病室に集まった面々を見回し、先生は一度小さく咳払いをした。
「……じゃあ、アツコを助けるための作戦会議を始めようか」
その言葉に、空気が引き締まる。ナギサたちやサオリたちも、自然と背筋を正した。だが、次の瞬間、先生はふと周囲を見渡し、苦笑する。
「あー……ただ、ここ病室だったね。さすがに詳しい話をする場所じゃないか」
機材音が微かに響き、消毒薬の匂いが漂うこの空間で、作戦会議というのは確かに不釣り合いだった。
「別室に移動しよう。細かい話はそこでしようか」
先生の提案に、ナギサが一歩前に出る。
「ええ、その方がよろしいですね」
そして一瞬だけ視線を黒夜に向け、言葉を続けた。
「ただ……少しだけ、黒夜さんとお話ししたいことがあります。先に別室へ向かっていただいてもよろしいでしょうか?」
その声音は穏やかだったが、明確な意志がこもっていた。先生はすぐに察し、頷く。
「わかった。じゃあ、僕たちは先に行こう」
そう言って踵を返すと、アズサ、サオリ、ミサキ、ヒヨリに目配せをする。
次々と病室を出ていく中、黒夜はベッドの上から先生に声を掛けた。
「先生」
呼び止められ、先生は振り返る。
「私は……今は動けませんが」
黒夜は一度言葉を選び、静かに続けた。
「どうか、サオリさん達と……アツコさんのことを、よろしくお願いします」
その声音には、迷いはなかった。自分が行けないことへの無力感よりも、託すことを選んだ覚悟がにじんでいた。
先生は少しだけ目を細め、優しく答える。
「わかった。任せて」
そして付け加えるように、
「君は今は、自分の怪我を治すことに専念するんだ。それも立派な役目だからね」
黒夜は小さく微笑み、はい、と答えた。
扉が閉まり、病室には静けさが戻る。
残されたのは、ベッドに横たわる黒夜と、ナギサ、ミカ、セイアの三人だけだった。
数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのはナギサだった。
「……では、改めてお聞きします」
彼女は椅子に腰掛けながら、真剣な眼差しを向ける。
「黒夜さん。怪我の具合は、本当に大丈夫なのですか?」
続けてミカが身を乗り出す。
「そうだよ! あんな爆発に巻き込まれて、ただで済むわけないじゃん。どこまで怪我してるの?」
セイアも腕を組み、軽い調子を装いながらも視線は鋭かった。
「完治までどれくらいかかるのか、正確に聞いておきたいね。君は少々、無理をし過ぎる癖がある」
三方向から注がれる視線に、黒夜は一瞬だけ息を整えた。
「……ミネ団長から、詳しい話は聞いています」
そう前置きし、彼は事実だけを丁寧に並べていく。
「左腕は骨折していますが、固定していれば一ヶ月ほどで治るそうです。上半身の裂傷や打撲も、同じくらいの期間で回復すると
頭の怪我も、深刻ではありません。しばらく安静にしていれば問題ない、と」
淡々とした説明に、三人は耳を傾けていた。
だが、ナギサがふと視線を上げる。
「……では、その包帯は?」
黒夜の頭部、そして顔の左目まで覆う白い包帯を見つめながら、静かに問いかけた。
「頭だけでなく、左目まで覆われていますが……」
その瞬間、黒夜は無意識に右手を首元へと伸ばしていた。
「あ……これは」
ほんの一拍の間。
「顔の左側にも細かい裂傷がありまして。その保護のために巻いているだけです」
自分でも気づかぬうちに、言葉は自然に口をついて出ていた。
「右目がありますから視界には問題ありません。大丈夫ですよ」
その答えに、三人の表情がほぐれる。
「……そうですか
でしたら、よかったです。本当に……」
ナギサは安堵したように微笑んだ。
ミカも大きく息を吐き、
「もう心配させないでよね、ちゃんと治して、早く元気な顔見せてよ!
