――その朝は、やけに静かだった。
トリニティ総合学園の正門前。
いつもなら登校する生徒たちのざわめきで満ちている時間帯だが、この日はどこか空気が引き締まっている。
正門付近には普段見かけない警備の生徒たちが立ち、通行の流れもわずかに制御されていた。
ティーパーティー専属護衛として復帰してから、しばらくたったある日。
その中で最も重要な任務が、今日だった。
エデン条約調印式
トリニティとゲヘナ、長きにわたる対立と不信を一度“紙の上で”終わらせるための式典。
それがどれほど危うい綱渡りか、黒夜は理解している。
――だからこそ、守らなければならない。
そんな思考の中で、聞き慣れた声が背後から届いた。
「黒夜さん」
振り返ると、そこにはナギサ、ミカ、セイアの三人が並んでいた。
正装に近い制服姿。
いつも以上に気を張っているのが、立ち姿からも伝わってくる。
「おはようございます、皆様」
黒夜は一歩下がり、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます、黒夜さん」
ナギサはいつものように落ち着いた声で応じた。
だが、その瞳の奥にはわずかな緊張が宿っている。
「今日から本番、だね」
セイアが静かに周囲を見回しながら言う。
「えー、なんかさぁ。
こういう改まった行事って、ドキドキするよね!」
ミカはそう言いながらも、落ち着かない様子で肩を揺らしていた。
黒夜は三人の前に立ち、自然と護衛の位置を取る。
「では、会場へ向かいましょう」
その言葉を合図に、四人は正門を後にした。
道中、ナギサが静かに口を開く。
「エデン条約については、既に概要は共有していますが……
本日で“形”としては一度、区切りがつきます」
「……うまくいくよね?」
ミカが小さく呟く。
「うまくいかせるために、私たちがいるんだよ」
セイアが即座に答える。
「黒夜も、ね」
その視線がこちらに向けられ、黒夜は小さく頷いた。
「はい。
本日は、皆様の安全を最優先に行動いたします」
そう言いながら歩みを進めていくと、徐々に周囲の様子が変わっていった。
会場が近づくにつれ、人の数が明らかに増えていく。
トリニティの生徒。
そして――ゲヘナの生徒。
(……多いな)
黒夜は内心でそう呟く。
思っていた以上に、人だかりができている。
警備の生徒たちが動線を確保しているものの、視線の数は確実に増えていた。
好奇の視線、警戒の視線、期待、そして不安。
そのすべてが、会場に向けられている。
「うわ……こんなに人いるんだ」
ミカが少し声を潜める。
「注目度の高さを物語っていますね」
ナギサが冷静に分析する。
黒夜は一歩前に出て、三人を庇うように進む。
そのとき
「ねぇ黒夜」
ミカが、ふいに彼の袖を引いた。
「……腕、組んでいこ?」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「ミ、ミカさん……!」
黒夜が戸惑うより先に、ナギサが低い声で咎める。
「周囲の目があります。
今は控えてください!」
「そうだよ、ミカ」
セイアもやんわりと続ける。
「誤解を招く行動は、今日に限っては避けた方がいいだろう」
「うぅ……」
ミカは残念そうに唇を尖らせ、渋々手を離した。
「じゃあ……後でね」
小さくそう囁かれ、黒夜は聞こえなかったふりをした。
(……集中しろ)
自分に言い聞かせる。
やがて、古聖堂の正面に辿り着く。
荘厳な建築。
長い年月を経た石壁は、今日という日の重みを静かに受け止めているようだった。
外の喧騒とは対照的に、扉をくぐった瞬間、空気が一変する。
静寂
ざわめきは抑えられ、整然とした雰囲気が支配していた。
「何事も無く、ここまで来れましたね」
ナギサが安堵した様に、小さく息を吐く。
黒夜も内心で同じことを思っていた。
(今のところ、異常なし)
彼はここで一度、護衛の位置を調整する。
式典中は、直接張り付くわけにはいかない。
しかし、視界から外さない距離を保つ。
そうして奥へと進んでいくと、ナギサたちが一人の人物に声をかけた。
「先生」
黒夜はその言葉に、微かに緊張する。
振り向いた先にいたのは――
見知らぬ、しかし不思議と威圧感のない大人の男性だった。
「……あの方が」
ナギサがこちらを振り返る。
「黒夜さん。
こちらが、シャーレの先生です」
