トリニティの医療棟に漂う空気は、重く、冷たかった。
それは消毒薬の匂いのせいだけではない。ここにいる誰もが、胸の奥に沈めきれない感情を抱えたまま、言葉を失っていたからだ。
そして、先生は――
誰よりも遅れてベンチに腰を下ろし、何もできずにいた。
――どうして。
その言葉だけが、先生の胸の中で繰り返される。
黒夜が重傷を負った。
生死の境を彷徨っている。
それだけで、世界は十分に壊れていた。
そんな沈黙を、重たい足音が破った。
コツ、コツ、と廊下を進む足音。
誰かが近づいてくる。
ミカが顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、ゆっくりと音の方を向く。
そこに立っていたのは――白洲アズサだった。
制服は汚れ、髪は乱れ、顔色は青白い。
だが、それ以上に目を引いたのは、その表情だった。
逃げてきた者の顔ではない。
助けを求めに来た者の顔でもない。
――裁かれに来た者の顔だった。
アズサは一歩、前に出る。
誰も言葉を発しない中、彼女は深く頭を下げた。
「……私がここに来た理由は、」
その声は震えていたが、逃げはなかった。
「黒夜が、あんな重傷を負ったのは……私のせいだ…」
その瞬間、ミカが弾かれたように立ち上がった。
「……は?」
低く、掠れた声。
次の瞬間、ミカはアズサに詰め寄り、制服の胸元を掴み上げた。
「ふざけないで……!」
涙を流しながら、ミカは叫ぶ。
「お前のせいで……黒夜が……!
あんな怪我をしたっていうの!!」
拳を振り上げようとしたミカの腕を、マコトと先生が同時に掴んだ。
「聖園ミカ、やめろ!」
「いきなり暴力はダメだよ!」
二人に止められながら、ミカは泣き叫ぶ。
「じゃあ……じゃあこの悲しみは誰にぶつければいいの!?
誰を憎めばいいの!?
黒夜は……あんなに……!」
声は次第に嗚咽に変わり、ミカは崩れ落ちた。
アズサは、その様子を黙って見ていた。
そして、再び頭を下げる。
「……どんな処分をされても文句は無い」
その言葉に、場の空気がさらに重く沈んだ。
ナギサが、ゆっくりと顔を上げる。
「……経緯を話してください」
震える声だったが、為政者としての威厳を失ってはいなかった。
アズサは頷き、語り始める。
「私は……アリウスの人間だ。
元々、百合園セイア暗殺のために……黒夜を利用して、トリニティに入り込んだ」
セイアが小さく息を呑む。
「暗殺は失敗。
でも……その時に見てしまったんだ」
アズサの声が、かすかに揺れる。
「セイアと、黒夜の……信頼関係を」
その言葉に、セイアは何も言えなかった。
「羨ましかった……
心から、羨ましかったんだ」
アズサは唇を噛みしめる。
「それを壊したくなくて……私は、何もしなかった。
アリウスを裏切って……見て見ぬふりをした」
沈黙。
「でも……あのマダムが、それを許すはずがなかった」
アズサは拳を握りしめる。
「私は捕まり……人質として使われた。
その結果……黒夜は……」
言葉が、そこで途切れる。
「……あんなことに、なってしまった」
アズサは、再び深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
その謝罪は、軽くはなかった。
だが、誰もすぐには応じられない。
ヒナが、静かに拳を握りしめる。
「……つまり」
低い声。
「今回の襲撃は……アリウスの仕業」
アズサは頷く。
「主犯格は……アリウススクワッドの、サオリたち」
その名前が出た瞬間、カヨコの表情が強張った。
――やはり、彼女たち。
重たい沈黙の中、先生のスマートフォンが小さく光っている事に気が付く。
モモトークの通知。
先生は、無意識のうちに画面を開いていた。
そこに表示されていたのは――
少し前に、黒夜から届いていた返信。
無事で何よりです
先生、お願いがあります
サオリたちアリウスの事です
彼女たちは……誰からも救われなかった
だから、救済そのものを憎んでいます
私は、どうにかして彼女たちを救いたい
彼女たちにかつての自分と同じ様になってほしく無いんです
でも、方法がわかりません
先生……どうすればいいでしょうか
先生は、言葉を失った。
――あの状況で。
――あの絶望の中で。
黒夜は、まだ他人のことを考えていた。
先生は、そのモモトークを皆に共有した。
ナギサは、画面を見つめ、目を閉じる。
「……あの状況で、まだ他人の心配を……」
そして、静かに。
「私たちは……彼に“守られる側”でしかいられなかった」
セイアは、目を伏せたまま、短く呟く。
「……最後まで彼は、救う事を選ぶのか」
ヒナは、拳を強く握りしめる。
「……彼は、敵ですら見捨てないのね」
声は低く、しかし震えていた。
「……だからこそ、守れなかったのが悲しい」
カヨコは、呆然と呟く。
「……分かるよ、その気持ち」
マコトは帽子を深く被ったまま、低く言った。
「……あいつは、最後まで諦めなかったか」
ミカだけが、唇を噛みしめ、拳を震わせていた。
「……そんなの、関係ない」
涙を流しながら、吐き捨てる。
「黒夜が救いたいからって……
みんなまでアリウスを救う必要なんてないでしょ……!」
答えが、見つからなかった。
絶望の底で、彼らは選択を迫られていた。
モモトークの画面が暗転しても、そこに刻まれた言葉は、誰の胸からも消えなかった。
――救いたい。
――どうすればいいでしょうか。
それは問いであり、呪いだった。
沈黙が、再び医療棟を支配する。
誰もが考え込む中、最初に沈黙を破ったのはミカだった。
「……ふざけないで」
小さく、しかしはっきりとした声。
ミカは立ち上がり、床に落ちた涙を踏みしめるように一歩前へ出た。
「こんなの……綺麗事じゃない」
拳が震えている。
「救いたい?
