ティーパーティーに潜む、忠実な駒   作:KuRoNia

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三人が秘めた想い

 祝勝会の喧騒は、戦場の音とはまるで違っていた。

 

 食器が触れ合う小気味よい音。

 誰かの笑い声が重なり、別の誰かの驚き声が弾ける。

 料理の香りが空気に溶け、紅茶の甘い匂いがその上をなぞっていく。

 

 トリニティの大広間。白亜の壁は夕刻の残り火を受け、柔らかな橙色に染まっていた。

 そこに集う生徒たちは、勝利の余韻のまま、互いを称え、からかい、笑い合っている。

 

 ――その中心から、少しだけ距離を置いた場所。

 

 ナギサは、ティーカップを手にしたまま立っていた。

 ほんのわずかに人の流れから外れた位置。視線を向ければ、大広間のほぼ全域が見渡せる場所だ。

 

 近くにはミカとセイアがいる。

 三人とも祝勝会にふさわしい装いで、笑みを絶やさず、来客の挨拶には柔らかく返している。

 しかしその笑みの奥に、今だけは、別の熱が潜んでいた。

 

 視線の先。

 

 ゲヘナの面々に囲まれながら、黒夜が笑っていた。

 

 マコトが大皿を掲げ、何か豪快な言葉を投げる。

 ヒナがあきれたように目を細め、アコが腕を組んで小言を言う。

 カヨコが淡々と要点だけを刺し、便利屋が騒がしく笑い、茶化す。

 

 そして、その中心にいる黒夜は——

 

 楽しそうに笑っていた。

 

 それは、見慣れた笑顔ではなかった。

 立場を守り、線を引き、礼を尽くすために用意された形ではなく。

 

 年相応の、純粋な笑顔。

 

 肩の力が抜け、口元が自然に上がり、目尻が柔らかくほどける。

 誰かに向けて作るのではなく、その場の空気に身を任せた笑い方だった。

 

 ナギサは最初、微笑ましいと思った。

 

(……よかった)

 

 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。

 

(黒夜さんが、あのように笑っていられるのは良いことです)

 

 彼が生きていること。

 あの事件で、血と絶望の中にいた彼が、今はこうして光の中にいること。

 

(彼が安らげる場所があるということなのですから……)

 

 そう、思った。

 

 それは当然の感情だった。

 ティーパーティーとして、トリニティとして。

 彼に守られ、彼を守り、支えてきた立場としても。

 

 ……そして。

 

(私にも、見せたことのないような笑顔で……)

 

 その考えが浮かんだ瞬間、ナギサの指先が、カップの縁に軽く触れたまま止まった。

 

 ――違和感。

 

 言葉にしようとした途端に逃げていくような、薄い棘。

 だが確かに、そこにある。

 

 ナギサは目を瞬いた。

 視線を逸らそうとしたのに、逸らせなかった。

 まるで、見なければならないものを見てしまったように。

 

(私は……あのような笑顔を向けられたことが、あったでしょうか?)

 

 胸の奥で、何かがこつんと鳴った。

 

 思い返す。

 黒夜が自分に向けてくれる笑み。

 柔らかく、丁寧で、いつも礼儀正しい笑顔。

 

 そこに、安心はあった。信頼もあった。

 だが同時に——壁があった。

 

 護衛と主。

 一線を越えないための、静かな境界線。

 

(……そう)

 

 ナギサは自分の結論に、息が詰まるのを感じた。

 

 その事実に気付いた瞬間、心臓の音が嫌に大きく聞こえた。

 ドクンと鳴るたびに、胸の内側が揺れる。

 まるで——自分が何かに気付かないようにしていたのだと、身体が告げているかのように。

 

 そのとき。

 

 ゲヘナの輪の中で、マコトが黒夜に大皿を差し出した。

 

「これ食え。美味いぞ」

 

 黒夜が受け取り、右手だけで器用に口へ運ぶ。

 

「……美味しいですね」

 

 そして、楽しそうに笑う。

 

 その笑顔を改めて見たとき——

 

 ナギサの中で、最初の微笑ましさが、音もなく消えた。

 

(あぁ……)

 

 喉がひゅっと細くなる。

 息が浅くなる。

 

(そんな顔をしないでください)

 

 心の中でだけ、声が荒れる。

 

(どうして……?)

