――ナギサ視点――
黒夜さんを校内に残すべきではない。
それが、三人の間で即座に一致した結論だった。
医務室を出たあと、彼は驚くほど静かだった。
痛みに顔を歪めることもなく、怒りを滲ませることもない。
ただ、淡々と、言われたとおりに歩いていた。
――それが、余計に胸に悪い。
「今日は、もう帰宅してください」
私がそう告げたとき、黒夜は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。
「ご迷惑を……」
「いいえ」
その続きを、私は遮った。
謝罪を受け取る資格なんて、私たちにはない。
校門までの付き添いは、セイアさんが名乗り出た。
ミカさんは――その場に留まるには、あまりにも感情が張り詰めすぎていた。
「じゃあ行ってくるよ」
セイアさんはそう言って、黒夜さんの隣に立つ。
黒夜さんは軽く頭を下げ、それから校舎に残る私たちに、もう一度だけ視線を向けた。
その視線は、助けを求めるものではなかった。
――むしろ、「大丈夫です」と言っているように見えた。
それが、何より苦しい。
執務室に戻るまで、ミカさんは一言も喋らなかった。
ドアが閉まり、外界の音が遮断されても、その沈黙は続いた。
私は机に向かい、思考を強制的に切り替える。
感情に飲み込まれてはいけない。
今は、対策だ。
暴行が起きたという事実。
校内で、複数人によって。
噂を背景にした、私刑まがいの行為。
――これは、単なる個人間のトラブルではない。
警備体制の見直し。
生徒間の監視強化。
噂の拡散経路の特定。
思考を組み立てていく。
一つずつ、冷静に。
……それでも
ペン先が、止まる。
“私たちが側にいなかった時間”
その一点が、どうしても頭から離れない。
「ねえ、ナギちゃん」
不意に、ミカさんが口を開いた。
声は低く、けれど震えていた。
「さっきさ」
私は、顔を上げる。
「黒夜を殴った子たち、いたでしょ」
喉の奥が、ひりつく。
「……はい」
「私、止めようとしたんだ」
ミカの視線は、床に落ちている。
「正確にはさ。止める前に、ちょっと……やり返そうとした…」
自嘲気味な笑い。
「でもさ」
ぎゅっと、ミカは自分の腕を掴んだ。
「黒夜が止めたんだよ」
胸が、嫌な音を立てる。
「“やめてください”って。
“それをしたら、私の立場が悪くなるから”って」
……どこまでも。
どこまでも、自分を後回しにする。
「ねえ、ナギちゃん」
ミカさんが顔を上げた。
その表情は、怒りよりも――悲しみが勝っていた。
「どうして、頼ってくれないのかな…」
泣きそうな声。
「私たち、そんなに信用ないのかな…」
その問いに、私は答えられなかった。
言葉を探そうとして、何一つ見つからない。
「……」
沈黙が、執務室に落ちる。
そのとき、扉が静かに開いた。
「戻ったよ」
セイアさんの声だ。
黒夜さんを見送ってきたのだろう。
彼女は室内を見回し、すぐに異変に気づいた。
「……ミカ?」
ミカの目元が、わずかに赤い。
「どうしたんだい?」
セイアの問いに、ミカは答えない。
代わりに、私が口を開いた。
「黒夜さんが、頼ってくれなかったことについてです」
簡潔に、事実だけを。
「暴行を受けていたにも関わらず、
ミカの介入を止めた、と」
セイアの表情が、曇る。
「……そうか」
少し考え込むように、彼女は視線を伏せた。
「それは、優しさでもあるし……」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「同時に、とても危険な在り方だね」
ミカが、唇を噛む。
セイアは続けた。
「これは予想だが、黒夜は、私たちを守ろうとしている。
でもそれは、自分を犠牲にする形で行われている」
現実を正確に言い表していた。
「……私たちじゃ」
ミカが、か細く呟く。
「黒夜を守れないのかな」
その言葉が、胸に突き刺さる。
私は、はっきりと首を振った。
「いいえ」
「守れなかったのは、事実です。
でも、だからといって――諦める理由にはならない」
そう思い込みたかった。
視線を、二人に向ける。
「黒夜さんが“頼らない”理由を、
私たちはまだ理解しきれていないだけです」
それを解きほぐさなければ、同じことは繰り返される。
暴行も。
孤立も。
自己犠牲も。
これは、始まりに過ぎない。
黒夜さんを、完全に失ってしまう前に。
その夜
自宅の明かりは落としていないのに、部屋はひどく暗く感じられた。
ナギサはソファに腰掛けたまま、もう何度目になるか分からない溜息を吐く。机の上には紅茶も置かれているが、手を伸ばす気になれなかった。
……今の体制のままでは
思考は何度も巡るが、同じ結論に辿り着く。
