トリニティの医療棟、その一室。
夜であるにもかかわらず、白い照明に満たされた病室は、昼間のように明るかった。
ベッドに横たわる黒夜は、上半身だけを少し起こし、集まっている面々を見渡していた。
ナギサ、セイア、ミカ、アズサ、そして先生。
ここに至るまでの出来事を思えば、この光景そのものが奇跡のようにも思える。
先生は一度咳払いをすると、場を仕切るように口を開いた。
「……じゃあ、改めて話そうか。
サオリたちの件、そしてこれからのことを」
その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まる。
ミカは腕を組んだまま視線を逸らし、ナギサとセイアは静かに先生の言葉を待っていた。
アズサは少し緊張した様子で背筋を伸ばしている。
――その時だった。
「……あの」
黒夜の、少し控えめな声が病室に響いた。
全員の視線が、自然と彼に向けられる。
「話の途中で申し訳ないのですが……
そういえば、マコト様たちはどちらに?」
その言葉に、先生は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次の瞬間「あー……」と微妙な声を漏らした。
黒夜はその反応に小さく首を傾げる。
「……?」
先生は視線を泳がせるようにして、ゆっくりとミカの方を見た。
それにつられるように、黒夜もミカへと視線を向ける。
ミカは――
罰が悪そうに、ほんの少し肩をすくめ、指先をもじもじと弄りながら目を伏せていた。
「えっと……その……」
言い淀むミカに、黒夜はますます困惑した表情を浮かべる。
「ミカ様……?」
呼ばれて、ミカは観念したように小さく息を吐いた。
「……わ、私が……殴って……気絶させちゃった……」
その言葉は、驚くほど小さく、消え入りそうな声だった。
一瞬、病室の時間が止まったかのように感じられる。
「……」
黒夜は、言葉を失ったまま瞬きを繰り返す。
「……殴って……?」
「……うん……」
「……気絶……?」
「……させちゃった……」
やり取りのたびに、ミカの声はどんどん小さくなっていく。
黒夜は、恐る恐る、しかしはっきりと問いかけた。
「……えっと……
ひとり、では……なく?」
ミカは、ぎゅっと指を握りしめ、か細い声で答えた。
「……三人とも……」
「…………三人とも、ですか?」
「……三人とも……」
完全に確認が取れた瞬間、黒夜の思考は一瞬フリーズした。
――ヒナ
――マコト
――カヨコ
いずれも一線級の戦闘能力を持つ生徒たちだ。
それを、たった一人で――しかも「殴って」気絶させた。
黒夜は、思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。
「……それは……」
言葉を選びかねている黒夜を見て、ナギサが一歩前に出た。
「安心してください、黒夜さん」
落ち着いた声でそう告げると、彼女は淡々と補足する。
「先ほど、救護騎士団による検査はすでに済んでいます。
三名とも重篤な外傷はなく、単なる気絶とのことでした。
安静にしていれば、そう時間はかからず回復するでしょう」
その説明に、黒夜はほっと息を吐いた。
「……それを聞いて安心しました……」
ナギサは一度頷くと、さらに続ける。
「ちょうどこの病室には、空きベッドが三つありましたので。
念のため、黒夜さんと同じ部屋で経過観察を行っています」
そう言いながら、ナギサは黒夜にも見えるように、少し横へと身体をずらした。
その先にあったのは――
三つ並んだベッド。
そこに横たわる、見慣れた三人の姿。
ヒナは深く静かな寝息を立て、いつもの鋭さを感じさせない穏やかな表情をしている。
マコトは帽子を外され、珍しく無防備な顔で眠っていた。
カヨコもまた、普段の雰囲気とは違い、すっかり力を抜いて眠っている。
その光景を目にした瞬間、黒夜は完全に状況を理解した。
――本当に、ミカが三人を倒したのだ。
理解が追いついた黒夜は、しばらく言葉を失っていたが、やがてぽつりと、少しずれた感想を口にした。
「……すごい……ですね……」
その言葉に、ミカはびくっと肩を震わせる。
「す、すごくないよぉ……」
ミカは顔を赤くし、今にも泣き出しそうな表情で俯いた。
「私……みんなを傷つけたくなかったのに……
気づいたら……手が止まらなくて……」
「ミカ様……」
黒夜は、どう声をかけるべきか迷いながらも、彼女を見つめた。
ミカは「うぅ……」と小さく唸り、完全に反省モードに入っている。
その様子を見て、先生は小さく息を吐いた。
この場にいる全員が、命を落とさずに済んだ。
それだけでも、奇跡に近い。
先生は改めて黒夜に視線を戻し、穏やかな声で言った。
「……というわけで、少し騒がしい病室になってるけど。
全員、無事だよ」
黒夜はその言葉を噛みしめるように聞き、静かに頷いた。
「……本当に……
取り返しのつかない事態にならなくて……良かったです……」
その言葉には、心からの安堵が滲んでいた。
――そして、この後に続く“本題”が、静かに始まろうとしていた。
――病室の空気が、わずかに張り詰めた。
「……入っておいで」
先生のその一言を合図に、扉が静かに開く。
