今日も、いつもと変わらない日のはずだった。
執務室での会議は滞りなく終わり、午後の予定へ移る。
ナギサは視察へ向かい、黒夜はその護衛として同行する。
机上の予定表は、几帳面な字でびっしりと埋まっている。
その通りに物事が進むなら、今日も穏やかに過ぎていく――はずだった。
ナギサと黒夜の背中を見送り、セイアとミカはテラス席へ移動していた。
外の空気は柔らかい。陽の傾きがわずかに増しただけで、風の匂いが少し甘くなる。
テーブルの上には遅い昼食。
セイアの前にはサンドイッチと紅茶。
ミカの前にはパスタとジュース。
「セイアちゃんって、本当に小食だよね~」
ミカがフォークをくるくる回しながら言う。
「もっと食べないと、大きくなれないよ? 色々とさ☆」
露骨に視線が、セイアの胸元へ落ちる。
セイアは紅茶のカップを置き、若干目を細めた。
「余計なお世話だよ。これでも普段よりは食べてるさ」
そして淡々と返す。
「それに君こそ食べ過ぎて体型が悲惨なことになって、黒夜に引かれでもしたら――精々笑ってあげよう」
「あはは☆」
ミカは乾いた笑いを浮かべる。
「セイアちゃん何言ってるかわかんな~い☆」
言いながら、軽い拳をセイアの顔へ振るう。
だがセイアは予測していたかのように、最小の動きで首を傾け、いとも簡単に躱した。
ミカが「む~!」と頬を膨らませる。
セイアは、ふっと口角を上げた。
「ふふ……こういうやり取りも懐かしいね」
「そうだね」
ミカがすぐに笑顔へ戻る。
「黒夜が護衛になる前は、こうやってよく言い合いしてたもんね」
そう。
黒夜が来る前のティーパーティは、こんな調子だった。
ミカが突っかかり、セイアが受け流し、エスカレートしそうになればナギサが止める。
それは一種のお約束で、日常の中の小さなじゃれ合いでもあった。
セイアはサンドイッチをひと口齧り、ゆっくり噛みながら言う。
「それで、いきなりどうしたんだい? 昔が懐かしくなったのかな?」
「うん」
ミカはパスタを巻きながら、少しだけ目を細める。
「ナギちゃんも黒夜も居ないのなんて、なんか久しぶりだし。ちょっと思い出しちゃった」
「……確かにな」
セイアは、そう言いながらも、ふと胸の奥に引っかかるものを感じた。
(黒夜がいない……)
ほんの数時間の話だ。
それなのに、どこか落ち着かない。
その理由を言語化するのは簡単だった。
彼がいると、こちらの振る舞いが変わってしまうのだ。
黒夜が来てから、私たちは変わった。
“変えられてしまった”と言ってもいい。
セイアがぽつりと続ける。
「黒夜が来てから、私たちも変化したからね」
フォークが止まる。
「このやり取りもさ。やると黒夜が毎回、心配して困った顔するじゃん」
「……ああ」
セイアは苦笑した。
あの顔はずるい。
怒るでもなく、咎めるでもなく、ただ本気で心配する。
あの真っ直ぐさは、政治の場では最も扱いにくい。
「というか黒夜のあの表情、ズルいと思う!」
ミカが頬をぷくっと膨らませる。
「“ミカ様、セイア様、危ないのでやめてください”って言われたら、こっちが悪者みたいになるもん」
「ふふ。確かに」
セイアは紅茶をひと口含み、喉を落ち着かせた。
それから、ほんの一瞬。
何でもない午後の空気が、ほんの少しだけ薄くなる。
理由は単純だった。
(彼がゲヘナに戻ってしまったら…)
「……セイアちゃん?」
ミカの声で、現実に引き戻される。
「今、ちょっと怖い顔してた」
「そうかい?」
セイアは平然と返した。
「君のパスタが減らないから、心配していただけだよ」
「え~? それはセイアちゃん突然黙り込んじゃうからじゃん!」
「私は私のペースで食べているのさ」
軽口。
いつも通りの会話。
そうして誤魔化せる程度には、セイアは訓練されていた。
だが、そのいつも通りを揺らす出来事が、突然割り込んでくる。
テラスへ近づく足音。
規律正しい歩幅。
「お食事中に失礼します」
声の主はハスミだった。
正義実現委員会の制服を纏い、いつものように背筋を伸ばしている。
「少し報告がありまして……」
ミカがぱっと表情を整え、にこりと笑う。
「ハスミちゃん? いいよ、聞かせて」
セイアも頷いた。
「何かあったのかな?」
ハスミは一度呼吸を整え、淡々と報告する。
「先ほど、突然先生がアリウスの面々を連れてトリニティに訪問されているのですが……お二人は聞いていますか?」
ミカとセイアは顔を見合わせる。
「聞いてないな」
「私も」
ミカが眉を寄せた。
「先生が……アリウスのメンバーを連れて?」
セイアの思考が即座に回転する。
(どういう事だ?)
