自宅謹慎を言い渡されてから、一週間が経っていた。
最初の一日は、正直、何も考えられなかった。
ただベッドに腰を下ろし、壁を眺め、時間が過ぎるのを待っていた。
二日目からは、少しずつ思考が戻ってきた。戻ってきてしまった、と言うべきかもしれない。
学校に行かなくていい。誰にも会わなくていい。誰にも見られない。
それは一見、救いのようでいて、実際には逃げ場のない檻だった。
静かすぎる部屋の中で、嫌でも自分と向き合わされる。
これまで私は、忙しさや役割や使命という名目で、考えることを先送りにしてきた。
スパイとしての仕事、ティーパーティーの補佐、セイア様の体調管理、ナギサ様の業務補助、ミカ様のフォロー。
そのどれもが「やるべきこと」であり、「考えなくていい理由」だった。
だが今は、それがない。
代わりにあるのは、後悔と、自責と、取り返しのつかない記憶だけだった。
私はゲヘナのスパイだ。
この事実は変わらない。
どれだけ時間をかけて考え直しても、どれだけ「仕方がなかった」と言い訳を並べても、消えることはなかった。
私は嘘をつき続けてきた。
信頼される顔で、忠誠を示す言葉で、誠実そうな態度で。そのすべてが、欺瞞だった。
そして利用されたとはいえ、セイア様を――殺そうとした。
思考がそこに至るたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
あの夜の感触。細い首に掛けた自分の手。力を込めようとして、込められなかった、情けない自分。泣き崩れるように嗚咽した自分。
「道具なんですから」
あの言葉は、今も耳に残っている。
違う、と言われた。人間だ、と言われた。救ってくれた人だ、と。
それでも、私は納得できなかった。
人を欺き、殺そうとした人間が、どうして救われていいのだろうか。
そんな思考を、毎日、何度も、何度も繰り返していた。
――コンコン
その音がした時、最初は幻聴かと思った。
この一週間、誰も訪ねてこなかった。訪ねてくる理由もない。だから、しばらく反応できずにいると、もう一度、控えめなノック音が響いた。
玄関の方を見る。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
誰だろう、という疑問よりも先に、「来てはいけない人たち」の顔が浮かんだ。来てほしくない。でも、来てほしい。そんな矛盾した感情が、胸の中で絡まり合う。
重い足取りで立ち上がり、玄関へ向かう。
ドアを開けた瞬間、視界に入った三つの姿を見て、呼吸が止まりそうになった。
百合園セイア
桐藤ナギサ
そして、聖園ミカ
ティーパーティーの三人が、そこに立っていた。
「……お邪魔するよ、黒夜」
最初に声をかけたのはセイアだった。いつもと同じ、穏やかな声音。だがその奥に、微かな緊張が滲んでいるのが分かった。
私は反射的に一歩下がり、頭を下げた。
「……どうぞ」
それ以上、言葉が出てこなかった。
三人を部屋に通し、簡素な応接用の椅子に座ってもらう。私はその向かいに腰掛けるが、視線は自然と床に落ちてしまう。顔を上げる勇気がなかった。
沈黙が流れる。
その重さに耐えきれなくなったのか、ナギサが口を開いた。
「黒夜さん。今日は、大事な話があります」
その声は、はっきりとしていた。だが、どこか覚悟を決めたような響きがあった。
「先日、シャーレの先生立ち会いのもと、ゲヘナ側と非公式の会談を行いました」
ゲヘナ、という言葉に、心臓が強く脈打つ。
私は黙って、聞くしかなかった。
ナギサは続ける。
「そこで、あなたの現状をどうにか救えないか、という話し合いがなされました。そして……一つの“計画”が決まりました」
計画。
その単語が、やけに遠く感じられた。
セイアが、静かに言葉を引き継ぐ。
「簡単に言えばね、君が“ゲヘナのスパイ”ではなかった、という物語を作るんだ」