私、待ってるから!」
と、明るく言う。
その言葉は疑いのない真っ直ぐな願いだった。
セイアは肩をすくめ、軽く笑う。
「まぁ、たまにはゆっくり休むのも大事だろう。君は今回、少々働き過ぎだ」
そして冗談めかして続けた。
「安心したまえ。君が復帰するまでの穴は、ミカが埋めてくれるさ」
「ちょっと!? 私も守られる側なんだけどー!?」
すかさずミカが噛みつく。
「えぇ? その怪力でかい?」
「それとこれとは別でしょ!」
軽口の応酬に、病室の空気が少しだけ和らぐ。
黒夜はそのやり取りを眺めながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「では、黒夜さん」
ナギサが立ち上がり、穏やかに言う。
「どうか、ゆっくり休んでください。私たちが戻るまで」
三人はそれぞれに頷き、病室を後にする。
扉が閉まり、再び静寂が訪れた。
黒夜は天井を見つめながら、そっと目を閉じる。
(……今は、これでいい)
黒夜はベッドに身を沈め、浅く息を吐いた。
(……ですがまた、嘘をついてしまいましたね)
胸の奥で小さく呟きながら、彼は目を閉じる。
だが、今は仕方がない。
このタイミングで真実を告げることが、誰かを救うとは思えなかった。
(いつか…必ず打ち明けよう
だが、今は体力を回復させなければ…)
体力の消耗は自覚していた。
意識を取り戻したばかりの身体は、思っていた以上に脆く、重い。
やがて、黒夜の呼吸はゆっくりとした寝息へと変わっていった。
その少し後。
――かすかな衣擦れの音。
病室の隅で、ひとつの影が静かに動き出した。
カヨコだった。
足音を殺し、呼吸すら抑えながら、彼女は慎重に身を起こす。
その動きに、眠る黒夜が反応することはない。
黒夜は気づいていなかった。
ナギサたちと会話していた、あの時すでに――
カヨコは目を覚ましていた。
気絶から回復した直後、状況を把握し、あえて薄目で状況を確認しつつ、
狸寝入りのまま、すべてを聞いていた。
(……やっぱり)
黒夜が左目の包帯について尋ねられた瞬間。
無意識に首元へ伸びた、あの右手。
――見逃すはずがなかった。
――あの癖
カヨコは、ほんの一瞬だけ、口元を歪める。
黒夜が何かを決意し、嘘をつくときに必ず見せる癖。
ゲヘナにいた頃、何度も何度も注意した動作。
『それ、出るときは大体ロクなことじゃないんだから、直した方がいいよ』
そう言って、彼の首元から手を叩き落とした日のことを思い出す。
(……まだ、直ってないじゃん)
一瞬だけ、微かな愛おしさが胸をかすめた。
だが、それはすぐに、凍りつくような結論に置き換わる。
癖が出た話題は何だった?
――左目まで包帯をしているが、本当に大丈夫なのか。
その問いに対しての、あの動作。
(つまり……)
カヨコは、黒夜の眠る顔を見つめる。
包帯に覆われた左側。
そこに、もう視界が存在しない可能性。
(もう左目は……)
口に出すことすら躊躇われる事実。
喉の奥が、ひどく渇いた。
その時。
「……っ」
微かなうめき声が、別のベッドから聞こえた。
ヒナだった。
続いて、マコトもゆっくりと身動ぎする。
二人もまた、遅れて意識を取り戻したのだ。
カヨコは、音を立てないように近づき、静かに二人へ視線を送る。
状況を察したヒナは、無言で頷き、マコトも同様に息を殺した。
三人は、眠る黒夜を起こさないよう、ベッドの側に集まる。
そして――
カヨコは、極力声を落とし、短く告げた。
「……黒夜の左目、多分だけど……」
言葉を選びきれず、だが誤魔化しもせず。
「失明してる」
一瞬、空気が凍りついた。
マコトは、目を見開き、理解を拒むように首を振る。
「……なぜ、こんなことが」
震える声で呟き、次の瞬間。
「どうして……」
拳を握り締め、歯を食いしばる。
「私が……判断を誤ったからなのか……?」
その表情は、絶望そのものだった。
すべて自分の責任だと、心の底から信じている顔。
ヒナは、無言で立ち尽くしていた。
黒夜の左目の包帯を、じっと見つめながら。
やがて、彼女の右手が、ぎり、と音を立てる。
拳を強く握り締めすぎて、皮膚が裂け、血が滲んでいた。
それでも、ヒナは力を緩めない。
震える指が、ゆっくりと自分の銃へ伸びる。
(……殺す)
脳裏をよぎる衝動。
黒夜をこうした存在への、純粋で危険な怒り。
ミカが一度踏み込んだ、その地獄。
(……ダメ)
ヒナは必死に自分を抑え込む。
今ここで、感情に身を任せれば。
彼が命を懸けて止めた復讐の連鎖を、自分が再び始めてしまう。
歯を食いしばり、銃から手を離す。
そして、震える息を吐いた。