 

 答えは分かっている。

 彼は元々ゲヘナの生徒で、あそこは彼の帰る場所で、彼の友人たちがいる。

 今の彼が笑っているのは当たり前で、むしろ望むべきことのはずで。

 

 なのに。

 

(私には、したこともない笑顔をしないでください……!)

 

 叫びは口には出ない。

 出せるはずがない。

 そんなことを思う自分が、あまりにも浅ましいと分かっているから。

 

 ナギサの胸の内は荒れていた。

 けれど、すぐに冷静な部分が、硬い声で訴えかけてくる。

 

(いいえ、当然です)

 

 理性が、丁寧に言い聞かせる。

 

(彼は元々ゲヘナの生徒なのですから、友人に囲まれているだけ。原点はあちらにあるのだから——仕方がないではありませんか)

 

 正論。

 完全に正しい理論。

 

 ナギサは、その正しさに縋りついた。

 正しさを握りしめれば、この胸のざわめきは、なかったことにできる気がした。

 

 ……でも。

 

(もし)

 

 たった二文字が、理性の隙間から滑り落ちた。

 

(もし彼が、ゲヘナに戻ると言ったら?)

 

 その瞬間、空気が冷えた。

 

 視界の端が、ひどく鮮明になる。

 遠くの笑い声が一瞬遅れて耳に届く。

 身体の内側が、凍り付くように硬くなる。

 

 ナギサは、想像してしまった。

 

 黒夜が、ティーパーティーの専属護衛をやめて。

 トリニティを去って。

 ゲヘナの制服に戻り、あの輪の中心で、今と同じ笑顔で笑う姿を。

 

 ――想像してしまった。

 

(……だめ)

 

 喉の奥が痛い。

 

(嫌です)

 

 その恐怖は、説明ができないほど単純で、原始的だった。

 政治でも、条約でも、外聞でもない。

 

 ただ――

 

(黒夜さんが、私の側から離れるなんて……)

 

 ナギサは、カップを持つ指先に力を込めた。

 表情は崩さない。周囲には微笑みを向けたまま。

 ティーパーティーのナギサは、完璧にそこに居続ける。

 

 けれど心の内側で、叫びが何度も反響する。

 

(嫌です。嫌です。嫌です)

 

 そのとき。

 

 輪の中心から、声が聞こえた。

 

「それで? 左腕が治ったら、ゲヘナに帰って来るのか?」

 

 マコトの声だ。

 

 ナギサの息が止まった。

 

 ――やめてください。

 

 願いは言葉にならず、喉の奥で潰れる。

 視線が勝手に黒夜へ吸い寄せられる。

 

 黒夜は、一瞬だけきょとんとした顔をした。

 それから困ったように笑って、頭を少し傾ける。

 

「そうですね……」

 

 呼吸が浅くなる。

 

「一度、顔を出すのもいいかなと思ってます」

 

 その言葉は、軽い。

 何気ない。

 冗談の延長のように聞こえる。

 

 けれど、ナギサにとっては――

 

 床が抜ける音だった。

 

 身体がふらりと揺れる。

 倒れそうになるのを、必死に耐えた。

 

 微笑みの形を崩さない。

 カップも落とさない。

 膝が震えそうになるのを、靴の中で押し殺す。

 

(……嫌です)

 

 胸の奥が、ひどく痛い。

 

(嫌です、嫌です、嫌です……!)

 

 黒夜が離れる。

 

 その未来が、現実味を帯びた途端、恐怖はさらに鋭くなった。

 ナギサは気付く。

 

 自分は今まで、黒夜がここにいることを当たり前のように思っていたのだと。

 それがどれほど脆い前提か、想像すらしてこなかったのだと。

 

(こんなことになるなら……)

 

 喉の奥が、熱くなった。

 

(黒夜さんなんて——)

 

 そこで、思考が途切れた。

 

 ナギサは、心臓がひゅっと縮むのを感じた。

 

(……今、私は何を思った?)

 

 救わなければよかった?

 助けなければよかった?

 目覚めなければよかった?

