トリニティの校舎は、今日も静かだった。
純白の壁は変わらず整い、廊下には規則正しい足音が響いている。
窓から差し込む光は柔らかく、穏やかな日常を演出していた。
アズサは、その廊下を歩きながら、何の気なしに視線を巡らせていた。
——そして、見つける。
黒夜の姿。
遠く、階段の踊り場。
左腕にギプスを巻き、背筋を伸ばして歩くその背中。
以前よりも少しだけ動きは慎重だが、歩幅はしっかりしている。
怪我人のそれではあるが、弱々しさはない。
アズサは、足を止めた。
(……ああ、あそこにいる)
最近、こうして黒夜を目で追うことが増えていた。
それは自分が心配しているからという理由もある。
だが、もっと単純な事情もあった。
サオリたちに、よく聞かれるのだ。
「黒夜は元気か?」
「怪我は具合はどうだ?」
「ちゃんと食べてる?」
「ちゃんと復帰出来た?」
逐一、近況を求められる。
だからつい、見かけると確認するようになっていた。
歩き方。
表情。
誰と話しているか。
習慣になっている。
(……怪我はまだ治ってないのか)
左腕は当然として。
頭部と左目の包帯。
あれが、妙に目立つ。
(まだ取れないのか……)
アズサは小さく眉を寄せた。
戦闘で生傷は絶えなかった自分たちから見れば、一週間あれば大体は塞がる。
もちろん個人差はある。
だが、あの包帯の残り方は少し違和感があった。
黒夜は誰かと軽く会釈を交わし、廊下の向こうへ消えていく。
その背中を見送りながら、アズサは小さく息を吐いた。
(……気にしすぎか)
そう思って、そのまま歩き出す。
その日の放課後。
アズサは、サオリたちと一週間ぶりに顔を合わせていた。
保護観察処分の身である四人は、定期的に先生へ居場所を報告する義務があるものの、基本的には自由行動が許されている。
バイトや依頼、賞金稼ぎ。
日銭を稼ぎながら、なんとか生活している。
今日は簡素な定食屋の一角。
質素だが、落ち着く空間。
四人とアズサ、五人で囲むテーブル。
「いただきますぅ!!」
ヒヨリが元気よく手を合わせる。
それぞれが料理を取り分けながら、自然と近況報告が始まる。
「この前の依頼、報酬安すぎないか?」
サオリが眉をひそめる。
「でも条件は悪くなかったよ?」
アツコが穏やかに返す。
「危険度の割に、って意味だと思うよ」
ミサキはスープを飲みながら言う。
「私たちの立場考えたら仕方ないと思います…」
そんな他愛のないやり取りの中。
アツコがふと、顔を上げた。
「ところで」
視線がアズサに向く。
「黒夜の怪我の具合、どんな感じ? 治ってきてる?」
その問いに、全員の視線が集まる。
アズサはフォークを置いた。
「ああ。定期的に診断もしているみたいだ」
淡々と答える。
「左腕の骨折はまだ時間はかかるだろうが、最近はもう仕事にも復帰している」
「そうなんだ」
アツコの表情がほっと緩む。
「よかった」
少し間を置いて、続ける。
「じゃあ、もう包帯も取れた?」
「いや」
アズサは首を振る。
「まだ取れていない」
「え?」
アツコが目を瞬く。
「怪我してから、もう一週間経ったよね?」
「経ったな」
「もうそろそろ包帯が取れてもいい頃じゃない?」
サオリも腕を組む。
「確かにな。私たちも訓練などで生傷は絶えなかったが、一週間もすれば治っていた」
「……そうですね」
ヒヨリが不安そうに呟く。
ミサキは、顎に手を当てて考え込んでいた。
そして。
「……もしかして」
ぼそりと。
「ヘイロー破壊爆弾のせいってこと、ないよね……?」
空気が止まる。
「どういうことだ!?」
サオリが身を乗り出す。
「それはどういう意味?」
アツコの声も緊張する。
アズサも目を細める。
「説明してくれ」
ミサキは少し肩をすくめる。
「いや、私も詳しくは知らないけどさ」
慎重に言葉を選ぶ。
「あの爆弾って、ヘイローの効果を無くすものでしょ?」
「……ああ」
サオリの顔が強張る。
「だからさ」
ミサキは続ける。
「傷の治りが遅くなってるとか、何かしらの影響は出てそうじゃない?」
ヒヨリが青ざめる。
「え!? じゃあ黒夜さんはどうなっちゃうんですかぁ!?」
「落ち着け」
サオリが低く言う。
だがその声にも動揺は滲んでいる。
ミサキはすぐに付け加える。
「あくまで私の憶測だけどね」