どれだけ警戒しても、どれだけ付き添っても、必ず隙は生まれる。
そしてその隙を突かれるのは、彼だ。
彼は逃げない。
反撃もしない。
助けも呼ばない。
それがどれほど危険で、どれほど周囲を傷つける行為なのかを、分かっていながら。
このままでは……また同じことが起きる
ナギサは、膝の上で拳を強く握りしめた。
苦渋の決断だった。いや、逃げに近い判断だったのかもしれない。
それでも――今は時間が必要だった。
端末を取り、モモトークを開く。
黒夜の名前を選択した指が、一瞬だけ止まった。
何を書けばいいのか分からない。
正直に理由を説明する勇気もなかった。
それでも、打ち込む。
『しばらくの間、自宅で待機してください。こちらで状況を整理します』
送信。
数秒後。
『承知しました』
それだけだった。
言い訳も、疑問も、抗議もない。
ナギサは、端末を胸元に引き寄せた。
「……守るって、言ったのに」
声が、かすれる。
「結局……遠ざけることしか、できない……」
誰もいない部屋で、ナギサは俯いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝罪は、止まらなかった。
誰に向けたものなのかも分からないまま、ただ繰り返した。
翌朝。
学園に着くと、いつもの場所に黒夜の姿はなかった。
そして誰も居ない執務室に到着すると、
その事を最初に口にしたのはミカだった。
「ねえナギちゃん、今日、黒夜来てないけど……なにか知ってる?」
セイアも不思議そうにこちらを見る。
ナギサは、一度だけ深く息を吸った。
「……私の判断で、自宅謹慎にしました」
次の瞬間。
「は?」
ミカの表情が、凍り付いた。
「……どうして、そんなこと」
セイアが言い終わる前に、ミカはナギサの襟元を掴んでいた。
「勝手に決めないでよ!!」
声が震えている。
「私たちで守るって言ったじゃん! 一緒にやるって言ったじゃん!!」
セイアが慌てて間に入る。
「ミカ!落ち着きたまえ……!」
「セイアちゃんは黙ってて!!」
ミカの目に、涙が滲む。
「黒夜は……不器用なりに私たちを守ろうとしてくれたんでしょ? それなのに、いきなり遠ざけるみたいなことして……」
ナギサは、何も言えなかった。
否定できない。反論もできない。
だからこそ――
「……今の私たちじゃ」
ナギサの為政者としての仮面が剥がれる…
「今の私たちじゃ……黒夜さんを守れないんですよ!!」
その場の空気が、一瞬で凍り付く。
「どうしても……私たちが側に居られない時間は、存在するんです」
視界が滲む。
「その時に……傷つくのは、彼なんですよ!?」
涙が、静かに頬を伝った。
「私だって……守れるなら守りたいです!」
声が、震える。
「でも、このままじゃ……また彼は、自分を犠牲にしてしまう!」
ナギサは、唇を噛み締めた。
「私は……もしまた、あんな姿を見たら……耐えられません……」
ミカの手が、ゆっくりと力を失う。
「……ごめん」
それだけだった。
掴んでいた手が離れ、ミカは俯いた。
セイアも、何も言えずに黙り込む。
誰も居ない早朝の執務室。
そこに残ったのは、ナギサの噛み殺した泣き声と、重く沈んだ沈黙だけだった。
早朝特有の静けさが、かえってその重さを際立たせている。
ナギサは机に伏せるようにして、呼吸を整えていた。
先ほど吐き出してしまった感情の余韻が、まだ胸の奥で疼いている。喉の奥がひりつき、視界の端がじんわりと滲む。
――これ以上取り乱すわけには、いかない。
自分にそう言い聞かせながらも、指先は小さく震えていた。
ミカは少し離れた場所で、俯いたまま動かない。
セイアは窓際に立ち、外の中庭を見つめている。その横顔は静かだが、内側ではきっと同じように整理しきれない感情が渦巻いているのだろう。
その沈黙を破ったのは、唐突な着信音だった。
――ジリリリ
執務室に設置された端末が、淡々と着信を告げる。
三人の視線が一斉にそちらへ向いた。
ナギサの心臓が、どくりと跳ねる。
今は誰とも話したくない。誰の声も聞きたくない。そんな幼い感情が頭をよぎる。
だが、ここは執務室だ。
無視するという選択肢はない。
セイアが一歩前に出る。
「……私が取ろう」
その声は落ち着いていて、事務的だった。
ナギサは何も言えず、ただ小さく頷く。
セイアが端末を取り上げる。
「こちらトリニティ総合学園ティーパーティー所属の百合園セイアです」
一瞬の間。
電話口から聞こえてきた声は、意外なほど穏やかだった。
『あ、もしもし。突然ごめんね。連邦捜査部シャーレの先生なんだけど知ってるかな?』
――先生。
その単語を聞いた瞬間、ナギサの意識がわずかに覚醒する。
学園間の調整役。大人の立場で動く存在。
だが、今このタイミングで?