ミカがさらに聞く。
「先生、なにか言ってた?」
ハスミは続ける。
「凄く慌てた様子で、救護騎士団のミネ団長がどこにいるか聞いてから立ち去って行きました」
ミカの表情が一瞬固まった。
「ミネ団長に……?」
ミカはまだ状況を理解しきれていない様子で、首を傾げる。
「私たちじゃなくてミネ団長……なんで?」
セイアはゆっくりと紅茶を置き、頭の中で可能性を並べた。
先生がミネに聞きに行く理由。
そして、アリウスの面々が同行している理由。
(黒夜の事か……?)
確定に近い。
ミカが不安そうにセイアを見る。
「セイアちゃん、なんか心当たりある?」
「……いや」
セイアは一度、否定する形で息を吐いた。
「いくら考えても、今ここでは分からない」
ミカはハスミへ向き直り、柔らかく言う。
「とりあえず、報告ありがとね。もう通常業務に戻っていいよ」
「承知しました」
ハスミは一礼し、そのまま去っていった。
テラスに残ったのは、ミカとセイアだけ。
さっきまでの軽い空気は、少しだけ薄くなっていた。
「……ねぇ」
ミカが小さく言う。
「先生、なんでそんな慌ててるのかな?」
セイアは、ミカの目を見ないようにサンドイッチを取った。
「あれだけの情報じゃ何とも言えないな」
淡々と答え、ひと口齧る。
ミカは納得しきれない顔で、フォークをくるくる回す。
「でもさ、アリウスの子たちも連れてるんだよ? それって変な感じじゃない?」
「……そうだね」
ミカが、急に明るく言った。
「じゃあさ、私たちもミネ団長のところ行ってみようよ!」
無邪気に見える提案。
だが、その瞳の奥にあるのは、単なる好奇心ではない。
ミカも感じている。
何かが変だと。
「ここで考えても埒が明かないし、そうするべきだろうね」
セイアは短く答えた。
「でも、まずは」
ミカは皿を見て言う。
「ご飯食べちゃお! 残したらもったいないし!」
言いながら、残りのパスタを勢いよく口へ運ぶ。
セイアも小さく頷き、サンドイッチを頬張った。
(先生が動くほどの事態なら、私たちが動かない理由はない)
正しい判断。
――でも、その正しさの中に、別のものが混ざっていることを、セイアは自覚していた。
もしかしたら黒夜が、離れていくかもしれないという恐怖。
(大丈夫、彼は今、私たちの手の届く場所にいる)
その一点だけが、セイアの心を落ち着かせる。
ミカが口の端にソースをつけたまま、笑う。
「ねぇセイアちゃん。食べ終わったら一緒に行こ」
「当然だよ」
セイアは穏やかに返し、紅茶をひと口含む。
喉の奥が温かくなる。
それなのに。
胸の奥の冷たさは、消えなかった。
そしてセイアは思う。
(これはただの“確認”だ)
(……そのはずだ)
◆
セイアとミカは、救護騎士団の校舎へと続く廊下を並んで歩いていた。
足音は規則正しいはずなのに、どこか浮ついている。
胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さったまま、抜けない。
「もしかしてさ」
沈黙に耐えきれなくなったのか、ミカが口を開く。
「アリウスの誰かが怪我したから慌ててた、とかじゃない?」
明るい声音を装っている。
けれど、その語尾はほんの少しだけ弱い。
セイアは歩みを止めずに答える。
「それならそれで、確認しだい私たちは退散すればいいさ」
あくまで冷静に。
診察室の前に到着する。
木製の扉。
中からかすかに声が漏れている。
ミカが躊躇なくドアノブへ手を伸ばす。
その瞬間。
「待て」
セイアが、すっとその手首を掴んだ。
「え?」
「わざわざ中に入る必要はない」
静かな声。だが明確だ。
「何のために先生たちが来たのか知れればいいのだから」
セイアは耳を澄ます。
「話し声も聞こえていることだし。私たちは大人しく、聞き耳を立てていればいいのさ」
堂々たる盗み聞き宣言。
そして、セイアはためらいなく自らの大きな狐耳を扉へとぴたりと押し付けた。
ミカは一瞬だけ、ツッコミを入れようとした。
(それ堂々と言うことじゃなくない?)