そこから姿を現したのは、サオリ、ミサキ、ヒヨリの三人だった。
戦闘服を身に纏ったままの彼女たちは、揃って硬い表情をしている。
病室に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのを誰もが感じた。
ミカは無言のまま三人を見つめ、ナギサとセイアは警戒を解かず、しかし追い払うこともしない。
アズサは一瞬だけサオリたちに視線を向け、すぐに俯いた。
そして――ベッドに横たわる黒夜は、彼女たちを見て、ほんの一瞬だけ口を開きかけた。
(……何か、言うべきだろうか)
そう考えた黒夜だったが、すぐにその思考を止める。
サオリたちの表情は、ただの緊張ではなかった。
そこにあったのは、後悔と、自責と、そして覚悟。
――これは、取り繕った言葉をぶつける場ではない。
そう察した黒夜は、静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「……大丈夫ですよ」
その一言に、サオリたちの肩が、わずかに揺れる。
「私はこうして生きていますし……
あなた達も、殺人犯になったわけではありません」
黒夜は、包帯に覆われた身体のまま、穏やかな声音で続ける。
「取り返しのつかない事態には、なっていません。
ですから……大丈夫です」
その言葉は、慰めというより、事実を淡々と告げるような響きだった。
だが、それが逆にサオリの胸を強く打った。
「……どうしてだ」
低く、絞り出すような声。
サオリは拳を握りしめ、黒夜を真っ直ぐに見据えた。
「どうして……
お前を殺そうとした私たちを、そこまでして救おうとするんだ?」
純粋な疑問だった。
怒りでも、皮肉でもない。
――理解できない、という感情そのもの。
その問いに、黒夜はすぐには答えなかった。
一度、小さく息を吸い、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……以前の私と、同じになってほしく無かったんです」
その言葉に、サオリたちは息を呑む。
黒夜は視線を少し落とし、静かに語り始めた。
「誰も信用できなくて……
一人で耐えて……
そして、間違いを犯してしまう」
淡々とした語り口だったが、その一言一言には、実体験の重みがあった。
「そんな……悲しい日々を、あなた達に過ごしてほしくないと思ったんです」
病室に、沈黙が落ちる。
黒夜は顔を上げ、先生、ナギサ、ミカ、セイア、ヒナ、マコト、カヨコへと視線を向けた。
「私が……その辛い日々を送っていた時、救ってくれたのは……
ここにいる皆さんでした」
その言葉に、先生は小さく目を細め、ナギサは静かに息を吸う。
ミカは、何も言わずに黒夜を見つめていた。
「だから……」
黒夜は再びサオリたちへと向き直る。
「あなた達を見た時……
私も、救いたくなったんだと思います」
その言葉は、正論でも、義務でもなかった。
ただの、個人的な感情だった。
――だからこそ、重い。
先生は、その言葉を聞いて、胸の奥で思った。
(……ああ。やっぱり、救ってよかった)
あの時、迷いながらも手を差し伸べた判断は、間違っていなかった。
サオリは、しばらくの間、何も言えずに立ち尽くしていた。
ミサキもヒヨリも、言葉を失っている。
やがて――サオリは、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまない」
短く、しかし重い一言。
「私は……本当に、愚かなことをしたと思っている……」
その声は震えていた。
ミサキは、唇を噛みしめながら一歩前に出る。
「……バカな、私たちのせいで……
ケガ、させちゃって……ごめんね……」
それだけ言うと、彼女は顔を伏せた。
そして――
「ごめんなさいぃぃぃ!!」
ヒヨリは堪えきれず、その場で号泣しながら頭を下げた。
「私たち……何も考えずに……
全部、壊して……
本当に……ごめんなさいぃぃ!!」
嗚咽混じりの謝罪が、病室に響く。
その光景を見て、黒夜は慌てたように声を上げた。
「……あ、あの……!」
少し身を起こしながら、必死に言葉を続ける。
「お互いに……生きているんです。
だから……頭を上げてください」
そして、柔らかく微笑んだ。
「それだけで……今は、十分ですから」
その言葉に、サオリたちはゆっくりと顔を上げる。
サオリは、今度は先生たちへと向き直り、深く頭を下げた。
「……調印式を……台無しにしてしまって……
本当に、すまなかった」
その謝罪に、先生は少し考えた後、はっきりと答えた。
「……うん。
僕は、許すよ」
即答だった。
ナギサは腕を組み、静かに言葉を選ぶ。
「罪が消えるわけではありません。
ですが……償うことは、できると私は思います」
セイアは肩をすくめ、軽い口調で締めた。
「償う機会はね。
誰にでも、平等に訪れるべきだと思っただけさ」
そのやり取りを、ミカは無言で見つめていた。
許すとも、拒絶するとも言わない。
ただ、冷静にサオリたちを見ている。
――許してはいない。
――だが、敵対もしない。
そんな視線だった。
病室の空気は、まだ完全に和らいだわけではない。
だが確かに、ひとつの区切りはついた。
