最初に崩れたのは、秩序だった。
銃声でも、怒号でもない。
それらが鳴り響くよりも早く、空気そのものがひしゃげたような感覚が走り、次の瞬間、瓦礫で組まれた即席の遮蔽物が粉砕された。
「――っ!」
弾けた破片が雨のように降り注ぐ。
防御に回っていたヒナが即座に前へ出て、衝撃を身体で受け止めた。
ミカが、ゆっくりと歩き出す。
その一歩が、明確な殺意を伴っていることは、誰の目にも明らかだった。
「……」
引き金に掛けられた指。
銃口は、一直線にサオリを捉えている。
その瞬間だった。
乾いた連射音が空気を切り裂く。
「……っ!」
ミカの動きが、ぴたりと止まる。
弾丸は確かに彼女を捉えていた。
「……ヒナ!」
先生が叫ぶ。
ヒナはすでに構えを崩さず、冷静に引き金を引き続けていた。
「……今のうちに!」
その声に応えるように、左右から別の銃声が重なる。
マコトとカヨコだ。
二人は散開し、ミカを囲むように射撃を浴びせる。
交差する弾道が、逃げ道を塞ぐ。
だが――
「……あは」
小さな、笑い声。
煙の向こうで、ミカが立っていた。
被弾している。
確かに当たっている。
それでも、彼女は倒れない。
「……一人相手に三人ってなんかズルくない?」
その瞬間、ミカの視線が鋭く走る。
次の瞬間には、カヨコの方へと地面を蹴っていた。
「……っ!?」
カヨコは反射的に身を翻し、瓦礫の陰へと滑り込む。
だが、ミカは止まらない。
瓦礫へ――
そのまま突っ込んだ。
「なっ――!」
拳が振り抜かれる。
瓦礫ごと、空気が砕ける。
――ドン!!
鈍い衝撃音。
崩れた石塊が吹き飛び、その中心でカヨコの身体が宙を舞う。
「……っ」
声にならない息を吐き、地面に叩きつけられる。
そのまま、動かなくなった。
「カヨコ!!」
マコトの叫びと同時に、再び銃声が走る。
だが、ミカはもうヒナの方を見ていた。
「……」
ヒナの銃口だけは、意識的に避けている。
彼女の射撃には、当たらないように。
それ以外の弾は、気に留めることもなく。
牽制するようにヒナの周囲へ弾をばら撒きながら、
ミカは一直線にマコトへと迫る。
「……くっ!」
マコトも応戦する。
だが――
弾丸で、ミカを止められない。
「……っ」
距離が、詰まる。
そして。
――ゴッ!
蹴りが、容赦なくマコトの腹部に叩き込まれた。
「……が……っ」
身体が浮き、壁に叩きつけられる。
そのまま、ずるりと崩れ落ち、動かなくなる。
沈黙
残っているのは――
ヒナと、ミカだけだった。
ミカはゆっくりと振り返り、ヒナを見る。
「……ねえ」
声は、妙に穏やかだった。
「私もね、みんなを傷つけたくないんだよ?」
一歩、また一歩。
「だからさ……
……諦めてくれると、うれしいんだけどな~」
ヒナは歯を食いしばる。
肩で息をしながら、それでも銃を下ろさない。
「……先生!」
振り返らず、叫ぶ。
「サオリたちを連れて、下がってて!」
その声に、先生が一瞬だけ逡巡する。
だが、ヒナはもう前を向いていた。
ミカへ、歩み寄る。
「……」
ミカは、そんなヒナを見つめて、少しだけ首を傾げた。
「……ねえ、ヒナちゃん」
「……ヒナちゃんも黒夜を傷付けられて悲しいでしょ?」
「なのにどうして、黒夜を傷付けた奴らを守るの?」
その問いには、純粋な疑問が滲んでいた。
「ヒナちゃんみたいないい子がさ」
「……」
「どうして、こんな連中のために傷つくの?」
ヒナは答えない。
ただ、銃を構えたまま、距離を詰める。
その背後で。
「……先生」
ナギサが、慌てて言った。
「ヒナさんが足止めしている間に……一旦、撤退しましょう」
セイアも、静かに頷く。
「それがいい…ここで全滅するわけにはいかないからね」
先生は、唇を噛みしめる。
だが、ヒナの背中を見て、決断する。
「……分かった」
振り返り、サオリたちへ叫ぶ。
「行くよ!」
サオリ、ミサキ、ヒヨリ。
そしてナギサ、セイア、アズサ。
全員が、ヒナを振り返る。
ヒナは、こちらを見ない。
そのまま、ミカと向き合ったまま。
「……行って!」
その一言だけが、背中越しに届いた。
先生たちは、歯を食いしばりながら、その場を離れる。
瓦礫の向こうへ。
遠ざかる足音。
ミカは、それを追わない。
ただ、淀んだ瞳で――
撤退していく彼らの背中を、じっと見つめていた。
そして、再び視線を戻す。
目の前には、ヒナ。
「……」
静かに、笑う。