「えぇ、ご活躍はトリニティにも届いていますよ。
それで、ご用件を伺いましょうか」
セイアの声はあくまで淡々としている。
『実はね、ゲヘナ学園のヒナから連絡があってね。
トリニティと、非公式で――できれば極秘の会談をしたい、って話なんだ』
ナギサの背中を、冷たいものが走った。
ミカが顔を上げる。
その瞳には、はっきりとした警戒の色が宿っていた。
セイアは一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙し、それから答える。
「……内容については?」
『詳しい事情は、直接話したいって言ってたよ。
僕もまだ、深いところまでは聞いてない。
ただ、急いでる様子だったよ』
あくまで第三者としての立場。
事情を知らない、だからこそ偏らない声音。
ナギサは唇を噛む。
ゲヘナ。
今のトリニティにとって、その名はあまりにも重い。
黒夜の件が頭をよぎる。
――この状況で、ゲヘナと会う?
「……少し、お時間をいただけますか」
セイアがそう言って受話器を口元から離す。
執務室に沈黙が戻る。
最初に反応したのは、ミカだった。
「ゲヘナ、でしょ……?」
その声は低く、感情を押し殺したように震えている。
「今そんな相手と話す意味、あるの?
どうせまた、面倒なことになるだけじゃないの?」
それは拒絶ではなく、恐怖に近かった。
信じたくない。これ以上、世界を広げたくない。
セイアはミカの言葉を否定せず、静かに頷く。
「……懸念はもっともだね。
だが、シャーレの先生が仲介に入る以上、無視するのも危険だと思うが?」
理性の言葉。
現実を見据えた判断。
二人の視線が、ゆっくりとナギサへ向く。
ナギサは一瞬、逃げ出したくなった。
為政者ではなく、ただの少女として、この場から消えてしまいたかった。
でも
――黒夜さんを、これ以上一人にするわけにはいかない。
机の上で、拳をぎゅっと握る。
「……受けましょう」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
ミカが目を見開く。
「ナギちゃん……?」
「今のままでは、何も変えられません」
ゆっくりと立ち上がり、二人を見つめる。
「私たちは……守ると決めました。
でも、現状その力が足りないなら、外に手を伸ばすしかない」
それは弱さの告白であり、覚悟の表明だった。
「ゲヘナが何を考えているのかは分かりません。
でも、知らないまま拒むことは……もう、できない」
セイアが静かに目を伏せる。
「……そうだね」
ミカはまだ納得していない様子だったが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。
でも、変なことになったら、私、絶対許さないからね」
ナギサは微かに笑う。
「その時は……一緒に責任を取ってください」
セイアが再び受話器を取る。
「お待たせしました。
その話、受けさせていただきます」
電話口から、安堵したような声が返ってくる。
『ありがとう。詳しい日時と場所は、改めて連絡するね』
通話が切れる。
受話器が戻された後も、しばらく誰も言葉を発さなかった。
早朝の執務室には、まだ重たい沈黙が漂っている。
だが、その底には確かに――わずかな変化の兆しがあった。
ナギサは胸の奥で、小さく息を吸う。
これは逃げではない。
怖くても、進むための一歩だ。
――黒夜さん。
どうか、もう少しだけ待っていてください。