私は、ようやく顔を上げた。
三人の表情は真剣そのものだった。冗談でも、慰めでもない。本気で、私を見ている目だった。
ミカが少し身を乗り出して言う。
「昔、エデン条約ってあったでしょ? あれに絡めて、ゲヘナからの“視察のための短期転入生”だったってことにするの。情報の齟齬で、変な噂が広がっちゃった、って話にするんだよ」
私は何も言えなかった。
ただ、黙って、その説明を聞いていた。
ナギサが補足する。
「これなら、公式に発表しても筋が通ります。ゲヘナとトリニティ、双方の面子も保てる。あなたを、スパイという立場から切り離せる」
淡々と語られる救済の道筋。
それは確かに、合理的で、現実的で、そして――優しすぎた。
話を聞いている間、私は一度も表情を変えなかったと思う。驚きも、喜びも、安堵もなかった。ただ、胸の奥に、重たい石が落ちていく感覚だけがあった。
説明が終わると、ナギサは一拍置いて、私をまっすぐ見た。
「……この計画に、乗ってくれますか?」
その問いかけに、私は答えられなかった。
喉が詰まり、視線が自然と俯く。
部屋の空気が、張り詰める。
「……どうしたの?」
ミカの声が、優しく落ちてくる。
その声に、胸が締め付けられた。
私は、ようやく口を開いた。
自分でも驚くほど、か細い声だった。
「……私は……皆さんに、そこまでして救ってもらえる価値は……ありません」
言葉にした瞬間、胸が締め付けられる感覚に襲われた。
それは諦めかもしれないし、ようやく吐き出せた本音だったのかもしれない。
三人の視線が、私に集まる。
だが私は、もう顔を上げることができなかった。
「……どうして、そんなこと言うの?」
沈黙を破ったのは、ミカだった。
責めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ純粋に、悲しそうに。
その声は、まるで割れ物に触れるように慎重で、だからこそ胸に刺さった。
「そこまでして救われる価値がないなんて……どうして、そんなに悲しいことを言えるの?」
黒夜は答えなかった。
俯いたまま、両手を膝の上で強く握りしめている。指先が白くなるほど力が入っているのに、肩は微かに震えていた。
ナギサは口を挟まなかった。
セイアも同様に、ただ静かに黒夜を見つめている。
問いを投げたのはミカだが、答えを待っているのは三人全員だった。
長い沈黙。
部屋の時計の音だけが、やけに大きく響く。
「……私は」
ようやく、黒夜が口を開いた。
その声は驚くほどか細く、今にも途切れてしまいそうだった。
「私は、ずっと……嘘をついてきました」
それは、謝罪でも弁解でもない、事実の提示だった。
感情を極力削ぎ落とした、淡々とした語り口。
「皆さんに、トリニティに……友達に、仲間に、全部、嘘を」
ミカが息を呑む。
ナギサの表情が、わずかに強張った。
「ゲヘナから来た目的も。
私が何者で、何を見て、何を報告していたのかも」
黒夜は、ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「疑われないように、悟られないように。
笑って、普通の生徒みたいに振る舞って……
気付いたら、それが当たり前になっていました」
その言葉には、自嘲すら含まれていなかった。
ただ、事実を並べているだけだ。
「嘘をつくことに、慣れてしまったんです」
ミカの拳が、ぎゅっと握られる。
「それが……それが、罪だって分かっていても。
止められなかった」
黒夜は、そこで一度言葉を切った。
深く息を吸い、吐く。
「そして……その弱さを」
視線が、わずかに揺れる。
「利用されました」
その瞬間、セイアの表情が変わった。
何かを察したように、ほんの一瞬、目を伏せる。
「マダムに」
名を出した瞬間、空気が重く沈んだ。
「私は、彼女の言葉を……拒めなかった。