 

(……最低です)

 

 吐き気がするほど、自分が嫌になる。

 自分が守りたいと誓ったものを、自分の感情で汚してしまったことが許せない。

 

 けれど、すぐに理屈が自分を満たした。

 理屈だけが、ナギサを立たせる。

 

(違う)

 

 震える心を、硬い言葉で押さえつける。

 

(専属護衛が、勝手にどこかへ行ってしまうのが困るだけです)

 

 そうだ。

 これは立場の話だ。

 ティーパーティーの専属護衛が、他校に心を残すのは外聞が良くない。

 政治的にも、秩序的にも、問題がある。

 

(そう、これは政治的な話です)

 

 自分に言い聞かせる。

 何度も。何度も。

 

(決して、私情なんかじゃない)

 

 ――言い聞かせるほど、胸の奥の痛みは消えなかった。

 

 ナギサは、ふと気付く。

 

 ミカが少しだけ唇を噛んでいることに。

 いつものように明るく笑いながらも、視線が黒夜から離れないことに。

 

 そしてセイアが、静かに紅茶を揺らしながら、ナギサを一瞬だけ見たことに。

 

 見透かすような視線ではない。

 確かめるような、慎重な視線だ。

 

 その一瞬で、ナギサは理解した。

 

 自分だけではない。

 ミカも。セイアも。

 それぞれが、同じ場面を見て、違う痛みを抱えている。

 

 だが、誰も言わない。

 言えるはずがない。

 

 祝勝会の空気に水を差すわけにはいかない。

 黒夜に気付かれてはならない。

 自分たちの浅ましさを、彼の前に差し出してはいけない。

 

 ナギサは、微笑みを保ったまま、カップの縁を親指でなぞった。

 

(……立場の話なんです)

 

 小さく、胸の中で繰り返す。

 

(立場の話。立場の話です)

 

 しかし、その言葉は祈りのように弱くなっていく。

 

 視線の先で、黒夜がまた笑う。

 マコトが豪快に肩を叩き、ヒナが呆れながらも少し口元を緩める。

 便利屋が騒ぎ、アリウスの面々が遠巻きに黒夜を見ている。

 

 みんなが彼を「中心」にしている。

 

 ナギサは胸の内で、静かに震えた。

 

(……私は)

 

 その続きを言葉にできない。

 

 言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだったから。

 

 だから、ナギサは微笑んだ。

 

 ティーパーティーのナギサとして。

 祝勝会の主催側として。

 何事もない顔で。

 

 誰にも気付かれないように。

 胸の奥の嵐だけを、必死に堪えながら。

 

 祝勝会のざわめきは夜へ向かって続いていく。

 その中で芽生えた小さな痛みは、まだ名前を持たないまま、静かに息をしていた。

 

 

 

 

 祝勝会の空気は甘く、柔らかい。

 その光の中で、皆が笑っている。

 それだけで、ほんとは十分なはずだった。

 

 ――なのに。

 

 ミカは、気付いてしまった。

 

 少し離れた場所。

 ゲヘナの輪の中心で、黒夜が笑っている。

 

 肩を叩かれて、言い返して。

 少しだけ言葉が崩れて。

 無防備に、年相応に。

 

 それは、ミカが知っている黒夜の笑顔と似ているはずなのに、どこか違った。

 

(……あ)

 

 胸の奥が、わずかに冷える。

 

 最初は良かったと思った。

 

 黒夜が笑ってる。

 あんなふうに、自然に。

 ちゃんと、笑えてる。

 

 痛みに耐えながら、それでも誰かを守ろうとした姿。

 血に濡れて、笑って、誰よりも先に「大丈夫です」って言ったあの顔。

 

 その記憶が、まだ胸に残っている。

 だからこそ、今の笑い声は救いに見えた。

 

(よかった……)

 

 心の中で、そう呟いてしまう。

 

(ほんとに、よかった)

 

 ――でも。

 

 その次に来たものは、嬉しさじゃなかった。

 

 ミカは自分の中に生まれた違和感を、最初は理解できなかった。

 笑っている黒夜を見ているのに、胸がざわつく。

 喜ばしいはずの光景なのに、心が落ち着かない。

 

 理由が分からないまま、視線だけが黒夜に吸い寄せられる。

 

