意識が浮上したのは、静かな光の中だった。
黒夜はゆっくりと瞼を開ける。
窓から差し込む朝日が、白い天井を柔らかく照らしていた。
「……朝、か」
寝ぼけた声が、静かな病室に溶ける。
体を少し動かすと、まだ鈍い痛みはあるが、昨日のような重苦しい倦怠感は薄れていた。
一晩眠っただけで、ここまで違うのかと小さく息を吐く。
壁に掛けてある時計に目をやる。
――午前六時――
「随分、早起きしてしまったな」
黒夜は深く息を吸った。
生きている。
それだけで、十分だ。
左腕に目をやる。
しっかりと固定されている。
三角巾を器用に使い、慎重に位置を整える。
痛みはあるが、動かさなければ耐えられる程度だ。
「……よいしょ」
ゆっくりと上半身を起こし、足を床につける。
立ち上がる瞬間、ふらりと揺れたが、すぐに体勢を整える。
(大丈夫そうだ)
自分に言い聞かせる。
ゆっくり、ゆっくりと窓辺へ歩く。
カーテンを少し開くと、トリニティの朝が広がっていた。
整然と並ぶ校舎。
静かな庭園。
朝露に光る芝生。
清らかで、穏やかで。
まるで昨日の騒乱など嘘のようだった。
「……穏やかで、いい景色だな」
思わず漏れた本音。
眩しい朝日が顔を照らす。
右目は光を感じる。
温かさを、確かに。
だが――
左側からは、何も来ない。
光も、影も、色も。
「……」
一瞬、わずかな期待を抱いた。
もしかしたら。
奇跡のように。
少しは見えるのではないかと。
だが、視界の左半分は完全な空白だった。
闇ではない。
黒でもない。
ただ、何もない。
「……そりゃそうですよね」
蒼森ミネの言葉がよみがえる。
――左目については……治る事は無いと思ってください。
あの時の、ほんの少し悔しそうな表情。
黒夜はそっと目を閉じた。
(失明か…)
再認識する。
自分の左目は、もう機能しない。
だが、驚くほど、心は静かだった。
(不思議ですね)
もっと取り乱すと思っていた。
絶望すると思っていた。
だが今あるのは――
少しの寂しさと、わずかな諦観。
そして、ほんの少しの安堵。
(命が助かったのですから)
守れなかったかもしれない。
間違えたかもしれない。
だが、生きている。
それ以上を望むのは贅沢だ。
黒夜はもう一度、景色を眺めた。
その時だった。
視界の端――正門のあたりに、違和感が走る。
「……?」
目を細める。
遠い。
だが、見慣れない影が並んでいる。
黒い鋼鉄の塊。
大きな砲塔。
低く唸るエンジン音。
「……あれは」
息を呑む。
「ゲヘナの……戦車?」
しかも一両ではない。
複数
整然と並んでいる。
その周囲には――黒い制服に赤い腕章。
「風紀委員会……?」
どうして?
なぜここに?
