朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
白亜の石畳に朝日が反射し、トリニティ総合学園の正門はいつもと変わらぬ厳かさを湛えている。
そのすべてが、黒夜にとっては少しだけ現実離れして感じられた。
本当に、ここに戻ってきていいのだろうか
そんな考えが、まだ胸の奥に残っている。
月城黒夜は、一人で校門へと向かっていた。
自宅謹慎になってから一週間。
久しぶりの登校だった。
制服に乱れはない。
歩き方も、姿勢も、以前と何一つ変わらない。
けれど、心の奥だけは確実に変わっていた。
あの会談。
ナギサ、ミカ、セイア、マコト、ヒナ、カヨコが自分を救うために選んだ「嘘の物語」。
ゲヘナとトリニティ、両学園が手を取り合ってまで差し伸べてくれた救いの手。
自分は、誰かを頼る資格すらない人間だと思っていた
それなのに。
校門が視界に入った、その時だった。
「……来たぞ」
聞き覚えのある声。
黒夜が顔を上げると、正門の脇に三つの人影があった。
ナギサ
ミカ
セイア
三人は、まるで最初からそこに立っていたかのように自然に佇んでいた。
「ほら、言っただろう?」
セイアが腕を組み、ミカに向かって少し得意げに言う。
「君は“早すぎる”と言っていたが、今日は早かったじゃないか」
「えぇー!?
だって黒夜、いつももっと後で来るじゃん!」
ミカは口を尖らせるが、その表情はどこか楽しそうだった。
「今日は、たまたまですよ」
黒夜がそう答えると、ミカは目を丸くして笑う。
「なにそれー。
でも、ちゃんと来てくれてよかった!」
二人のやり取りを横目に、ナギサが一歩前へ出た。
「おはようございます、黒夜さん」
その声は、静かで、優しい。
「体調は……問題なさそうですね」
「はい。おかげさまで」
そう答えながら、黒夜は改めて三人の顔を見る。
疑いも、警戒も、そこにはない。
あるのは、心配と安堵、そして変わらぬ温度だった。
ナギサは一度小さく息を整え、続ける。
「本日をもって、あなたの自宅謹慎は正式に解除されます」
黒夜は自然と背筋を伸ばした。
「それから……
黒夜さんの“正式な処分”についても、決定しました」
その言葉に、空気がわずかに引き締まる。
黒夜は一歩下がり、姿勢を正す。
「……はい」
続きを待つ沈黙を、ミカが勢いよく破った。
「黒夜はね!
ティーパーティーの専属護衛に復帰だよ!」
ぱっと花が咲くような声だった。
「これでまた、ずーっと一緒だね☆」
「ミ、ミーカーさーん?」
ナギサのこめかみが、ぴくりと動く。
「正式な発表は、私が……」
「……あっ」
ミカはようやく気づいたように口を押さえる。
「ごめんね、ナギちゃん☆
つい嬉しくて!」
「……はぁ」
ナギサは深くため息をついたが、その表情には怒りよりも安堵が滲んでいた。
セイアはその様子を見て、肩をすくめる。
「ふふ……
ようやく、私たちも普段通りに戻ってきた気がするよ」
その言葉に、黒夜の胸がじんわりと温かくなる。
――戻ってきた。
――自分は、まだここに居てもいい。
「……皆さん」
黒夜はゆっくりと三人の前に立ち、深く頭を下げた。
「この一週間、そしてそれ以前も……
私のために、ここまでしてくださり、本当にありがとうございました」
言葉を選びながら、しかし迷いなく。
「私は、ずっと誰かを頼ることが怖かった。
自分には、助けを求める資格がないと思っていました」
三人は、黙って耳を傾けている。
「ですが……
皆さんは、私を一人の人間として救ってくださった」
黒夜は顔を上げる。
「この恩は、一生忘れません」
ナギサは目を閉じ、短く、しかし強く答えた。
「……ええ。どういたしまして」
その声には、為政者としてではなく、一人の少女としての実感が込められていた。
ミカは少し照れたように視線を逸らしつつ、
「別にいいっていいって!
黒夜がちゃんと頼ってくれたんだし!」
そう言って、にっと笑う。
「次からもさ、困ったらちゃんと言ってよ?
私たちは黒夜の味方なんだから!」
セイアは軽く咳払いをしてから、冗談めかして言った。
「まったく……
君は本当に、世話の焼ける護衛だよ」
「……はい、自覚しております」
黒夜は小さく微笑んだ。
――ああ。
――自分は、本当に人に恵まれている。
「さて」
ナギサが話題を切り替える。
「黒夜さん、正式な復帰にあたって……
お渡ししたいものがあります」
そう言って彼女が差し出したのは、二つの品だった。
一つは、トリニティの紋章が刻まれた、純白の折り畳み式バリスティックシールド。
もう一つは、漆黒のピースメーカー。
そのグリップには、ゲヘナの紋章が控えめに施されている。
「……これは?」
黒夜は、思わず言葉を失った。
「黒夜って、いつも相手の銃を奪って無力化するでしょ?」
ミカが楽しそうに説明する。
「だから自分の銃、持ってないじゃん?
