地上は、静かだった。
つい先ほどまで銃声と爆音が響いていたとは思えないほどに、アリウス自治区の空気は澄んでいる。
ミメシスは消え、散発的に残っていたアリウス生徒たちもすでに撤退していた。
戦いは終わったのだ。
ナギサは周囲を見渡しながら、的確に指示を飛ばしていた。
「負傷者の搬送を優先してください。補給物資はゲヘナ側に返却を。戦車隊は順次整列をお願いします」
その声は疲労を感じさせない。
隣にはアコが立ち、タブレットで状況を確認している。
「右翼部隊、撤収完了。左翼もほぼ終了です。残りは中央の後片付けのみですね」
「ありがとうございます、アコさん。あなたの判断は本当に助かりました」
「いえ、セイアさんの予測がなければ持ちませんでした」
淡々と交わされる会話。
だがその裏には、確実に死線を越えたという実感があった。
その時だった。
地下道の入口から、足音が聞こえた。
ナギサはすぐに視線を向ける。
姿を現したのは――
先生
ミカ
アズサ
サオリ
ミサキ
ヒヨリ
そして
サオリの背に担がれた、秤アツコ。
その姿を確認した瞬間、ナギサの表情がふっと柔らいだ。
「……お帰りなさい」
自然と、笑みが浮かぶ。
それは作られた笑顔ではない。
心からの安堵だった。
周囲の生徒たちも気づき、ざわめきが広がる。
「先生たちが戻ったぞ!」
「作戦成功したんだ!」
ハスミが一歩前に出る。
「お疲れ様です、先生。ご無事で何よりです」
その声音は硬いが、確かに労いが含まれていた。
アルは腰に手を当て、ふっと笑う。
「無事に助け出せてよかったわ。これで依頼完了ね」
ヒヨリは涙目で頷き、ミサキは小さく息を吐く。
アズサは周囲を警戒しつつも、どこか肩の力が抜けていた。
その空気の中で。
イロハがふと首を傾げた。
「……あれ?」
視線が先生たちの後ろを探る。
「先生。マコト先輩たちには会いませんでしたか?」
先生は首を傾げる。
「いや、会ってないけど……」
その返答に、イロハはさらに困惑する。
「え……? 迎えに行くって――」
その時だった。
地下道の奥から、のんびりとした足音が響く。
「いやー、参った参った」
姿を現したのはマコト。
その後ろにヒナ、カヨコ。
マコトは頭を掻きながら大げさに肩をすくめる。
「私たちも道に迷ってしまってな。合流できなかったんだ」
わざとらしく笑う。
「いやー、すまんな」
全員に聞こえるように言う。
ヒナは淡々と付け加える。
「この地下道は迷路みたいだったわね」
カヨコは肩をすくめるだけで、何も言わない。
イロハは額に手を当て、ため息をつく。
「はぁ……本当にマコト先輩は肝心なところでダメですね……」
だがその表情はどこか安心していた。
――何事もなかった。
そういう空気を、三人は纏っている。
だが、皆の視線が外れた瞬間。
カヨコが、ほんのわずかに動いた。
ナギサの視界の端。
黒い拳銃が、一瞬だけ掲げられる、漆黒のシングルアクションアーミー。
黒夜のピースメーカーだった。
そして何事も無いようにすぐに隠される。
ナギサの瞳が、わずかに細められた。
言葉は交わさない。
だが、理解する。
――清算は終わったのですね。
小さく息を吐く。
そして何もなかったように振る舞う。
それが最善だとわかっているから。
やがて撤収作業も終盤に差し掛かる。
補給物資の積み込み。
負傷者の搬送確認。
戦車の整列。
混成部隊は、徐々に秩序を取り戻していた。
その中で、ミカがぱっと顔を上げる。
「ねえ!」
周囲の視線が集まる。
「せっかくなんだからさ、祝勝会しない?」
明るい声。
どこか弾むような響き。
「こんな大規模な作戦をやりきったんだよ? お祝いしないともったいないじゃん!」
ナギサも頷く。
「……ミカさんの言う通りですね」
視線を巡らせる。
「皆さんが無事に戻れたことを祝う場は必要でしょう」
賛同の声が上がる。
ハルナは優雅に微笑む。
「それは素敵ですわね」
カスミも腕を組む。
「ハーッハッハ! これは温泉でも掘ったほうがいいかな?」
「余計なことしないで」
ヒナが即座に釘を刺す。
笑いが広がる。
こうして、作戦成功を祝うことが決まった。
一旦トリニティへ戻る。
混成部隊は整列し、アリウス自治区を後にする。
トリニティへ向かう道。
途中、セイアがテントを畳んで車に積んでいた。