拒めば、すべてが露見する。
拒めば、皆さんを裏切っていた事実が明るみに出る」
黒夜の声が、わずかに震え始める。
「だから……言われるがままに、動いてしまった」
その先を言おうとした、その時だった。
「黒夜!」
鋭く、しかし切羽詰まった声で、セイアが遮った。
「それ以上は……言わなくていい!」
珍しいほど感情の滲んだ声だった。
セイアは一歩前に出て、黒夜をまっすぐ見据える。
「君が抱え込んでいたことは、もう十分伝わった。
それ以上、自分を傷つける必要はないんだよ!」
だが。
黒夜は、首を横に振った。
「……いいえ」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、諦めと覚悟が同居していた。
「言わない方が、楽だというのは分かっています。
でも……それをしたら」
ミカとナギサを見る。
「私は、また嘘をつくことになる」
その一言が、胸を打った。
「それだけは……もう、できません」
黒夜は、小さく息を吸い込んだ。
「私は……セイア様を」
言葉が詰まる。
喉が、震える。
「……殺そうとしました」
時間が、止まった。
ミカの目が見開かれ、ナギサは息を忘れたように固まる。
セイアだけが、悔しそうに目を閉じていた。
「暗殺未遂です。
失敗しましたし、未遂に終わりました。
それでも……やった事実は、消えません」
黒夜の声は、震えているのに、逃げなかった。
「どんな理由があっても。
どんな事情があっても」
唇を噛みしめる。
「私は、人を殺そうとした」
沈黙が、部屋を支配する。
重く、逃げ場のない沈黙。
「それに……」
黒夜は続けた。
「スパイとして、皆さんの信頼の上に立ち続けた。
騙し続けた」
視線を落とし、床を見る。
「そんな人間が……
助けられる価値なんて…」
ぽつりと、吐き捨てるように。
「……ないじゃないですか」
それは、誰かを納得させるための言葉ではなかった。
自分自身に向けた、判決だった。
「こんな奴……救う価値、ないでしょう」
言い切った瞬間、黒夜の肩から力が抜けた。
まるで、長年背負っていたものを、ようやく下ろしたかのように。
ミカは、震えていた。
怒りではない。嫌悪でもない。
――悲しみだった。
ナギサは唇を強く噛みしめ、言葉を探している。
セイアは、静かに目を開き、黒夜を見つめる。
誰も、すぐには答えられなかった。
それほどまでに、黒夜の言葉は重く、真っ直ぐだった。
沈黙が、長く続いた。
黒夜の言葉は、部屋の空気に重く沈殿し、誰もそれをすぐに掻き混ぜることができなかった。
時計の針が進む音が、やけに耳につく。
最初に動いたのは、ミカだった。
「……ねえ」
声が、震えている。
けれどそれは怒りではない。拒絶でもない。
「それってさ……」
一歩、黒夜に近づく。
「ずっと、一人で抱えてたってことでしょ?」
黒夜は答えない。
否定も肯定もせず、ただ俯いたままだ。
「嘘ついて、疑われないようにして、
誰にも本当のこと言えなくて」
ミカの声が、少しずつ強くなる。
「それで……自分が悪い、自分が最低だって、
ずっと思い続けてきたってことでしょ?」
黒夜の指先が、わずかに動いた。
「……私」
ミカは、唇を噛みしめる。
「そんなの、知らなかった」
それは責める言葉ではなかった。
ただの、事実への痛みだった。
「私たち、黒夜のこと……
全部分かったつもりでいた」
ミカは、自嘲気味に笑う。
「優しくて、静かで、ちょっと不器用で。
でもちゃんとトリニティの一員で」
一瞬、言葉に詰まる。
「……でもさ」
ミカは、黒夜をまっすぐ見た。
「そんな顔で、そんな覚悟で生きてたなんて、
誰も教えてくれなかった」
ナギサは、その様子を静かに見つめていた。
思考を巡らせ、感情を噛み砕き、ようやく口を開く。
「黒夜さん」
呼びかけは、穏やかだった。
