――先生視点――
非公式な会談という事もあり、急遽用意できた部屋は想像以上に質素だった。
飾り気のない壁、最低限の机と椅子。威光を誇示するものは何一つない。
最初に入室してきたのはゲヘナ側だった。
先頭を歩くのは、ゲヘナ学園の万魔殿の議長――羽沼マコト。
背筋を伸ばし、冷静な表情を崩さないその姿は、この場を「話し合い」として成立させようとする意志の表れに見えた。
その後ろに、風紀委員会委員長――空崎ヒナ。
そして、腕を組み、明らかに苛立ちを隠そうとしない便利屋68――鬼方カヨコ。
三者三様だが、共通しているのは張り詰めた空気だった。
少し遅れて、トリニティ側が現れる。
ティーパーティーの三人――桐藤ナギサ、聖園ミカ、百合園セイア。
互いに視線を交わすが、すぐに逸らされる。
敵意というより警戒。
そしてその奥には、長く続いた不信の重みがあった。
全員が席についたのを確認してから、私は口を開く。
「今日は集まってくれてありがとう。
ここは非公式の場だし。肩書きは一度、机の外に置いて話してほしいな」
短い沈黙。
最初に動いたのはマコトだった。
「まずは……今回は無理にこの場を整えてくれた先生に感謝を…
ありがとうございます」
そう言って先生に一礼するマコト。
形式的だが、礼を重んじての行動だろう。
その後、マコトは隣のヒナに視線を送る。
ヒナが、深く息を吸った。
「……最初に、確認させて欲しいのだけど…」
その声は低く、しかしはっきりとしていた。
「月城黒夜は、彼は、今……無事?」
その名前が出た瞬間、トリニティ側の空気が変わる。
ナギサの肩が僅かに強張り、ミカの目が鋭くなり、セイアは静かに目を伏せた。
ナギサが代表して答える。
「……命に別状はありません」
ヒナの表情が、ほんの一瞬だけ緩む。
だが、その横でカヨコが前に身を乗り出した。
「それだけ?」
声には抑えきれない焦りが滲んでいる。
「無事って言葉で片付けられる状況?
今、あいつは大丈夫なの?」
その問いに、ナギサは即答できなかった。
沈黙が、答えそのものだった。
「……完全ではありません」
その言葉に続いて、ミカが眉を吊り上げる。
「そりゃそうでしょ。
だって――」
言いかけて、口を噤む。
感情が先走りすぎるのを、セイアが視線で制した。
少し冷静になったミカが、低い声で言う。
「どうして、こんな話になってるのか。
そこを、まず聞かせてくれない?」
その視線は、ゲヘナ側へ向けられていた。
「スパイだのを送り込んでおいてさ、
正直、トリニティ側からすれば、納得しろって方が無理なんだけど」
「しかも、彼の事気にかけてるみたいだけどさ、
本当は彼の事を見捨てる気なんじゃないの?」
空気が一段階、重くなる。
カヨコが即座に反応した。
「……違う」
短く、だが強い否定。
「少なくとも、私たちは黒夜を見捨てるつもりなんて無い!」
「でも結果はどう?」
ミカの声が荒れる。
「全部押し付けられて、追い詰められて、傷ついてるのは黒夜じゃん!!」
今にも机を叩きそうな勢いだったが、ナギサがそっと腕を掴む。
その時マコトが、静かに頭を下げた。
「今回の件はすべて私の指示でやった事、
責任は全部この私にある…すまなかった」
その姿に、トリニティ側がざわつく。
「黒夜は、確かに私の指示で動いていた。
それは事実だ」
ミカが噛みしめるように言う。
「……じゃあ、信じろって言う方が無理だよ」
その言葉を受け止めるように、マコトが口を開いた。
「だからこそ、今日この場を設けた」
全員の視線が、マコトに集まる。
「我々も、今回の件にはいくつか違和感を覚えている。
月城黒夜がスパイだという情報が、トリニティ全体に広まっている点」
「……」
「そして、それに対してトリニティ側から、正式な抗議や声明が一切出ていない点」
ナギサの指先が、わずかに震えた。
「もし、黒夜が捕らえられたスパイなら、
わざわざ公にする意味は薄い。
逆に、ここまで大ごとになってしまったなら、抗議が来ないのは不自然」
マコトは淡々と続ける。
「我々の出した結論は、
これは、ゲヘナとトリニティが争うことで利益を得る“第三勢力”がいるのではないかという事だ」
静寂。
ナギサは、ゆっくりと息を吐いた。
「……可能性としては、否定できません」
だが、すぐに続ける。
「ですが、それでも……
私たちは簡単にゲヘナを信じることはできない」
ミカが頷く。
「黒夜が、実際にそっちの指示で動いてたのは事実なんだから」
カヨコが歯を食いしばる。
「……それでも」
言葉を探すように、一拍置いて。
「私たちは、あの子を助けたい。
それだけは本当」
その言葉に、セイアが静かに顔を上げた。
「……それに関しては、私たちも同じ気持ちだ」
敵意ではない。
疑いでもない。
ただ、同じ結論を見据えた者同士の言葉だった。
場の空気が、わずかに変わる。
私はその変化を逃さず、口を挟んだ。
「ここは非公式の場だよ?