 ゲヘナの輪は、賑やかで、熱があって、距離が近い。

 黒夜の肩にマコトが肘を乗せて、黒夜が苦笑しながら軽く払いのける。

 ヒナが少しだけ眉を上げて、アコが「失礼です」と小言を言う。

 カヨコが冷静に要点だけを刺して、アルが大袈裟に胸を張る。

 ムツキが笑って、ハルカが小さく頷いて、また笑いが広がる。

 

 その中心で、黒夜が笑う。

 

 ――知らない顔だ。

 

 ミカは、どこか面白くないと感じた。

 

(私、あんな顔……)

 

 思い返す。

 

 黒夜が自分に向ける笑顔。

 優しくて、柔らかくて、温かい。

 私のことを大事にしてくれてるって分かる笑顔。

 

 だから、嬉しい。

 安心する。

 救われる。

 

 だけど今、ゲヘナの輪の中で見せている笑顔は——

 

 それよりもっと、無防備で、自然で、遠慮がない。

 

 まるで、そこにいるのが当たり前みたいに。

 守らなきゃじゃなくて、一緒にいるだけで満たされるみたいに。

 

(……なんで?)

 

 胸がちくりと痛む。

 

(どうして、その笑顔を……私にだけ、向けてくれないの?)

 

 そう思った瞬間、ミカは自分で自分に驚いた。

 

 向けてくれない?

 何を言ってるの?

 

 黒夜は、いつも私に優しい。

 私のわがままにも、怒らない。

 少し困ったように笑って、それでもちゃんと受け止めてくれる。

 

 それで十分なはずだった。

 

 なのに。

 

(私、欲張りになってる)

 

 ミカは自分の心が、じわじわと熱くなるのを感じた。

 嬉しいとか、寂しいとか、そんな優しい言葉じゃない。

 もっと、幼くて、恥ずかしくて、言ってはいけないような感情。

 

(私にだけに見せてよ…)

 

 そんなの、子供みたいだ。

 自分でも分かる。

 

 でも止まらない。

 

 ミカは、黒夜の笑顔を見ているだけなのに、喉が渇いていく。

 グラスに手を伸ばしても、飲み込めない。

 胸の中の騒めきが、どんどん大きくなる。

 

 ――気付いてしまったから。

 

 ミカが知っている黒夜は、いつも守る人だった。

 ティーパーティー専属護衛として。

 トリニティの人間として。

 そして何より、誰かのために動く人として。

 

 だからミカは、安心していた。

 

 黒夜は自分たちの側にいる。

 黒夜は自分たちを守ってくれる。

 黒夜は、少なくともここにいる。

 

 その前提が、勝手に心の中で固まっていた。

 

 でも今、目の前にあるのは——

 黒夜が帰れる場所を持っている姿。

 

 ゲヘナで。

 ゲヘナの空気で。

 ゲヘナの輪の中で。

 

 黒夜は、笑っている。

 

(……私がいなくても)

 

 その考えが浮かんだ瞬間、ミカは悲しくなった。

 

(黒夜は、笑えるんだ)

 

 それは当たり前のことなのに。

 喜ばしいはずなのに。

 

(……嫌だな)

 

 ミカは、唇を噛んだ。

 

 嫌だ。

 

 何が?

 

 黒夜が笑うのが?

 ゲヘナが楽しそうなのが?

 黒夜が元気そうなのが?

 

 違う。

 

 そんなことを嫌だと思うはずがない。

 

 ――じゃあ、何が嫌なの?

 

 答えは、もう分かっているのに。

 

 ミカはそれを言葉にできない。

 言葉にした瞬間、自分の中の何かが崩れてしまいそうだった。

 

 ミカは、グラスを持ち替える。

 手が震えないように、しっかり握る。

 笑顔を作る。

 ティーパーティーのミカとして、周囲に明るく振る舞う。

 

 けれど、心の中では。

 

(どうして?)

 

 もう一度、問いが浮かぶ。

 

(どうして、その笑顔を私にだけ向けてくれないの?)

 

 そして、その次の言葉が喉の奥まで来て、止まる。

 

(私はこんなにも黒夜のことが―――――)

 

 そこで、思考が止まった。

 

 ミカは、息が詰まる。

 

 続きの言葉を言うのが怖い。

 言ったら最後、戻れない気がする。

 今までの自分に、嘘がつけなくなる気がする。

 

 ミカは、視線を逸らそうとした。

 でも逸らせない。

 黒夜の笑顔は眩しくて、痛い。

 

 そのとき、黒夜がふと、こちら側に顔を向けた気がした。

 

 ミカの心臓が跳ねる。

 

(見られた?)

