木陰から様子を窺っていると、張り詰めた空気を切り裂くように、二つの声が同時に響いた。
「やめろ」
「やめてください」
その声は、不思議なほどよく通った。怒鳴り声ではないのに、正門前の喧噪が一瞬だけ“止まる”。
黒夜は反射的に声の方向へ視線を向けた。
――そこに立っていたのは、二人。
万魔殿の羽沼マコト。
そしてティーパーティーの桐藤ナギサ。
黒夜の胸の奥が冷えるより早く、二人は足を止めない。口論の中心へ、当然のように歩いていく。
まるで“ここが自分たちの場所”だと言わんばかりに。
マコトが、戦車のハッチから身を乗り出しているイロハの前へ。
ナギサが、正実の先頭で固く構えるハスミの前へ。
同時に、二人はそれぞれに声を掛けた。
「イロハ。お前にしては珍しく随分やる気があるじゃないか? どういう風の吹き回しだ?」
マコトの口調は軽口のようでいて、鋭い。
いつもの薄笑いを貼り付けたまま、しかし眼だけは真剣だった。
イロハは一瞬、言い返そうとして――そのまま口を噤んだ。
ほんの少し視線が泳ぎ、バツの悪そうな顔になる。
そして、数秒の沈黙の後。
イロハは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……すいません。少し、頭に血が上ってました」
マコトの口元が、わずかに上がる。
「素直だな。珍しい。――まぁ、いいだろう」
一方、ナギサはハスミに向き直り、深く息を吸うようにしてから言った。
「ハスミさん。すいません、昨日は調印式の事件から深夜まで色んな事が起きてしまい、通達が疎かになっていました」
ナギサの声は、どこか疲労の滲む、しかしそれでも背筋を正した少女の声だ。
「この部隊はトリニティを攻撃しに来たわけではありません。怒りを収めてください」
ハスミは、ゲヘナに向けた敵意をまだ顔に残したまま、唇を強く結ぶ。
胸の奥で不満が渦を巻いているのが見て取れる。
だが、彼女はそれを飲み込むように――ナギサの目を見て、ぎこちなく頷いた。
「……ナギサ様がそう言うのであれば……」
(止まったか)
黒夜は胸の奥で、ようやく息をつく。
たった数秒前まで、引き金一つで地獄になりかねなかった正門が、今は“ぎりぎり”踏み止まっている。
ミネも同じように感じたのだろう。
車椅子のグリップを握る指から、ほんの少し力が抜けた。
しかし――安堵は長く続かない。
静まった空気の中で、ハスミがふと、ナギサに問いかけた。
「……ナギサ様。彼女たちが、“黒夜さんが殺されかけた”と言っていました」
黒夜の名前が出た瞬間、周囲の視線が一斉に集まるのを感じた。
それだけで、背中が粟立つ。
「私は黒夜さんが怪我をしたとは聞いていましたが……それほどの怪我だったんですか?」
その問いは、正義感から来るものだ。
けれど、問いが問いである以上、答えが必要になる。
ナギサは、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
まるで、胸の奥に刺さった針に触れてしまったように。
黒夜はその沈黙の意味を理解してしまった。
(言えるわけがない)
昨夜、自分は出血で意識を失い、ミネの処置が一歩遅れれば死んでいた。
その事実を知ったミカは、復讐で理性を失い、ゲヘナ組を叩き伏せてしまった。
それほどの混乱が、ようやく収束しかけている。
今ここで、あの“瀬戸際”を口にすれば――また火が点く。
違う形の火が。
ナギサは答えるべきか迷っている。
“真実を言うべき”という責任と、“混乱を繰り返したくない”という恐怖の狭間で。
そのとき、ゲヘナ側からも声が上がった。
鋭い、礼儀正しいが、譲らない声。
言い出したのはアコだった。
「私たちも“黒夜が死にかけたから来た”ということだけしか教えてもらっていません」
アコの瞳は、まっすぐにナギサを射抜く。
「彼の怪我の具合は……どれほどのものなのですか?」
二方向からの問い。
ナギサが押し黙ったままなのを見て、場の空気がまた少しだけ尖る。
疑念が湧く。苛立ちが混ざる。
“隠している”という印象は、それだけで火種になる。
黒夜は、木陰で息を呑んだ。
(……このままだと、また拗れそうだ)
そして、黒夜は気付いてしまう。