紹介された瞬間、黒夜は即座に姿勢を正した。
「お初にお目にかかります」
そして、一歩前に出て、深く頭を下げる。
「月城黒夜と申します。
この度は……私のために、様々な便宜を図っていただき、ありがとうございました」
言葉に、偽りはない。
自分を救うために、どれだけ多くの人が動いてくれたのか。
その中心に、この“先生”がいたことを、黒夜は知っている。
「……?」
先生は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
そして、少し照れたように頭をかきながら、柔らかく笑う。
「君が、黒夜君か……」
「初めまして、シャーレの先生です」
そう言って、改めて向き直る。
「当たり前のことだから、あまり気にしなくていいんだよ」
「僕が君を助けたいと思ったのはね、
僕が先生で、君が僕の生徒だからだよ」
その声音は、驚くほど自然だった。
「それに……正直言うと、僕はそんなに役に立ってないんだ」
「周りのみんなが動いてくれたおかげだよ」
謙遜とも、本心とも取れる言葉。
それでも黒夜は、頭を上げなかった。
「……それでも」
低く、しかしはっきりとした声で言う。
「救われたことに、変わりはありません」
「ありがとうございました」
その言葉に、先生は少し困ったように微笑んだ。
そのときだった。
「相変わらずだな」
聞き覚えのある、嘲るような声。
「お前は、本当にゲヘナらしくない」
黒夜は、ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは――
「……!」
「マコト様……」
マコト
ヒナ
カヨコ
一年ぶりの再会。
一瞬、胸の奥が熱くなるのを、黒夜は自覚した。
「お久しぶりですね」
そして、次の瞬間。
少しだけ、口調が変わる。
「バカマコト様」
「私は今も昔も、敬虔な優等生ですので」
「頭の残念な方とは、ちょっと……」
大げさに、深々と頭を下げる。
トリニティではしない、ゲヘナの時の軽口だった。
「キキキ……!」
マコトは愉快そうに笑う。
「いいじゃないか。
それだけ口が回るなら、元気そうだな」
黒夜は軽く笑いながら
「えぇお陰様で元気ですよ、
ヒナさんもカヨコさんもお久しぶりです。お変わりないですか?」
ヒナは小さく微笑み、頷く。
「えぇ。
ゲヘナは相変わらずだけど……私は元気よ」
カヨコは、黒夜をじっと見てから、静かに言う。
「私のことはいいから。
……そっちは、大丈夫だったの?」
その言葉に、黒夜は一度、深く息を吸う。
そして、三人に向かって、改めて頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「救ってくださって」
その言葉に、マコトの表情が僅かに曇る。
「黒夜……苦労をかけてすまなかったな」
「全部、私の責任にして逃げてもよかったんだぞ」
ヒナは首を振る。
「黒夜が傷ついてるのを見ていられなかっただけ」
「私が、勝手にやったことよ、だから、お礼はいらない」
カヨコも、静かに続ける。
「次からは、全部一人で抱え込まないでね
……本当に、無事でよかった」
その言葉一つ一つが、黒夜の胸に深く染み込んでいく。
そこへ、厳かな音が響いた。
調印式開始を告げる合図。
「……時間みたいだね」
セイアがそう言う。
「詳しい話は、後でだ」
マコトが短く告げ、踵を返す。
名残惜しさを胸に、それぞれが所定の位置へと向かっていった。
――そして。
会場の空気は、さらに張り詰めていく。
古聖堂の中央、長い通路の先。
そこに設えられた壇上は、厳かな空気に包まれていた。
天井から差し込む淡い光が、色硝子を通して床に模様を描く。
静謐という言葉が、これほど似合う場所もそうないだろう。
(……何事もなく始まりそうだ)
黒夜はそう思いながら、指定された位置で周囲を見渡していた。
護衛としては、式典の最前線に立つことは許されない。
だが、ナギサたち三人の動線、退路、周囲の人員配置はすべて視界に入る位置だ。
トリニティ側の要人。
ゲヘナ側の代表団。
報道関係者。
警備担当の生徒たち。
(配置は問題ない……)
一人ひとりの動きを無意識に追いながら、黒夜は胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
(……何だ?)