だがその“憶測”は、四人の胸に重く落ちた。
沈黙が続いた
誰も料理に手を伸ばさない。
最初に口を開いたのは、アツコだった。
「……アズサ」
「なんだ」
「黒夜が定期的に診断を受けてるって言ってたよね?」
「ああ」
「なら、多分カルテか何かあると思うの」
アズサの目が細くなる。
「それを確認してくれないかな?」
サオリが顔を上げる。
「アツコ」
「もしミサキの憶測が杞憂なら、それはそれでいい」
アツコの声は静かだが、強い。
「でも、もし憶測通りなら……私たちも動かなくちゃいけないと思うの。
これ以上彼を傷付けさせない為にね」
視線が真っ直ぐ、アズサを射抜く。
「ね? お願い」
その声は、懇願に近い。
「これはトリニティに通ってるアズサにしかできないことなの」
「……」
「確認するだけで、盗むわけじゃないから」
アズサは目を閉じる。
規則違反
侵入
閲覧
正義実現委員会に見つかれば、許されない。
だが
(……私も、心配になってきた)
頭に浮かぶのは、包帯を巻いた黒夜の横顔。
無理に笑う表情。
何かを隠しているような沈黙。
「……わかった」
アズサは静かに言う。
「戻ったらカルテを探して確認してみよう」
サオリが息を吐く。
「頼む」
ヒヨリは安心して料理を頬張る。
ミサキは目を伏せたまま、小さく呟く。
「何もなければいいんだけどね……」
その場は解散となった。
そして——夜。
トリニティ総合学園は静まり返っている。
月明かりが廊下を白く照らし、人気はない。
アズサは影のように歩いていた。
足音を殺し、気配を消す。
目的地は、救護騎士団の診察室。
扉の前で一瞬だけ立ち止まる。
(……確認するだけだ)
自分に言い聞かせる。
そして、静かに扉を開けた。
室内は月明かりだけが頼り。
棚に整然と並ぶカルテのファイル。
アズサは迷わず、黒夜の名を探す。
ほどなくして、見つける。
ファイルを抜き取り、月光の下へ。
ページをめくる。
文字を追う。
「……ふむ」
小さく呟く。
「上半身の傷はほとんど完治しているな」
胸部裂傷。打撲。
順調な回復。
「ん?」
次のページ。
「頭の傷も完治しているぞ……」
アズサは眉を寄せる。
違和感。
頭の傷が治っているのに。
なぜ、包帯が取れない?
ページをさらにめくる。
その時。
視線が、ある一点で止まった。
赤線が引かれている。
強調。
診断結果。
左目:眼球および瞼の裂傷により――
空気が凍る。
鼓動が一瞬、止まる。
そして、そのすぐ横。
無慈悲な一文。
失明
背筋が、ぞっとした。
血の気が引く。
視界が狭まる。
「……嘘だ」
震える声。
月明かりの中、アズサの顔は絶望に染まっていた。
翌日
アズサはトリニティを欠席していた。
連絡は最小限。
理由も曖昧に。
それでも、サオリたちはすぐに呼び出しに応じた。
集合場所は、人気のない路地裏。
昼間だというのに、建物に囲まれたその場所は薄暗い。
湿った空気が肌にまとわりつき、足音がやけに響く。
サオリたちは、胸の奥にじわりと広がる嫌な予感を押さえきれなかった。
(昨日の今日で呼び出し……)
何もないはずがない。
アツコが一番に口を開く。
「来たよ」
柔らかい声。
だが、どこか緊張している。
「黒夜は……どうだった?」
アズサは俯いていた。
視線は地面。
拳は、白くなるほど握りしめられている。
ポツリ、と。
「……上半身の怪我も」
言葉が途切れる。
「頭の怪我も……ほぼ完治していた」
一瞬、空気が緩む。
サオリが小さく息を吐く。
「……そうか」
ヒヨリも胸を撫で下ろす。
「よ、よかったです……」
昨日の憶測が外れた。
ヘイロー破壊爆弾の影響ではなかった。
傷は治っている。
——それなら。
だが、アズサの声が、震える。
「だけど……」
その声は、かすれていた。
「黒夜の左目は……」
喉が詰まる。
それでも、絞り出す。
「……もう見えていないんだ」
その一言で。
先ほどの安堵は、音を立てて崩れた。
沈黙
誰も動けない。
風が、路地裏のゴミ袋をかすかに揺らす。
サオリの視界が、揺れた。
「……は?」
信じられない、というより。
理解を拒絶する声。
「失明って事……?」
ミサキの顔から血の気が引く。
「……そんな」
アツコは、言葉を失った。
ヒヨリは、ただ口を押えて固まっている。