それも、こんな大人数で。
さらに視線を凝らす。
正門前で、何やら動きがある。
黒い制服の一団。
トリニティの正義実現委員会だ。
どうやら――揉めている様子だ。
距離があるため詳しくは分からないが、明らかに緊張状態だ。
戦車。
風紀委員会。
正義実現員会。
傍から見ると一触即発の構図。
「……どういう、ことですか」
胸がざわつく。
(まさか……)
黒夜は一歩踏み出した。
今、ここで揉め事が起きれば。
最悪、銃撃戦になる。
トリニティとゲヘナが、再び火花を散らす。
エデン条約はどうなる。
せっかく結ばれかけた和平は。
「……止めなければ」
咄嗟の判断だった。
ならば、仲裁すべきは自分だ。
ドアへ向かおうとした瞬間。
「――どこへ行くつもりですか」
低く、冷静な声。
振り向くと、蒼森ミネが立っていた。
腕を組み、無表情でこちらを見ている。
「ミネ団長……」
「まさかとは思いましたが、本当に行く気でしたか?」
黒夜は正直に答える。
「正門で揉めているようです。私が行けば多少は……」
「無理です」
即答だった。
「ですが――」
「昨夜あなたは死にかけたのですよ?」
その声は、静かだが強い。
「左腕骨折。頭部外傷。裂傷多数。大量出血。左目の失明。あなたが立っているだけで奇跡に近いのです」
黒夜は口を閉じた、正論だ、分かっている。
分かっているからこそ、反論できない。
「無茶を言っているのは自覚しています」
「ならば大人しくしてください」
きっぱりと。
逃げ道を塞ぐように。
黒夜は窓の外を見た。
戦車の影。
ゲヘナの黒とトリニティの黒。
ぶつかり合う二つの学園。
自分は何もできない。
争って欲しく無いのに。
現場に行く事すら、満足にできない。
拳を握る。
悔しさが込み上げる。
「……歯がゆいですね」
ぽつりと漏らす。
ミネはそれを聞き、わずかに視線を和らげた。
「妥協案があります」
「……?」
「車椅子で、私が押していくなら」
黒夜は驚いたように顔を上げる。
「現場に行っても構いません」
「本当ですか?」
「ただし、絶対に無理はしないこと。私の指示に従うこと。勝手に立たないこと」
三つ、指を立てる。
「守れますか?」
黒夜は小さく笑った。
「救護騎士団団長の指示とあらば」
「……まったく」
ミネは小さくため息を吐く。
「仕方ない人ですね」
すぐに車椅子が用意される。
黒夜は慎重に座らせられる。
包帯越しに、朝の風が頬を撫でる。
車輪が回る。
病室の廊下を進む。
白い壁。
遠くで鳴る足音。
「本当に、じっとしていられないのですね」
ミネがぼそりと呟く。
黒夜は前を見たまま答える。
「性分です」
「困った性分ですね」
「よく言われます」
ミネは小さく笑った。
その笑いは、わずかに温かい。
トリニティの校舎を抜け、外へ出る。
朝の空気が冷たい。
だが、どこか張り詰めている。
遠くで聞こえるエンジン音。
重たい機械音。
風紀委員会の怒号。
正実の警戒の声。
静かな朝は、もう終わっていた。
黒夜は正門を見据える。
「……一体、何が起きているんだ?」
ミネは車椅子を押しながら答える。
「とりあえず行ってみましょう」
その言葉に、わずかな力が宿る。
そして二人は――
騒然とする正門へと、向かっていった。
◆
正門へ近づくにつれ、空気が変わっていくのが分かった。
朝の澄んだ冷気の中に、鋭い緊張が混ざっている。
怒声、足音、金属が擦れる音――遠巻きのざわめき。
ミネが車椅子を押す速度を少し落とした。
「……騒がしいですね」
「えぇ。嫌な予感がします」
黒夜は窓から見た光景を思い出しながら、正門の方向を見据える。
門の前には既に人の輪がいくつもできていて、その中心に、黒い鋼鉄の塊が鎮座している。
ゲヘナの戦車。
ハッチが開き、そこから顔を出している少女が一人――棗イロハだ。
眠そうに目を細め、気怠げに欠伸をしながら、正門を塞ぐように立つトリニティ生へ視線を投げている。
対するトリニティ側は、正義実現委員会の集団。
先頭に立つのは、羽川ハスミ。
背筋を伸ばし、凛とした眼差しでイロハを睨みつけている。
二人の言い争いの声が、風に乗って徐々に届き始めた。
「……ですから。私たちは、別に争いに来たわけじゃないんですよ」
イロハの声は、淡々としている。
面倒事を少しでも早く片付けたい、という気配が滲んでいた。