自分が原因で拗れているのに、当事者が黙って木陰にいるのは、卑怯だ。
正しくはない。
ただ、出れば悪化すると思っていた――けれど、出ないことで悪化する瞬間もある。
黒夜はミネに目配せした。
一瞬だけ、視線が交わる。
ミネの瞳が揺れた。
「出ますか?」
黒夜は小さく頷く。
ミネは短く息を吐き――そして、決断したように車椅子の向きを変えた。
木陰から外へ。
正門の中心へ。
車椅子のタイヤが砂利を踏む音が妙に大きく響く。
その音に気付いた者たちが振り返り、次々に視線が集まる。
――そして、両陣営が“車椅子に座る黒夜”を視認した瞬間。
時間が止まったように、全員の動きが止まった。
左腕は三角巾で吊られ。
頭部は包帯で巻かれ。
左目の部分まで白い包帯が覆っている。
病衣の隙間から見える上半身も、包帯が幾重にも巻かれ、肌がほとんど見えない。
黒夜はその視線の圧に、胃の奥がひゅっと縮むのを感じた。
それでも、逃げなかった。
(大丈夫です。私は説明する義務を果たさなければ…)
突然の黒夜本人の登場に、ナギサとマコトも目を見開く。
マコトの表情は驚愕を通り越し、困惑に近い。
“なぜここにいる”という疑問が顔に出てしまっている。
ナギサはもっと露骨だった。
唇が震え、思わず一歩前へ出そうとする。
(病室で寝ているはずなのに――)
黒夜はそれを悟ってしまい、先に言葉を出した。
「……すいません」
声はかすれていたが、できる限り丁寧に。
「私が死にかけたせいで……随分騒がせてしまったようで」
その瞬間、ハスミの瞳に強い痛みが走る。
アコの表情が固まる。
イロハの目が、少し潤んだように見えた。
アルの心配そうな視線を感じる。
黒夜は続けようとした。
「怪我の状態ですが――」
だが、その言葉は途中で遮られた。
「待ってください」
凛とした声。
ミネが一歩前に出る。
その姿は、救護騎士団団長そのものだ。
戦場で血を見慣れた者の、揺るがない足取り。
「黒夜さんの怪我の状態は、直接治療を担当した私が説明します」
ミネの言葉に、誰も反論できなかった。
“当事者が言うよりも、治療者が言うほうが重い”。
それを皆が理解している。
ミネは冷静に、事実だけを並べた。
「左腕骨折。頭部裂傷。上半身の裂傷と打撲。さらに――昨夜は出血多量で、あと一歩で死んでもおかしくない状態でした」
そこでほんの一瞬、間を置き、
「今こうして意識を取り戻せているのが……奇跡のようなものです」
――左目のことだけは伏せたまま。
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ゲヘナ勢は、奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなほど、顔を強張らせた。
イロハはハッチの縁を握り、指先が白くなる。
アコは目を逸らさないが、瞳の奥が揺れている。
アルは、さっきまでの余裕の笑みが消え、静かな怒りを沈めるように息を吐いた。
トリニティ側――ハスミや正実の生徒たちは、唖然としていた。
彼女たちは“怪我をした”とは聞いていた。
だが、“死ぬ寸前だった”とは知らなかった。
ハスミの喉が、こくりと鳴る。
「……そんな……」
その呟きは誰の耳にも届かないほど小さかったが、黒夜には聞こえた。
黒夜は、胸の奥が痛くなった。
(皆さんは、私が死んでもおかしくなかったと――今、ここで知ってしまった)
事実を伝えることは必要だった。
けれど、それは同時に、周囲の感情を一斉に揺り起こす。
黒夜はミネの言葉の後を引き取るように、静かに頭を下げた。
「……この通りです」
そして、目の前の全員へ向けて言った。
「私は生きています。ですので――どうか、これ以上争わないでください」
その言葉は、黒夜の“願い”だった。
自分の怪我の程度を盾にした脅しではない。
ただ、皆がこれ以上傷つかないようにという、祈りに近い。
正門前に、重い沈黙が落ちた。
誰も、すぐには言葉を出せない。
出せば、怒りが溢れる。
悲しみが溢れる。
それを皆が分かっているから、言葉が詰まる。
そして――その沈黙の中で。
最初に動いたのは、マコトだった。
マコトは黒夜の車椅子の横へ歩み寄り、いつものように軽口を叩くように見せかけて、声を落とした。