 

 思わず姿勢が固まる。

 笑顔を貼り付ける。

 いつも通りの、明るい自分を装い軽く手を振る。

 

 ――でも違った。

 

 黒夜はミカを見ていなかった。

 彼の視線の先は、料理の皿か、マコトの手振りか、誰かの冗談の方向か。

 ミカの存在は、その賑やかな輪の外側に置き去りのままだった。

 

(……あ)

 

 胸が、痛い。

 

 痛いのに、笑っている自分が気持ち悪い。

 

 ミカは、思い出してしまう。

 

 黒夜がアズサを庇って、血を流して。

 それでも彼女達を許して。

 

 ミカはそのとき、心の奥で誓った。

 

 もうあんな悲劇はたくさん。

 黒夜みたいな人が、報われないなんて嫌だ。

 救われるべき人が、救われないなんて、絶対に許せない。

 

 だからミカは、許した。

 サオリを。

 復讐を手放した。

 「それでも光があるなら諦めるな」と言った。

 

 ――全部、黒夜がいたからできた。

 

 黒夜がいたから、ミカは前に進めた。

 

(……私)

 

 ミカは気付く。

 

 それは感謝だけじゃない。

 大切なだけでもない。

 それはもっと深く。もっと危うい。

 

 自分の足元を支えている支柱が、黒夜になっていた。

 

(私、黒夜がいないと……)

 

 言葉にしようとして、また止まる。

 

 怖い。

 

 そんなこと、思っちゃいけない。

 黒夜は誰のものでもない。

 彼には彼の人生がある。

 彼は、誰かを救うための道具じゃない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに。

 

(でも)

 

 ミカの胸の奥から、もう一つの声が湧く。

 

(でも、嫌だよ)

 

 黒夜が自分の知らない場所で笑うのが。

 黒夜が自分の知らない顔を見せるのが。

 黒夜が、自分がいなくても平気そうなのが。

 

(……私、わがままだ)

 

 ミカは自分を責めようとする。

 

 でも、その瞬間。

 

 ふと、黒夜の困った笑い方を思い出す。

 いつも誰かに気を遣って、無理に明るく振る舞って、

 痛くても大丈夫と言う人。

 

 あの笑顔の裏に、どれだけのものを隠しているか。

 

 ミカは、知ってしまっている。

 

(……黒夜も、わがままになっていいのに)

 

 矛盾した感情が、胸を満たす。

 

 黒夜が自由に笑えるのは嬉しい。

 でも、その自由が自分の外側にあるのは寂しい。

 

 ミカは、視線を落とす。

 グラスの中で、ジュースの表面が揺れている。

 

 その揺れを見つめながら、ミカは気付いてしまう。

 

 自分の感情の正体。

 

(依存、してるんだ)

 

 胸の奥に落ちた言葉は、重かった。

 

 依存。

 

 それは、弱い言葉。

 恥ずかしい言葉。

 誰かに支えられていないと立てないみたいな、情けない言葉。

 

 ミカは、最初、その言葉を拒絶しようとした。

 

(違う!)

 

 頭の中で、慌てて否定する。

 

(私はただ、黒夜が大切で……)

 

 大切、感謝、信頼

 そういう綺麗な言葉に変換したくなる。

 

 でも、変換できない。

 

 だって、ミカは今——

 

 黒夜がゲヘナの輪の中で笑っているだけで、こんなに苦しい。

 

 たったそれだけで、胸が痛んで、心が不安定になる。

 自分の心が、黒夜の存在に左右されている。

 

(……依存してる)

 

 否定できない。

 

 そしてさらに、ミカはもっと怖いことに気付く。

 

(……私、この依存を)

 

 吐息が震えた。

 

(……手放したくない)

 

 恥ずかしい。

 情けない。

 子供みたいだ。

 

 だけど。

 

 ミカは、知っている。

 

 依存してしまうほど、黒夜は優しかった。

 依存してしまうほど、黒夜は自分の痛みを受け止めてくれた。

 依存してしまうほど、黒夜は支えてくれた。

 

 ミカは、ゆっくりと息を吸う。

 胸の中のざわつきを、いったん肺の奥へ沈めるように。

 

(……もういいよね?)