「おや」
顔を上げ、手を振る。
「こっちはちょうど終わった所だ。みんな無事でよかったよ」
先生が頷く。
「ありがとう、セイア」
祝勝会の話を聞くと、セイアは小さく笑う。
「ああ、それはいい提案だな」
遠くを見やる。
「黒夜も喜ぶだろうさ」
その名が出ると、何人かが表情を和らげる。
「じゃあ私は一足先に戻るよ」
車に乗り込み、トリニティへ向かう。
その背中を見送りながら、部隊も歩き出す。
帰路は、不思議と穏やかだった。
イロハとハスミが並んで歩いている。
「……意外と戦車、役に立ったでしょう?」
「……私が地雷を踏んだ時、援護に来てくださりありがとうございました」
「あぁ~、気にしないでください。これで貸し借り無しですから」
お互いに小さく笑う。
その後ろでは、便利屋68とミカが盛り上がっている。
「え、普段そんなことしてるの!?」
「もちろんよ! 依頼は選ばないのが信条なんだから!」
「お金とか大丈夫なの?」
「はい!最悪の時は雑草を食べればいいので!」
ハルカが自信たっぷりにフォローする。
「ねぇ、本当に大丈夫なの!?」
ハルカの話を聞いたミカが本気で心配していた。
そのやり取りにムツキとカヨコは苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
少し離れた場所では、ヒナとアコがカスミと美食研究会を監視している。
「今日は問題を起こさないでください」
「わかっているさ! 私だって空気は読む!」
ハルナは優雅に歩きながら言う。
「祝宴の場で無粋な真似はしませんわ」
その横でアカリが「どのくらい食べていいのでしょうか?」と首を捻っており、イズミが「お腹すいたー」と呟き、ジュンコが「お腹すいたー!もう倒れそう!」と騒いでいた。
ナギサはミネとマコトの三人で何やら静かに話していた。
救護の今後。
負傷者の処置。
事後処理。
落ち着いた声で現実を整理する。
そして。
その全てを、少し後ろから見ている二人がいた。
先生とサオリ。
アツコはすでに担架に移され、ミサキとヒヨリとアズサが付き添っている。
サオリは静かに歩く。
その視線は、前を行く生徒たち。
本来、いがみ合っていたはずの両校。
だが今は、笑い合いながら歩いている。
先生が小さく言う。
「……さっきまでが嘘みたいに平和だね」
サオリは頷く。
「……ああ」
短い言葉。
だがそこに込められた感情は、重い。
戦いは終わった。
誰も死ななかった。
アツコは救われた。
マダムは消えた。
そして今、敵だったはずの者同士が、同じ道を歩いている。
その光の中で、先生は思う。
これはきっと、ただの作戦成功ではない。
――未来が、少しだけ変わった瞬間なのだと。
トリニティへ続く道は、穏やかだった。
◆
黒夜は、静かな病室で目を覚ましていた。
窓から差し込む光は、もう高い位置にある。
作戦開始から、どれほど経ったのだろう。
左腕は三角巾で固定され、頭と左目は包帯に覆われたまま。
上半身にもまだ鈍い痛みが残っている。
だが今、黒夜の胸を支配しているのは痛みではなかった。
――どうか無事であってくれ。
ただ、それだけだった。
ベッドに体を沈め、正門の方角をじっと見つめる。
戦闘は終わったはずだ。
だが無事とは限らない。
銃弾が飛び交う戦場。
爆弾。
包囲網。
誰かが倒れていてもおかしくない。
「……どうか」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「どうか、全員が無事に帰ってきてください」
祈るという行為は、かつての黒夜には似合わなかった。
自分のことはどうでもよかった。
誰かに頼ることもなかった。
だが今は違う。
自分が頼った。
自分が託した。
だからこそ――祈らずにはいられない。
その時だった。
正門の前に、一台の車が止まるのが見えた。
黒夜は息を呑む。
車から降りたのは、セイアだった。
その姿を確認した瞬間、黒夜は思わずベッドから起き上がっていた。
「……っ」
体に痛みが走る。
だが構わない。
ゆっくりと、慎重に立ち上がる。
左腕を庇いながら、壁に手をついて一歩ずつ進む。
病室の扉を開け、廊下へ。
階段は無理だ。
エレベーターで下へ。
外に出ると、少しだけ風が頬を撫でた。
「セイア様!」