「……じゃあ」
「続き、しよっか」
その言葉とともに、
二人は再び、互いへと踏み出した。
瓦礫の間を吹き抜ける風が、微かな粉塵を舞い上げる。
ヒナは、ゆっくりと息を整えながら、銃を構え直した。
目の前にはミカがいる。
瓦礫を踏み砕き、まるで何事もなかったかのように立つ少女。
その瞳は、光を失い、底の見えない黒に沈んでいた。
「……」
ヒナは銃口を上げる。
それに応じるように、ミカもまた銃を構えた。
互いの銃口が、互いの胸元を捉える。
数秒
いや、体感ではもっと長かったかもしれない。
引き金に掛けた指に、僅かな力が籠もる。
そして――
ほぼ同時に、二人は動いた。
ヒナが先に撃つ。
そのまま、円を描くように足を運びながら、連続して射撃を重ねていく。
弾幕を張り、距離を保つための動き。
対するミカは、即座に遮蔽へと身を滑らせた。
瓦礫の影、崩れた柱、折れた壁。
弾丸を紙一重でかわしながら、少しずつ、確実に距離を詰めてくる。
「……」
ヒナは射撃を止めない。
ミカの進路を塞ぐように、的確に弾を置く。
前に出させないための牽制。
だが――
ミカは止まらない。
壁を殴りつけ、無理やり通り道を作り、その影から次の影へ。
ヒナは一歩下がり、また撃つ。
一定の距離を、必死に維持し続ける。
「……っ」
だが、その時だった。
ミカが、突然、動きを変えた。
遮蔽に飛び込むのではない。
――遮蔽を、殴った。
轟音
瓦礫が粉砕され、破片が四散する。
「――っ!」
ヒナは反射的に腕で顔を庇う。
だが、間に合わない。
砕けた石片が、容赦なく身体に叩きつけられる。
衝撃に、視界が揺れる。
「……っ」
足が止まった。
その、一瞬。
ミカは、もう目の前にいた。
「……!」
ヒナが銃を向け直すより早く、
ミカの片手が、銃身を掴み、強引に押さえ込む。
至近距離
互いの吐息が、はっきりと分かる距離。
「……ヒナちゃん」
ミカの声は、驚くほど静かだった。
「……」
「ヒナちゃんはさ……」
銃を押さえたまま、囁くように言う。
「黒夜を、あんな目に合わせた奴に……」
「……怒りが湧かないの?」
ヒナは歯を食いしばる。
「……悲しくないの?」
その問いに、ヒナは一瞬だけ目を伏せた。
そして、正直に口を開く。
「……正直に言うなら」
声は葛藤している様に震えていた。
「悲しいし……怒りも、あるわ」
その言葉に、ミカの瞳が僅かに揺れる。
ヒナは続けた。
「……でも」
「彼は、先生に託したの」
銃を押さえられたまま、それでも、真っ直ぐにミカを見る。
「彼女たちを……救ってくれ、って」
「……」
「それが、彼の意思なら」
「私は、それに従うわ」
その言葉が、静かに落ちる。
ミカは、しばらく何も言わなかった。
ただ、ヒナの顔を見つめて。
「……そっか」
ぽつり、と
悲しそうに呟いた。
次の瞬間。
――ドンッ
鈍い衝撃が、ヒナの腹部を打ち抜く。
躊躇は、ない。
ヒナの身体が折れ、力が抜ける。
「……っ!!」
声にならない息を吐き、その場に崩れ落ちる。
銃が、手から離れ、乾いた音を立てて転がった。
ヒナは、そのまま動かなくなった。
ミカは、倒れたヒナを見下ろす。
「……」
そして、小さく、囁く。
「……ごめんね、私は……」
視線を伏せたまま、言葉を続ける。
「ヒナちゃんみたいに……
……大人には、なれないみたい」
つい先ほどまで、銃声と破壊音が支配していた空間。
今は、風が吹き抜ける音だけが、やけに大きく耳に残る。
ミカは、立ち尽くしていた。
ヒナが倒れた場所から、ほんの数歩先。
先生たちが撤退していった方向を、淀んだ瞳で見つめたまま。
胸の奥で、様々な感情が渦巻いている。
怒り
悲しみ
憎しみ
そして、どうしようもない喪失感
――殺せば、楽になる。
そう思っていた。
何度も、何度も。
サオリたちを殺せば、この胸の穴は埋まる。
黒夜が受けた痛みも、流した血も、少しは報われる。
そう、信じようとしていた。
その時
ピピピピピ
場違いなほど軽い着信音が、瓦礫の隙間に響いた。
「……」
ミカは、動かない。
ポケットの中で、スマートフォンが震えているのが分かる。
だが、取り出そうとはしなかった。
今は、誰の声も聞きたくない。
――無視すればいい。
そう思い、視線を逸らす。
だが
数秒後
再び、ピピピピピピ、と。
同じ着信音が鳴った。
「……っ」
苛立ちが、胸を掠める。
誰なの?