だが、穏便に済むならそれでいい。
今は余計なやり取りをしている場合ではない。
ミカも静かに耳を近づける。
中から聞こえてきたのは、ミネと先生の声。
「黒夜さんから、直接聞いたんですか?」
「いや……黒夜から直接聞いたわけじゃない」
そのやり取りを聞いた瞬間。
ミカの眉がひそめられる。
「黒夜のこと?」
小さく首を傾げる。
セイアはすぐに、唇に指を当てた。
「今は大人しく聞いて、状況を把握するんだ」
囁き声。
ミカはごくりと喉を鳴らし、頷いた。
そして。
診察室の中から、はっきりとした声が響く。
「結論から言います」
一拍の間。
「黒夜さんの左目は——失明しています」
世界が、止まった。
理解した瞬間、二人は目を見開く。
声が出ない。
息が止まる。
心臓が、一瞬鼓動を忘れたかのように静まり返る。
(……失明?)
(左目……?)
それは、あり得ない言葉だった。
包帯は巻いていた。
だがそれは、顔面の裂傷の名残だと。
治りきっていない傷の保護だと。
そう思い込んでいた。
中から、ミネの声が続く。
「あの事件の日、彼は本当に死んでしまう寸前の状態で、ここに運ばれてきました」
淡々とした声。
だがその内容は、鋭く胸を抉る。
「頭部からの出血。上半身に数多の裂傷。左腕の骨折。左目の深い裂傷。そして、多量の出血によるショック症状」
「私は……仲間を救うために必死に治療しました。一時、本当に呼吸が止まってしまったのですよ」
ミカの視界が揺れる。
「それでも治療をやめなかった……その甲斐あってか、彼は一命を取り留めて、今は日常生活を送れるほどまでに回復しました」
「けれど、左目だけは、手の施しようが無かったんです」
ミカが、かすれた声で呟く。
「うそ……」
目が潤む。
「だって……左目の包帯は、顔にも傷があるからって……」
あの時、そう説明された。
疑わなかった。
いや、疑いたくなかった。
セイアは唇を噛む。
(なぜ……)
(なぜ、私たちに知らせなかった)
その問いの答えは、すぐに扉の向こうから届く。
「今ここで左目のことを話したら、またみんなを混乱させるから、と」
セイアの呼吸が止まる。
「そう言って黙っていたのですよ!」
ミネの声が強くなる。
「ちゃんと話すタイミングを見計らって、伝えるはずだったのに……!」
「黒夜さんの左目を奪うばかりか、彼の気遣いや苦労まで踏みにじるようなことをするなど!」
その言葉は、診察室の中だけでなく。
扉の外に立つ二人の胸にも、深く突き刺さる。
「恥を知りなさい!」
怒鳴り声。
扉越しでも分かる怒気。
そして——
セイアは、理解する。
黒夜は、隠していた。
混乱させないために。
自分たちを守るために。
片目を失ったという事実を、飲み込んで。
平然と振る舞っていた。
それなのに。
自分たちは。
包帯の奥を、見ようともしなかった。
ミカが、ふらりとよろめく。
「どうしよう……」
掠れた声。
「どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
うわ言のように繰り返す。
瞳の焦点が定まらない。
セイアも同じ心理状態だった。
だが。
このままここに立っているのは危険だ。
感情が溢れれば、扉を開けてしまう。
それは今ではない。
今は整理するべきだ。
「今はここを移動するぞ」
セイアは低く言い、ミカの手首を掴む。
半ば引きずるように、診察室から離れる。
足取りは早い。
廊下を抜け、階段を上がり、執務室へ。
ドアを開け、中へ入る。
そして。
内側から、鍵をかけた。
カチリ、と乾いた音。
外界を遮断する音。
ふらふらと、おぼつかない足取りで、自分の席へ向かう二人。
椅子に腰を落とした瞬間、体の力が抜ける。
