銃声は止んでいた。
つい先ほどまで戦場だったはずの地下道の前は、奇妙なほど静かだった。
消え失せたミメシスの残骸も、瓦礫も、弾痕も、すべてがそこにあるのに――撃ち合う相手だけが、もういない。
代わりに響くのは、負傷者を運ぶ足音と、無線の短い応答、弾薬箱を積み直す音。
だが「終わった」という実感だけが、まだ誰の胸にも落ちていなかった。
司令テントの中
セイアは椅子に深く腰掛けたまま、無言で前を見つめていた。
机の上には通信記録、簡易地図、撤収予定表。
だが、彼女の思考はそれらを通り越して、もっと先を見ている。
セイアはふと、隣で端末を操作していたアコを見た。
彼女は背筋を伸ばし、几帳面に指を動かし、必要な数字を必要な順番で揃えている。
風紀委員会の行政官らしい、隙のない所作だ。
セイアは小さく息を吐く。
「天雨アコ」
唐突に呼ばれて、アコが顔を上げる。
セイアの声色は普段と変わらない。淡々としたものだった。
「……え?」
すぐ横で端末を確認していたアコが振り向く。
「地上部隊の方に合流して、撤収作業の指揮補佐を頼めるかい? 先生たちが戻るまでの整理を任せたい」
アコは一瞬だけ眉を寄せた。
どうして急に、なぜ私が?
疑問は明らかに顔に出たが、彼女はそれを口にしない。
指揮系統の重さと、今ここで反論する意味のなさを理解している。
「わかりました」
返答は短い。
アコは端末を閉じ、無線機の予備バッテリーを確認し、テントを出る準備を整える。
その一連の動きもまた、早く、正確だった。
幕をくぐる直前、彼女は一度だけ振り返る。
セイアは椅子に座ったまま、視線を上げない。
――何かある。
アコは確信したが、それでも「わかりました」とだけ残して、外へ出ていった。
布越しに足音が遠ざかる。
それを確認してから、セイアはようやく呼吸を深く吐いた。
今、この場に余計な耳は要らない。
判断に必要なのは、最小の人数と、最短の言葉だけだ。
セイアは無線機に手を伸ばし、チャンネルを切り替えた。
全体連絡用ではなく、個人の回線――ごく限られた者だけが知る番号。
桐藤ナギサ。
数秒後、回線が繋がる。
「ナギサ、聞こえるかい?」
『……セイアさん、何かありましたか?』
周囲の喧騒を抑えた声。
戦闘は終わっているが、まだ緊張は解けていない音だ。
セイアは、わざと少し間を置く。
テントの布が風で鳴る。
遠くで瓦礫が崩れる音がする。
「――――げた――――人に――――頼んだよ」
『……わかりました』
短い返答。
セイアは無線を切る。
無線機を机に置く音が、やけに大きく響いた。
セイアは椅子に深く座り、天井を漠然と眺める。
そこには戦場とは無関係な、薄い布のたわみと、縫い目の線だけがある。
――これで、間に合えばいい。
間に合わなければ、次の手を用意するだけだ。
「これで……」
小さく呟き、セイアは立ち上がる。
テント内の撤収作業を始めた。
机の上の地図を畳み、通信ログを束ね、不要なメモを破る。
外から戻ってくる誰かが見ても、ただの撤収準備にしか見えないように。
その頃。
戦線の少し後方、瓦礫の影に設けられた臨時の指揮地点では、ナギサが無線を耳に当てたまま、微動だにしていなかった。
ミメシスが消えたあとの空間は、異様な空白を孕んでいた。
マコトは戦車の装甲に背を預け、腕を組んでいる。
ヒナは周囲を警戒したまま、銃を下げない。
