底から、そう思った。
これをナギサ様たちに知られたら、
きっと――悲しませてしまう。
私は、壁を支えにして立ち上がる。
足がふらつくが、何とか姿勢を保つ。
鏡代わりの窓に映る自分は、ひどい顔をしていた。
だが、それでも。
――大丈夫だ
――まだ、歩ける
――まだ、耐えられる
その時、遠くから足音が聞こえた。
聞き慣れた三人分の気配。
私は反射的に、姿勢を正す。
服を整え、表情を作る。
――何もなかった
――私は、大丈夫
そうでなければならない。
己が犯した罪を償う為ならば…
そのためなら、
私は、どれだけ壊れても構わないと、
本気で思っていた。
また別の日に同じような場面が繰り返されていた
殴られる感覚は、もう慣れていた。
最初の一発は、頬。
次は腹部。
力加減をしていないのが分かる。
それでも、倒れないようにだけ意識を集中させた。
床に伏してしまえば、余計な騒ぎになる。
これくらいなら
息を吐くたび、胸が軋む。
視界の端が白く滲む。
まだ、耐えられる
「ほら、やっぱり何も言わない」
誰かの声がする。
嘲るような、苛立つような声。
「ゲヘナの犬のくせに!」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
――否定できない。
否定する資格が、自分にはない。
だから、何も言わない。
言い返さない。
逃げない。
……当然だ
これまで、どれだけ嘘をついてきたか。
どれだけ人を騙してきたか。
その結果が、これなら。
罰としては……軽い
膝が崩れ、床に手をつく。
視線を下げる。
お願いだから……
誰も……私を許さないでくれ…
そう願った瞬間、空気が変わった。
足音。
速く、強い足音。
「――黒夜?」
聞き慣れた声が、耳に届く。
……だめだ
……来てはいけない
顔を上げるよりも先に、声が響いた。
「黒夜!!!」
ミカ様。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、背筋が凍る。
生徒たちが、動揺する気配が伝わってくる。
けれど、それよりも先に――
「黒夜に何してるの!?」
震えるほどの怒りを含んだ声。
……お願いです
見ないで
知ってしまわないで
これは私の罪なのだから…
「だってこいつはゲヘナの犬じゃないですか!?」
生徒たちは正義は自分にあると信じている表情でミカに弁明するが。
視界の端に、桃色の髪が映る。
怒りに燃える瞳。
「だからって痛めつけていい理由になるの?」
ミカ様が、前に出る。
……やめるんだ、ミカ様
優しいあなたがそれをしてしまっては…
拳を握り締めるミカ様を見て、
このままではいけないと悟った。
この人は、きっと――
私のために、全部壊してしまう。
「……やめて、ください」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
ミカ様が振り返る。
「黒夜……?」
その目に映るのは、心配と怒り。
そして、痛いほどの優しさ。
……だめだ
私に、そのような視線を向けてはいけない……
「ミカ様……やめてください……」
喉が、ひりつく。
「なんで、黒夜が止めるの?…この人たちは……」
「わかっています」
言葉を遮る。
今、言わなければ
この人は……止まらない
「……でも、いいんです」
ミカ様の表情が、固まった。
「どうゆうこと……?」
その声が、震えている。
傷つけている
分かっているのに……
「私が……してきたことへの、当然の報いです」
そう言った瞬間、
空気が一気に冷えた。
「……は?」
ミカ様が、私の肩を掴む。
「誰がそんなこと決めたの!」
揺さぶられ、視界が揺れる。
「誰が、あなたを殴っていいって言ったの!」
……自分自身です
心の中で、答える。
「ミカ様が……ここで暴行を働いてしまったら…」
言葉を選ぶ。
「立場が……悪くなります」
その瞬間、
ミカ様の手が、わずかに緩んだ。
「……私に守られるのは…迷惑?」
その問いに、胸が詰まる。
「違います!」
思わず声が大きくなる。
「迷惑なんかじゃ……!」
息を吸い、続ける。
「ただ……皆さんが、傷つくのが……」
「それ以上に、嫌なんです」
ミカ様の手が、離れた。
「……私たちを、信じてくれないの?」
答えられなかった。
信じていないわけじゃない。
むしろ、信じすぎている。
だからこそ――
巻き込みたくない。
足音が増える。
「ミカさん!」
「ミカ!」
ナギサ様と、セイア様。
三人が揃ってしまった。
……最悪だ
現状を正しく理解したナギサが静かに悟る
「……そういう事、ですか…」
ナギサ様の声が、低い。
「黒夜」
セイア様が、静かに呼ぶ。
顔を上げられない。
「私たちに、守られる気がないんだね」
その言葉が、胸に突き刺さる。
違う
守られたくないんじゃない
守らせたくないだけです
「……守って、もらう資格が……」
声が、消え入りそうになる。
「そんなもの、誰が決めた」
セイア様の声は、いつも通り穏やかで――
だからこそ、痛かった。
首を振る。
「私は……もう……」
言葉が続かない。
ミカ様の泣き出しそうな視線が、刺さる。
ナギサ様は、何も言わず、目を伏せている。
セイア様は、静かに息を吐いた。
「……君は」
「私たちを守っているつもりで」
「私たちから、離れていっている」
その言葉に、心臓が跳ねた。
……違う
離れるつもりなんて……
でも、否定できない。
結果として、そうなっている。
「……ご迷惑を、おかけしました」
やっと、それだけ言えた。
「もう……大丈夫です」
その瞬間、
三人の空気が、はっきりと淀んだのが分かった。
――ああ
――私は、また間違えたのか
守ろうとして、
一番大切な人たちを傷つけている。
それでも、どうすればいいのか分からない。
助けを求める言葉が、
どうしても、喉で詰まってしまう。
私は今日も、
一人で立っているつもりで――
本当は、皆から逃げていただけだった。