誰も救ってくれなかったから、憎んでる?」
ミカは歯を食いしばり、声を荒げる。
「だからって……だからって、黒夜がこんな目に遭っていい理由になるわけないでしょ!!」
誰も反論できなかった。
正論だった。
感情としても、あまりにも当然だった。
「……私は、許せない」
ミカの視線が、床の一点を射抜く。
「アリウスも……サオリも……
全部……全部、壊してやりたい」
ナギサが、はっとして立ち上がる。
「ミカさん、それは――」
「黙ってて!」
ミカの叫びに、ナギサは言葉を失った。
「ナギちゃんも……セイアちゃんも……
みんな分かってない!!」
涙を流しながら、ミカは叫ぶ。
「黒夜が……どれだけ私たちを支えてくれてたか……!
彼がいなかったら……!」
声が詰まり、言葉にならない。
「……私は、奪われた」
その一言は、刃のようだった。
「だから……奪った奴らから、全部奪い返す」
空気が張り詰める。
ヒナが、低く言った。
「……復讐を選べば、あなたは彼を裏切ることになる」
ミカは振り返る。
「裏切り?」
歪んだ笑み。
「じゃあ、何?
黙って耐えろって言うの?」
ヒナは答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙を、アズサが破った。
「……それでいいと思う」
一斉に視線が集まる。
アズサは、俯いたまま続ける。
「私たちは……裁かれるべき存在だ。
ミカが憎むのも……正しい」
ゆっくりと顔を上げる。
「私たちは……あなた達の敵だったんだから」
ミカが、にらみつける。
「今さら……!」
「そうだな」
アズサは遮らず、淡々と受け止める。
「だから……もし、私を差し出すことで気が済むなら……
そうしてくれ」
その言葉に、マコトが眉をひそめた。
「……自分を差し出せば、全てが終わると思っているのか?」
アズサは首を振る。
「いいや」
静かな声。
「終わらないと、分かってる」
そして、はっきりと。
「それでも……私は、ここに来た」
セイアが、初めてはっきりと口を開いた。
「……それは、贖罪?」
アズサは、少し考えてから答える。
視線を上げ、まっすぐにセイアを見る。
「裁かれるためだ」
その言葉は、覚悟そのものだった。
ナギサが、震える声で言う。
「あなたは……それで、自分が楽になると思っているのですか?」
「いいや」
即答だった。
「私は……楽になりたいわけじゃない」
一瞬、声が揺れる。
「ただ……逃げたくないだけなんだ…」
その言葉に、先生は息を呑んだ。
――逃げない。
それは、黒夜が最後まで選び続けた在り方だった。
ミカは、アズサから目を逸らし、吐き捨てるように言う。
「……あなたが何を言おうと、関係ない」
涙を拭いもせず。
「黒夜は……戻らないかもしれない」
医療棟の奥から、機械音が微かに響く。
その現実が、全員の心を締め付ける。
「……だから、私は奪う」
ミカの声は、決意に変わっていた。
「たとえ……黒夜に、嫌われても」
その言葉に、先生が顔を上げる。
「ミカ……」
「先生は……どうなの?」
ミカが、真正面から問う。
「先生は……黒夜の願いを守るの?