思わず声を上げる。
車から降りたセイアが振り向く。
「おや」
優しく目を細める。
「黒夜。一人で動いて大丈夫なのかい?」
「ゆっくりとなら……問題ありません」
息を整えながら、黒夜は必死に問いかける。
「それで……作戦は……どうなりましたか!?」
その声音は、隠しきれない不安に震えていた。
セイアは一瞬だけ黒夜を見つめ、それから穏やかに微笑む。
「全員無事だよ」
短く。
「作戦も成功した」
その言葉が、空気を震わせる。
黒夜の視界が揺れた。
「……よかった……」
足の力が抜ける。
その場に、へたり込むように座り込んでしまう。
「本当に……よかった……」
噛みしめるように呟く。
胸の奥で固く凍りついていた何かが、溶けていく。
セイアが歩み寄る。
「君は本当に心配性だな」
苦笑しながら、そっと手を差し伸べる。
「大丈夫かい?」
黒夜は笑おうとする。
「セイア様……すいません……」
呼吸が浅い。
「安堵したら……足に力が……」
情けない姿だと自覚しながら謝る。
だがセイアは首を振る。
「気にしなくていい」
その声は、静かで温かい。
「君が他者のために行動できる人だから、皆が力を貸してくれたんだ」
視線を正門へ向ける。
「ほら。みんなも帰ってきたみたいだよ」
黒夜も顔を上げる。
正門から、列をなして戻ってくる部隊。
戦車隊
正義実現委員会
風紀委員会
便利屋
美食研究会
そして多くのゲヘナ生とトリニティ生
そして――
先生たち。
黒夜に気づいた瞬間、何人かが手を振る。
ミカが大きく両腕を振る。
マコトが腕を掲げる。
ヒナが軽く銃を上げる。
カヨコが小さく手を上げる。
ナギサが微笑み、ハスミが手を振る。
イロハが戦車の上から手を振り、アルがウインクを飛ばし、
ミネが盾を掲げ、ハルナが優雅に帽子を振り、カスミが大袈裟に両手を広げる。
その光景を見た瞬間。
黒夜の中で、何かが決壊した。
右腕を精一杯上げ、振る。
「皆さん……!」
声が震える。
「お帰りを……待っていました……!」
笑おうとする。
だが。
「全員無事で……本当によかった……本当に……」
視界が滲む。
涙が、ぽろぽろと頬を伝う。
止まらない。
自分でも驚くほど、溢れてくる。
セイアは何も言わず、そっと背中に手を添える。
温かな掌。
それだけで、黒夜は崩れそうになるのを耐えられた。
その様子を見て、皆が駆け寄ってくる。
「黒夜!? 大丈夫!?」
ミカが真っ先にしゃがみ込む。
「どこか痛いの!?」
「黒夜さん! どうしたのですか!?
なにかありましたか!?」
ナギサが慌てる。
「おい! どうした!?
なにかあったのか!?」
マコトが身を屈める。
「泣いているの?」
ヒナの声は低く柔らかい。
「辛いことでもあった?」
「……大丈夫?」
カヨコが静かに言う。
「私でよければ、話聞くよ?」
その後ろからも声が飛ぶ。
「黒夜さん!」
「大丈夫ですか!」
「無理してません!?」
「救護の邪魔です!退きなさい!!」
黒夜は慌てて首を振る。
「い、いえ……体は大丈夫です……」
涙を拭おうとするが、右手ではうまくいかない。
「皆さんの無事を実感したら……堪えられなくて……」
泣きながら笑う。
その姿に、場の空気が柔らぐ。
マコトがふっと笑う。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことじゃありません」
ナギサが即座に言い返す。
ミカは黒夜の肩に手を置く。
「……もう、心配性なんだから」
だがその目は優しい。
黒夜はゆっくりと体を起こし、全員を見渡す。
そして。
深く、頭を下げる。
「サオリさんたちや、アツコさんを救ってくださり……」
声が震える。
「ありがとうございました」
心の底からの言葉。
サオリはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、じくりと痛む。
「……あいつに恩を返すのは、大変そうだな」
ぽつりと呟く。
隣に立つ先生が小さく笑う。
「そうだね」
視線は黒夜へ。
「でも、それも悪くない」
戦いは終わった。
誰も欠けなかった。
そして今。
泣きながら笑う一人の少年を囲み、皆が立っている。
それが何よりの証明だった。
――帰る場所は、ここにある。
そう、誰もが感じていた。