 

 心の中で、小さく言う。

 

(依存しても、いい)

 

 その言葉は、自分への許しだった。

 

 誰にも言えない。

 黒夜にも言えない。

 ナギサにも、セイアにも言えない。

 

 でも、自分の中でだけ。

 

(今は、まだ)

 

 だって、今の自分には、黒夜が必要だ。

 

 黒夜がいなければ、また過去に引き戻されてしまいそうだ。

 復讐の手触りを思い出してしまいそうだ。

 あの闇に、もう一度沈んでしまいそうだ。

 

 黒夜がいるから、光がある。

 黒夜がいるから、ミカは笑える。

 

(……私、ずるいな)

 

 ミカは心の中で苦笑した。

 

 黒夜に救われた者が、救った側を縛ろうとしている。

 それはきっと、卑怯な事だ。

 

 だからこそ。

 

(縛らない)

 

 ミカは、誓う。

 

(絶対に、縛らない)

 

 黒夜の自由を奪わない。

 黒夜の居場所を奪わない。

 黒夜が笑える場所を、壊さない。

 

 ——でも。

 

(私だけは、置いていかないで…)

 

 それだけは、どうしても願ってしまう。

 

 ミカは顔を上げる。

 遠くで黒夜がまた笑っている。

 

 その笑顔は、眩しい。

 眩しすぎて、少し痛い。

 

 でも、嫌じゃない。

 

 ミカは、静かに笑った。

 

 誰にも気付かれないように。

 黒夜にも、他の誰にも気付かれないように。

 

 胸の奥の痛みを抱えたまま、

 それでも笑う。

 

 祝勝会は続く。

 

 光の中で、皆が笑う。

 

 その中で生まれたミカの感情は、

 ただ一つだけ、確かな形を持っていた。

 

 ——黒夜が必要だ。

 

 ミカはその事実を、受け入れてしまった。

 

 

 

 

 セイアは、祝勝会の光景を静かに眺めていた。

 

 人波から少し離れた位置。

 ティーパーティとしての立ち位置を崩さず、来客への挨拶にも応じられる場所。

 手元には紅茶のカップ。湯気は薄く、香りだけが穏やかに鼻先をくすぐる。

 

 ――けれど。

 

 セイアの意識は、料理にも会話にも向いていなかった。

 

 隣にいる二人。

 

 ナギサとミカ。

 

 彼女たちは笑っている。

 祝勝会らしく、柔らかな微笑みを保っている。

 しかしその笑顔の奥にある微細な歪みを、セイアは見逃さなかった。

 

 ナギサは背筋がいつもより硬い。

 丁寧な所作の裏に、微かな焦りが混ざっている。

 ミカは明るい声を出しているのに、目線だけが定まらない。

 笑っているはずの口元が、時々ほんの僅かに強張る。

 

(……無理をしているね)

 

 セイアは内心で結論を出す。

 そして、原因にもすぐに辿り着いた。

 

 視線の先。

 ゲヘナの輪の中心で——黒夜が笑っている。

 黒夜が年相応に笑っている。

 

 守る者としての笑顔ではない。

 礼儀としての笑みでもない。

 ただその場にいるから生まれる自然な表情だ。

 

 ……微笑ましい。

 セイアはそう思った。

 

(いいじゃないか)

 

 心の中で呟く。

 

(友人に囲まれて、肩の力を抜ける時間があるのは。彼にだって必要だ)

 

 黒夜はいつも、誰かのために動く。

 誰かの未来を願い、自分の痛みを後回しにする。

 だからこそ、こういう時間は貴重だ。

 

 ――そう、思っていた。

 

 セイアにとって、それは本当に微笑ましい光景だった。

 少なくとも、その時までは。

 

 ナギサとミカの“歪み”も、きっと一時的なものだろう。

 あの光景に、心が追いついていないだけ。

 普段見ない姿を見れば、誰だって揺れる。

 

 セイアはそう判断し、紅茶のカップを口元へ運ぶ。

 