学園の代表でも、立場でもない」
一人ずつ、視線を巡らせる。
「一生徒として、腹を割って話してみようよ。
黒夜をどう救うか――それだけを考えよう」
ヒナが、静かに頷く。
カヨコも、腕を解いた。
マコトは、目を閉じて一度だけ深く息を吸う。
トリニティ側では、ナギサが小さく頷き、ミカはまだ警戒を残しながらも視線を逸らさなかった。
セイアは何かを思考をしているようだった。
この会談は、ようやく本当の意味で始まった。
――月城黒夜を救うための、話し合いとして。
少しの時が流れどうすれば月城黒夜を救えるか議論が繰り返されたが、
会談室に流れる沈黙は、先ほどよりも重かった。
言葉が尽きたわけではない。
むしろ逆だ。
誰もが言葉を持っている。持ちすぎている。
だからこそ、どれを口に出せばいいのか分からなくなっている。
……難しいな
先生は、机に置いた手をそっと組み直しながら、内心でそう呟いた。
ゲヘナ側――
羽沼マコト、空崎ヒナ、鬼方カヨコ。
トリニティ側――
桐藤ナギサ、聖園ミカ、百合園セイア。
どちらも、学園を背負うには若すぎる。
けれど同時に、もう子どもではいられない立場に立たされている。
そしてその中央に、自分がいる。
シャーレの先生。
連邦の調停者。
だが今は、それ以上に――ただの“大人”
「……どう救えばいいか、という話に戻すと」
ヒナが静かに口を開いた。
その声音は冷静だが、奥に抑えきれない疲労が滲んでいる。
「黒夜がこれ以上、争いの火種として扱われる状況は避けたい。
少なくとも、私はそう考えてる」
「それは……」
ナギサが言いかけて、言葉を止めた。
先生には分かる。
トリニティ側も同じ結論に辿り着いている。
だが、“同じ結論”と“同じ理由”は、まったく別物だ。
「……でも」
ミカが言った。
「それって言うほど、簡単じゃない。
だって黒夜は、もともとゲヘナから来た生徒で……
スパイだって噂が流れたのも、事実なんだよ?」
カヨコの肩が、ぴくりと揺れた。
「……噂、ね」
抑えた声。
だがその裏には、苛立ちと悔しさが渦巻いている。
「その噂のせいで、あいつがどんな目に遭ったか……
あなたたちは、本当に全部知ってるの?」
「鬼方カヨコ……それは少々無遠慮じゃないか?」
セイアが宥めるように言うが、カヨコは止まらない。
「助けたい。
それだけなら、簡単に言える。
でも現実は、学園同士の関係が絡むと、途端に“条件付き”になる」
視線が、先生に向く。
「先生、私たちじゃどう頑張っても平行線になる。
あなたの意見を聞かせてくれない?」
唐突な問いだった。
……ああ
先生は、小さく息を吸う。
ここに来てから、何度も自問している。
自分は、どこまで関わるべきなのか。
どこまで、踏み込んでいいのか。
月城黒夜という生徒。
名前しか知らない。
顔も、声も、性格も知らない。
それでも。
「……正直に言うと」
先生は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「僕はまだ、彼に会ったこともない。
噂も、記録も、断片的な情報しか知らない」
場が、静まる。
「でもね」
そこで、少しだけ声の調子を変える。
「今ここで聞いている限り――
彼は、立場や事情のせいで、守られるはずの場所から零れ落ちている」
先生は、全員を順に見た。
「それだけで、十分だと思うんだ」
マコトが、眉をひそめる。
「十分、とは。
どういう意味だ?」
「大人が動く理由として、ってこと」
先生ははっきりと言った。
「誰が正しいか。どの学園が悪いか。
そんなことを決める前に“今、傷ついている生徒がいる”それだけで、動く理由になる」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
…でも…やっぱり、簡単じゃない
先生は心の中で苦悩する。
理屈としては正しい。
だが、現実はそれだけでは動かない。
今度はセイアが口を開いた。
「では、具体的にどうすると言うんだ?