カヨコは瓦礫の陰から地下道の出口を見ている。
ナギサが三人の元へ歩み寄る。
周囲にはまだ多くの生徒たちがいる。
負傷者搬送、弾薬整理、簡易テント設営。
ナギサは三人のすぐ近くまで来ると、声を落とした。
「セイアさんから伝言があります…」
それだけで三人の視線が揃う。
ナギサは短く耳打ちする。
マコトの目が、わずかに細くなる。
ヒナは瞬きひとつせず、ただ頷く。
カヨコは口元を引き結んだまま、視線だけで理解を示した。
三人の瞳がナギサを見る
ナギサも何も言わない。
小さく頷くだけ。
ヒナは目を閉じ、一度だけ呼吸を整える。
カヨコは無言のまま、地下道の奥を見た。
「わかった」
マコトが、ただ一言だけ返す。
その声は軽いが、瞳は冷静だった。
マコトはすぐにイロハの戦車へ近づき、ハッチの方へ声を投げる。
「イロハ。ちょっとこっちだ。用がある」
「……またですか、マコト先輩」
気だるげな返事が返る。
だが、ハッチの上に顔を出したイロハの目はすでに切り替わっていた。
“面倒”と“任務”は別、とでも言うように。
イロハが顔を出す。
ヒナは風紀委員へ短く指示を出す。
「数名ついてきて。警戒は怠らないで。……すぐ戻る」
カヨコはアルに近づき、いつもの調子を崩さないまま告げた。
「社長。ちょっと来て。……大事な用」
「え、えぇ!? 今!?」
アルは目を丸くしたが、カヨコの目を見て口を閉じる。
便利屋の“直感”が働いたのだろう。いま拒否していい類ではない、と。
そしてマコトが、あえて大声で、周囲にも聞こえるように言った。
「先生たちが戻ってくる道を間違えたそうだ。だからこちらから迎えに行ってくる」
だがイロハはすぐ察した。
「……あぁ。そういうことですか」
ヒナは風紀委員へ向き直る。
「私は地下道側を確認してくる。警戒を続けて。私が居ない間はナギサの指示に従いなさい」
カヨコはアルに近づく。
「社長。私も迎えに行ってくるから、この場は任せてもいい?」
「え? 今から?」
「うん」
アルは一瞬だけ怪訝な顔をするが、それ以上は追及しない。
マコトがさらに大きな声で言う。
「私がいない間はナギサの指揮下だ! 勝手な行動はするな!」
戦車隊にも、風紀委員にも、便利屋にも、そして混成の臨時部隊にも。
“議長”の命令はよく通る。
ナギサは一瞬だけ目を閉じた。
トリニティでは、こうはいかない。
派閥、立場、理念。正しさの衝突。
だが今、この場のゲヘナは違う。命令は一本で通る。感情が一本で束ねられる。
頼もしくもあり、恐ろしくもある。
マコト、ヒナ、カヨコ。
三人は、地下道へ向かって歩き出した。
背中を見送ったナギサは、すぐに振り返り、残る部隊へ指示を飛ばす。
「先生たちが戻るまで警戒を強化します。撤収準備は並行して進めてください。
戦闘は終わっていますが、油断は禁物です。
正実はこの地点に向かってください、便利屋の方はこの地点に、風紀委員会はこの地点に、
お願いできますか?」
誰も疑問を挟まない。
それを理解している者は、皆、胸の奥に同じ予感を抱いていた。
静寂の中で。
三つの影が、地下へ消える。
そして地上では、誰もまだ気付いていない。
戦いは終わったはずなのに、
本当の決着が、今まさに始まろうとしていることを。
◆
ベアトリーチェは、荒い息を吐きながら地下道を歩いていた。
足音が石壁に反響する。
忌々しい!
忌々しい!!
忌々しい!!!