 香りは穏やかで、味も柔らかい。

 温度は程よく、喉を落ちる感覚が静かに身体を温める。

 

 ……そのはずだった。

 

 耳に届いた言葉が、その温度を一瞬で冷やした。

 

「それで? 左腕が治ったら、ゲヘナに帰って来るのか?」

 

 マコトの声。

 

 セイアの視線が、ほんの少しだけ強くなる。

 

 ――ああ、これは。

 

 冗談混じりの軽口。

 いつものゲヘナのノリ。

 軽い問いかけ。

 

 黒夜もきっと、軽く返す。

 「どうでしょうね」と笑う。

 「機会があれば」と曖昧に流す。

 

 そう思った。

 

 だが。

 

 黒夜は、一瞬だけ間を置いた。

 ほんの僅かに困ったように笑って——

 

「そうですね……」

 

 その言葉で、セイアの背筋が微かに固まった。

 

「一度、顔を出すのもいいかなと思ってます」

 

 言葉は軽い。

 表情も穏やか。

 場の空気を壊さない言い方。

 

 ――それでも。

 

 セイアの胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 

(……あ)

 

 世界が少しだけ遠のく。

 

 祝勝会のざわめきが、壁一枚隔てた向こう側の音になる。

 紅茶の香りが一瞬だけ薄れる。

 手に持つカップの重みが、妙に現実的に感じられる。

 

 そしてセイアは気付いてしまう。

 

(彼は、帰ってしまう…)

 

 黒夜は、ゲヘナに帰ることを自然に口にした。

 それがどういう意味を持つか。

 

 ティーパーティー専属護衛。

 トリニティへの転入。

 エデン条約の混乱期、政治の中心に立つ護衛。

 

 その立場は、当然のようにここにいることを前提にしている。

 

 ――だが、前提など、脆い。

 

(……今さらだね)

 

 セイアは自嘲する。

 

(彼は“借り物”だった。最初から、ずっと)

 

 黒夜の居場所がトリニティに根を下ろしているわけではない。

 彼がこの場にいるのは、使命と状況がそうさせているからだ。

 

 分かっていたはずなのに。

 

 分かっていたはずなのに——

 

(なぜ今さら、こんなに怖い?)

 

 セイアは、喉の奥が乾くのを感じた。

 

 黒夜が離れるかもしれない。

 その可能性が、初めて“輪郭”を持った。

 

 ゲヘナの輪の中で笑う黒夜。

 そこにある安心。

 そこにある自然さ。

 

 ――黒夜の帰る場所は、トリニティではなく、ゲヘナに寄っている。

 

 それは当然だ。

 元々の所属なのだから。

 友人がいるのだから。

 

 なのに。

 

 セイアの心は、冷えたままだった。

 

(……想像できない)

 

 黒夜のいないティーパーティーを。

 

 ナギサがあの背中を探す姿を。

 ミカが明るく振る舞いながら、どこか空虚になる姿を。

 そして自分が——

 何事もない顔で、淡々と最終処理をし続ける姿を。

 

 そんな未来を、セイアは受け入れたくなかった。

 

 カップを持つ手が、微かに震えた。

 

 ほんの僅か。

 誰にも気付かれない程度。

 だが確かに、震えは存在する。

 

(……まずいね)

 

 セイアは内心で冷静に診断する。

 

(私は動揺している)

 

 それは珍しいことだった。

 自分はいつも、状況を俯瞰し、整理し、必要な処理を施す側だ。

 感情の波に呑まれるのは、得意ではない。

 

 ――いや、得意ではないのではない。

 

 呑まれてはいけない、と決めている。

 

 だからこそ、セイアの頭は、いつもの癖で回り始めた。

 

(……どうすれば)

 

 どうすれば黒夜をトリニティに留められる?

 

 いや、留めるという言い方は良くない。

 黒夜の意思を尊重するべきだ。

 彼は道具ではない。

 誰かの所有物でもない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、考えが止まらない。

 

(条件を提示する?)

 

 金銭?

 待遇?

 名誉職?

 安全な居住区の提供?

 医療の手配?

 リハビリの環境?