それで、復帰祝いに贈ろうって話になったの!」
「シールドは、専属護衛の象徴として私たちからで…」
セイアが続ける。
「銃は…ゲヘナ側が“平和と無事を願う意味”を込めて選んだそうだ」
マコト、ヒナ、カヨコの顔が脳裏をよぎる。
「……こんな、大切なものを」
黒夜は慎重に二つを受け取り、胸に抱いた。
「この素敵な贈り物に誓って――」
彼は、深く頭を下げる。
「私は必ず、皆さんの御身をお守りします」
その真剣な声音に、三人は一瞬言葉を失う。
「……さ、さぁ!」
ナギサが少し赤くなった顔を誤魔化すように言った。
「もうすぐ他の方も登校して来ますし、
やらなければならない書類も溜まっています」
「執務室へ行きましょう」
「そ、そうだね!」
ミカが慌てて頷く。
「……話題を逸らすのが露骨すぎるよ、君たち…」
セイアは苦笑した。
そんな三人の後を、黒夜は静かに、しかし確かな足取りで歩き出す。
胸の奥には、確かな温もりがあった。
――守りたい
――この日常を
それから数日間。
トリニティ総合学園は、驚くほど穏やかだった。
正確に言えば――
表向きは、何事もなかったかのように日常が流れていた。
エデン条約の話題は、公式にはまだ多く語られていない。
噂話として耳に入ってくる程度で、生徒たちの関心は試験や部活動、他愛ない会話に向いている。
黒夜は、その中心に居た。
ティーパーティー専属護衛としての職務に復帰し、
再びナギサ、ミカ、セイアの三人と行動を共にする日々。
廊下を歩けば、以前のような露骨な視線はない。
完全に消えたわけではないが、噂は沈静化しつつあった。
それでも、黒夜は理解していた。
――これは、守られている日常だ。
ナギサが常に彼の予定を管理し、
ミカが明るく周囲の空気を和ませ、
セイアがさりげなく距離と視線を計算して立ち回っている。
三人が“そうしてくれている”から、
自分はここに立っていられる。
……ありがたい、なんて言葉じゃ足りないな
そんなことを思いながら、黒夜は執務室の扉を開けた。
「おはようございます、ナギサ様」
「ええ、おはようございます」
ナギサは書類から顔を上げ、柔らかく微笑む。
その表情は、以前よりも少し穏やかだった。
為政者としての仮面の奥に、
“彼を守れた”という実感が確かに芽生えている。
「今日の予定ですが――」
黒夜がいつものように報告を始めると、
ミカが椅子をくるりと回して割り込んできた。
「ねぇねぇ黒夜、今日のお昼どこで食べる?」
「……いつも通り学内食堂ですが?」
「えー、また?
たまには外のカフェ行こーよ!」
「ミカさん、警備の都合もありますので……」
「大丈夫大丈夫!
黒夜が居るんだから!」
無邪気な笑顔。
その言葉に、黒夜の胸が少しだけ痛んだ。
……“居るから大丈夫”か
以前の自分は、その言葉を重荷として受け取っていた。
だが今は違う。
それは信頼であり、
頼ってくれている証だ。
「……では、セキュリティを確認した上で」
「やった!」
ミカがぱっと明るく笑う。
セイアはその様子を見ながら、くすりと肩をすくめた。
「相変わらずだね、君たちは」
「セイア様もご一緒されますか?」
黒夜が尋ねると、
セイアは少し考え込むように顎に手を当てる。
「そうだね……
今日は外の空気を吸うのも悪くない」
そう言って立ち上がり、
いつものように黒夜の隣に並んだ。
その距離は、以前と同じ。
けれど、決定的に違うことが一つある。
……もう、疑っていない
少なくとも、この三人は。
その事実が、黒夜の胸を温かく満たしていた。
昼休み。
学園内の小さなカフェで、四人は並んで席に着いた。
生徒たちの視線が一瞬こちらに向き、
そしてすぐに逸れていく。
誰も、何も言わない。
「……静かになったねぇ」
ミカがストローを咥えながら呟く。
「そうですね」
ナギサは紅茶を口に運びながら答えた。
「一時期の騒ぎが嘘のようですね」
「君のおかげだよ、黒夜」
セイアがそう言って微笑む。
「君が、逃げなかったから」
黒夜は一瞬、言葉に詰まった。
……逃げなかった、か
正確には、
逃げる価値がないと思っていただけだ。
だが、今は違う。
「……皆さんが居てくださったからです」
静かな声で、そう答える。
ミカはその言葉に満足そうに頷いた。
「うんうん!