静まり返った執務室。
午前まで黒夜がいた空間。
彼の机。
すべてが、いつも通りなのに。
世界だけが、変わってしまった。
ミカが、泣きそうな声で言う。
「私が……」
両手を握りしめる。
「私があの時、復讐を選んじゃったから……」
視線が揺れる。
「黒夜に、背負わせちゃったんだ……」
あの瞬間。
怒りを選んだ。
憎しみを選んだ。
サオリを許せなかった。
そして、その代償を——黒夜が払った。
セイアは、言葉を探す。
だが、見つからない。
慰める言葉は、軽すぎる。
否定する言葉は、嘘になる。
沈黙だけが、執務室を満たしていた。
時計の針が進む音。
窓の外を渡る風の気配。
それだけが、いつも通りの世界を証明している。
ミカは黒夜の机の端に指を置いたまま動けず、セイアは紅茶のカップを見つめたまま、何も言えなかった。
言葉にした瞬間、現実になってしまう気がして。
すでに現実なのに、まだそれを受け入れる準備ができていなくて。
——その時だった。
執務室の扉が、外から試される音がした。
ガチャリ、とドアノブが回る。
二人は同時に顔を上げ、扉の方を見た。
次いで、外から聞こえる声。
「あら? 扉に鍵がかかってますね……黒夜さん、鍵は持ってますか?」
ナギサの声。
「少々お待ちください」
黒夜の声。
その瞬間、ミカの顔が青ざめる。
「……え、え、えっ」
口が小さく開いたまま、言葉にならない。
セイアは瞬時に立ち上がり、ミカの肩へ手を置いた。
「ミカ」
声を低く絞る。
「一旦、左目の件は黒夜やナギサにはバレないように立ち回るんだ」
ミカの瞳が揺れる。
「で、でも……」
「今は、まだだ」
セイアは自分に言い聞かせるように言った。
「今バレたら、黒夜は……」
ミカはハンカチで涙を拭き、震える息を整えようとする。
「……うん、わかった」
その返事と同時に、鍵が回される音がした。
カチリ。
扉が開き、ナギサと黒夜が入ってくる。
柔らかな午後の光が二人の背後から差し込み、執務室の空気を一瞬だけ明るく見せた。
「お疲れさまです。ナギサ様、視察は問題なく終了しました」
その言い方が、いつも通りで。
ミカは胸が痛くなる。
(いつも通り……だ)
(この人は、いつも通りの顔で……)
ナギサがふと首を傾げた。
「あれ? お二人とも中にいらしたなら、なぜ鍵をかけていたのですか?」
自然な疑問。
当たり前の質問。
セイアは一拍で答えを作り、口にした。
「ミカがね、ネット小説を読んで感動して涙を流してしまって」
さらりと言う。
「泣き止むまで一時的に鍵をかけていたのさ」
「えっ」
ミカが一瞬目を丸くする。
だがすぐに状況を理解し、慌てて笑顔を作る。
「そ、そうなんだよ~! ごめんね~」
どこかぎこちないが、黒夜はそのぎこちなさに気付かない。
ナギサも特に深追いせず、微笑んだ。
「そういうことですか」
そして、黒夜へ向き直る。
「それでは黒夜さん、ありがとうございました。今日は上がってもらって大丈夫です」
その声は明るい。
いつも通り。
黒夜は一礼する。
「わかりました。お疲れさまです」
それからセイアへ軽く目線を向け、礼儀正しく続ける。
「セイア様、では昇降口で待っていますね」
その一言で、セイアの心臓が跳ねた。
(……そうだ)
(今日は……)
セイアは左目の件で頭が埋まっていて、忘れていた。
今日は自分の家に黒夜を招く予定だった。
護衛予定の詳細確認という名目で。
だが今、黒夜を自分の家へ呼ぶのは危険すぎる。
感情が崩れたら、取り返しがつかない。
「……すまない、黒夜」
セイアは咄嗟に言った。
「直前で緊急の用事が入ってしまってね。この後の予定はキャンセルで頼むよ」
黒夜は少しだけ目を瞬くが、すぐに柔らかく笑う。