アズサの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「私が……」
ぽろぽろと。
「私が……あの時捕まっていなければ……」
自責の言葉。
サオリの身体が、反射的に動いた。
「違う!」
怒鳴る。
「アズサのせいじゃない!」
拳が震えている。
「すべては……私だ」
声が、低くなる。
「私が黒夜を逆恨みして……殺そうとしたのが原因だ……」
視界の端に、あの時の光景が蘇る。
爆弾
人質
罠
「私が……あいつから奪ってしまったんだ……」
拳を握りしめ、近くの壁へ叩きつける。
鈍い音。
もう一度。
「クソ……!」
また叩く。
「クソ……!」
皮膚が裂け、血が滲む。
「私は馬鹿だ……!」
息が荒い。
「マダムに洗脳され……それに何の疑問も抱かず……!」
怒りと嫌悪が混ざる。
「怒りのままに黒夜の左目を奪って……!」
拳が震える。
「それを知らずに黒夜に救われて……!」
声が掠れる。
「私は……救いようのない馬鹿だ!」
その場の空気は、重すぎた。
アツコも、ミサキも、ヒヨリも。
誰もサオリに声を掛けられない。
掛けられるはずがない。
自分たちも、あの罠に関わっていたのだから。
ヒヨリの顔が青ざめる。
「……う」
膝から崩れ落ちる。
今朝食べたものを吐き戻す。
「ご、ごめ……」
声にならない。
ミサキは壁にもたれ、ずるずるとへたり込む。
視点が定まらない。
「……私は…なんてことを…」
アツコの呼吸が荒くなる。
「は、は……」
過呼吸。
そのまま意識を失い、倒れ込む。
サオリは壁を支えに、立ったまま。
「すまない……」
呟く。
「すまない……」
永遠に繰り返す。
アズサは、ただ泣いていた。
静かに。
声を上げることもなく。
そのような地獄の空気を切り裂くように唐突に声がする。
「どうしたの!? 大丈夫!?」
明るい声が路地裏に響く。
全員が顔を上げる。
そこに立っていたのは、先生だった。
先生はこの付近に用事があり、訪問していた。
ついでに様子を見ようと、シッテムの箱を使ってサオリたちの位置を確認し、近くまで来ていたのだ。
目の前の光景を見て、先生は一瞬で表情を変えた。
「ちょっと待ってて!」
すぐに近くの自販機へ走る。
水を人数分買い、戻ってくる。
「はい、これ!」
一本ずつ渡す。
「大丈夫、落ち着いて。ゆっくり深呼吸して」
アツコの肩を支え、呼吸を整えさせる。
「落ち着いたら、口をゆすいで」
ヒヨリの背中をさする。
「大丈夫、大丈夫だから」
ミサキの手を握る。
「大丈夫、ちゃんと聞くから。落ち着いて」
サオリの手に水をかけて簡易的な消毒をする。
時間が経ち、少しずつ皆の呼吸が落ち着いていく。
先生は改めて、静かに尋ねる。
「……どうしてこうなったのか聞かせてくれないかい?」
暗い顔。
沈黙。
サオリが、重い口を開いた。
経緯を説明する。
何らかの要因で傷の治りが遅いんじゃないかと心配した事。
アズサにカルテを確認してもらった事。
黒夜の左目が失明していた事。
先生の目が見開かれる。
「本当に……?」
誰も冗談を言う顔ではない。
全員が、頷く。
「……そんな」
先生は息を呑む。
だがすぐに、気を取り直す。
「このことを知ってる人は、他に誰がいるか分かる?」
アズサが答える。
「カルテを見たのは私だ。だから……少なくとも黒夜の治療を担当した人は知っているはずだ。それ以外は分からない」
先生の頭に、すぐに一人の顔が浮かぶ。
——蒼森ミネ
救護騎士団団長
先生は少し考え、決意を固める。
「わかった」
顔を上げる。
「今からトリニティに行ってみる」
皆が顔を上げる。
「ミネに話を聞いてくる」
少し間を置いて。
「皆はどうする?」
視線を順に向ける。
「一緒に付いてくるなら、シャーレの権限でサオリたちもトリニティに入れるよ」
迷いはなかった。
「行く」
サオリが即答する。
「私も」
アツコ。
「行きます……」
ヒヨリ。
「当然でしょ」
ミサキ。
アズサも頷く。
先生は真剣な顔つきで。
「よし」
手を叩く。
「じゃあ、行こう」
路地裏を出る。
光の下へ歩き出す。
それぞれの胸に、重い罪悪感を抱えながら。
それでも、黒夜に向き合うために。
トリニティへ向かうその足取りは、重く、だが止まらなかった。