一方、カヨコは、力が抜けたようにベッドへ倒れ込む。
シーツを掴む手が、小刻みに震える。
「……だから、嫌いなんだ」
声にならない声。
「誰も……守れない」
自嘲が滲む。
「結局、何もできない……弱い自分が……」
悔しさが胸を締め付け、視界が滲む。
涙は音もなく溢れ、頬を伝ってシーツに落ちた。
三人とも、眠る黒夜を起こすことはしなかった。
彼は、何も知らず、静かに眠っている。
その寝顔が、あまりにも穏やかで。
だからこそ――
彼女らの胸に刻まれた喪失は、深く、重かった。
病室に残された空気は、重く澱んでいた。
後悔
怒り
悲しみ
三つの感情が、行き場を失ったまま、マコト・ヒナ・カヨコの胸の中で渦巻いている。
眠る黒夜の寝息だけが、その沈黙をわずかに揺らしていた。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
しばらくして――
マコトが、ふと視線を動かす。
黒夜のベッド脇。
小さな棚の上に、慎ましく置かれている一丁の銃。
漆黒のピースメーカー。
ゲヘナの校章が刻まれたそれは、かつて自分たちが黒夜へと贈ったものだった。
マコトは、その銃から目を離さぬまま、低く口を開いた。
「……なぁ、ヒナ、カヨコ」
二人が、静かに視線を向ける。
マコトの瞳には、もはや迷いはなかった。
そこに灯っているのは、冷静さを取り戻した決意の光。
「黒夜が願ったから、アリウスのサオリたちは救う」
それは、断定だった。
「彼の願いだからだ」
一拍置き、声を低くする。
「だが――」
ピースメーカーを、じっと見つめながら。
「サオリたちに指示を出し、裏で利用した奴まで救えとは、黒夜は一言も言っていない」
病室の空気が、張り詰める。
「もし、そいつが私たちの目の前に現れた時……どうする?」
ヒナは、目を閉じた。
一瞬の沈黙。
そして、静かに、淡々と答える。
「……殺す」
感情を交えない、あまりにも真っ直ぐな答えだった。
続いて、カヨコが口を開く。
「八つ裂き」
即答だった。
そこに躊躇はない。
その言葉を聞いて、マコトは小さく、フッと笑った。
「……だろうな」
笑みは、どこか自嘲めいている。
「私も、同じことを考えていた」
だが、すぐに表情を引き締める。
「だがな」
ヒナとカヨコを、真正面から見据える。
「それを成した時、最終的に悲しむのは誰だ?」
二人は、すぐに答えられなかった。
答えは、あまりにも明白だったからだ。
「……黒夜だ」
マコトは、低く続ける。
「私たちがやれば、私たちが背負う。だが、黒夜は“救えなかった命”として、それを背負うことになるだろう」
ヒナは、ゆっくりと目を開く。
カヨコは、唇を噛みしめる。
二人とも、ようやく冷静さを取り戻し始めていた。
マコトは、そこで一歩踏み込む。
「それでもだ」
声に、抑えきれぬ怒りが滲む。
「黒夜がここまでの怪我を負わされて、何もせずにいろと言われて、私は従えない」
拳を握り締める。
「腸が煮えくり返る」
視線を、眠る黒夜へと向ける。
「だから――サオリたちを使って裏で手引きした奴には、ゲヘナの流儀で借りを返す」
それは宣言だった。
復讐ではない。
だが、許しでもない。
マコトは、二人を見渡し、真剣な表情で続ける。
「まずは状況確認だ。私たちが気絶している間に、何が起きたのか」
そして、結論を下す。
「一旦先生を探す。そこで、我々の立場をはっきりさせる」
踵を返す前、マコトはもう一度、黒夜を一瞥した。
眠るその顔に、深い後悔が浮かぶ。
「……すまない」
誰に向けた言葉かは、分からない。
マコトは、そのまま病室を後にした。
ヒナも、しばらく黒夜を見つめてから、無言で立ち上がる。
銃に触れそうになった手を、強く引き戻し。
自制を、己に叩き込むように。
彼女もまた、病室を出ていった。
最後に残ったのは、カヨコだった。
彼女は、ベッド脇に歩み寄り、漆黒のピースメーカーを手に取る。
その重みを、確かめるように。
「……黒夜」
小さく、囁く。
「少し、借りてく」
それは、勝手な行動だった。
だが、彼女なりの誓いでもあった。
「ちゃんと……返すから」
眠る黒夜は、何も答えない。
カヨコは、彼に背を向け、ヒナとマコトの後を追った。
病室には、再び静寂が戻る。
そして、黒夜は知らない。
自分が救おうとした世界の裏側で、
自分のために、静かに牙を研ぐ者たちがいることを。
それでも彼らは、同じ誓いを胸に抱いていた。
――黒夜の願いだけは、決して裏切らない。
病室には、誰にも届かない沈黙だけが残されたまま、
夜は、静かに更けていくのだった。