「おい。……お前、なんでここにいる」
叱責ではない。
怒りでもない。
心配と苛立ちが混ざった、マコトらしくない声だった。
黒夜は微笑もうとして、上手く笑えなかった。
「……自分が止められると思いましたので」
マコトの眉がぴくりと動く。
「……馬鹿が」
その言葉は、乱暴なのに、どこか震えていた。
ナギサも、ようやく一歩前へ出る。
けれど彼女は黒夜に触れない。触れたら崩れてしまうと分かっているから。
「黒夜さん……」
名前だけで、声が揺れた。
黒夜はナギサへ目を向け、できるだけ安心させるように頷いた。
「大丈夫です、ナギサ様。……ご迷惑をおかけしました」
ナギサは、唇を噛みしめた。
“迷惑”なんかじゃない、と言いたいのに言葉が出ない。
その場の緊張を、別の声が割った。
「……黒夜さん」
ハスミが一歩前へ出る。
彼女はまだゲヘナを嫌っている。
けれど今、その感情よりも前に出るものがある。
「……申し訳ありません。私は、あなたの怪我の程度も知らずに……」
彼女は頭を下げかけて、途中で止めた。
正義実現委員会の副委員長として、謝るだけでは済まないと分かっているのだろう。
けれど、悔しさと自己嫌悪が顔に滲んでいた。
黒夜は静かに首を振る。
「ハスミさんが謝る必要はありません。皆さんは……私を守ろうとしてくださっただけですから」
その言葉が、さらに場を沈める。
“守ろうとした”。
その事実が、ここにいる全員の胸を刺す。
ゲヘナ側も、トリニティ側も。
守ろうとして――守れなかった。
だから今ここに、怒りと悲しみと誇りが混ざっている。
ミネが一歩前に出て、場を締めるように言った。
「黒夜さんは治療中の身です。これ以上の刺激は避けたい」
そして、両陣営を見渡し、
「今のあなた方の感情は理解できます。ですが、ここで争えば――次に誰が悲しむのか分かりません」
ミネの声は冷たいのではなく、現実的だった。
救護騎士団として声だ。
その言葉に、誰も反論できない。
正門前の空気が、ようやく“引いていく”。
銃口が少しずつ下がり、肩の力が抜け、怒声が消えていく。
黒夜は木陰から見ていたときより、ずっと重い安堵を感じた。
(……よかった)
しかし同時に、心臓の奥が痛んだ。
(私のせいで、皆がこんな顔をしている)
黒夜は包帯の下で、瞼を伏せた。
左目の喪失はまだ誰も知らない。
ミネが伏せてくれた。
黒夜自身も伏せると決めた。
――だからこそ、今はここで終わらせなければならない。
黒夜は、最後にもう一度、頭を下げた。
「皆さん。……本当に、すいませんでした」
そして、ひとつだけ付け加える。
「でも……ありがとうございます」
その言葉が、正門前の全員の胸を、同時に締め付けた。
沈黙が続いた。
誰もが、言葉を選べずにいた、色々な感情が喉の奥で絡まって、声にならない。
その沈黙を破ったのは――イロハだった。
「……黒夜」
いつもなら眠たげで面倒くさそうな声音が、今日は違う。
震えが混ざっていた。自分でも抑えられていない震えだ。
「誰に。どうやって……やられたんですか?」
問いは短い。
けれど、その短さが逆に重い。
マコトが「昨日電話で話しただろう?」と口を開きかける。
だが、その言葉は途中で遮られた。
「マコト先輩には聞いてません」
イロハは、いつになく強い目でマコトを見返した。
それから視線を黒夜へ戻す。
「黒夜の口から。直接聞きたいんです」
その瞬間、空気がさらに張り詰める。
アコも、アルも、風紀委員の生徒たちも。
ハスミも、正実の生徒たちも。
この場にいる全員が――黒夜の発言だけに耳を傾けていた。
黒夜は、唇を開きかけて……言葉を飲み込んだ。
(正直に言えば、サオリさんたちが――)
今、ようやく火花が消えたばかりだ。
ここで“犯人”の名を出せば、また銃口が上がる。
しかも、今度は止められる保証がない。
黒夜は、できるだけ穏便な言い方を探して、喉の奥で言葉を組み立てようとして――
「月城黒夜を殺しかけたのは、私だ」
背後から、冷たい声が落ちた。
黒夜の背筋が凍る。
いや――凍ったのは黒夜だけではなかった。
足音。
乾いた靴底が地面を叩く音が、正門前の空気を裂きながら近づいてくる。