明確な異常はない。
誰かが不審な動きをしているわけでもない。
警備も、普段以上に厳重だ。
それでも
(……落ち着かない)
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわつく。
――長年、スパイとして生きてきた経験が、そうさせるのかもしれない。
“何も起きない”という状況ほど、疑ってかかる癖。
黒夜はその感覚を押し殺し、深く息を吐いた。
(考えすぎか?)
今日は“平和を示す日”だ。
疑念を先行させては、かえって視野が狭くなる。
やがて、静かな足音とともに、要人たちが入場してくる。
トリニティ側の代表として、ナギサ。
ゲヘナ側の代表として、羽沼マコト。
二人が壇上に立つと、会場全体がさらに静まり返った。
ミカとセイアは、その少し後方。
それぞれの立ち位置で、凛と背筋を伸ばしている。
(……立派だな)
黒夜は、無意識のうちにそう思った。
一年前まで、彼女たちは“遠い存在”だった。
今は、守るべき人たちとして、ここにいる。
司会役の生徒が一歩前に出る。
「これより、エデン条約調印式を執り行います」
淡々とした宣言。
それを合図に、式典は粛々と進んでいく。
条約の経緯。
両校の歴史。
そして、未来への意志。
マコトの言葉は、意外なほど落ち着いていた。
「……ゲヘナは、自由を美徳とする学園だ」
「だが、それは無秩序を肯定するという意味ではない」
「我々は、争いの先にある“選択”を、今ここで示す」
(ふふ……らしくないな)
黒夜は、心の中で小さく笑う。
だが、その“らしくなさ”が、今は必要なのだ。
続いて、ナギサが言葉を引き継ぐ。
「トリニティは、秩序を重んじてきました」
「しかし、その秩序が、時に他者を拒絶してきたことも、否定できません」
「だからこそ――」
「今ここで、互いを理解しようとする意思を、形にするのです」
その声は、揺らがない。
(……ナギサ様)
黒夜は、無意識に拳を握り締めていた。
彼女は、背負っている。
学園の重みも、責任も、そして――嘘で塗り固めた“歴史”さえも。
それでも、逃げない。
(……本当に)
(この人たちは凄いな)
式典は、順調に進んでいく。
調印書が運ばれ、確認が行われる。
署名の準備が整えられる。
その一連の流れの中で、黒夜は再び胸の奥のざわつきを覚えた。
(……まただ)
さっきよりも、わずかに強い。
視線を巡らせる。
警備の生徒たちは、緊張感を保ったまま配置についている。
報道陣も、騒ぐことなくシャッターを切っている。
(……何が)
(何が、引っかかっている?)
黒夜は、自分自身に問いかける。
だが、答えは出ない。
ただ――
(……この空気)
“静かすぎる”。
そんな印象。
嵐の前の静けさ。
使い古された表現だが、今の状況には不気味なほど当てはまる。
(……いや)
(考えすぎだ)
彼は、自分を戒める。
今日は、希望の日だ。
疑念よりも、役目に集中しろ。
そのとき、視界の端で、ミカが一瞬こちらを見る。
目が合った。
ミカは、ほんの一瞬だけ、柔らかく微笑む。
大丈夫だよ
そう言われた気がして、黒夜は小さく頷き返した。
セイアも、さりげなくこちらに視線を送る。
状況を把握している、冷静な眼差し。
(……彼女たちを心配させるな)
黒夜は、内心でそう思う。
やがて、調印の瞬間が近づいていく。
ペンが置かれ、書面が整えられる。
司会役が、声を張る。
「それでは――」
「エデン条約、調印に移ります」
会場の空気が、さらに張り詰めた。
この瞬間を、どれだけの人が待ち望んできたのか。
黒夜は、ナギサの姿を見つめる。
(……守る)
ただ、それだけを胸に刻む。
ペンが、紙に触れようとした――
その、刹那。
黒夜の背筋を、冷たいものが走った。
(……っ)
理由は、分からない。
だが。
何かが起きる。
確信にも似た感覚。
黒夜は、無意識に一歩踏み出そうとした。
その瞬間――
――世界が、白く弾けた。
耳鳴り
衝撃
空気が、爆音に変わる。
次の瞬間、黒夜の身体は“吹き飛ばされていた”。
「――っ!!」
視界が反転する。
床も壁も天井も、区別がつかない。
背中から、強烈な衝撃。
肺の中の空気が、一気に吐き出される。
(……ッ、ぐ……!)