「あなたが語ったことは、確かに重い罪です。
スパイ行為も、暗殺未遂も……決して軽くはありません」
黒夜の肩が、わずかに強張る。
「ですが」
ナギサは、そこで一度言葉を切った。
「私は今、あなたの話を聞いて……
初めて“理由”ではなく、“苦しみ”を理解しました」
黒夜は、顔を上げない。
「あなたは、自分を守るために嘘をついたのではない。
権力を得るためでも、誰かを貶めるためでもない」
ナギサの声は、冷静でありながら、確かに感情を帯びていた。
「ただ……逃げ場がなかっただけ」
黒夜の喉が、かすかに鳴る。
「そしてその結果を、
すべて自分一人で背負おうとしている」
ナギサは、ゆっくりと歩み寄る。
「それは、罪ではあっても……
卑怯ではありません」
その言葉に、黒夜の瞳が揺れた。
「……私は」
今度は、セイアが口を開いた。
「君が、私を殺そうとしたこと」
黒夜の体が、びくりと跳ねる。
「それについては……すでに言った事だから繰り返しになるが…」
セイアの声は、静かで、揺れていなかった。
「私は、君の事を許している」
短く、はっきりと。
「未遂であったから、でもないし。
命が助かったから、でもない」
セイアは、真っ直ぐに黒夜を見る。
「君が、それを“罪”だと認識し、
今もなお苦しんで生きているからさ」
黒夜の唇が、震える。
「ですが」
セイアは、そこで少し表情を曇らせた。
「今日、君の話を聞いて……
私が気付いたのは」
視線を伏せる。
「君は、暗殺未遂そのものよりも」
再び顔を上げる。
「周囲を欺き続けていた自分を、
決して許せずにいたのだということだ」
黒夜は、何も言えなかった。
否定する言葉も、肯定する勇気も、持てなかった。
「だから、君は言ったね」
セイアは続ける。
「救う価値がない、と」
静かな声が、胸を打つ。
「それは、裁かれたい言葉ではない。
……自分自身に向けた、断罪だと思う」
その瞬間、黒夜の瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
声は出ない。
ただ、涙だけが、静かに零れる。
しばらくの沈黙。
そして――
「それでもさ!」
ミカが、一歩前に出た。
声は大きく、震えている。
「それでも私は、黒夜だから救いたいんだよ!」
感情が、溢れ出す。
「可哀そうだったからじゃない!
罪があるからでもない!」
ミカは、胸に手を当てる。
「苦しんで、悩んで、
それでも一人で抱え込んでた黒夜だから!」
ナギサが、静かに頷く。
「そうですね」
その目には、覚悟が宿っていた。
「私たちは、あなたを“正当化”するつもりはありません。
ですが、“見捨てる”つもりもありません」
セイアも、一歩前へ。
「君が抱えていた罪も、痛みも、
すべて理解した上で……」
三人が、並ぶ。
ナギサが、静かに宣言する。
「これから私たちは、キヴォトス中を騙すことになります」
黒夜が、驚いたように顔を上げる。
「これは、スパイを救うためではありません」
ナギサの声は、はっきりとしていた。
「あなたを救いたいから、
私たちはこの地獄に落ちる覚悟をしたのです」
ゆっくりと、ナギサは手を差し出す。
「私たちのことを……」
ミカが続く。
「信じてくれる?」
セイアが、静かに微笑む。
「今度は、一人で背負わなくていい」
黒夜は、その手を見つめた。
震える指。
差し出された温もり。
信じたら、戻れない。
拒めば、すべてが終わる。
長い葛藤の末――
黒夜は、ゆっくりと手を伸ばした。
三人の手を、確かに握る。
「……信じたいです」
声は震えていたが、逃げなかった。
「ありがとうございます」
深く、頭を下げる。
「こんな私を……
それでも、選んでくれて」
その言葉に、三人は何も言わなかった。
ただ、しっかりとその手を握り返した。
嘘から始まる救済が、
今、静かに動き出した。