 

 ——いくらでも用意できる。

 

(……だが)

 

 セイアは気付く。

 

 黒夜は、そういうものでは動かない。

 

 彼が動く理由はいつだって誰かの未来だ。

 誰かが困っているから。

 誰かを救いたいから。

 自分の損得ではない。

 

(なら、情?)

 

 泣き落とし。

 縋りつく。

 君が必要と言う。

 

 ……それも違う。

 黒夜はそういう言葉に弱い。

 弱すぎる。

 そんなものを使えば、彼は自分を犠牲にして残る。

 

 それは、彼を救うことではなく、彼を縛ることだ。

 

(……では、どうすればいい?)

 

 思考はさらに、暗い方へ滑る。

 

 外部との接点を減らす。

 ゲヘナとの交流を制限する。

 必要性を作る。

 条約の名目で拘束する。

 徐々に外との交流を減らしていき

 そして——

 

(監禁?)

 

 その単語が浮かんだ瞬間、セイアの眉がわずかに動いた。

 

(……最低だ)

 

 自分で自分が嫌になる。

 

 そんなことを考える時点で、既に狂っている。

 頭が良いからこそ、最悪の手段が具体的に思い浮かぶ。

 そして思い浮かんだ瞬間、その手段が可能に見えてしまう。

 

 ――止めなければ。

 

 セイアは、深く息を吸った。

 

 紅茶の香りを、肺の奥まで入れる。

 冷静になれ。

 理性を取り戻せ。

 

 カップを口元へ運ぶ。

 

 ひと口、飲む。

 

 温かい。

 甘い。

 落ち着く——はずだった。

 

 だが、震えは治らない。

 

 指先の微かな震えが、カップの縁を揺らす。

 紅茶の水面が小さく波立つ。

 

 セイアはそれを見つめながら、悟った。

 

(……私も)

 

 ナギサやミカと同じだ。

 

 無理をしている。

 表情を崩さず、立場を守り、何事もないふりをしている。

 

 ――けれど心の奥は、荒れている。

 

 セイアは、自分の中で名前の付かない感情が息をしているのを感じた。

 

 嫉妬ではない。

 怒りでもない。

 悲しみとも違う。

 

 もっと静かで、もっと深い恐怖。

 

(黒夜が離れていく)

 

 その未来が、現実味を帯びるだけで、胸が冷える。

 

 黒夜は誰かのために動く。

 その誰かは、トリニティだけではない。

 ゲヘナでも、アリウスでも、先生でも。

 

 ——そして黒夜は、それを止められない。

 

 自分から離れていくのは、自然な流れだ。

 むしろ、彼らしい。

 

(……耐えられない)

 

 セイアは、心の中でだけ呟いた。

 

 彼がどこへ行っても生きていてくれればいい。

 彼が笑ってくれればいい。

 そう思っていたはずなのに。

 

 ――離れることが現実を帯びるだけで、耐えられない。

 

 セイアは、目を伏せたまま、もう一度紅茶を飲む。

 ゆっくり。丁寧に。

 まるで、そうすれば自分の心の揺れも整うかのように。

 

 震えは治らない。

 

 それでも、表情は変えない。

 

 祝勝会の空気を壊すわけにはいかない。

 黒夜に気付かれるわけにはいかない。

 ナギサとミカに、自分の醜さを見せるわけにもいかない。

 

 だから。

 

 セイアは、微笑んだ。

 

 いつも通りの、静かな微笑み。

 ティーパーティーのセイアの顔。

 

 視線の先で、黒夜がまた笑っている。

 ゲヘナの輪の中心で。

 年相応に。

 無防備に。

 

 ――微笑ましい、はずだった。

 

 だが今は。

 

 その笑顔が、少しだけ遠い。

 

 セイアは理解した。

 

 この祝勝会は、勝利の祝いであると同時に。

 三人がそれぞれの弱さを自覚する夜でもあるのだと。

 

 ナギサは、微笑みの奥で思っている。

 

(彼は、私の側にいるべき存在です…)

 

 ミカは、笑顔の裏で願っている。

 

(私を、置いていかないで…)

 

 そしてセイアは、紅茶の水面を見つめながら問い続ける。

 

(君は、どこへ行ってしまうのだろうか…)

 

 祝勝会の喧騒は、夜まで続いた。

 その中で芽生えた小さな感情に、誰も気付かないまま。

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