これまで何度も地上へ上がろうとした。
だがその度に、出口には生徒たちがいた。
ゲヘナ。
トリニティ。
混成の包囲網。
地下道の分岐を変え、遠回りをし、別ルートを試し、また塞がれ――
「……道具風情が……!」
苛立ちが判断を鈍らせる。
本来ならば最短経路を切り捨て、もっと冷静に確実な退路を選ぶべきだった。
だが今の彼女は、敗北の現実を受け入れきれていない。
自分が“追われる側”に回っているという事実を。
だからこそ、ようやく辿り着いたこの通路を見た時――
視界の先に、出口が見えた。
遠目に、生徒の姿はない。
静まり返った空間。
明かりがかすかに差し込んでいる。
包囲を抜けた。
そう確信した瞬間、喉の奥から自然に笑いが漏れた。
「ふ、ふふ……ふふふ……」
肩が震える。
「最後に笑うのは、私なのですよ……先生」
歩きながら、恨みを滲ませる。
「次は最初から確実に殺して差し上げます……あなたも、あの道具共も……」
その時だった。
――パンッ。
乾いた銃声。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
次の瞬間、視界が横倒しになり、石床が迫る。
ドン、と鈍い衝撃。
遅れて――
右足に、焼けるような激痛が走った。
「……なっ!?」
動かない。
立てない。
理解が追いつかない。
その時。
カラン、と音がした。
小さな金属音。
転がる薬莢。
それが自分の前で止まる。
ベアトリーチェは、ゆっくりと顔を上げた。
暗がり。
地下道の影の中。
そこに、銃を構えた影が立っていた。
冷たい瞳。
揺らがない視線。
鬼方カヨコが無言で。
ただ、照準だけが正確にこちらを捉えている。
「……貴様……!」
怒りが込み上げる。
右腕を支えに立ち上がろうとする。
その瞬間。
――バン。
正面から、銃声。
支えにしていた右腕が弾けた。
「っ!!」
骨を砕く衝撃。
力を失い、顔から再び床へ叩きつけられる。
正面に立っていたのは、空崎ヒナ。
銃口はわずかに下げられている。
表情は、無。
怒りも憎しみもない。
ただ、排除対象を処理する目。
感情のない執行。
「……な、なぜ……?」
その声を遮るように、足音が響く。
ゆっくりと。
自分が通ってきた道の奥から。
マコトが姿を現す。
歩みはゆったりとしている。
だがその瞳は冷たい。
「理解できていないようだな」
ベアトリーチェを見下ろし、淡々と言う。
「お前は罠に掛かったんだよ」
静かな声。
「敗北した瞬間、お前が逃げるとセイアが察した」
ピクリ、とベアトリーチェの眉が動く。
「ナギサが包囲網を敷き、この道以外の出口を全て塞いだ」
出口が空いていたのは――
「誘導だ」
ベアトリーチェの呼吸が乱れる。
「そして、我々はここで待っていた」
マコトは銃を構える。
――バン。
左足を撃ち抜く。
石床に血が広がる。
「理解できたか?」
問いかけは優しい。
だがそこに救いはない。
ベアトリーチェは、息を荒げながら三人を見上げる。
包囲
計算
誘導
自分が“追い込まれた”側である事実。
「……私が……」
言葉にならない。
その時。
カヨコが、ゆっくりと一歩前に出る。
懐から取り出したのは、黒い拳銃。
漆黒のシングルアクションアーミー。
黒夜に送ったピースメーカー。
カヨコが無断で借りてきた銃。
シリンダーを開く。
カチ、と一発だけ弾を込める。
無言のままヒナへ差し出す。
ヒナが受け取り、シリンダーを合わせ、ハンマーを起こす。
無駄な動きはない。
それを、マコトへ渡す。
マコトは銃を構える。
「借りを返すぞ」
乾いた銃声。
ベアトリーチェの左腕が弾ける。
骨が砕け、力が抜ける。
「――――っ!!」
悲鳴が地下道に響く。
もがく。
血が広がる。
三人はその姿を見下ろす。
感情はない。
復讐でも、激情でもない。
“清算”
ただそれだけ。
マコトが背を向ける。
「我々はお前を殺さない」
ヒナも、カヨコも動き出す。
「だが、許しもしない」
足音が遠ざかる。
「ここから生き残ろうが、死のうが、我々は関知しない」
出口へ向かう三人。
背中は振り返らない。
後方から、かすれた叫びが響く。
「――私が……崇高に……!」
言葉は最後まで形にならない。
誰も聞かない。
誰も答えない。
三つの影が、明かりの差す出口へ消える。
地下道には、呻きと、血の匂いだけが残った。
彼女の結末を――誰も、確かめなかった。