「仲間が殺されかけたので来ただけです。トリニティに攻撃する気もありません。だから、その……そこ、通してください」
「通せません!」
ハスミの声が鋭く返る。
「ゲヘナの部隊が来るなんて話、上から聞いていません! あなたたちゲヘナが“争う気はない”など――信用できるわけがないでしょう!」
言葉の端々に、ゲヘナ嫌いの感情が滲む。
義憤というより、嫌悪に近い。
イロハは大きくため息を吐いた。
「はぁ……本当にめんどくさい。……信用とかじゃなくて、事実なんですけど」
「事実? 都合のいい言い分でしょう!」
近づくほどに、声が鮮明になる。
「ゲヘナは常に争いを望む学園です。あなたたちの言葉を信じて門を開けたら――背中から撃つのが目に見えています!」
「いや、撃たないですって……」
「撃つでしょう!」
「撃たないですよ……」
「信用できません!!」
もう、会話ではなく感情の衝突だった。
黒夜は車椅子の肘掛けを軽く握り、眉を寄せた。
(まずいですね……このままでは)
ここで銃撃戦が始まれば、
エデン条約どころではなくなる。
そして何より、黒夜自身の存在が、再び“火種”になり得る。
黒夜は口を開こうとした。
「――失礼、少しよろし――」
その瞬間だった。
イロハとハスミが互いに気付かぬまま、言い争いがさらに加速する。
声の強さが一段上がり、正門前の空気がさらに硬くなる。
その戦車の影――鉄の巨体が作る陰から、別の人影が前に出てきた。
一人は、ぴしりとした身なりの少女。
天雨アコ。
もう一人は、歩き方からして堂々としている、派手な雰囲気の少女。
陸八魔アル。
黒夜は目を見開いた。
(……なんで、あの二人まで)
アコが前に出ると、イロハの代わりにぴしゃりと言い放つ。
「私たちは、“ゲヘナ生徒”の月城黒夜が殺されかけた件で来ただけです。トリニティと争う意図はありません」
アルも肩を竦め、どこか余裕ある笑みで続ける。
「そうそう。喧嘩しに来たわけじゃないのよ? あくまで“用事”があるだけ」
イロハも面倒そうに頷き、ハスミへ視線を向ける。
「ほら。風紀委員会も便利屋68も来てるし。トリニティ相手に争う気だったら、こんな朝っぱらから眠い目こすって来ませんって」
だが、その言葉が――逆に火に油を注いだ。
ハスミの眉が跳ね上がる。
「……黒夜さん?」
名を聞いた瞬間、ハスミの視線が鋭くなる。
「黒夜さんは――今も昔もティーパーティーの専属護衛です」
その声には、怒りと、譲れない誇りが混じっていた。
「彼は昨日の襲撃でも立派にティーパーティーの護衛を全うした方です。私たちと同じトリニティの生徒です。もうゲヘナではありません!」
言葉を切り、続ける。
「関係ないあなたたちが、黒夜さんのことを勝手に“ゲヘナの生徒”にしないでください!」
――その一言で。
空気が、変わった。
イロハの眠たげな目が、すっと細くなる。
アコの表情から温度が消える。
アルの笑みが、静かに薄くなる。
同じタイミングで、三人の視線がハスミへ向く。
冷たい。
まるで刃物のように。
イロハが、低い声で言った。
「……黒夜は、私たちと同じ生粋のゲヘナ生です」
淡々としているのに、底が見えない怒気がある。
「あなたたちトリニティみたいに、本心を隠して笑って近づいて来て、背中から蹴落とすような卑怯な真似しないので」
「なっ――」
ハスミが言い返そうとする前に、アコが食い気味に続ける。
「彼はゲヘナから、エデン条約締結のために視察として短期転入しただけの“ゲヘナ生徒”です!」
声が鋭く、苛立ちが隠せない。
「こちらが貸してあげているんです。そちらこそ、勝手な言い分を言わないでください!」
アルも小さく肩を揺らし、ふふ、と笑う。
「彼がトリニティにいるのは、エデン条約の為でしょ? 今回の件が片付いたら、ゲヘナに戻るわよ?」
その言葉が投げられた瞬間、ハスミの顔が強張った。
まるで“自分の側のものを奪われる”と告げられたように。
正門前の空気が、さらに危険な色を帯びる。
トリニティ側の正実の生徒たちも、ざわつき始めた。
ゲヘナ側――風紀委員会の面々も、銃を構える気配が微かに揺れる。
黒夜は、息を呑んだ。
(……これは、私の死にかけた件で)
ようやく、繋がる。
ゲヘナの戦車。
風紀委員会。
便利屋。
そして、トリニティの正実。
すべてが、黒夜が“死にかけた”ことを起点に集まっている。
しかも話題が、最も繊細な“所属”へと滑ってしまった。
(私が出れば収まるか?)