「そういう事情でしたら承知しました」
当然のように受け入れる。
「では、お疲れさまでした」
そう言って、黒夜は執務室を出て行った。
扉が閉まる。
遠ざかる足音。
それだけで、執務室の空気が一段冷えたように感じた。
黒夜がいなくなった瞬間、ミカの肩が小さく震える。
ナギサは椅子に腰掛ける前に、くるりと振り返った。
先ほどの柔らかな笑顔が、少しだけ薄くなる。
「それで?」
声は優雅だが、逃げ道を塞ぐ響きがある。
「私がいない間に、何があったのですか?」
ミカが息を呑む。
セイアは一瞬、視線を逸らした。
先ほどの誤魔化しが、ナギサには通用していない。
当然だ。
ナギサとの付き合いは黒夜よりも長いのだ。
あのような付け焼刃が通じるわけない。
そして見抜いた上で、問いを投げる。
ミカはまた泣きそうになり、唇を噛んだ。
セイアも苦い顔で押し黙る。
ナギサは何も急かさず、じっと待っている。
言葉が出るまで。
逃げないで済むように。
逃げないことを求めるように。
ミカが、ついに諦めたように口を開く。
「……黒夜の左目」
震える声。
「失明してるの……」
空気が止まった。
ナギサは「え?」と小さく息を漏らしたまま、動けない。
その目が大きく開かれ、次いで揺れる。
「……う、嘘ですよね?」
声が上ずる。
「ミカさん……?」
そしてセイアへ、縋るように視線を向けた。
「セイアさん……嘘と言ってください!!」
セイアは答えない。
答えられない。
沈黙が答えだった。
ナギサは二人の表情を見て、事実だと理解する。
顔色がすっと抜ける。
優雅さが崩れ、ほんの一瞬年相応の表情が覗いた。
「……そんな……」
掠れた声。
ミカが泣きながら続ける。
「だって……黒夜、ずっと隠してたんだよ」
涙が頬を伝う。
「私たちが混乱するからって……」
ナギサの喉が小さく鳴る。
セイアは拳を握りしめる。
ミカは震える声で言った。
「このままじゃ……黒夜が、傷つきながら耐えて……」
息が詰まる。
「背負った先で、いなくなりそうで怖いよ……」
その言葉は、三人の心臓に同じ形で刺さった。
“いなくなる”。
黒夜が消える未来。
それは想像したくないのに、想像できてしまう。
ナギサは瞬きもできないまま、ただその映像を頭の中に浮かべてしまう。
黒夜が、ある日忽然といなくなる。
笑顔のまま、何も言わずに。
「ご迷惑をおかけしないように」と頭を下げて。
そしてもう二度と戻らない。
ミカは唇を噛み、嗚咽を漏らした。
セイアは静かに目を閉じる。
(……耐えられない)
そんな未来、耐えられない。
ミカが小さく震える声で聞いてくる。
「どうすればいいの……?」
ナギサの指先が、椅子の背を強く掴む。
白い指が、少しだけ赤くなる。
セイアはゆっくりと目を閉じたまま、呼吸を整える。
答えは、まだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしていることがある。
このままでは、いけない。
彼を守らなければならない。
彼が、自分を壊してしまう前に。
その“守る”という言葉の意味が、少しずつ。
静かに、形を変え始めていることに。
それはまだ、形になっていない。
まだ、言葉になっていない。
だが、三人の中で同時に芽生えたその方向性は。
静かに。
確実に。
黒夜へ向かって伸びていく。
優しさという名の鎖として。
外では、何も変わらない午後が続いている。
鳥が鳴き、風が吹き、トリニティの街並みは整然としている。
黒夜は今頃、昇降口へ向かって歩いているだろう。
いつも通りに、穏やかに。
自分が何を隠しているのか。
その隠し事が、誰の心をどう壊しているのか。
まだ、知らないまま。