黒夜を救いたい、という思いだけでは――」
「ええ」
ナギサが頷く。
「現状を変えるには、方法が必要です。
感情論だけでは、彼を守りきれません」
その通りだった。
先生は、椅子に深く背を預ける。
……どうする
頭の中で、断片的な情報が浮かんでは消える。
ゲヘナとトリニティ。
長年の不信。
スパイ疑惑。
第三勢力の可能性。
そして――エデン条約。
……ん?
そこで、思考が引っかかった。
――エデン条約――
連邦生徒会長がいた頃、構想されていた和平案。
結局、締結されることなく、歴史の裏に消えた条約。
この会談を成立させるために両校を調べていた時に偶然見つけた情報
待てよ……
先生は、ふと顔を上げた。
今まで、条約は「実現しなかった理想」として扱ってきた。
だが――
もし、あれを“過去の事実”として使えたら?
心臓が、少しだけ早く打つ。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
全員の視線が、一斉に集まる。
「先生?」
ヒナが怪訝そうに尋ねる。
先生は、少しだけ戸惑いながらも、口を開いた。
「……ごめん。
今、ひとつ思いついたことがある」
それは、計画でも策略でもない。
この場で、生徒たちの顔を見て、初めて形になった考え。
「もしかしたら……
“月城黒夜がスパイだった”という事実そのものを、
別の事実に書き換えられるかもしれない」
空気が、微かに揺れた。
「書き換える……?」
ミカが眉を寄せる。
「どういう意味?」
先生は、深く息を吸った。
「まだ仮説だ。
でも、もし成立すれば――
彼を“争いの象徴”から、“一般生徒”に戻せる可能性がある」
その言葉に、全員が息を呑む。
……ここからだ
先生は、心の中でそう呟いた。
これは賭けだ。
嘘を使う。
歴史を、都合よく再解釈するかもしれない。
それでも。
それで一人の生徒が救われるなら
大人として、逃げる理由はなかった。
「詳しい話は……」
先生は、ゆっくりと言った。
「少し、整理してから話そう。
でも――エデン条約。
あれが、鍵になるかもしれない」
会談室の空気は、まだ重い。
だが先ほどまでの“行き詰まり”とは違う。
今は――
皆が、同じ一点を見つめている。
「……エデン条約、ですか」
ナギサが、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「連邦生徒会長が在任していた時代に構想され、
最終的に締結されなかった、あの条約……」
「そうそれ」
先生は頷く。
「存在は知られているけど、内容の詳細まで把握している人は少ない。
そして何より――
“未遂に終わった条約”だからこそ、使える余地がある」
「……使う、って」
ミカが露骨に警戒した表情を見せる。
「まさか、歴史を捏造するつもり?」
「完全な捏造じゃない」
先生は、すぐに否定した。
「事実を繋ぎ替えるだけだ。
元々あった出来事を、別の文脈で説明する」
カヨコが、腕を組んだまま静かに言う。
「……つまり、“嘘の物語”を作るってこと?」
「そう」
その言葉を、先生は否定しなかった。
一瞬、会談室がざわつく。
特に反応したのは、マコトだった。
「待ってくれ。
それは……かなり危険な橋じゃないか?」
「分かってる」
先生は真っ直ぐにマコトを見た。
「だからこれは、公式の場じゃできない。
今日ここにいるのは、学園の代表じゃない。
一生徒と、一教師だ」
「……」
ヒナが、静かに目を伏せる。
「先生。その“物語”を聞かせてくれないかしら」
その声音は、冷静だ。
だが、そこには微かな期待が混じっていた。
先生は、ゆっくりと話し始めた。
「――かつて、エデン条約が提案された時」
「トリニティとゲヘナは、お互いを信用できずにいた」
「和平を望む声はあった。
でも同時に、“裏切られるかもしれない”という恐怖も強かった」
ナギサが、目を閉じる。
その時代の空気を、彼女は知っている。
「そこで、ある案が出た。