今、このタイミングで。
ミカは乱暴にポケットへ手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。
画面を見るつもりはなかった。
ただ、切るために。
――そのはずだった。
だが
画面に表示された名前を見た瞬間。
ミカの思考は、完全に停止した。
『月城 黒夜』
「……え?」
喉から、間の抜けた声が零れる。
黒夜?
なんで?
意識不明だったはず。
生死の境を彷徨っていると、聞いていた。
なのに。
「……え、え……?」
一瞬で、無数の考えが頭を駆け巡る。
間違い?
誰かの悪戯?
それとも、夢?
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
結論は、出ない。
だが、この名前を見てしまった以上、
指はもう、引き返せなかった。
ミカは、恐る恐る通話ボタンを押した。
「……もし、もし……」
一瞬の沈黙
スピーカー越しに、聞き慣れた、けれど、どこか弱々しい声が響いた。
『……ミカ様、ですか?』
「……っ!」
息を、呑む。
間違いない。
聞き間違えるはずがない。
「……黒夜!?」
声が、裏返る。
「黒夜なの!?意識、戻ったの!?大丈夫なの!?」
『はい……』
少し、間を置いて。
『……先ほど、意識を取り戻しました』
その言葉を聞いた瞬間、
ミカの胸に溜まっていたものが、一気に溢れ出しそうになる。
「……っ」
だが、黒夜は続けた。
『それで……救護騎士団の方から、話を聞いたのですが……』
声は、相変わらず穏やかだった。
『私の為に……アリウスに、復讐に行ったと……』
「……あ……」
言葉が、詰まる。
胸が、締め付けられる。
何も、言えなかった。
黒夜は、責めることも、怒ることもなく、淡々と話を続ける。
『ミカ様……』
『私を思って、行動してくださり……ありがとうございます』
「……っ」
『ですが……』
黒夜の声が、少しだけ、強くなる。
『私から、ミカ様に……お願いがあります』
ミカは、何も言えない。
ただ、聞くことしかできない。
『私は……』
『優しいミカ様には……復讐なんて、似合いません』
『ずっと……ナギサ様や、セイア様と一緒に……笑っていて、欲しいのです』
その言葉で、ミカの抱えていた想いは、完全に壊れた。
涙が、静かに頬を伝う。
『あなたの笑顔を……守れなかった、護衛からの……お願いを……』
『……叶えて、くれますか?』
「……っ……」
嗚咽が、混じる。
ミカは、必死に声を絞り出した。
「……私……」
「私、復讐の為に……」
「みんなを……傷付けた……」
ヒナを
マコトを
カヨコを
先生を
「……ヒナちゃんたちも……先生たちも……」
「……みんなに、迷惑、かけちゃった……」
その言葉に、黒夜は即座に答えた。
『……大丈夫ですよ』
『私と、一緒に……謝りましょう』
『皆さん……とても、優しいですから』
『きっと……許して、くれますよ』
ミカは、震える声で問いかける。
「……黒夜は……」
「……私を……許して、くれる……?」
一瞬の間
『……もちろんですよ』
黒夜の声は、迷いがなかった。
『ミカ様』
その一言で。
ミカは、完全に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい……!」
嗚咽混じりに、叫ぶ。
「黒夜が……死んじゃうって……思って……!」
「……怖くて……!」
「……復讐に……走っちゃった……!」
瓦礫の上に膝をつき、泣きじゃくる。
黒夜は、優しく答える。
『……心配を、かけてしまって……申し訳ありません』
『次は……こんな事に、ならないように……します』
『これからも……あなたを、守る為に……』
「……うん……」
ミカは、何度も頷く。
「……うん……」
「……黒夜以外には……」
「……守られたく、ない……」
その言葉に、黒夜は、少し困ったように、微笑んだ声で答えた。
『……それは……困りましたね』
けれど、続けて。
『……でも』
『……精一杯、努めさせて、いただきます』
通話は、そこで終わった。
ミカは、スマートフォンを胸に抱きしめる。
瓦礫の中で。
戦場の中心で。
ただ一人、泣き続ける。
ミカの復讐は、ここで終わった。
怒りも、憎しみも、消えたわけではない。
それでも。
黒夜の言葉が、
ミカの引き金に掛かっていた指を、確かに止めた。
その場に響くのは、
独りの少女の嗚咽だけだった。