それでいいの、それで!」
何気ない会話。
何気ない時間。
けれど、黒夜は知っている。
この日常が、
誰かの覚悟と、嘘と、危うい均衡の上に成り立っていることを。
……それでも
それでも、今は。
この時間を、大切にしたいと思った。
夕方になり
執務を終え、校舎を出る途中。
黒夜はふと足を止め、空を見上げた。
夕焼けが、やけに綺麗だった。
「どうしましたか?」
ナギサが不思議そうに声をかける。
「いえ……」
黒夜は小さく首を振る。
「少し、懐かしい気がして」
「懐かしい?」
「はい。
……こうして、普通に過ごせていることが」
三人は、一瞬だけ黙った。
やがてセイアが、静かに言った。
「それはね、黒夜」
「君が取り戻した“今”だよ」
黒夜は、その言葉を胸に刻む。
……守りたい
この日常を。
この人たちを。
背負った純白のシールドと漆黒のピースメーカーの重みが、確かにそこにあった。
その夜
トリニティの灯りが一つ、また一つと消えていく。
遠く離れた場所で、
誰かが同じ空を見上げていることを、黒夜はまだ知らない。
嵐は、まだ来ない。
だが――確実に、近づいていた。
■
アリウス自治区の空は、いつも薄暗い。
雲があるわけでも、雨が降っているわけでもない。
それでも太陽の光は弱く、建物の影は不自然なほど濃い。
かつて信仰と秩序を掲げていた場所。
今は、忘れ去られた者たちの残骸が積み重なる地。
その地下深く、厳重な扉の奥に設えられた広間で、アリウススクワッドの四人は整列していた。
サオリ
ミサキ
アツコ
ヒヨリ
誰も口を開かない。
やがて、ゆっくりと足音が響く。
「……集まったようね」
低く、甘く、それでいて底知れない声。
マダムが、影の中から姿を現した。
その微笑みは慈愛に満ちているようで、どこか歪んでいる。
「今日は、とても大切なお話があります」
マダムは一段高い場所に立ち、四人を見下ろす。
「トリニティとゲヘナ。
長年、憎しみ合ってきた二つの学園が――」
一拍、間を置く。
「“和平”を宣言するそうよ」
最初に反応したのはサオリだった。
「知っています……」
その声には、隠しきれない苛立ちが滲む。
「エデン条約、というらしいわね」
マダムは楽しげに続ける。
「調印式も近い。
多くの生徒、要人、そして“象徴”が集まるでしょうね」
サオリの歯が、ぎり、と鳴る。
……ふざけるな
彼女の脳裏に浮かぶのは、焼け落ちた校舎。
見捨てられた仲間たち。
救われなかった声。
なぜ……なぜあいつらだけが、そんな都合のいい未来を選べる!
ミサキは俯いたまま、何も言わない。
アツコも同様だ。
ヒヨリだけが、弱々しく笑った。
「えへへ……
世界って、やっぱり不公平ですねぇ……」
マダムは、そんな反応をすべて楽しむように眺めていた。
「だからこそ、あなたたちの出番です」
彼女は指を鳴らす。
「エデン条約の調印式――
そこを“舞台”にします」
「舞台……?」
サオリが眉をひそめる。
「ええ。
彼らが“平和”を謳い、喝采を浴びるその瞬間に――」
マダムは、ゆっくりと微笑んだ。
「すべてを奪うのです」
一人の側近が前に進み、布で包まれた何かを差し出す。
それは、武器であることだけは分かる。
だが、形状も仕組みも、ここでは語られない。
「これは……?」
サオリが問う。
「“象徴”を壊すためのもの」
マダムは、あくまで曖昧に答えた。
「キヴォトスの秩序を支えているもの。
それを否定する力」
「これは……」
サオリはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、無意識に指先に力がこもる。
脳裏に浮かんだのは、
祝福を受ける一人の生徒の姿だった。
ゲヘナのスパイと呼ばれ、
トリニティに迫害され、
それでも今は“救われた”存在。
……救済?
胸の奥で、何かが黒く蠢く。
嘘だ
彼は、手を差し伸べられた側。
自分たちは、切り捨てられた側。
「……ありがとうございます」
サオリは、低く答えた。
「任務は遂行します」
マダムは満足そうに頷く。
「ええ。期待していますよ、サオリ」
「これは――
あなたたちが“世界に答えを示す”ための舞台なのですから」
会議は、それで終わった。
スクワッドの四人は、静かにその場を後にする。
廊下を歩きながら、ヒヨリがぽつりと呟いた。
「……ねぇ、リーダー」
「何だ」
「もし、私たちにも……
誰かが手を差し伸べてくれていたら……」
サオリは、立ち止まらない。
「考えるな」
その声は、冷たい。
「vanitas vanitatum et omnia vanitas」
「私たちは、選ばれなかった。
それだけだ」
彼女の握る拳の中で、包まれた“それ”が、静かに存在を主張していた。
その重みは、
これから壊される平和の重さであり、
彼女自身の怒りと絶望の重さでもあった。
遠くで、トリニティの鐘が鳴る。
平和を祝う音は、
この場所には、届かない。