――無理だ。
今この状態で黒夜が名乗り出れば、
「当事者」が出てきたことで、感情が爆発する可能性が高い。
ハスミは「トリニティの黒夜」を守るために前に出た。
ゲヘナ側は「ゲヘナの黒夜」を奪われたくないように見える。
当事者が現れることで、
両方が「彼に決断させよう」とする。
その瞬間、双方の誇りがぶつかり、収拾がつかなくなる。
黒夜は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(……出ないほうがいい)
同じ結論に至ったのだろう。
車椅子の後ろに立つミネが、ほんのわずかに車輪を引いた。
視線を周囲に走らせ、気付かれない角度を選び、正門近くの木の影へと黒夜を滑らせる。
「……ミネ団長?」
「賢いあなたならわかるでしょう?
今出れば、火に油です」
ミネは短く言い切った。
木陰に入った瞬間、喧騒が少し遠くなる。
それでも怒声は聞こえる。
黒夜は、正門前の光景を木の隙間から見つめながら、小さく呟いた。
「……あの人たちが、私のことで、ここまで……」
ミネが、ふっと息を吐いた。
「黒夜さんは随分と慕われていますね」
「……不思議です」
黒夜は首を傾げた。
「私は、イロハさんともアコさんともアルさんとも……正直、深く関わりがありません」
むしろ距離があった。
ゲヘナにいた頃、彼女たちは学園の中心に近い存在だった。
自分は情報部で、裏側の動きが多い。表で交わることは少ない。
「それなのに、どうしてここまで……」
そして、もう一つ。
「それに、ハスミさんはゲヘナ嫌いで有名でしたから……私は、なるべく関わらないようにしていたのですが。どうしてここまで……」
ミネはしばらく黙っていた。
正門前の口論がさらに熱を帯びる音が遠くで響く。
だがミネの声は穏やかだった。
「関わりがないとしても」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたの普段の立ち振る舞いを、ちゃんと見てくれている人はいた、ということです」
黒夜は目を瞬いた。
「立ち振る舞い……ですか」
「そうです。あなたはいつも、誰かを守るために前に出る」
ミネは淡々と続ける。
「黙って見えても、ちゃんと誰かを気遣っている。表に出さなくても、誠実さは滲むものです」
黒夜は、言葉を失った。
(……そんな風に見られていたのですか)
ミネは少しだけ視線を逸らし、最後にぽつりと付け加えた。
「それに――私も、あなたがトリニティを去るのは面白くありませんね」
黒夜は思わず振り返る。
「ミネ団長も……ですか?」
ミネは表情を崩さない。
けれど、ほんの少しだけ口元が柔らかい。
「ええ。救護騎士団団長として、あなたのような“守る人間”は貴重です」
黒夜は、妙に胸の奥が温かくなった。
正門前では相変わらず火花が散っている。
けれどこの木陰だけ、ほんの少しだけ静かで。
黒夜は自分の胸の中に、小さな感情が灯るのを感じた。
(私は……見られていた)
(知らないところで、覚えられていた)
(……こんなにも)
その瞬間――正門前から、さらに大きな怒声が上がった。
黒夜は木陰から顔を上げる。
(……このままでは、本当に撃ち合いになります)
そして同時に思う。
(止める必要がある。でも――私が出れば悪化する)
矛盾の中で、黒夜は唇を噛んだ。
ミネが小さく囁く。
「……さて、どうしましょうか? 黒夜さん」
黒夜は静かに頷いた。
「えぇ。――どうやって、火を消しましょうか」
木陰の静けさの中、
正門前の火花だけが、朝日に鋭く光っていた。