意識が飛びかけるのを、歯を食いしばって繋ぎ止める。
――遅れて、熱。
焼けるような熱風が、古聖堂を駆け抜ける。
石造りの壁が、悲鳴を上げる。
色硝子が砕け、雨のように降り注ぐ。
「きゃあああっ!」
「伏せろ!!」
「医療班――!」
怒号と悲鳴が、混じり合う。
黒夜は、床に叩きつけられたまま、必死に身体を起こそうとした。
(……頭が、)
額に、ぬるりとした感触。
指で触れると、赤い。
(……血、か)
キヴォトス人の身体は頑丈だ。
この程度で致命傷にはならない。
(……腕もか)
右腕を動かした瞬間、鋭い痛みが走る。
視線を落とすと、制服の袖が裂け、皮膚が擦り剥けて血が滲んでいた。
(……くそ!)
だが、そんなことはどうでもいい。
左腕を使ってシールドを展開して辺りを見回す
(ゲヘナのみんなは大丈夫だろう…この程度慣れてるはずだ…今は)
「ナギサ様……!」
声を張り上げようとして、喉が痛む。
埃と煙で、視界は最悪だった。
それでも
黒夜は、這うようにして周囲を確認する。
倒れ伏す人影。
砕けた柱。
崩れ落ちた天井の一部。
(外壁側だ……)
聖堂そのものを狙った明らかな攻撃。
(……ここを、和平の象徴ごと)
一瞬で理解する。
これは事故じゃない。
これは――明確な意思を持った破壊だ。
「ナギサ様! ミカ様! セイア様! 先生! 御無事なら返事をしてください!」
喉を焼くような声で叫ぶ。
「……大丈夫ですか!!」
返事は――
「……っ、黒夜!」
瓦礫の向こうから、ミカの声。
続けて、セイアの冷静な声。
「こちらは無事だ、軽傷者多数だが! ナギサも無事だ!」
(……よかった)
その一言で、全身から力が抜けそうになる。
だが、安心するには早すぎた。
次の瞬間。
古聖堂の崩れた壁――
その“裂け目”から。
異様な影が、なだれ込んできた。
黒衣。
無機質な仮面。
統制された動き。
(……どこの部隊だ?)
トリニティでも、ゲヘナでもない。
だが、確かに“敵”だと分かる存在。
銃声が、空気を切り裂く。
「防衛線を張れ!」
「要人を下がらせろ!!」
警備の生徒たちが応戦するが、数が違う。
(……多すぎる)
黒夜は、歯を食いしばって立ち上がる。
足が、少しふらつく。
頭から、まだ血が垂れている。
それでも。
(……守るんだ)
そのために、ここにいる。
純白のバリスティックシールドを構え、前に出る。
銃弾が、盾に弾かれる。
「黒夜、無理するな!」
「後方に――!」
セイアの声を背に受けながら、黒夜は叫ぶ。
「大丈夫です!」
「……この程度で、止まれません!」
彼の視線は、戦場の奥へ向かう。
瓦礫の向こう。
煙の向こう。
そこに――
“立っている”影が、あった。
他の敵とは、違う。
動かない。
指示も出さない。
ただ、こちらを見ている。
(……あれは)
心臓が、嫌な音を立てる。
ゆっくりと、その影が一歩前に出る。
仮面の奥から、鋭い視線。
黒夜の背筋に、凍るような感覚が走った。
(……違う)
(……この感覚は)
理解してしまう。
「――月城、黒夜」
憎しみを、隠そうともしない視線。
黒夜は、息を呑む。
「……錠前、サオリ……」
互いに聞こえない距離で、名前を呟く。
それだけで。
この戦場が、ただのテロでは終わらないと――
黒夜は悟っていた。