謝罪が受け入れられ、表面上の緊張は解けた。
だが、それは終わりではない。
むしろ――ここからが本題だった。
サオリは、しばらく俯いたまま動かなかった。
その様子に、ミサキとヒヨリが不安そうに視線を送る。
やがてサオリは、意を決したように一歩前に出た。
「……もう一つ、話さなければならないことがある」
その声は低く、震えてはいなかった。
だが、覚悟を固めた者特有の硬さがあった。
先生は黙って頷き、続きを促す。
ナギサも、セイアも、ミカも、静かに耳を傾ける。
黒夜もまた、嫌な予感を覚えながらサオリを見つめていた。
「……私たちの仲間の秤アツコが」
その名前が出た瞬間、アズサの肩がびくりと跳ねた。
「今も……アリウス自治区にいる。
正確には――マダムの手に捕らえられている」
病室に、重苦しい沈黙が落ちる。
「……捕らえられている、とは?」
ナギサが静かに問い返す。
サオリは一度、唇を噛みしめてから、続けた。
「マダムは……
アツコを、自分が“崇高に至るための儀式”に使うと言った」
その言葉の意味を、ここにいる全員が即座に理解した。
「……生贄に使うとも言っていた」
ミサキが絞り出すように言う。
ヒヨリは、すでに顔色を失っていた。
「このままでは……
アツコは、確実に死ぬ」
その断言に、空気が凍りつく。
サオリは、そこで一度、深く息を吸った。
そして――
突然、その場に膝をついた。
「……お願いだ」
そのまま、床に額がつくほど深く頭を下げる。
「どうか……アツコを助けるのに、力を貸してほしい」
驚きに、誰もすぐには言葉を発せなかった。
「……これは、私の我儘だと分かっている」
サオリの声は震え始めていた。
「私たちは……
調印式を壊し、あなた達を傷つけ、
月城黒夜を……殺しかけた」
ミカが、ぎゅっと拳を握る。
「それでも……」
サオリは頭を下げたまま、言葉を続ける。
「それでも……
アツコだけは……
姫だけは、助けたい……!」
その叫びは、取り繕いのない、本心だった。
ミサキも、ヒヨリも、遅れてその場に膝をつく。
「お願い……!」
「アツコちゃんを……助けてください……!」
三人が並んで土下座する光景に、病室は静まり返った。
その様子を見て、黒夜の胸が締め付けられる。
(……これは)
――放っておける光景ではなかった。
黒夜は、ゆっくりと上半身を起こした。
「……先生」
その声に、全員の視線が集まる。
「……彼女たちは」
黒夜は一度、サオリたちを見つめてから、先生たちへと視線を戻す。
「マダムに、利用されていただけなんです」
その言葉に、サオリの肩が大きく揺れた。
「自分たちがしていることが、どんな結果を生むのか……
本当の意味では、理解させてもらえなかった」
黒夜の声は、静かだが確信に満ちていた。
「……私も、似たようなものですから」
自嘲気味に、ほんの少し笑う。
「だから……どうか」
黒夜は、先生を見据えた。
「彼女たちの仲間を……
秤アツコを、助けてあげてくれませんか?」
その言葉は、嘆願だった。
病室に、再び沈黙が落ちる。
先生は、目を閉じ、少しだけ考え込む。
ナギサは眉を寄せ、セイアは腕を組み、ミカはサオリたちをじっと見つめていた。
そして――
先生は、ゆっくりと口を開いた。
「……サオリ」
名を呼ばれ、サオリは顔を上げる。
「アツコを助けたら……
君たちは、逃げないね?」
サオリは、即座に答えた。
「……逃げない」
迷いのない声だった。
「罪からも、責任からも……
必ず、向き合う」
先生は、その目を見て、頷いた。
「……分かった」
その一言に、ヒヨリが息を呑み、ミサキの目が見開かれる。
「僕も……秤アツコを、助けるのに協力しよう」
それは、大人としての決断だった。
ナギサは深く息を吸い、静かに言う。
「……トリニティとしても、その方の行為は看過できません」
セイアは軽く肩をすくめる。
「命を奪う儀式なんて、趣味が悪すぎる」
そして――
ミカは、しばらく沈黙した後、サオリたちを見下ろすように言った。
「……勘違いしないでね」
冷たい声音。
「私が協力するのは、黒夜の頼みだから」
サオリの背筋が伸びる。
「あなた達を許したわけじゃない」
その瞳に、一瞬だけ殺気が宿る。
「……でも」
ミカは、視線を逸らした。
「その子が、あなた達にとって大切な存在なのは……
分かるから」
その言葉に、サオリの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……感謝する」
震える声で、そう告げる。
黒夜は、その様子を見て、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
(……よかった)
まだ、すべてが解決したわけではない。
だが、確かに――道は繋がった。
先生は全員を見回し、静かに宣言する。
「じゃあ……決まりだ」
「――秤アツコを、救いに行こう」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
病室に、静かな決意が満ちていく。
こうして――
物語は次の段階へと進む。
“救う側”として、再び戦場へ向かう覚悟を胸に。