振り返らずとも分かる。
その声の主が、誰であるか。
「……サオリ…さん」
黒夜が呟いた瞬間、サオリは人波の隙間から姿を現した。
包帯の巻かれた黒夜の姿を真っ直ぐ見据え、そして――自分の罪を、言葉にした。
その一言が引き金だった。
ゲヘナ側の空気が一斉に変わる。
イロハの目が冷たく細まり、戦車のハッチから身を乗り出す。
アコの指が、迷いなくトリガーへ。
アルの笑みが消え、瞳の奥だけが鋭く光る。
――そして、複数の銃口がサオリへ向いた。
殺気が、目に見えるほど濃くなる。
「……」
サオリは動かない。
逃げない。避けようともしない。
ただ、真正面から受け止めるように立っていた。
その姿を見て、黒夜は反射的に右手を伸ばした。
車椅子の上から、庇うように。
「皆さん、やめてください!!」
叫びは割れる。
喉が痛むほどの声だった。
銃口が止まりかける。
だが、止まらない視線がある。
アコだった。
「どうして庇うのですか?」
冷静な声なのに、怒りが滲んでいる。
「そいつがあなたを殺しかけたんでしょう?」
黒夜は答えようとした。
サオリたちがどんな境遇で、誰に何をされ、どう追い詰められたのか――
だが、その前にサオリが口を開いた。
まるで、黒夜に説明させることすら“甘え”だと言うように。
自分の罪を、自分の口で背負うように。
「そうだ。私が黒夜を殺そうとした」
サオリの声は平坦だった。
だが、その平坦さが、逆に痛々しい。
「調印式を襲い、人質を使い、黒夜を誘い出し……」
言葉が続く。
「そして、ヘイロー破壊爆弾のトラップで……爆殺しようとした」
その瞬間、空気がさらに凍りつく。
アルの口元が震えた。
怒りで、唇が白くなる。
「……人質まで使うなんて……外道ね」
ぴしゃり、と言い放つ声は震えていた。
怒りというより、嫌悪に近い。
それに反応するように、トリニティ側も銃口を上げ始める。
正実の生徒が構え、ハスミも前へ出た。
「黒夜さん、退いてください」
ハスミの声は冷たかった。
けれどそれは黒夜へ向けた冷たさではなく、サオリへの拒絶だ。
「その卑怯者を撃てません」
黒夜の心臓が跳ねる。
このままでは、本当に撃たれる。
黒夜は叫んだ。
「いいえ、退きません!!」
そして、息を一つ吸う暇もなく言い切った。
「サオリさんたちは、マダムという大人に利用されただけなんです!」
銃口が揺れる。
しかし、まだ下がらない。
黒夜は続ける。
必死だった。声が震える。けれど言葉を止めなかった。
「彼女たちは……ここまで、誰にも救われなかった」
その言葉に、サオリの瞳がわずかに揺れた。
「だから……こんな凶行に走ってしまうほど、洗脳されてしまったんです」
黒夜は息を吐きながら、最後の一押しをする。
「ここでサオリさんを撃つのは、そのマダムの思うつぼなんですよ!!」
その瞬間、ナギサとマコトが同時に前へ出た。
ナギサは、サオリと黒夜の間に立つように。
マコトはゲヘナ側の銃口を“視線だけで”制しながら。
ナギサが言う。
「サオリさんたちは、すでに黒夜さんに謝罪し……本人から許しを得ています」
その声は凛としていた。
為政者の声に戻っていた。
マコトも続ける。
「それに――黒夜自身が彼女たちを救いたいと願っている」
マコトの声は笑っていない。
いつもの軽薄さが消えている。
「その願いを踏みにじるのか?」
マコトの問いは、トリニティ側にも、ゲヘナ側にも刺さる。
アコが舌打ち一つで銃口を下げかける。
アルも、指の力を抜く。
だが、まだ最後に一つ、確認が残っていた。
イロハが、戦車の上から冷たい声で言う。
「じゃあ敵は……その“マダム”とか言う大人ってことですか?」
黒夜は、イロハの視線を真正面から受け止めた。
(ここで目を逸らしたら、また疑念になる)
黒夜ははっきりと頷き、言い切る。
「そうです」
それから、ゆっくり言葉を重ねる。
「決して……洗脳されて利用させられた彼女たちではありません」
イロハの目が、少しだけ細くなる。
そして――ほんのわずかに、頷いた。
その合図のように、空気が緩む。
銃口が下がり始める。
正実側も、ゲヘナ側も、少しずつ“撃てる空気”から抜けていく。
けれど――抜けていく代わりに、別のものが宿る。
ゲヘナ側の顔だ。