それが――“視察”という名目での短期転入だ」
ミカが、はっと息を呑む。
「ゲヘナから一人、生徒をトリニティへ。
戦力でも、政治的象徴でもない。
ただの視察役として
和平を願う一人の生徒として…」
カヨコの視線が、鋭くなる。
「……その生徒を黒夜にするって事?」
「そうだよ」
先生は頷いた。
「彼は、エデン条約締結に向けた信頼構築のため、
非公式に選ばれた生徒だった」
「でも――」
「その最中に、連邦生徒会長の失踪が起きた」
先生は続ける。
「学園全体が混乱し、情報は錯綜した。
エデン条約は凍結。
視察の件も、曖昧なまま放置された」
マコトが、低く唸る。
「……そこで“噂”が独り歩きしたというストーリーか?」
「うん」
先生は静かに言った。
「“ゲヘナの生徒が、トリニティに潜り込んでいた”
“きっとスパイだったんだ”
そうやって、誰かが都合よく話を作った」
先生は、はっきりと答えた。
「彼は、スパイだったんじゃない。
和平を信じて送り出された、生徒だった
というカバーストーリーを考えたんだけどどうかな?」
沈黙が落ちた。
それは、納得の沈黙ではない。
ましてや、事実を受け入れた空気でもなかった。
全員が――
今聞いた話で救えるのか熟考していた。
「……」
最初に口を開いたのは、ナギサだった。
「先生。
これは……“嘘”ですよね?」
「うん、そうだよ」
先生は、否定しなかった。
「ただこれは、あくまで“物語”だ。
本当にそうだったと証明できるものは、何もない」
ナギサは、視線を落とす。
一瞬、希望が砕けたようにも見えたが――
次の瞬間、彼女は小さく息を吸った。
「……でも」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「その物語なら……
黒夜さんを、今の地獄から引き上げられる可能性がある」
断定ではない。
確信でもない。
それでも――
“何も無い”よりは、遥かに救いがある。
ミカが、ぎゅっと拳を握った。
「……酷いよ、それ」
声は震えている。
「嘘だって分かってるのに……
それしか、黒夜を守れる方法がないなんて」
カヨコが、低く息を吐いた。
「でもさ」
視線は伏せたまま。
「何もしなければ、あいつは潰れる。
それだけは……もう、はっきりしてる」
ヒナが、静かに頷く。
「事実かどうかは、重要じゃないわ」
淡々とした口調だが、そこには感情が滲んでいた。
「“そういう歴史が存在した”
それだけで、彼を責める理由は消えるはずよ」
マコトが、腕を組んだまま言う。
「……要するに」
「ここに居る全員で、一つの嘘を真実に塗り替えるってことだな」
先生は、ゆっくりと頷いた。
「そうだね」
「キキキ…それは、かなり危ういな」
マコトは苦笑する。
「だが……
黒夜を助けられる“かもしれない”なら」
セイアが、静かに口を開いた。
「私は、この嘘を選びたい」
全員の視線が、彼女に集まる。
「黒夜は……
自分を守るための嘘すら、選べない人だ」
「なら」
セイアは、はっきりと言った。
「私たちが代わりに選ぶしかないだろう」
その言葉に、ミカの目から一粒、涙が落ちた。
「……助けたい」
か細い声。
「本当かどうかなんて、どうでもいい。
この嘘で……黒夜が、息をできるなら」
ナギサは、深く息を吸い――
ただの少女として、口を開いた。
「先生」
「この物語を……
“黒夜さんを守るための盾”として使うことを、私は選びます」
覚悟のこもった声だった。
先生は、全員を見渡す。
誰一人として、
「これは真実だ」とは言っていない。
それでも。
「……ありがとう」
先生は、静かに言った。
「これは、正しい選択じゃないかもしれない」
「でも」
視線を、強くする。
「大人として、生徒を救うために出来る
精一杯の“嘘”だと思ってる」
誰も、反対しなかった。
こうして――
“事実ではないが、希望になりうる物語”は、
全員の合意によって選ばれた。
それは真実ではない。
だが、黒夜を守るための、確かな意思だった。