それとも……私の願いを守るの?」
誰もが、先生を見る。
選択を迫る視線。
先生は、拳を握りしめた。
――どちらも、守りたい。
――だが、両立しない。
答えは、出なかった。
その時、カヨコが静かに言った。
「復讐か……救済か」
カヨコは、苦笑する。
「黒夜が一番嫌がりそうな展開だね」
その言葉が、胸に刺さる。
マコトが、帽子の影から低く言った。
「……だからこそ、今は決めない」
全員がマコトを見る。
「感情で決めれば、必ず後悔する」
一拍置いて。
「……それは、黒夜が一番望まない」
ミカは唇を噛み、視線を逸らした。
アズサは、静かに頭を下げる。
「……私は、拘束でも監禁でも構わない」
淡々と。
「ただ……知っていてくれ」
拳を握る。
「サオリたちは……本当に、誰にも救われなかった」
その言葉が、重く落ちる。
ヒナが、壁に背を預けたまま呟いた。
「……だからといって、救う義務はない」
だが、続く言葉は弱かった。
「……でも、知ってしまったからには、放っておく理由にもならない」
矛盾した感情が、場を満たす。
先生は、再びスマートフォンを見る。
黒夜の言葉が、頭から離れない。
――どうすればいいでしょうか。
答えは、まだ遠い。
だが、確かなことが一つだけあった。
このままでは、何かが壊れる。
沈黙は、もはや耐えられるものではなかった。
医療棟に満ちる空気は重く、息を吸うたびに肺の奥が軋む。
黒夜の名を口に出すことすら、誰もが躊躇していた。
その沈黙を、破ったのは――ミカだった。
「……もう、決めた」
低い声。
だが、そこに迷いはなかった。
全員が顔を上げる。
ミカは涙に濡れた顔のまま、ゆっくりと立ち上がった。
「アリウスを……潰す」
言葉は短く、鋭かった。
「黒夜を……あんな目に遭わせた連中を……
絶対に、許さない」
ナギサが一歩踏み出す。
「ミカさん、待ってください。今は――」
「うるさい!」
ミカは叫び、振り返る。
「もう……これ以上、何も失いたくないの!」
拳を握りしめ、震える声で続ける。
「救済とか……正義とか……
そんなの、どうでもいい!」
目に宿るのは、純粋な憎悪。
「黒夜を奪った奴らを……
ただ、壊したいだけ!」
先生が、思わず名を呼ぶ。
「ミカ……!」
一瞬だけ、ミカは立ち止まった。
振り返らないまま、肩が小さく揺れる。
「……先生」
声は、泣いていた。
「追いかけて来ないで…」
その一言が、致命的だった。
ミカは走り出す。
医療棟の扉を乱暴に開け、夜の闇へと消えていく。
足音が遠ざかっていく。
先生は――動けなかった。
追いかける理由は、あった。
止めなければならないと、頭では分かっていた。
だが、足が動かない。
――もし追いかけて、何を言えばいい?
――復讐を否定する言葉を、今の自分は持っているのか?
その答えを出せないまま、先生はただ立ち尽くしていた。
ナギサが、唇を噛みしめる。
「……ミカさんを、止められませんでした」
セイアは目を伏せ、何も言わない。
ヒナは壁にもたれたまま、力なく呟く。
「……こうなることは、分かっていた」
アズサは、その光景を黙って見ていた。
ミカの背中が消えた先を、じっと見つめながら。
やがて、静かに問いかける。
「……私の処遇については」
マコトが、低く言った。
「今は決めない」
帽子の影に、疲労が滲む。
「この状況で、裁きを下せば……
それはまた、新しい後悔を生む」
誰も異論を唱えなかった。
アズサの処遇は――一旦、保留となった。
だが、問題は何一つ解決していない。
復讐は、既に走り出していた。
■アリウス自治区
冷たい石造りの部屋。
アリウスの本拠、その奥深く。
サオリは片膝をつき、頭を垂れていた。
「……調印式は、台無しにしました」
淡々と報告する。
「標的……黒夜は、ヘイロー破壊爆弾で吹き飛ばしました」
マダムは、玉座のような椅子に腰掛け、静かに話を聞いていた。
そして――微笑む。
「まあ」
指を組み、心底楽しそうに。
「よくやりました、サオリ」
その笑顔に、ぞっとするほどの喜悦が宿っていた。
「トリニティとゲヘナの希望を……あそこまで無惨に壊すなんて」
くすくすと笑う。
「実に……素晴らしい」
サオリは拳を握りしめながら、問いかける。
「……そういえば」
声が、わずかに強張る。
「アツコは……どこですか」
マダムは、当然のことのように答えた。
「秤アツコなら……確保していますよ」
微笑みを崩さずに。
「私が“崇高に至る”ための……
儀式に使いますから」
その瞬間。
「……話が違う!」
サオリが、顔を上げて叫ぶ。
「アツコには……手を出さないって!」
マダムは、首を傾げる。
「おかしなことを言いますね」
穏やかな声。
「子供は……大人に搾取されるもの、でしょう?」
その言葉が、サオリの中で何かを決定的に壊した。
「……ふざけるな……!」
立ち上がろうとした、その瞬間。
「――やりなさい」
マダムの一声で、空気が変わる。
周囲にいたアリウス生徒たちが、一斉に武器を構えた。
狙いは――サオリ、ミサキ、ヒヨリ。
「歯向かう者には……相応の罰を」
マダムは、冷酷に微笑む。
「あなた達も……“材料”になりなさい」
銃口が向けられる。
サオリは歯を食いしばり、叫んだ。
「ミサキ! ヒヨリ! 構えろ!」
かつて仲間だった者たちが、敵として迫ってくる。
救済など、最初から存在しなかった。
ここにあるのは、搾取と破壊だけ。
――だが。
サオリは、銃を構えながら、低く呟く。
「……まだだ」
まだ、終われない。