イロハが小さく笑った。
それは、眠たげな笑いではなく――獲物を見つけた笑い。
「……本人から聞いて、ようやくはっきりしましたよ」
イロハの声が低い。
「私たちの敵が、誰なのか」
アコも同じように、静かな声で言った。
「そうですね。これで……全力で潰せるというものです」
アルは、指先を口元に当てて微笑む。
「ふふ。今から楽しみになってきたわ」
その言葉の温度が、黒夜の背筋をぞくりとさせた。
(……違う。これは“助ける”熱じゃない)
いや、助けるためではある。
けれど、その助け方が――ゲヘナだ。
マコトが一歩前へ出る。
目を細め、獰猛な笑みを浮かべた。
「納得したのなら結構」
宣言するように言う。
「では詳しい作戦会議をする」
そして、ゲヘナ側の三人――イロハ、アコ、アルを見た。
「お前らは付いて来い」
それから、後ろの部隊へ手を振る。
「他の人員は待機。勝手に暴れるなよ」
その指示の早さと明確さに、トリニティ側が一瞬気圧される。
ナギサも、慌てて正実を解散させるべく口を開こうとして――
「ナギサ様!」
ハスミが食い気味に言った。
「私も、その作戦に参加させてください!」
ハスミの声は必死だった。
それはゲヘナへの敵意ではなく、守れなかったことへの悔しさがこみ上げていた。
ナギサは迷った。
正実を引っ張り出す正当性は薄い。
今のトリニティは混乱の最中。正実は本来、校内の秩序維持が最優先だ。
だが――断れば、ハスミは勝手に動く。
その確信があった。
ナギサは短く息を吐き、頷く。
「……分かりました。ただし、独断は禁じます。必ず私の指示に従ってください」
ハスミの目が、ほんの少し潤んだ。
「わかりました!」
その場の流れが、決定へ傾いていく。
そしてそのとき、マコトとナギサが同時に黒夜を見る。
二人とも、言いたいことは同じだった。
「病室で大人しくして回復に努めろ」
「病室で……休んでください、黒夜さん」
命令とお願い。
性質は違うのに、根は同じ。
黒夜は小さく頭を下げた。
「……申し訳ありません」
そして、ミネに視線を送る。
ミネは無言で頷き、車椅子の取っ手を握り直した。
ミネが車椅子を回転させ、病棟へ戻ろうとした、その背で――
ナギサがサオリを振り返った。
サオリはまだその場に立っていた。
撃たれる寸前まで行ったのに、逃げようともせず、背筋を伸ばして。
ナギサは言葉を絞り出すように言った。
「……あの場で、殺されてもおかしくなかったのに……どうして、出てきたんですか?」
サオリは少しだけ眉を動かし、目を伏せた。
「私は黒夜に許された」
そこで言葉を切り、続ける。
「……だが、罪が消えるわけじゃない」
サオリの声は、決意が混じっていた。
「自分のしたことから……逃げたくなかったんだ」
その言葉に、マコトが苛立ち混じりに言う。
「黒夜が庇ってくれなかったら死んでいたぞ」
警告だ。
いや、怒りだ。
自分の仲間をここまで追い詰めた相手が、簡単に死ぬのを見過ごせるほどマコトは善人じゃない。
だが、サオリは目を上げて断言した。
「それでもだ」
その固さに、ナギサもマコトも言葉を失う。
そして――二人は同時に、深く息を吐いた。
「はぁ……」
「……はぁ……」
まるで鏡みたいに。
ナギサとマコトが視線を交わし、互いに同じことを思ったのが分かる。
――お互い苦労するな。
言葉にしなくても、以心伝心していた。
ミネが黒夜を押して、病棟へ向かう。
黒夜は背後の喧騒を聞きながら、胸の奥に熱を抱えていた。
(守られている)
トリニティにも。
ゲヘナにも。
そして、その“守り”が今――誰かを救うための刃に変わろうとしている。
黒夜は、包帯の下で目を閉じた。
左目は闇でも、胸の内には光が残っている。
(……どうか。誰も、もうこれ以上傷つきませんように)
祈りは小さく、しかし確かだった。
ミネが小さく呟く。
「無茶しますね」
その声は、叱りではなく――どこか優しかった。
黒夜は、ほんの少しだけ笑ってしまった。
「……すいません」
ミネは答えない。
ただ、車椅子を押す速度を少しだけ上げた。
病棟の扉が近づく。
背後では、すでに“次の戦い”の準備が始まっている。
そして黒夜は、その中心にいない。
――今は、眠って回復するしかない。